10新しい自分
翌日の朝、葵翔は席について本を開いていた。しかし本人は気づいていないが、その本は漫画のように逆さまである。葵翔は本に没頭しているふうにページに顔を埋めながら、華の登校を待っていた。昨日華に心を開くと決めた葵翔は、なんだか華と顔を合わせるのが楽しみで仕方がなかったのだ。無意識的に口角が上がってしまう。葵翔の口下手に、飽きずに毎日声をかけてくれる華。日葵の考えを聞く前までは、それが後に葵翔を騙すための罠のように思えていたのだが、今ではそうは思わない。もちろん今でも警戒心がないわけではないが、信頼する日葵がひとまず信じても良いというのだから、華はきっと心の底からの親切心で葵翔に声をかけてくれている、ただの良い人なんだと思い直した。
「おはよう!」
その時、待ちに待った華の声が教室内に響き、その声に幾つもの返事が返ってくる。相変わらずの人気者だ。華はにこにこと周囲に笑顔を振り撒いてから、葵翔の隣に腰掛けた。
そして、
「おはよう、葵翔くん。」
という声がスッと耳に届く。葵翔はすぐさま顔をあげ、
「七瀬さん、お、おはよう…!」
と、慣れない故に少し頰を紅潮させて挨拶をした。
葵翔の瞬時の返答に対し、華は目を見開く。これまでは本を読んでいる時に声をかけても、キリの良いところまで読み終わらなければ、華の存在に気づかなかったのに。華は葵翔の些細ではあるけれど大きな変化に、ぱっと顔を輝かせた。
「葵翔くん、今日も『こゝろ』読んでるの? あれ、でも…逆さま?」
理由はよくわからないけれど、葵翔が初めて華に対して非常に望ましいリアクションをしてくれたので、華は彼の気分を崩すまいと、葵翔の大好きな本の話題に変換する。しかし、華は葵翔の本の表紙を覗き込んで、はて、と首を傾けた。
「あっ…え? う、うそ…っ。あ、いや、違くて、これは…!」
すると、葵翔本人は気がついていなかった様子で、指摘すると途端にあたふたし始めた。普段は落ち着いている葵翔の取り乱した様子がおかしく、華はクスッと笑みをこぼした。葵翔は笑われたことに対して呆然と華の顔を眺めたが、次第に葵翔も華に釣られて笑い出した。二人で笑い合っていると、笑い始めたきっかけなんてどうでも良くなり、次第にただひたすらに声を上げて笑い合う。チャイムが鳴って担任が入ってくるまで、二人はもはや意味もなく笑い合っていた。
その後、日直の号令で起立礼をして、再び席についた時、葵翔は不思議な気持ちに包まれていた。
(なんでだろう…意味もないのに笑うなんて…。)
そう、母親以外の前で声をあげて笑うなんて、以前の葵翔ならばあり得なかった。しかも、大した理由もなく。確かに自分の恥ずかしい失態を誤魔化すために笑ったという解釈もできるが、葵翔はそんなお気楽な性格ではないので不可能である。平生ならばただひたすらに顔を赤らめて縮こまっていただろう。しかし、今日は華が笑うと自分も連動するように気持ちが明るくなって、気がついたら笑っていた。それも、声を上げて。他人に隙を与えたくない、常に自分を守るように警戒心というガードを固めている葵翔には考えられないことだ。つまり、そのガードが今日は華には適用されなかったということになる。葵翔としては本望だったが、まさかこんなにも自然と実行できるなんて。心持ち一つで変わるとはこのことだ。
(これなら、すぐに七瀬さんに心を開けるんじゃないか?)
