3.ツキは黒い海に浮かぶ。
ふるさと。
古い古い曲。ここでは一日の区切りに流れる曲だ。
サイレンの代わりに街中のスピーカーから流される。ウエアラブル端末やwebの何かを使うのではなく、アナログ有線の街頭スピーカーを使用して流されている。真偽は判らないが、その方がトラブルが少ないとかなんとか。
今、地下街――このツキが住む巨大なアパートを含む地下都市はニシキと呼ばれていた――にはふるさとのメロディーが響いていた。
ツキは聞き飽きたそのメロディーを聴きながら、気づかずに口ずさんでいた。ツキは狭いアパートで窓の桟に腰掛け、半身を乗り出して窓の柵に肘を突いていた。
彼女はどこかつまらなさそうで、赤い下唇が少し突き出ている。ツキは安いウィスキーを煽る。深く鋭い香りを持つ液体が喉を転がっていく。
彼女の仕事終わりはいつもこうだ。歩いて三十分ほどのイーロンから帰宅するとシャワーを浴びて、食事も取らずにウィスキーをダブルで一杯だけのむ。つまみも食事も取らない。他のアルビノ達と同じようにツキもまた食事に興味が無いのだ。
ツキが少し酔いながら見下ろすのは沢山ある地下街の中庭の一つで、地下街を縦に深く深く貫いている。
簡単に言ってしまうと、地下街は一昔前のショッピングモールと似た構造だった。異なるのはその規模と商業施設の外側を取り囲むように住居や公共施設が配置されていることだ。
中心街から横に伸びる細い路地に入ると一般人が住む区画がありそれを過ぎると、怪しげな人物がうろつく路地や貧乏人が集まって暮らす長屋に繋がっていく。過去にあった地上の街と同様で、地下街も中心部からグラデーションを付けて貧困層が拡がりそれと供に治安も悪くなるのだ。
最外周部にはお金を持たない人々が生活していて、そこでは人々の命になんの価値もなかった。一掬いのお粥の為に他人の命を奪う事さえある。
(シングル住まいの金持ち連中さんは、どう思ってるんだろ?)
ツキは、街の人々から断絶された楽園で生活している支配者層のことを想像しようとしたが、縁がなさ過ぎて想像できなかった。
実際の所、この巨大なアパートには一棟あたり数万人が住んでいる。この地下街と呼ばれる地下都市は百棟のアパートで形成されているので、全体では数百万人規模の生活圏を形成していることになる。
本当の支配者層は十名程度で、その十名で地下街の富の九十九パーセントを所有しているという特種な存在であるため、ツキに想像できなくても当然だった。
この中庭の底にはツキが想像することも出来ない様な狂った金持ち達が淀み漂って、浪費に浪費を重ねているのだ。その暮らしは、ツキ達上層階のニンゲンが伺うことの出来ない別の世界線に存在している。
ツキはその権力者達が住まう本当の中庭が見えないかとネオンLEDがうるさい空間を見下ろしていた。勿論、最上階に住むツキの部屋からは地上にある真の中庭の様子は見えなかった。
距離もそうだが、中庭は地上迄続いているのでは無く、途中で何度か物理的に区切られている。しょっちゅう頭のネジの足りない上層階の連中が飛び降りたり、汚物を投げたりするので、それは当然の対策だった。
そんな訳で、今も中庭の底は完全な闇に沈んでいた。それでも、中庭の周囲の回廊はネオンLEDが賑やかに彩っているので、中庭はそのネオンLEDの輝きで垂直に立ち上る虹のトンネルのようにも見えて、ツキはありもしない希望を感じてしまう。
ツキはウィスキーを飲み干し、部屋に引っ込もうとした。ふと、彼女は空を見上げた。彼女の頭上十メートル程上にはこの地下街の天蓋があった。
落書きだらけのコンクリート製の天蓋とアパートの屋上が複数の螺旋階段で繋がっている。異形が支配する地上へと繋がる階段だ。それは地下街のネオンを反射して揺らめき、一般人が決して出ることの無い地上へ、おいでおいでと誘っている。
