前編
八月の太陽が関東平野を焼いていた。気温三十七度。風はない。
テンセイレッドのマスク越しに見る世界は、いつもより狭い。視界の端が汗で曇る。ショーが終わって三十分、握手会の列がようやく途切れた。
「異世界のみんな!ありがとう!」
俺の声じゃない。テンセイレッドとしての作り声。子どもたちはそれを本物だと思って手を振って帰っていく。親に手を引かれながら何度も振り返る子がいた。俺も手を振り返す。それがこの仕事だ。
——いや、仕事って言うほどのものか?
大野成一、二十七歳。平日は製造業の事務職。週末だけ、こうしてスーツを着る。アクター歴七年。十九の頃に憧れだけで飛び込んで、気づけばこの年齢になっていた。
公式シアターには呼ばれない。テレビ本編なんて夢のまた夢。俺がやってるのは、地方の夏祭りに派遣されて、商店街の特設ステージで二十分のショーをやって、握手会をして、帰る。その繰り返し。
楽屋テントに向かう途中、反対側から見慣れた顔が出てきた。
「成一さん、おつかれっす! 遅かったっすね」
佐々木賢二。ブルー担当。二十二歳、大学四年。就職活動はしてないらしい。アクター一本で食っていくつもりだと言っていた。俺には関係ない話だ。
「握手会、列切れなくてさ」
「まじすか。さすがレッドっすね」
さすが、じゃない。たまたまだ。でもそれは言わない。
賢二の後ろから、もう一人。
「先輩、先行くね! 今週のテンセイジャーの話、打ち上げでしよ!」
高山歩美。司会のおねえさん担当。二十六歳。コールセンター勤務。戦隊オタク。俺と年が近いから、好きだった作品の世代が被る。先週も一緒にテンセイジャー最新話の感想で盛り上がった。
「おう、また後で」
「テンセイブルーの覚醒回、やばくなかった!? あの変身バンク!」
「わかる。VFX班どうなってんだって話」
その後ろから、もう一人。
「おつかれさまでーす」
大垣祥子。ピンク担当。二十六歳。平日は食品メーカーで営業をしているらしい。大垣も週末だけ来てるアルバイトだ。
歩美は満面の笑みで手を振って、賢二と大垣と一緒に去っていった。打ち上げ会場は商店街の居酒屋らしい。
俺も早く着替えて追いつかないと——。
◇ ◇ ◇
テントの中は誰もいなかった。パイプ椅子と折り畳みテーブル、鏡、扇風機。
扇風機が関東平野の熱を無意味にかき混ぜている。
さて、脱ぐか。
マスクに手をかける。後頭部の留め具を外そうとして——外れない。
あれ?
もう一度。力を入れる。駄目だ。びくともしない。
汗か? 汗で膨張してるのか? いや、こんなの初めてだ。
手袋を外そうとする。外れない。胸のプロテクター、肩のパーツ、何一つ動かない。
考えろ、考えろ。
——駄目だ。暑さと焦りで頭が回らない。今の俺は千点どころか三点頭脳だ。
スマホは棚の上に置いてある。でも、手袋ではタッチパネルが反応しない。誰かを呼ぼうにも、みんなもう打ち上げに向かってる。
テンセイレッドの姿のまま、俺は楽屋テントの中で立ち尽くしていた。
その時、テントの入口がめくれた。
小さな影。五歳くらいの男の子だ。片手に変身アイテムのおもちゃを握りしめている。テンセイチェンジャー。俺たちがショーで使ってたのと同じやつの、玩具版。
男の子と目が合った。マスク越しに。
子どもの目が、みるみる大きくなる。
「——テンセイレッド!?」
まずい。
ここは楽屋だ。関係者以外立入禁止。子どもが入ってきていい場所じゃない。だが、それ以上にまずいのは——俺が今、脱げない状態でここにいることだ。
普通なら「ごめんね、ここは関係者だけなんだ」と声をかけて、スタッフに引き渡す。でも今の俺はテンセイレッドの姿のままで、声を出したらテレビと違う声だとバレる。
男の子の目には涙が滲んでいた。
迷子だ。
親とはぐれて、不安で、泣きそうになりながら歩いているうちに、ここに迷い込んできたんだ。