葵翔は目を輝かせ、そんなふうに思った。そうなれば、日葵を心配させずに済む。葵翔は心中でそう思い、頰を綻ばせた。
一方で、心当たりもなく華に対する葵翔の反応が良くなったことに対し、華は密かに今年一の幸福を噛み締めていた。
葵翔はその後、授業を受けながら、ちらりと華の様子を一瞥した。彼女は真剣な表情で黒板を見つめ、ノートに取らなくても良い先生のセリフをメモしていた。葵翔は華を眺めているうちに、次の五分休みに話しかけたい、という気持ちが沸々と湧いてきた。自分自身でも驚くほど、華への心持ちが変化している。
(そういや、僕から七瀬さんに話しかけたことはないな…。七瀬さんについて何も知らないし…。)
思えば、葵翔は華の何も知らない。彼女がクラスのムードメーカーで、正義感が強いという、誰もが見ればわかる情報しか持ち得ていない。華と話している気でも、実は話していなかったのだ。
(七瀬さんのこと、知りたいな…。)
葵翔はそんなふうに内心で呟いて、思わず顔が紅潮する。昨日まで他人と関わる必要性をほとんど感じなかったのに…。
そんなことを考えていると、一限目の国語の授業の内容は、片方の耳からもう片方の耳へと流れていった。
いよいよ待ちに待った休み時間である。葵翔は気がつくと鼓動が高鳴っていて、心臓に胸を当ててそれを落ち着かせようとした。そして華の方を見て口を開こうとして、
(あれ?)
と、何者かに声を封印されたかのように、言葉が出てこなかった。しかし後に、それは当たり前だと痛感する。これまで葵翔が人に関わって来なかったのはなぜか。それは日葵の忠告の前に、葵翔の喋りが問題であった。葵翔は人と話すことが不得手で、受け答えをすぐに行うことができない。数秒考え、相手に不快な思いをさせないようにと入念に気を遣ってから言葉を返す。それなのに、何も話しかける言葉も決まっていないタイミングで、華に声をかけるなんて無謀だった。これまで人に話しかけたことのなかった葵翔には、その発想を思いつかなかったのだ。
葵翔は心持ちが変化したからとはいえ、すぐに自分の性質を変えることができない、という当たり前のことが頭から抜け落ちていたことに対して、ひどく羞恥心を覚えた。また同時に、このままでは五分休み中に華に話しかけられない、という焦燥感も覚えた。
だがその時、
「葵翔くん。」
と、隣から待ち望んだ声がした。
五分休みに話しかけてくれることはよくある。とはいえ、五分休みは会話のために設けられた時間ではなく、お手洗いや次の時間の教材の準備などに使う時間だ。必要最低限の準備が終わって居なければ、話しかけてくれることはない。朝の時間は終了直前にならないと他の友達と話していて席に帰って来ないし、十分休みも昼休みもまた同様に友達とお喋りをしに行く。そのため、葵翔の最大のチャンスは、隣席という点を活かした、短い休み時間でも会話をすることができる五分休みなのだ。
葵翔はすぐに振り向き、
「な、なに…?」
と、ほんの少し、自分でも何に対して抱いているのかわからない期待を込めて尋ねる。
「あ、あの、えっとね…そ、そーだ、友好! 友好深めよう!」
すると、華は珍しく会話の内容を考えて居なかった様子で、いや、華はもしかすると咄嗟に思いついたことを口にしているのかもしれないので今回は会話の内容が思いつかなかったのかもしれないが、言葉を詰まらせてそう言った。また、華から突然発せられた友好を深める、という言葉にも葵翔は呆然とした。普段の華ならば、脈絡もなく変な話を始めることはしないのに。葵翔には、華がどこか普段通りでないように映った。しかし、
(友好を深める…。七瀬さんの意図はわからないけど、これって七瀬さんのこと知るチャンスでは?)
と、葵翔はグッドタイミングな華の言葉に、思わず内心でガッツポーズした。
そしてまた、葵翔の〝今日の華はどこか普段通りでない〟という直感は的中しており、華は内心であわあわと慌てふためいていた。
(あ〜! 私、変なこと口走っちゃった!)
華は今朝の葵翔の勢いの良い返答が忘れられず、今日の葵翔は何か違うのではないか、と期待を込め、葵翔の気分が変わらぬうちに、どうにかして会話をしようと必死になっていたのだった。
「友好って…?」
予想通り、葵翔がよくわからない、というふうにちょこんと首を傾げる。
(全くもう! なんで動作ひとつひとつがこんなにも可愛いの!)
