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1話 あなたはどんな瞬間に幸せを感じますか?

 ◆◆◆◆◆◆ 

 あなたはどんな瞬間に"幸せ"を感じますか?


 窓の外では小鳥が鳴いていて、室内には挽きたてのコーヒーの香り。

 朝焼けを眺めながらゆっくりとコーヒーを楽しみつつ、今日一日何をして過ごすかを考える。

 今日は天気がいいから散歩にでも行こうかな。


 ……こんなに穏やかな朝が来るとは、昔の私はまったく想像していませんでした。


 かつての私は何十人ものメンバーを抱えるチームリーダーとして現場の最前線に立っていました。


 怒号や叫び声は日常茶飯事。

 スケジュールは常に逼迫し、少しミスをしただけで誰かのクビが飛ぶ。

 そのような緊張感で張り詰めた環境で毎日夜明け前から深夜過ぎまで働いていたのです。

 もちろん睡眠時間は慢性的に足りていません。


「こんな生活を続けていたらいつかどうかなってしまう」


 そう思い続けていたある日のことです。


 私は重大なミスをやらかしてしまいました。体調が万全なら決してしないようなミスです。

 幸い部下の一人がフォローに入ってくれたため大事には至りませんでしたが、一歩間違えればクビが

 飛んでもおかしくないヒヤリハットでした。


「今回は運良く助かったが、このままでは遅かれ早かれクビになるか体を壊して退職するのかのどちらかだ」


 そこからの決断は、驚くほど早かったです。


 引き継ぎを終え仕事を辞めた日は晴れでした。

 外に出て、カフェに入り、お気に入りのブレンドを飲みながらぽつんと座っていると、肩から力が抜けて、気がついたら泣いていました。

 誰かの怒鳴り声もスマホの通知もなく、耳に届くのはマスターが淹れるコポコポとしたサイフォンの音だけ。


 窓の外を見るとそこには晴れやかな青空が一面に広がっていました。


 退職してすぐの生活は、静かで、退屈で、でもどこか懐かしいものでした。


 朝は6時半に起きてベランダの植物に水をあげる。洗濯物を干したあとは、お気に入りのマグでコーヒーを飲みながら日記を書く。午後は散歩。夕方に洗濯物を取り込んだらアイロンをかけて丁寧にたたむ。夜は早めに湯船につかり、22時には眠る。


 ──こんな"生活"はずいぶん長いことしていなかったな、と気づきました。


 本当に大切だったのは、時間でもお金でも、仕事でもなくて、「私らしくあること」でした。


 最後にもう一度――

 あなたはどんな瞬間に"幸せ"を感じますか?


 仕事をやめたあの日にカフェで飲んだコーヒーと同じ香りを楽しみながら、私は今日もベランダから青空を見上げます。真っ青な空の下で干したばかりの白いタオルが風に揺られています。

「生きててよかった」と今日もまた思いました。


 ◆◆◆◆◆◆


「これは……我ながらなかなか良い記事が書けました」


 相楽(さがら)は今しがた書いたばかりの記事を読み返しながらため息をついた。


「仕事」を辞めてFIRE生活に入ってから三ヶ月ほどになる。


 最初はガラリと変わったライフスタイルに戸惑いを覚えないでもなかったが、生活のリズムができてからは単調でありつつも豊かな毎日を過ごしている。


 エナジードリンクではなく、栄養バランスと彩りが考えられた健康的な朝食。

 緑にあふれた生活を演出する観葉植物。

 太陽の光をいっぱいに浴びながらのお散歩。


 そうした丁寧な暮らしの中で浮かんでは消えてくる泡のような考え事や日々の雑感は、かつての生活では決して思い浮かばなかったものだ。


 そういった考えやアイデアを書き留めておこうとここ最近は日記をつけていたのだが、自分ひとりで日記帳に向かっているのもなんとなくつまらない。


 そう思ってブログ型のWebサービスに先ほど初めて記事の投稿をしてみたのだが、我ながら初めてとは思えないほどまとまっている文章だ。


 相楽はコーヒーを飲みながら満足する。


 この記事のクオリティであればすぐにフォロワーがつくことだろう。100個以上スキ♡をもらうのもそう難しいことではないはずだ。


 そう思って次の記事を投稿しようとマウスを動かしたのだが……


「相楽さーん。相楽さーん」


 背後からこちらを邪魔する声がする。


「……何ですか、ノアさん」


 面倒だなと想いつつも振り向いてみれば、ゴス系――いや、今は地雷系とか病み系というのだったか。毛先だけピンクに染めた黒髪を垂らした少女がわざとらしく頬を膨らませている。


