後編
歩美は噴水の前に立ちはだかるように両手を広げて、周囲の大人たちを見回した。
「みんな!今日一日、このイベントを守ってくれた『スーツアクター』さんがピンチなの!」
——スーツアクター。
ヒーローじゃなくて、スーツアクター。中の人。俺のことだ。
歩美が続ける。その声は、ショーの司会をしている時と同じトーンだった。明るくて、真っ直ぐで、聞く人の心を掴む声。
「みんなの『がんばれ』でパワーを送ってあげて! そしたらスーツが脱げるから!」
何を言ってるんだ。応援でスーツが脱げるわけないだろう。そんなの、ショーの中だけの嘘だ。子ども騙しだ。
それ以前に、スーツが脱げちゃだめだろう。俺は今、ヒーローなんだぞ。子どもを騙しちゃダメだ。
「——子どもは見ちゃだめよーっ!」
歩美が付け加えた。その一言で、周囲にいた親たちが子どもの目を覆ったり、背中を向けさせたりし始める。
残ったのは、大人たちだけだった。
出店のおっちゃん。本部テントから様子を見に来たスタッフたち。さっき水をくれた女性。ひったくりの現場にいた人たち。迷子の子どもを迎えに来ていた母親まで、いつの間にかそこにいた。
そして——さっき熱中症になりかけていたスタッフも。まだ顔色は悪いけど、立っている。
誰かが、ぽつりと言った。
「……がんばれ」
小さな声だった。恥ずかしそうな、照れくさそうな声。大人が本気でヒーローを応援するのは、きっと何十年ぶりかなんだろう。
でも、その声に続く声があった。
「がんばれ」
「がんばれ!」
一人、また一人。声が重なっていく。
歩美が両手を振り上げた。
「もっともっと! 大きな声が出せるはずーっ!せーーーのっ!」
——その瞬間、何かが弾けた。
「がんばれーーーっ!!」
大人たちの声が、夕暮れの公園に響き渡った。
俺は——立ち上がっていた。
いつの間にか、膝に力が入っていた。噴水の縁に手をついて、体を起こしていた。
声が聞こえる。たくさんの声。俺のための声。
子どもの頃、俺もあの中にいた。客席から「がんばれ」って叫んでた。ヒーローが応援の力で復活するのを、本気で信じてた。
いつから信じなくなったんだろう。
いつから、こんなの嘘だって思うようになったんだろう。
——でも。
今、この瞬間だけは。
俺は立ち上がっていた。テンセイレッドとして。復活のポーズを取るために。
両手を握りしめて、天に掲げる。ショーで何十回もやったポーズ。でも、今日だけは違う。
今日だけは——本物だ。
ふっと、自分を縛っていた枷のようなものが、爆ぜる感覚があった。
まさに、敵怪人にとどめを刺し、大爆発が起きる——ショーではない、テレビで何度も見たあのイメージ。
ビリッ、と音がした。
インナースーツに亀裂が入っていた。
背中から。一日中の汗を吸って、限界まで張り詰めていた繊維が、ついに裂けた。
俺は両腕を広げた。体の奥から湧き上がる何かに従って。
亀裂は広がっていく。連鎖するように、バリバリと音を立てて。
小手が外れた。腕を振った。
肩のプロテクターが落ちた。肩を回した。
胸の装甲が、ガシャンと地面に転がった。
そして——マスクが。
ぱっかーん、と。
不思議な力としか言いようのない何かに押し出されるように、マスクが外れて、宙を舞った。
夕焼けの光が、直接目に飛び込んできた。
眩しい。
眩しいけど、目を閉じられなかった。
この光は、変身の光だ。派手な映像効果は無い。ただ純粋な陽の光。
戻るんじゃない。レッドが『俺』に、変身する。
その瞬間、大人たちから歓声が上がった。拍手が起きた。誰かが「やったー!」と叫んでいる。さっきまで恥ずかしそうに「がんばれ」と言っていた人たちが、子どもみたいに喜んでいる。
俺は——。
そのまま、後ろに倒れ込んだ。
噴水の中へ。
背中から水に落ちる。冷たい。全身を冷たさが包む。スーツの残骸と一緒に、水の中に沈む。
仰向けのまま、空を見上げた。
マスク越しじゃない、裸眼に飛び込んでくる空。
オレンジと紫と、少しだけ藍色が混じった、夏の夕暮れの空。
——これが、ヒーローの視点か。
敵は、倒された。
応援からの復活で、そのまま力押しで倒す。ショーの定番。
でも今日倒されたのは、怪人じゃなかった。
惰性でショーをやっていた自分。普段の仕事もおざなりになりかけていた自分。何のためにスーツを着てるのかわからなくなっていた自分。
それが——倒された。
俺だけじゃない、と思った。
さっき「がんばれ」と叫んでいた大人たち。あの人たちも、きっと何かを倒したんだ。