俺は——。
気づいたら、膝をついていた。子どもの目線に合わせて。
「どうした?」
自分の声が出ていた。作り声じゃない。素の声だ。
やっちまった——と思う間もなく、男の子が俺に抱きついてきた。
「ママがいないの」
「そうか」
小さな体が震えている。暑さと不安と、たぶん少しの安心。ヒーローがいた、という安心。
俺は子どもの背中に手を置いた。ガントレット越しの、無骨な手で。
「大丈夫だ。一緒に探そう」
何を言ってるんだ、俺は。
脱げないんだぞ。このまま外に出たら、テンセイレッドが一人で商店街を歩くことになる。スタッフの許可もない。版権的にも多分アウト。所属チームに怒られる。最悪、二度とショーに呼ばれなくなるかもしれない。
でも、この子を一人にはできなかった。
男の子の手を引いて、テントの外に出た。
夏祭りの喧騒が耳を打つ。出店の呼び声、祭囃子、子どもたちの歓声。その中を、テンセイレッドが歩いている。異様な光景のはずだった。
だが、誰も俺を不審がらなかった。
「あ、レッドだ!」「ヒーローがいる!」「こっち見て!」
俺はとっさに手を振った。ヒーローとして。そうしないと、この子を怖がらせてしまう気がした。
迷子センターは——どこだ。本部テント、あっちか。
男の子の手を引いて歩く。おもちゃのテンセイチェンジャーが、握りしめられた小さな手の中でカチャカチャ鳴っている。
本部テントの前で、女性が一人、泣きそうな顔で立っていた。
「——翔太!」
男の子の顔がぱっと輝いた。
「ママ!」
駆け寄っていく小さな背中。母親がしゃがんで、両手を広げて、受け止める。
「どこ行ってたの、もう、心配したんだから——」
母親が顔を上げた。俺と目が合う。
「あの、この子を……?」
俺は黙って頷いた。喋るとまた声でバレる。
「ありがとうございます。本当に、ありがとう……」
母親の目にも涙が浮かんでいた。男の子が俺を振り返る。
「テンセイレッド、ありがとう!」
俺は親指を立てた。ヒーローっぽいポーズ。それしかできなかった。
二人が去っていく背中を見送りながら、俺は思った。
——あの子、声が違うとか気にしてなかったな。
テンセイレッドが喋った、それだけで嬉しそうだった。
何を考えてるんだ、俺は。
マスクの中が蒸れる。とりあえず人通りの少ないところに行こう。
商店街のメイン会場から少し離れた路地に入った。この先に公園があるはずだ。屋台が何軒か出ているが、人通りは少ない。木陰にベンチがある。あそこで少し——。
「きゃあっ!」
悲鳴。
反射的に振り向いた。
二十メートル先。小柄なおばあさんが、尻もちをついていた。若い男が走り去っていく。その手には——バッグ。
ひったくりだ。
体が動いていた。
考える前に、走り出していた。
「待てっ!」
素の声だった。もう作り声とか気にしている余裕がなかった。
ひったくり犯が振り返る。テンセイレッドが全力で追いかけてくるのを見て、明らかに動揺した顔をした。そりゃそうだ。普通、ヒーローに追われる状況なんて想定しない。
夏祭りの雑踏を縫って走る。暑い。スーツの中が灼熱地獄だ。視界がぼやける。でも、足は止められなかった。
——なんで俺、こんなに必死になってるんだ。
わからない。わからないけど、あのおばあさんの悲鳴を聞いて、体が勝手に動いた。
悲鳴を上げるのはおばあさんじゃない。ひったくり犯、お前が悲鳴を上げろ。
犯人が角を曲がる。俺も曲がる。袋小路だった。
男が振り返った。逃げ場がない。
「……っ、なんだよ、お前」
「バッグ、返せ」
息が切れる。声が震える。でも、足を踏み出す。一歩、また一歩。
男の目に怯えが浮かんだ。そりゃそうだ。テンセイレッドが、本気の目で迫ってきてるんだ。——いや、マスクで目なんか見えないはずだけど。
「わ、わかった、わかったから……!」
