17.ミンナダレカヲコロシタイ。
地下街の至る所で殺しが行われていた。ヒトを殺す異形。異形を殺すヒト。ヒトを殺すヒト。全ては犯されて略奪されていく。ツキはその狂乱の地下街を駆け抜けていく。血に染まった下着姿でツキは駆ける。彼女は強力な下肢で地下街のコンクリートを破壊しながら加速していく。九つの眼がフィラメントの光を反射して赤い筋を残す。裂けた口、牛刀状の爪。狂ってしまったニホンを体現するツキは、全身で藻掻き走った。角を曲がり階段を上りドアを開けて、血まみれの地下街の中を悲鳴の様な速度で走り抜ける。
――沢山、死んでる。
湧き上がる感情を放置して、ツキは走る。路地の闇と中庭の光を貫いて。ツキの視界は繰り返し明滅し、速すぎる明滅が色の意味を奪う。時間が不明瞭になり、瞬く世界はツキの呼吸だけで満たされていく。熱い空気を飲み込む喉の音、肺が膨らむ時の乾いた摩擦音、そして鼓動。悲鳴や破壊音は消えて、ツキが発する音だけが残り、世界を包んでいる。どれだけ走ったか、何処を走ったか、ツキには判らなかったが、身内を駆け巡る狂気に突き動かされて走り続けた。
唐突に――ツキは屋上に到達した。焼き付くような光の中で何十もの異形がその狂気に彩られた姿をさらしている。光を浴びたツキは心臓が大きく拍動して、活力が無限に湧き上がってくるのを感じた。彼女は屋上を見渡す。背中に発電機を仕込まれたカバの異形や脊髄から照明の支柱が生えている猿の異形、皆苦しそうに汗を流していた。彼らも突然現れたツキを見つめる。それらと目が合ったツキは一瞬だけその瞳の奥に潜む知性を掘り起こして、感情を読み取ろうとした。しかし、その奥に何があるのかを理解していたツキは、引きちぎる様に視線を外して、再び走り出した。
「う!ああああああっ!」
ツキは叫び、飛び上がった。真っ白い身体に血が赤い。ツキはカバと発電機の異形の背に着地して、巨大な発電機を細い両腕で掴むと、一切の迷い無くそのまま引き抜いた。カバは血と油を撒き散らして、苦痛の叫びを上げながら爆発、絶命した。ツキは大きく跳躍して、猿の異形を踏みつけて潰した。赤黒い血が溢れ出す。ツキは猿の悲鳴を無視して踏み付けながら屈んだ。次瞬、彼女は弾ける様に飛び上がり、異形の群に突っ込んだ。鋭い爪で何もかも切り裂いていく。血が飛び散り、オイルがばらまかれて炎上する。地下街の九十八棟の屋上は爆発と黒煙に包まれ、光と闇にもみくちゃにされていた。ツキは屋上のコンクリートの上を埋め尽くす兎狩や異形の死体を踏みつけて、暴れ回った。血と炎と悲鳴と死体が溢れて、混ぜ返されるその屋上でツキは叫びながら命を奪い続けた。その命の中には自分と同じ知性があることを知りながら。殺して殺して殺し続けた。そしてついに、カバの異形も猿の異形も全員――死んだ。ツキは何十もの命を奪ったのだ。屋上には荒く息をするツキだけが立っていた。全てはツキが殺して奪ったのだ。屋上は発動機が引き起こした火災がもたらす光と闇で揺らいでいた。その世界でツキだけが血の女王として君臨していた。しかし、全ての発動機が止まり、疑似太陽光を発するフィラメントの光が消えて元のまぶしく無限の色彩を放つネオンLEDの光だけが地下街を支配し始めると、ツキの身体から、急激に力が抜けていった。ツキが見下ろすと強靱な脚は失われ、見慣れた痩せた白い脚が震えていた。恐らく、光が失われて異形からヒトに戻ったのだろう。
――沢山、殺しちゃった。
その後に続いた感情を彼女は言葉に出来なかった。思考する事が出来なかった。うねる様に渦を巻き伸び続けるその感情を言語化出来なかった。この時のツキの感情は感情のまま湧き上がり、伸びて、何処かに去って行った。少しの間を置いて、片方のレンズが失われためーたんがキラリと光り、彼女に告げる。
「さぁ、コレで良かったのです。今日の所は。貴方は決断し、行動した。この行いの正誤が判断されるのは今日ではありません。」
ツキは返事をしない。イエスともノーとも言えなかった。めーたんは現実的な話に切り替えた。
「――ツキ。いずれにしてもまずは隠れてください。先程、七十九階の隔壁が開放されました。先発隊のダダが五分後にはここに到着します。彼らは本当の兎狩です。ツキが異形だと知れば、攫われて拷問にかけられます。彼らは強く、狂っています。甘い相手ではないですよ。」
血まみれのツキは返す。
「正体がばれなくても――。」
そこまで発して、ツキは異変に気付いた。血まみれの下腹部から何かが突き出していた。兎狩が使う刀、野弧刀だ。ツキが振り返り見下ろすと死体の臓物の沼に若い女が身を隠していた。突き出された腕には刀がしっかりと握られている。ツキは血を吐いて倒れた。ヒトの姿の時は人でしか無い。野弧刀の一突きは致命傷だ。
「……ふ、ふ。死ね。死ね。異形なんて、死ね。死ね死ね死ね死ね死ね――。」
左腕と顔の左半分を失いながらも死なずにいるその若い兎狩――トリスだ――は野弧刀をツキから引き抜いた。逆毛がツキの体内でぽきぽきと折れて、傷口掻き回して残留する。
