6.ツキのツミ。
いつも通りにふるさとが流れて、ツキは目覚めた。いつも通りに遮光カーテンを開けって、身体を起こすとシーツが落ちて、地下街の下品なネオンLEDに白い身体が染め上げられる。彼女は大きく伸びをするといつも通り尿意を感じる。
寝癖エアリーなショートボブをもしゃもしゃ掻きながら、眼鏡をかける。黒いシーツの海から抜け出してトイレに向かった。ただただ、こうして毎日が繰り返されていくのだ。リビングを抜けて廊下に出たツキはそこで、ひやりとした殺気を感じた。
(異形!?)
しかし、異形は廊下で待ち構えていなかった。いつも通りだ。変わらないアパートの廊下が有るだけだった。玄関ドアは先日の異形の侵入を受けて重い鋼鉄製のドアに変更されていた。力の強い異形であれば簡単に壁をぶち破ってしまうので、その対策がどれほどの効果があるのか、ツキにはとても疑問だったが、それを検証する趣味は無い。
ぼんやりとトイレを済ませたツキは、歯を磨いてから、鍋にお湯を沸かして、卵と薬味と香辛料の入ったおかゆ作った。大きなオタマでどんぶりになみなみとおかゆをよそって、薄暗いリビングで食べた。ぺっちゃぺちゃにちゃにちゃとツキはお粥をあっという間に平らげた。彼女は空のどんぶりに手を合わせてごちそうさまを言うと、シンクに食器を放り込んでから下着を着けた。ゆるりとした服を来て大きめのリュック――イーロンの衣装が入っている――を背負い、彼女は外に出た。
地下街はネオンLEDの毒々しい光とフレキシブルディスプレイに被われた建物が繰り返す広告で騒々しかった。何も変わることのない日常だったが、一つだけ、おかしなところがあった。ツキは天蓋を見上げる。雨がずっと続いているのだ。天候が完全制御されている地下都市ではありえないことだった。天候計画が晴れでも、ツキが住む第九十八棟がある第九区画は小雨が止むこと無く降り続いていた。
どこかの天蓋にひびが入ったのだろうか?配管が損傷しているのだろうか?判らなかったが雨で濡れた地下街はいつもよりきらびやかで、ツキは好きだった。雨に微笑んでツキは一人呟いた。
(ずっと雨でもいいよ。)
ふと、彼女はは濡れて滲んだ地下街の風景の中に違和感を覚えた。玄関ドアの前で周囲を見渡す。全てがいつも通りの風景だ。美しく雨に包まれている。でも、確かに違和感が存在していた。何処かから違和感が漂ってくる。
(ぅうん?ああ――血の匂いだ。)
異形が近くに居る――?彼女は身を固くするが、アパートの屋上に自警団の警告灯がせわしなく瞬いているのを見て、ツキは安心した。自警団は異形が駆除されてから登場することが常だ。つまり、この血の匂いの出所の異形は既に絶命している筈だ。警告灯をやかましく振り回す自警団がせわしなく屋上に出入りしている。
(なんか、最近、異形が近くをうろついてるなぁ……。)
ぼんやりとそう思いながらも、ツキはいつも通りにイーロンに向かうことにした。フードを被り、小雨の中歩き始めるツキの背中に声が掛かる。
「ツキ!おはよう。これから仕事?」
振り返ると幼馴染みのアシが立っていた。アシはにっこりと微笑む。ツキは心臓がぎゅっとなるのを感じた。彼女はアシを見る度に想った。
……あの時、あたし達が現れなければ、彼の両親は死なずに済んだのに。
胃がむかむかむかむかする。
アシは兎狩の第九十九番隊の隊長を務めているので少なくとも第九区画であれば七十階層には住める筈だ。なのに未だに百階層に住んでいる。ここは最底辺の階層だ。部屋も昔と変わらず、ツキの隣りのままだ。ツキはきっと彼は自分を守ろうとしているのだと想っていた。実際、何度もアシに助けて貰っていた。彼は既に異形との闘いの中で両腕を失っていて、ギミックが仕込まれた義腕に差し替わっている。噂では、内臓の一部も機械だと聞く。周知の事実だが、兎狩の生存率は低い。
……アシが死ぬ前にアタシが死ねば良いのかな?
ツキはアシの顔を見る度にそう想う。頭を掻きむしりたくなる。髪の毛を引き抜いて、頭皮を掻き崩して、脳みそを掻き出したくなる。
(だって、アタシ達が現れなければ、アシの家族は今も平和に暮らしていたんだもん。あぁ……あー、ぁああああーーーっ!!)
でも、ツキはそれを伝えることに意味が無いのを知っていた。アシにはアシのイシューがあり、それを打ち砕こうと命を賭けているのだ。ツキが口を挟む問題ではない。例えそれで、アシが命を落とすことになろうとも。自分の頭がおかしくなろうとも。ツキは笑う。色のない肌に赤い唇と瞳が滲む。
ねぇ、アタシのせいで、皆死んじゃったよ?ねぇ、アタシのこと憎いでしょ?なんで、アタシに笑いかけるの?気持ち悪いんだけど、止めて欲しいんだけど。ねぇ!わかってるよね?アタシが現れたせいで、アシは気狂いの兎狩になったんだよ?ねぇ!!今、血まみれなのも両腕と内蔵がなくなっちゃったのもアタシのせいなんだよ――しかし、言葉は音にならず、地下街の湿った空気を震わせたのは、別の言霊だった。
「うん、これからイーロン。ね、早くお風呂入った方が良いよ。凄い匂いだよ。」
兎狩の黒装束は汚れが目立ちにくかったが、アシの周囲に充満する血の匂いが彼が血まみれであることを告げていた。ツキはおどけて両手の人差し指で自分の小さな鼻を押さえた。アシは一瞬だけ、ツキの愛くるしさに見とれて、赤い瞳と唇から眼が離せなくなった。彼は精一杯の深呼吸をしてから、肩をすくめて、自分の部屋のドアノブに手をかけた。が、思い付いて振り返り、アシはツキに話し掛けた。
「あのさ。後でイーロンにいくよ。面白モノ見せてあげる。」
「なに?」
「世界を上書きするような面白いものだよ。」
「なんじゃい、そりゃ?」
ツキは意味がわからず白い眉を軽く寄せながらも、軽く手を上げて掌をにぎにぎして了解の意思表示をした。まっ白い肌と髪の彼女は、そのまま振り返りネオンに照らされながら歩いて行った。割れた天蓋から振る未制御の雨が地下街の風景を滲ませて、やがてツキはその中に溶けていった。アシはそれを見届けてから、部屋へと向かう。先程握ったドアノブが血でぐっしょりと濡れていたが、アシの心には僅かなさざ波すら立たなかった。