華は小さく首を傾げた葵翔を見て思わず内心で突っ込んでしまうが、慌てて言葉を返す。
「お、お互いの趣味言い合うとか? あ、葵翔くんの趣味は言うまでもなく読書か…。じゃあこれはダ…、」
「いいと思う。」
これはダメか、と華がすぐに自分の発言を訂正しようとして、葵翔がさせるまいと、被せるように賛成してきた。華は思わず目を見開き、葵翔を見つめる。
「いや、だって…確かに僕の趣味といえば読書くらいしかないし、七瀬さんもそれは知ってると思うけど…、僕の方は、七瀬さんの好きなもの、全然知らないから…。」
すると、葵翔は言葉を選びながら、華の言葉に同意した訳を話した。また、華はその葵翔の返事に、思わず叫び出したいほどの興奮を覚えた。
(そ、それってつまり…、葵翔くんが、私のことを、し、知りたいって思ってくれてるってこと…⁉︎)
これまで華は一方的に葵翔にアタックを続けてきたのだが、彼の変化はほんの些細なものだった。それも、毎日話しかけている華でしか気がつかないような。それなのに…。
(どういう心境の変化なの…⁉︎ 突然私に対する態度が良くなったと思ったら、さらに私のことを知りたいとまで言ってくれるなんて…!)
正確には葵翔は〝華のことを知りたい〟とは言っていないのだが、華はそう言われた気で満々だった。葵翔の心境の変化の所以は不明だが、これは葵翔に気がある華にとって絶好の機会だ。それ以前に、そんな、どちらかというと戦略的な心持ちで今の状況を俯瞰せずとも、ただただ葵翔ともっと話がしたいという気持ちで溢れているのだけれども。
「ほんと? 嬉しいな。」
しかし、想いも伝えていないのに、この胸の内にある溢れんばかりの感情を葵翔にさらけ出すことは不可能なので、この二言に想いを凝縮してふわっと微笑む。
「葵翔くんの趣味は言うまでもなく読書だよね。他にも何か好きなものある?」
「そうだね…。自分でもつまらない趣味だと思うよ…。他か…、う〜ん、趣味とは違うかもしれないけど、料理は割と好きかもな…。」
日葵は足が動かない故にベッドから動くことが難しいため、家事全般は葵翔が行っている。葵翔に全てを押し付けてしまい、日葵は罪悪感を覚えているが、彼女は何もわかっていない。葵翔は母親が笑ってくれるだけで、母親が話を聞いてくれるだけで、生きていて良かったと思えるのだから。葵翔は自分の作った料理で、大輪が咲き誇ったかのような、喜色満面の笑みを浮かべる日葵の様子を思い浮かべる。料理自体が好きというわけではないが、日葵が喜んでくれるのが嬉しくて、料理をすることも好きになっている。
「ええ⁉︎ あ、葵翔くん料理できるの⁉︎ すごすぎる! 私なんて卵焼きも一人で作れないのに!」
すると、華が目を爛々と輝かせ、心の底から感心したようなリアクションをしたので、これには葵翔が驚かされた。ずっと昔から、葵翔が料理をすることは当たり前になっていたので、料理ができるだけですごいと言われるなんて思いもしなかった。
「もしかして、葵翔くんってお手伝いとか頑張ってる人?」
「お手伝いというか…家事全般は僕がしてるかな…。母さんは事情があってできないから…。」
華の興味津々、といった問いかけに、葵翔は〝日葵の事情〟には触れずにそう返す。しかし、そう言ってから後悔した。
「え、あ、ごめん、聞いちゃいけないことだった…?」
やはり、華に気を遣わせてしまった。華は先ほどのワクワクとした笑顔とは一転して、蒼白とした案じ顔になった。正義感の強い華のことだから、きっと過剰に自身の失態に気を病んでしまうだろう。葵翔はそう考え、慌てて両手をぶんぶんと振った。
「あ、ううん、大丈夫だから…! 全然気にしないで…!」
葵翔が必死にそう伝えると、華はほっと安心したような顔つきなり、それきりその話題に触れることはなかった。葵翔にはその気遣いがありがたかった。変に気を遣ってきたり、挙げ句の果てに何か手伝えることがあれば話せと言ってきたりするのは御免だった。