地上と地下街を区切るシャッターに思いを馳せたツキはしかし、昨晩の異形を思い出し、ぴしゃりと窓を閉めた。ニヤンさんの教えの通り、「ふるさと」が鳴り終わる前に窓を閉めて鍵をかけた。
グラスは桟に残したまま、彼女は明かりも点けずに部屋着も下着も眼鏡も脱ぎ捨てて、真っ黒なシーツに包まれたベッドに倒れこむ。
血の色の瞳を大きくしてLEDが埋まった天井を見上げる。明かりは点けていない。窓の外の毒々しいネオンLEDの明かりは遮光カーテンに阻まれて、ツキの部屋は完全に闇に沈んでいる。
色素を持たないツキの瞳は日の光に弱い分、暗闇を正確に把握できた。彼女にとっては暗闇の方が落ち着いた。光が届かない暗闇では月が輝くことはなく、だからこそ、自分に素直でいられる。
彼女は、裸のままシーツも被らずにだらしなく万歳をする姿勢で、天井を眺めていた。色素を持たない痩せた身体が、暗闇に、黒いシーツの海に浮かび上がり漂っていた。
そんな彼女のことを明かりのない天井は宇宙と等しい広さを持って迎え入れていた。
(ん――……、はぁっ。)
ツキはベッドの上で大きく伸びをして、一気に息を吐き出した。それと供に過去が彼女の中に押し入ってきた。ツキが全てを失ったあの日の記憶だ。母のかすれた優しい声がリフレインする。
(――大丈夫。暗闇に居れば異形は現れないの。異形は日の光無しには生きられないから。ツキ。お母さんと一緒に居ましょうね。夜が来たら、起きて食べ物を探しに行きましょう。貴方は異形とは逆で、日の光に弱いのよ。日を浴びてはだめだからね。ねぇ、ツキ。これから貴方には沢山の事が起こるのよ。ねぇ、その時が来ても、お母さんは後悔しないわ。ね?覚えておいて。お母さんは後悔しない。お母さんは充分に幸せだったの。)
ツキは物心ついたときには既に母親――名前はベルソマールと言った――と夜の中で暮らす生活だった。父親のことは何も話してくれなかったが、そもそも、二人だけの世界には父親という認識さえもなかった。
このことにツキが悩むのはもっと、ずっと先だ。
でも、ツキの記憶は執拗に繰り返し彼女に囁きかける。彼女の脳内に引き裂かれたシャッターが現れる。分厚いシャッターは引き裂かれて、風に靡いて、繰り返し、地上の光りを地下に供給した。それはとても暖かだった。その光とぬくもりの記憶が最後の一日を鮮明に呼び起こす。
彼女が記憶していない――父と母が出会った――故郷が何処かに存在していて、そこからツキとベルソマールは巨大な地下街を目指して旅を続けていた。
片眼といくつかの指、左足首から先が欠損しているベルソマールと未だ幼かったツキの旅は楽なものではなかった。寒く暗く苦しい旅だった。
しかし、彼女たちは長い旅の末に、地下にニシキが存在する廃虚となった都市に到着した。そこは地方都市の商業ビルが立ち並ぶ区画で、その何処かに地下に降りる螺旋階段が存在している筈だった。
ツキと母親はその明け方この都市に到着して、ビルの一室に隠れて、日中を過ごした。突然、母親に起こされたのをツキは記憶していた。丁度、日が沈む時間帯だった。
「ツキ!入り口が見つかったわ!すごく近くなの!行きましょう。」
ベルソマールの顔は半分が包帯に覆われていたが、地下街への期待で興奮して明るく美しく輝いていた。
ツキは目を擦りながらも、母親に促されるままリュックを背負い、ビルの外に出た。
ビルを一歩出れば周りには身を隠す物は何もなく、異形に見つかれば、そこで終わりだ。それでも二人は地上に出て走った。長い間、異形から隠れて逃げてその恐怖に耐えていたのだが、もう限界だった。