男がバッグを放り投げて、塀を乗り越えて逃げていった。追う気力はもうなかった。
バッグを拾い上げる。中身が散らばっていないか確認する。財布、ハンカチ、お薬手帳。大丈夫そうだ。
路地を戻る。おばあさんがまだ座り込んでいた。近くにいた人が数人、心配そうに集まっている。
「……大丈夫ですか」
俺は膝をついて、バッグを差し出した。
「まあ……」
おばあさんの目が丸くなった。
「あんた、取り返してくれたのかい」
「はい」
「テレビの……レッドさん?」
「……はい」
嘘だ。俺はテレビのレッドじゃない。地方営業の、名もないスーツアクターだ。でも、今この瞬間、このおばあさんにとっては——。
「ありがとうねえ。ありがとう……本当のヒーローだねえ」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
周囲でスマホを構えている人がいるのに気づいた。
「すごい、ヒーローがひったくり捕まえた!」
「SNSに上げていい?」
まずい——と思った瞬間、人垣を割って誰かが駆けつけてきた。
「すみません、撮影はご遠慮ください!」
スタッフジャンパーを着た若い男だった。首から下げたネームプレートには「夏祭り実行委員会」の文字。
「肖像権の関係がありますので、SNSへの投稿もお控えいただけると……」
スマホを構えていた人たちが、渋々といった様子で引き下がっていく。スタッフが手際よく人払いをして、俺のそばに寄ってきた。
「大丈夫ですか、レッドさん。……っていうか、どうしたんですかこんなところで」
小声だった。周囲に聞こえないように配慮している。
「……スーツが脱げなくなった」
俺も小声で返した。
「は?」
「ショーの後、楽屋で。原因はわからない。それで迷子の子どもがテントに来て、放っておけなくて、そのまま……」
「いや、それで街中を?」
「成り行きで」
スタッフが絶句した。それはそうだ。俺だって自分が何をやってるのかよくわかってない。
「……とりあえず、テントに戻りましょう。なんとかします」
スタッフが俺の腕を取った。おばあさんに軽く頭を下げてから、二人で路地を歩き出す。
メイン会場に向かう道。午後四時を回っているのに、太陽はまだ容赦なく照りつけていた。アスファルトからの照り返しが、スーツの表面を焼く。
——でも、意外と平気だ。
インナーに仕込んだ保冷剤がまだギリギリ効いている。そろそろ限界だろうけど、今のところは。あと、七年もこの仕事をやってると、体が暑さに慣れてくる。夏場の現場を何十回とこなしてきた。
隣を歩くスタッフの方が、明らかにきつそうだった。
「……大丈夫ですか」
「え、俺っすか? いや、全然……」
額から汗が滝のように流れている。顔色も悪い。足元がふらついている。
「大丈夫じゃないでしょう」
「いや、レッドさんの方が絶対きついでしょ、そのスーツ……」
「慣れてるので。——ちょっと止まってください」
俺はスタッフの肩を支えた。近くに自販機がある。
「少し休みましょう。水、買って……」
言いかけて、気づいた。
財布がない。楽屋に置いてきた。
「……すみません、財布なくて」
「あ、俺が買いますよ」
スタッフがふらつきながら立ち上がろうとする。
「動かないで」
気づいたら、命令口調になっていた。
「いや、でも——」
「俺がなんとかします」
何をなんとかするんだ。財布もない人間に、何ができる。
その時、後ろから声がかかった。
「あの、大丈夫ですか」
振り返ると、さっきひったくりの現場にいた若い女性だった。手にペットボトルの水を二本持っている。
「あの人、暑さでしんどそうだったので……これ、良かったら」
俺は少し固まった。
「……いいんですか」
「さっきのお礼です。おばあちゃん、助けてもらったの見てたので」
女性が水を差し出す。俺はそれを受け取って——受け取れた。ガントレット越しでも、ペットボトルくらいなら掴める。