「あ、そうそう、さっき引っかかったことがあったんだ。話戻すけど、さっき葵翔くん、読書はつまらない趣味だって言ってたでしょ。あれは違うと思うよ。読書が趣味なんて格好良いよ! 私なら集中力持たないし。めっちゃ高貴な趣味だと思う!」
華は話題を転換して葵翔のことを褒めてくれた。きっと本心なのだろう。華が読書をする場面を目にしたことはない。
「七瀬さんは、本は読まない…?」
「うん、全然読まない。けど、漫画は時々読むよ。」
漫画には詳しくない葵翔は、華の回答を受けて物珍しそうな顔つきになった。
「へぇ、そうなんだ…! どんな漫画を読むの? やっぱり少女漫画…?」
「私、お兄ちゃんがいるから、結構少年漫画も読むよ。まぁ八歳も離れてるから、ちょっと時代遅れのことも多いけど。でもバトルものが好きなお兄ちゃんと違って、私は恋愛ものにしか興味ないんだよね。有名どころだと、『アオのハコ』とかが好き。なんか少年漫画だけど少女漫画チックなの。」
華の趣味について情報を仕入れたのは初めてで、葵翔はただただ興味深くその話を聞いていた。なんだか華の好きなものを聞いただけで、一気に彼女に近づいた気がした。
「『アオのハコ』って、なんか聞いたことあるかも。」
「ほんと? 面白いんだよ。もし良かったら読んでよ! 明日持ってくるからさ!」
葵翔が何気なく言葉を発すると、華はぱぁっと顔を輝かせ、そう言った。
「え、か、貸してくれるの⁉︎ も、申し訳ないよ…っ。」
葵翔は友達と本の貸し借りなんてしたことがなかったので、過剰に驚いて首をぶんぶんと振った。すると、華としては自分の好きなものを好きな人に布教したい気持ちが強かったので、
「もし罪悪感があるならさ、お互い交換っこしようよ。」
と、そう提案した。しかし、それは布教したいという想いよりも、葵翔の持ち物に触れたいという気持ちの方が強かった。
「あー…それなら…。でも、僕、漫画なんて持ってない。」
「じゃあ小説貸してよ! 私、葵翔くんのおすすめの小説読んでみたい! ダメかな?」
葵翔がそう言うと、華は身を乗り出して頼んだ。その言葉に、葵翔は目を輝かせた。葵翔も葵翔で自分の好きな小説を人に読んでもらいたいという気持ちはあったし、これから仲良くしていきたいと思っていた華が自分から読みたい、と申し出てくれるなんて歓喜以外の何者でもなかった。それに、小説は漫画に比べて読むのに時間がかかるし、華のように普段読まない人にとっては避けるべきものだろう。それなのに、読みたいと言ってくれるなんて。葵翔は無性に嬉しくて、心が温かくなった。
「それじゃあ決まりね! やったぁ、嬉しい! ありがと!」
「いや、僕の方こそ…! ありがとう…。」
互いに嘘偽りない喜びを噛み締めていると、図っているとしか思えないタイミングでチャイムが鳴った。時間にしては五分しか経っていなかったのに、やけに充実していた。これまで五分休みは読書に費やしていた葵翔だったが、友達と会話をするだけで、こんなにも充実感や心の満たされ方が違うのかと感心した。
そして、葵翔は今後華ともっと仲良くなりたい、という気持ちが沸々と湧いてきた。日葵を心配させるから、会話ができる関係性の人が一人でもいたら良いな、と思っていたのだが、もはやその気持ちよりも、華と仲良くなりたいというありのままの想いの方が圧倒的に強くなっていた。
ほんの少しの猜疑心を取っ払うだけで、世界はこんなにも明るいものだったのか。葵翔は初めて、これまで日葵の言葉の真意を理解しようとしなかったことを後悔した。だけど、まだ手遅れではない。これから華と築いていくのだ、新しい関係性を。葵翔は未だ見ぬ新しい自分に期待を込め、どこか機嫌が良さそうな華の横顔を眺めた。
最後まで読んでいただいてありがとうございました!