大通りを挟んで向かい側、百メートルほど先に、小さな男の子の手を引く夫婦が地下鉄への入り口のような愛想の無い構造物の中に降りていく所だった。
その構造物の先に地上と地下街を繋ぐ螺旋階段が有ることを理解していたベルは、目の前に突然現れたゴールに逆らえなかった。
安全な世界が直ぐそこにあるのだ。
彼女たちは危険を冒して走った。ツキは急ぐ母親に置いて行かれないように、足手まといにならないように必死で走った。途中、つまずいて転びそうになるが、何とか走り続けた。汗をかき、息を切らして全力で走った。異形に見つからないことを祈りながら。
しかし、ツキは命がけのその瞬間について、恐怖では無い別の記憶が強く残っていた。ツキはこの時、初めて日の光の中で行動したのだ。彼女は夕焼けで世界が赤く染まっていたのを強く覚えていた。そして――。
(ああ。あったかいな。)
夕焼けの日の光の温かみが彼女に強烈な印象を残した。
何か魂の琴線に触れる感情がわき上がった。この暖かな光は決して失ってはならないものなのだと直感した。太陽を見つめると眼を通して脳みその奥の奥まで光が届き、体中に力が漲るのを感じた。
今、正に全ての防御壁を開放してシャッターを開き地下に降りようとしていたその見知らぬ家族は、急に現れたツキと母親の姿を認めて躊躇いつつも、彼女たちを地下街へ招き入れようとシャッターを閉じるのを少しだけ待った。
――そして、ツキは躓いて転んだ。ベルソマールは悲鳴を上げた。
ツキの眼鏡が外れてアスファルトの上で踊った。周囲に異形は現れていない。まだ、間に合うはずだ。
ベルは叫んだ。
いつも冷静で、何事にも動じない彼女だったが、この時ばかりは、動揺し叫んだ。周囲に異形の気配は無かった。それでも、ベルは叫んだ。
「ツキ!起きて!早く眼鏡を――。」
その後の事ははっきりと覚えていなかった。鋭い爪や叫び声、血と内蔵と骨。赤く染まる空と沈む太陽。
全ての映像と音はミキシングされて非可逆点を超えて、もう元には戻らない。
ツキはその時の記憶を再構築できなかった。記憶に残っているのは、螺旋階段の下から地上を見上げていたことだった。
周囲にはベルソマールの内蔵や骨、砕かれた頭蓋と頭髪が散乱していた。勿論、あの家族の内臓も一緒にある。ツキは血が太陽の光と同じく暖かだったのを覚えていた。
見知らぬ少年は、片腕を失ってもう暫くで死にそうだった。ツキはまた、地上を見上げる。引き裂かれて風に靡くシャッターが、波のように揺らぎ踊って、その奥に拡がる――その瞬間に日は沈んだ――夜空を混ぜ返していた。結局――長い旅の果てに、ツキに残されたのは、彼女自身と――片腕を失った少年だけだった。
「俺、アシ。よろしくな。」
数日後、両親と片腕を失ったその少年はツキにそう自己紹介した。彼はツキとその母親について何も言わなかった。
「お前達が現れなければ、俺たちは死ななくて良かったのに。お前が死ねよ。」
――とか。彼は恨み言を言わなかった。多分、彼の全ての昏い感情は異形だけに向けられているのだろう。彼の行動がそれを証明している。
以来、ずっと、そうだ。今でも。
ツキは地下街百階の何もない寝室で、ため息をついた。ウィスキーの香味が鼻を抜ける。昏い室内の隅々まで彼女の目は受け止めていた。何もない、部屋。彼女はため息を飲み込んで呟いた。
「オヤスミ。」
そして、彼女はいつも通りに眠りについた。これで、次の「ふるさと」が流れるまでは、彼女は暖かく危険の無い夢の中だ。
「――せめて優しい夢を。」
彼女以外、誰も居ないその部屋で、眼鏡のめーたんの優しい声が答えた。ふと、彼女は気付いた。
……そっか。めーたんこそ、あたしに残された家族なんだ。