11可愛すぎる
それから一ヶ月が経過した、七月中旬。梅雨も明け、本格的に暑くなってくる季節がやってきた。今でさえ身体がソフトクリームのように溶けていきそうなのに、これ以上暑くなったら、溶けたソフトクリームが蒸発してしまう。
華はそんな馬鹿げた妄想をしながら、登校して校舎へと入り、傘立てをチラリと伺った。ついこの間まで、傘立ての中は傘で埋め尽くされていたのに、今では置き傘以外ほとんど見られない。つい先日まで、ほぼ毎日傘を持ち歩いていたのが嘘のようだ。
(そういえば、葵翔くんの態度がガラッと変わったのも、梅雨入り頃だったよね…。)
華は近頃の葵翔の様子を頭の中で思い浮かべ、一ヶ月前の記憶と比較してクスッと笑う。華は中学三年生だけれども、クラスの数の関係上、教室は二階にある。華はその短い距離で葵翔のことを考えていると、すぐに自身の教室に辿り着いた。華はいつも通り、勢いよくその教室のドアを開けて、
「みんなおはよう!」
と、元気いっぱいに挨拶をする。
一ヶ月ほど前までは、結衣をはじめとして、仲の良い女子たちがまず初めに挨拶を返してくれる。それに続いて、男子が返してくれるのだが、最近は…。
「おはよう、華ちゃん!」
そう、華の挨拶に対して一番初めに反応してくれるのは、他でもない葵翔だった。
華が後方の教室のドアを開けた途端、その直線上にある席に座っていた葵翔が、待ってました、とばかりに顔をガバッとあげる。そして、喜色満面で、華の大好きな瞳をキラキラと輝かせ、華の元まで一目散に駆けてきてくれるのだ。
あの日…、そう、華が葵翔ともっと仲良くなりたい、と思った翌日。まるで華の心のうちを読んだかのようなタイミングで、葵翔が華に対して態度を変化させた。いまだにその理由はわからないけれども、華にとってこれ以上ない幸運だった。それからというもの、葵翔は加速度的に華に心を開いてくれている。それは目に見えて明らかだった。
そしていつからか、葵翔は華が登校すると駆け寄ってきてくれるようになった。初めて葵翔がそうしてくれた日、華は幸福のあまり昇天するかと思ったほどだ。また、普段の行動もそれに伴って徐々に変化していた。
「おはよ、葵翔くん!」
華も最大限の上機嫌で葵翔に笑いかけると、彼もパァッと顔を輝かせ、同様に笑顔を返してくれた。燦燦に輝く真夏の太陽のような、大輪のひまわりのような、これ以上ないほどの満面の笑顔。華はそんな葵翔の輝かしい表情を見て、
(う〜! 今日も可愛すぎる‼︎)
と、内心で身悶えた。心臓を鷲掴みにされたかのように、幸せいっぱいで苦しい。もし漫画の世界ならば、背景がハートで埋め尽くされていたことだろう。元の顔が可愛くて仕方ないのに、その上にこの無邪気な笑顔は反則すぎる。この屈託ない笑顔を向けるのは華にだけ、という点を加えて考えると、華の幸福感は増していくのだった。最近の葵翔はまるで犬のように華に懐いていて、華にのみ心を許してくれている。それが何よりも嬉しかった。
ただでさえ葵翔が存在してくれているだけで尊いのに、駆け寄ってきてくれて、こんな太陽みたいに輝く笑顔を華だけが見ることができるなんて、自分はなんて幸せ者なんだろう。華は毎日、葵翔から一日分のエネルギーをチャージしていた。もう、葵翔がいなければ生きていけない身体になっている。
ちなみに呼び方も〝七瀬さん〟から〝華ちゃん〟に変化しているが、無論、これは葵翔自身が自ら変えたわけではない。いくら葵翔が華と親しくしようとつとめたところで、葵翔の性格上、もし変えたくても自分から変えるなんてことはできないだろう。いうまでもなく、呼び方を変えるようにお願いしたのは華自身だ。お願いした時の、葵翔の表情の可愛いことといったら。
そう、あれはまだ梅雨が明けていないにも関わらず、気持ちの良いほどに澄み切った快晴の日の、その朝のこと。
「葵翔くん、あのさ、お願いがあるんだけど。」
「お願い?」