「イヤですよぉー、さっきからノアさんのこと無視してPCのほうばっか見て。いったい何見てるんですかぁ? "あなたは、どんな瞬間に幸せを感じますか?" ふーん、どれどれ……」


 星噛ノア。


 かつての仕事上の部下であり、辞めたあとも何かと理由をつけては相楽の家に入り浸る少女である。


 ノアはオフィスチェアの背もたれごしに相楽に寄りかかってきた。

 その拍子にわざとなのか、無意識なのか、地雷系ギャルの豊かな胸が相楽の頭の上で乗せられる。


 ……重い。

 いったいなんだこれは。

 メロンか? メロン2個分か?


 はしたない、と注意して払いのけようとしたが、相楽はふと思いとどまった。

 ノアは濃いアイメイクに縁取られた目を細めながら、集中してディスプレイの文字を追っている。


 初めて書いた記事だ。相楽は初見の人の感想が気になった。


「……」


「……」


「……相楽さん、これって――」


「は、初めて書いた記事だから無論うまくないところもあると思いますがそれでも初めて書いたわりにはわりと悪くないでしょうそうでしょう」


 となぜか緊張して早口で小声でボソボソ繰り出した言い訳じみた言葉は、ギャルノアの大声にかき消された。


「めっちゃ笑えるんですけどぉ! なんですか、"気がついたら泣いていました"って! なにそれポエム? メンヘラ? 今どき流行んねえっつーの!」


「……」


 あっはっはっと口のピアスを揺らしながら笑うノアを無言で見つめながら、相楽はコーヒーの入ったマグを握りしめた。


「しかもですよ? 最後"生きててよかった"って締めてるの! いや重っ!! つか軽っ! てか浅くないっすか、仕事辞めたくらいで。はいはい立派、立派。無職は生きてるだけで偉いでちゅねえ♡ ボウフラと同じくらい立派、立派♡」


「……」


 マグカップにヒビが入った。


「今どきこんなしょうもねえ文章、生成AIでも書かねーですからあ! こんな浅い価値観を全世界に公開して恥ずかしくないんですかねえ! もしこれがノアさんだったら、お尻の穴広げて見せるほうがまだマシですよ!」


「……ッ!」


 マグカップが砕け散った。


「って、あっ、え……あれ……相楽さん? 顔こわ……え? ……えっ? え、うそでしょ……まさか、あれ、これ書いたのまさか……」


 途端に汗をかき始めたノアをその場に置いて、相楽は立ちあがってキッチンへと向かった。

 買い替えようと思っていた古いフライパンを取って戻って来る。


 こちらの表情に気づいたのか、ノアの汗は滝のようになっている。


「あ、いや、あのその、あっ! これとか、ここの文章とかすごい良い! 味がある! ほら、この"夕方に洗濯物を取り込んだらアイロンをかけて丁寧にたたむ"とか! やーん、ノアさんの下着も相楽さんに丁寧にたたんでほしいな♡ なーんて……あ、あはは」


 しなを作って必死にごまかすノアの前で、相楽はフライパンを丁寧に丁寧に折りたたみ始めた。

 折り鶴を作るようにステンレスのフライパンにきっちりと折り目をつけながら折りたたんでいく。


 一回、二回、三回、四回……。


 そうして手のひらに収まるくらいの大きさになったフライパンを今度は拳の内でぎゅっぎゅっと握りしめる。

 そこから手を開いて出てきたのは泥団子のように黒光りする一つの球体だった。


 フライパンの成れの果てであるそれを差し出しながら、相楽は無表情で告げた。


「ノアさん」


「……はい」


「次はあなたがこうなる番です」


「ひ、相楽()()。そ、それだけはどうかご勘弁を……」

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