「ありがとうございます」
「いえ、こっちこそ。……ヒーローって、本当にいるんですね」
女性は少し笑って、人混みの中に消えていった。
俺はスタッフのそばに戻って、水を渡した。
「飲んでください。ゆっくりで大丈夫なんで」
——俺、何やってんだ。
スーツが脱げなくて困ってるのは俺の方なのに。助けられる側なのに。なんで俺が人の心配をしてるんだ。
でも、目の前でふらついてる人間を放っておけなかった。
スタッフが水を飲むのを見守りながら、俺は思った。
今日の俺は、おかしい。
スタッフが水を飲み干すまで、俺はそばで立っていた。
「……すみません、情けない」
「気にしないでください。この暑さは普通じゃない」
「レッドさんの方がよっぽどきついでしょうに」
「慣れてるので」
嘘だ。さっきまでは平気だったけど、そろそろ限界が近い。背中に入れた保冷剤が、ただのぬるい水袋に変わりつつあるのがわかる。
「本部テント、行けますか。そこで休んでてください」
「いや、俺がレッドさんを——」
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。でも、この人を連れ回すわけにはいかない。
近くにいた別のスタッフを呼び止めて、事情を説明した。熱中症気味だから本部で休ませてあげてほしい、と。
「あ、はい、わかりました。——って、レッドさん? なんでここに……」
「ちょっと事情があって」
それだけ言って、俺は歩き出した。
どこへ?
わからない。判断力が鈍っている。楽屋に戻っても脱げない。打ち上げに行くわけにもいかない。この姿のまま、居酒屋に入れるわけがない。
足が重い。
視界が狭くなってきた。マスクの内側が、自分の吐いた息で蒸れている。汗が目に入る。拭えない。
——本能が覚醒しそうだ。覚醒してもスーツのままじゃないか。
商店街を歩く。いや、歩いているつもりだ。実際には足を引きずっているかもしれない。膝が笑っている。あと何歩持つかわからない。
すれ違う人たちが俺を見ている。「あ、ヒーローだ」「さっきショーに出てた人?」「なんでまだスーツ着てるんだろ」
なんでだろうな。俺も知りたい。
噴水が見えた。
公園の中央にある、大きな噴水。水が高く上がって、夕日を受けてきらきら光っている。
——あそこなら。
水を浴びられる。少しは楽になる。水切れは辛い。敵側の気持ちがわかる。
足を動かす。一歩。また一歩。目指すは傲慢身勝手な宇宙の支配者の前ではなく、噴水だ。
周囲の音が遠くなっていく。祭囃子も、子どもたちの声も、出店の呼び込みも。全部が水の底から聞こえてくるみたいだ。
——最終回で死ぬのはごめんだぞ。ひったくりを懲らしめたのがフラグになったか?
いや、そもそも、俺の物語の最終回じゃないし。こんな中途半端なところで終わってたまるか。
噴水まで、あと十メートル。
五メートル。
三メートル。
——届いた。
噴水の縁に手をついた瞬間、膝が折れた。
がくん、と体が沈む。水飛沫が顔に——マスクにかかる。冷たい。冷たいけど、それだけじゃ足りない。
立てない。
俺は噴水の縁にもたれかかったまま、動けなくなっていた。
周囲がざわついているのがわかる。
「おい、あのヒーロー……」
「大丈夫か?」
「救急車呼ぶか?」
声が遠い。返事をする力が出ない。
——ああ、ここまでか。
マスク越しに、夕焼け空が見えた。オレンジと紫が混じった、夏の終わりみたいな色。
きれいだな、と思った。視界がぐにゃりと歪む。その時——。
「待って!」
凛とした声が、夕暮れの空気を切り裂いた。
声のした方を見た。
見覚えのある姿。高山歩美。司会のおねえさん。——でも、何かが違った。
立ち姿が違う。声の響きが違う。さっきまで一緒に戦隊トークをしていた歩美とは、別の何かがそこにいた。




