8.ある日の朝に。
九十五階にあるお花屋さん――地下に存在するニシキだったが、花も野菜も工場で生産を行っており、人々は手にすることが出来ていた。勿論、地上に居た頃に比べると多少の贅沢品にはなっていたが――の前を通り過ぎると「中庭」に面した長い階段がある。
ツキはイーロンに向かう時は必ずこの階段を使った。九十五階から八十階まで一繋ぎにしている、上層階最長の階段でこの階段からツキの生活圏のほぼほぼが見渡せる。ショッピングモール基準で作られている地下街の各階の天井は三メートルと設定されていて、その十六階分となればその景色も壮観だった。
沢山のヒトがぎゅうぎゅう詰めで移動している。笑っているヒト怒っている人、スリも痴漢もいるし、嫌がらせをするヒトもいる。そうやって人間観察を行っているツキの視線の先にいつもの痩せた女性が現れた。
(あ。カタドンだ!)
ツキの心はざわっとする。ツキがカタドンと呼ぶその女性は背の低い痩せた人物でいつも眉間に皺を寄せて早歩きで歩いている。スーツを着ているが恐らく務めてはいない。ツキが毎日観察し続けた結果、そう判断している。同時刻に毎日バラバラな方向に歩いていることを確認しているからだ。働いていないヒトからすれば、そんなことで無職であるか判断がつかないと想うだろうが、働いているツキは理解していた。
(ほんと、クソみたいな――あぁ!)
ツキが見ているとも知らず、カタドンは疲れて萎びた中年サラリーマンに肩どんした。彼女の身長は低いので、彼女が肩を鋭くぶつける場所は男性の二の腕辺りになる。油断しているところに急にぐりっと来るせいか、ぶつけられた方は、ビクッとなり、腕を押さえて立ち止まる。その隙にカタドンは逃げる。
狭い地下街は何処もヒトでごった返していて、雑踏の犯罪ならコンマ数秒でヒトの中に埋もれる。もし――このカタドンもそうであれば――それだけであればツキは気にも留めない。ツキがこの小柄な女性に名前まで付けて記憶しているのは、肩どんから続く、展開の奇妙さからだ。
――カタドンのこの薄い邪悪はバレる。いつも。
今もそうだ。ぶつけられた中年サラリーマンはカタドンを認識して睨み、罵声を浴びせる。
「おい!何やってんだ、■■■!!おい、■■■■■ッ■■!!」
カタドンは不器用に人波にぶつかり押し戻され飲み込まれて消える。中年サラリーマンは彼女よりもスムーズに人波に乗る。これまではそのような感情に支配されたことは無かったツキだったが、今朝は強い衝動を覚えた。知らない方が良いと思いながらも、カタドンの後を追う中年サラリーマンを――。
「――やめやめ。」
後追うことを止めたツキにめーたんが賛辞を送る。
「お?クレバーですね。拍手です。手は無いですけど。」
「黒縁眼鏡だもんねw」
「ぃいや、黒縁って!?」
最大の侮辱を受けためーたんはしかし、ツキを許して微笑む。顔は無いけど。
「多分、追っかけていっても楽しいことは無いんだよね。絶対。気にはなるけどさ。」
「ですね。サラリーマンが悪事を働くか、カタドンが悪事を働くか・・・・・・。」
「カタドンが出会いを求めているぱったーんもありかも。まぁ、要するにみんな何かの理由で誰かと繋がっていたいんだよね。それが、嫌悪やセーヨクでもさ。」
と、考察にもならない感想をツキは持った。ここに来るといつも想う。でも、それを想うことが、自分にとって必要なんだと彼女は理解していた。
(イーロンのみんな、外周部のリカーショップとロクデナシ。どうでも良い様なマイルールとか、めーたんもそうだし――アシ。)
すとん、とツキの体温が下がる。彼のことを想うといつもそうだ。
苦痛だった。
自分が背負った罪を目の前にすることは。自分が旅の途中で死んでいたら皆死なずに済んだのだと考えることは。どれだけテンションを上げて逃げ切ろうとしても追いつかれて、温かな日常の隙間に冷たい何かを差し込んでくる。そう、例えばそう――。
ジブンナンテシンジャエバイイノニ。
的な。