いつの間にか尻窄まりの口調も変わり、ハキハキとした口調で話してくれるようになった葵翔。無論、しっかり喋ることができるのは華にのみ。彼は華の言葉に、ちょこんと首を傾げる。こんなにも、動作一つひとつが可愛らしいのはどうしてだろう。一体誰が彼に可愛さの秘訣を伝授したのだろう。これが素なら末恐ろしいのだが。
(ハキハキした喋り方だと、やっぱり蒼太の声と同じだってわかるなぁ。)
可愛い顔立ちの葵翔、格好良い顔立ちの蒼太は見た目が真逆のせいで、声にも各々エフェクトがかかって別の声に聞こえるのだが。
「私のこと、華って呼んでよ。」
せっかく葵翔が距離を縮めようとしてくれているのだから、この機会を逃すわけにはいかない。目に見えてわかるように、華と葵翔は仲が良いんだ、と周囲に知らしめたい。それに、純粋に華自身が葵翔に下の名前で呼ばれたい。華は期待を込めて、熱を持った瞳で葵翔を見遣る。すると、
「えっ⁉︎」
と、葵翔は大袈裟なほどに反応し、大きな声を上げた。飛び退くように、椅子の後ろに下がる。周りにいたクラスメートが、普段は大きな声を出さない葵翔の様子に驚いて、ギョッとした顔でこちらを見る。
「そんな驚くこと?」
「ぼ、僕、友達を下の名前で呼んだことなんてなくて…。」
華は〝友達〟と葵翔の口から発せられ、ズキュンと胸が撃ち抜かれたような錯覚がした。燈華のことは下の名前で、しかも呼び捨てにしているが、それは例外だろう。
「ほんと? じゃ、私が第一号だね!」
「あ、え、いや…その…。」
華は葵翔に一番を勝ち取りたくてそう言ったが、相変わらずしどろもどろになっている葵翔を見て、もしかして嫌な思いをさせたかな、と焦燥を覚えた。
「あ、ごめん。別に無理にとは言わないよ。嫌ならこのままで…。」
「い、嫌なんてことはないよっ。」
すると、葵翔が華に被せるようにして、少し力強い口調でそう言った。葵翔は意志のこもった目つきで華を見つめ、それでも少し自信なさげに口元を歪ませる。そして頰をほんのりと紅潮させていた。なんとも言えない、少々性的な意味で危なげのある表情である。葵翔は男子なのに、女子の華が庇護欲を覚える可愛さ。先ほどハートを撃ち抜かれたばかりなのに、二度目の打撃を喰らってしまった。また、華は何度も瞼でシャッターを切り、すぐさま脳内ファイルに保存した。
葵翔の表情だけでない。そのセリフもまた、華を大いに喜ばせた。主張が少ない葵翔が、明確な意志を持って、華の言葉に反対した。言い換えると、葵翔が華の下の名前を呼びたいと言ってくれた。嬉しいことが重なりすぎて、真剣にこれは夢なのではないかと思ってしまった。
「本当に? やった! じゃあ、試しによんでみてよ!」
華は軽い口調で言ったが、心臓はバクバクして苦しいくらいだった。華は葵翔の声を聞き漏らさぬよう、耳を研ぎ澄ませる。そして、ついにその瞬間はやってくる。
「えっと…は、華…ちゃん。」
「っ〜〜‼︎」
思わず声にならない声が出てしまった。なんだこの可愛い生き物は。
自信なさげに少し背筋を丸め、ゆるく握った右手を口元に添えている。眩いほどにキラキラとした双眸は、彼を見た者全てを興奮させるような熱を持っている。これだけでも庇護欲やら、それを通り越して理性が外れてしまうような危うさを秘めているのに、葵翔はそれだけでは終わらなかった。華に何かを期待するかのように上目遣いでこちらを見遣り、口元は口角が下がっていることで不安げな表情を作り出している。極め付けで、顔全体が夕焼け空のように真っ赤に染まっている。伝染して華の顔も紅潮しそうだ。
(これは…やばい。)
ついさっきも性犯罪に巻き込まれそうな表情をしていると思ったが、あれは序の口だった。今回の方が何十倍も破壊力がある。今すぐ襲い掛かりたいくらいだ。