子どもの頃に置いてきた何か。大人になって忘れてしまった何か。
その、何かを思い出すことを阻む敵を。
今日だけは、みんなで一緒に、敵を倒した。
ただし——敵はまた現れる。
ショーが続く限り。明日も、明後日も。惰性は忍び寄ってくるし、現実は変わらない。公式シアターには呼ばれないし、テレビ本編なんて夢のまた夢だ。
明日もきっと敵は現れる。
でも、だったら——ヒーローの矜持を持って、戦おう。
噴水の水が、頬を伝った。涙なのか水なのか、もうわからなかった。
俺は、夏の空を見上げて、笑っていた。
◇ ◇ ◇
商店街の居酒屋。座敷席。
俺が暖簾をくぐった時、賢二が素っ頓狂な声を上げた。
「成一さん!? 遅いっすよ、何してたんすか! 電話しても出ないし」
「……いろいろあった」
着替えは、本部テントで借りたスタッフジャンパーとジャージ。スーツの残骸は回収してもらった。明日、所属チームに報告しなきゃいけない。始末書かもしれない。最悪、弁償かもしれない。現実的な思考。次の敵はもう、俺の脇に忍び寄っている。
でも、今はいい。今日くらいは。
「いろいろって何すか。——ってか、なんすかその格好」
「だから、いろいろあったんだよ」
席に着くと、向かいに歩美がいた。生ビールのジョッキを片手に、スマホをいじっている。
「あ、先輩おつかれー。遅かったね」
その顔を見て、俺は確信した。
覚えていない。
噴水の前で「スーツアクターさんがピンチ」と叫んだこと。大人たちを煽って応援させたこと。何も覚えていない。
「……歩美さん、ショーの後、どこにいた?」
「え? 普通にここで飲んでたけど。——あ、そうだ先輩、今週のテンセイジャーの話! テンセイブルーがさあ、ついに異世界の記憶を全部取り戻すじゃん? あれやばくない!?」
いつもの歩美だった。戦隊の話になると早口になる、いつもの歩美。
「……やばいな」
「でしょ!? 来週いよいよクライマックスだよ、最終フォーム出るかな、出るよね絶対——」
歩美が興奮気味に喋り続ける。俺は生ビールを注文して、黙って聞いていた。
隣に賢二が座った。
「成一さん、なんかあったんすか。顔、すっきりしてますけど」
「……そうか?」
「なんつーか、いつもよりシャキッとしてるっていうか」
賢二がじっと俺の顔を見る。こいつは変なところで鋭い。
「別に。ただ——」
言葉を探す。何をどう説明すればいいのかわからない。スーツが脱げなくなったこと。迷子を助けたこと。ひったくりを追いかけたこと。噴水で倒れたこと。大人たちの「がんばれ」で立ち上がったこと。
全部話したら、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
「——明日も、ちゃんとやろうと思っただけ」
「? 成一さん、いつもちゃんとやってるじゃないすか」
「そうでもない」
「いや、俺から見たら全然ちゃんとしてますよ。プロっすよ、成一さんは」
賢二が真っ直ぐな目で言う。
こいつには、そう見えてたのか。惰性で、どっちつかずで、くすぶってた俺が。
「……ありがとな」
「え、急にどうしたんすか。気持ち悪いっすよ」
「うるせえ」
生ビールが届いた。冷たいジョッキを握る。スーツの手袋越しじゃない、素手で。
窓の外は、もう暗くなっていた。夏祭りの灯りが遠くに見える。
明日、また暑くなるだろう。
明日も、客はまばらかもしれない。公式シアターには呼ばれないし、テレビ本編なんて夢のまた夢だ。何も変わらない。
敵は、また現れる。
惰性も、迷いも、「俺何やってんだろう」も。全部また戻ってくる。
でも——。
今日、俺は知った。
ショーの中だけじゃない。「がんばれ」は、本当に届くんだ。
子どもの頃、客席から叫んでいたあの声は、ちゃんとヒーローに届いていたんだ。
だったら、俺も届けよう。
明日からまた、テンセイレッドとして。
スーツの中から、子どもたちに。
俺は生ビールを一口飲んで、歩美の戦隊トークに相槌を打ち始めた。
「それでさ、テンセイレッドの変身バンクが新しくなったの気づいた?」
「気づいた気づいた。明らかに魔法陣の描き方が変わったよな」
「でしょ!?」
賢二が呆れたように笑っている。大垣が「私も気づきましたよ!」と話に加わった。
窓の外で、夏祭りの最後の花火が上がった。
小さな花火だった。地方の、商店街の、手作りの夏祭りにふさわしい、みんなを讃えるような、ささやかな花火。
でも、今の俺には——それで十分だった。
明日もまた、スーツを着る。
誰かのために。そして——自分のために。