華はそこまで思い出して、一人でだらしなく表情をにやつかせてしまう。その後、出迎えてくれた葵翔と共に席につくと、葵翔が口を開いた。最近は華が話題を探さなくとも、葵翔の方から話しかけてくれる。それも、華の嗜好への問いかけが多く、葵翔が華のことを知りたいと思ってくれているのがよくわかって、華は毎回ニヤニヤしてしまう。
「華ちゃん、今日体育祭の種目決めがあるらしいけど、何を希望するか考えた?」
今回は華自身への質問ではなかったが、葵翔は華の返答に何らかの期待をしているのが見受けられた。もし葵翔も華と同じ種目になりたいと思っていてくれているのであれば、これほど嬉しいことはない。この学校は勉強を重視しているため、体育祭は一応設けられているものの、練習はほとんどしない。その日限りの体を動かす行事、という感じだ。
「考えてきたよ。綱引きと五十メートル走がいいな。あとはまぁ、リレーには選ばれると思う。毎年選ばれてるから。」
華は生まれ持って得た他の人とは根本的に異なる体質に、若干の罪悪感を覚えながら苦笑した。走る練習なんてしていないけれど、六秒台が当たり前。陸上部で毎日練習に励んでいる生徒に申し訳なさを覚える。しかし、それでもだいぶん手加減していて、〝負〟の怪物と戦う戦場では、新幹線くらいの速度で走る。
(けど、それって葵翔くんも同じなんじゃ?)
「葵翔くんもリレーの選手に選ばれるよね、きっと。でも、葵翔くんが走ってるとこ、これまで見たことないかも。なんで? 毎回断ってるの?」
華は過去の体育祭を思い出してそう発言する。足が速い、リレー選手の候補は読み上げられ、その大半がそのまま選手となる。もしも過去に葵翔と同じクラスになったことがあるならば、それを断っている姿は印象に残るだろう。しかし、これまで華と同じクラスになったことがない葵翔は、華の言葉に困惑したようだった。
「え、なんで知ってるの。うん、そう。僕、まぁ、足は速いけど、走るのは別に好きじゃないから…。選ばれるのは嬉しいけど、走るのが好きな人に譲ってる。」
なるほど、葵翔もまた華と同様に罪悪感を覚えていたらしい。それで毎回譲っていたなんて、なんて律儀な性格か。華は思わずキュンとした。
「それに…リレーってさ、応援してなんぼだけど、僕は応援してもらうほどの友達がいないから…。きっと虚しくなると思うんだ。」
(あ…。)
おそらくそちらが本音なのだろう。いや、純粋な葵翔のことだから、先ほどの理由も本心だろうが。だが、〝友達がいない〟という心配ならばする必要なんてない。だって…。
「そんなことないよ! 今の葵翔くんには私がいるじゃん! 私が十人分くらいの気持ちで応援するから! 絶対に葵翔くんを虚しくなんてさせないよ!」
華は拳を握りしめ、強い口調でそう言った。なかなかに自意識過剰な発言だと自覚はしているが、それよりも、葵翔に惨めな思いをさせたくなかった。
華がそう言うと、葵翔はハッとした顔つきになり、その後、徐々に顔を綻ばせていった。
「そっか…。そうだよね、今の僕には華ちゃんがいるもんね…!」
リレーに参加する気になった葵翔に、口元を緩ませる華だったが、はたと我に返った。
「あっ…ごめん、葵翔くん。無理やりリレーに出させようとしちゃって。そもそも、葵翔くん走るの好きじゃないんだよね。それなら別に、無理やりでなくてもいいんだよ!」
華は慌ててそう言い直すが、葵翔は微笑んだまま、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん。今年は参加する。華ちゃんに応援してもらいたいもん。」
「そっか! じゃあ、なおさら応援頑張らないと!」
華は葵翔と共にリレーに出場できることが嬉しくて、自然と口角が上がった。
「あっ、もちろん、僕も華ちゃんのこと精一杯応援するからね!」
そして、葵翔が両手の拳を握りしめてそう言ってくれ、お決まりの通りに撃ち抜かれる華であった。
最後まで読んでいただいてありがとうございました! 次回、(私的には待っていた)新キャラ登場です。