「いっっつたぁああい!」
ツキは叫ぶ。苦しむツキを見てトリスは大声で笑い、刀を振りかぶった。ツキは立ち上がり、トリスに飛びかかろうとするが、死体の内臓に脚を取られて、転倒した。トリスは野弧刀を突き出した。ツキは素早く身を捻ったが躱せずに、野弧刀が臍に――そこに穴があるかのようにすっと――深く突き刺さった。ツキは野弧刀の逆毛が掌に突き刺さるのも構わずに両手でトリスの刀を握りしめた。トリスは笑いながら野弧刀を揺すり捻る。
「あっ!あぁぁあああっ!」
ツキは血を流しながら、叫んだ。苦痛で手が刀から離れてしまう。トリスは笑いながら野弧刀を揺すり引き上げていく。臍から胃に向けて切り裂いていく。
「あっ!あ!あ!あっ!!」
ツキは意味不明な叫びを上げて痙攣する。身体を仰け反らせて血を吐いて震えた。トリスは笑い叫ぶ。
「あああははははははははっ!!ねぇ?痛い?痛いの?ねぇ、教えてよ!わかんないよ、叫んでるだけじゃさぁ!」
トリスは一気に野弧刀を引き上げてツキの腸を引き裂いた。ツキは盛りのついた動物のような悲鳴を上げて痙攣した。四肢が意思とは関係なく暴れる。トリスは快楽の極致に達した。彼女の中には最早、異形への恨みなどなく、単なる殺戮の渇望が満たされていく快感だけが拡がっていた。彼女は狂っていた。
「ねぇ、次はどこがいい?心臓?それともその綺麗なか――。」
トリスの言葉はそこで終わった。頭部が破裂して吹き飛んだのだ。血を吹き出しながらトリスの身体はステップを踏むようにくるりと回ってから倒れこんだ。トリスの頭部を打ち抜いた男は銃を下ろした。黒づくめの装備を身に纏ったその男は訓練された正確で慎重な足取りでツキに近づいた。男はトリスとツキの様子を確認してから、何処か他の場所に居る指揮官に報告する。
「――第九十八棟の屋上の異形は全滅してますね。ついでに兎狩達も。一般人が一名だけ生き残っています――が、もうじき死にます。取りあえず、ここは撤収して――?」
その男――第六十九番隊隊長のダダだ――は、報告を中断した、彼はゴーグルとマスクを外して死にかけたツキを観察する。ツキの瞳を指で開いた。彼がライトを当てると赤い瞳が鮮やかな光を返す。
「ああ。適応者ですね。こいつ。」
通信機の向こう側、遠く隔壁の奥にいる指揮官ウラルは返す。
「はっ!いいねぇ。お前は直ぐに引き返せ。そいつを連れ帰って治療しろ。生き残ったら俺のオモチャだ。死んだらバラして標本だ。壁に飾ろうぜ。」
その後はいつもの狂った馬鹿笑いが続いたので、ダダは忍耐強く、ウラルが満足するまで待ってから、了承したことを告げた。ウラルは、別人のような落ち着きで、ダダに状況を伝える。
「――で、だ。今回の異形の襲撃は、地上と直接繋がっている第三区画以降全ての区画に同時に同様の手法で行われた。千体以上の異形の襲撃だ。今後、同様の――疑似太陽光を装備した部隊の――襲撃が繰り返し発生するだろう。つい先程だが、第一隔壁前の脆弱な階層を維持するのは不可能、と判断された。我々は第三区画以降、第九区画までの全ての八十階層以上を放棄する。第九区画の作戦のゴールは地下街に持ち込まれた全ての疑似太陽光発生装置の破壊だ。それが完了したら撤収しろ。作戦には民間人の救出は含まれない。以上!楽しんで来いよぉ!」
言いたいことだけ言うとウラルはダダの回答を待たずして、回線を切った。ダダは、軽く息を吐き出してから、彼女たちに意識を戻した。下着姿で下腹部から鳩尾近くまで引き裂かれ、血と内蔵を溢れさせているアルビノとそれを嬲っていた兎狩を見下ろす。兎狩は完全に絶命しているが、アルビノの方は意識を失い、痙攣している状態――まだ生きている。ダダはウラルの最初の指示を実行に移す。腰に付けた応急治療用の機材を手際よく並べながら、ダダは独り言のようにツキに話し掛けた。
「ま、運が良ければ助かるよ。あーでも、死んだ方が楽かもね。」
ダダは冷たく笑ってから続ける。
「――なぁ、兎狩《俺たち》は異形を憎み殺しを重ねる内に皆狂ってしまうんだ。ヒトに限りなく近い異形を殺すことに慣れて、気付いた時にはヒトを殺すことに何の抵抗もない。そりゃそうだよな。動物の身体に裸のヒトの部品がついているんだもんな。異形を刺すのもヒトを刺すのも同じだ。いつの間にか、ヒトを殺すことさえスポーツ程度に考えるようになっている。俺もそう。」
ダダは慣れた手つきで止血用のムースをツキの体内に充填した。ツキの身体が大きく痙攣する。ダダは気に留めること無く作業を継続し、開いた傷口をテープで塞いだ。最後に痛み止めや心臓を無理矢理動かす注射を打ち応急処置を完了させた。
「まぁ、何しろ、異形は元々、ヒトだったらしいし、当然っちゃ当然なんだけどね。魂を改造されて、身体がおかしくなったんだとよ。身体を改造されて心をオカシクする話ならアニメで沢山あるけどね。逆なんだってさ。ふはは。おもしろいよね。」
そこまで話したところで、彼の部下が屋上に上がってきた。ダダは機械的に指示を出す。
「遅いぞ。ボディバッグにこいつを詰めろ。持ち帰って治療する。死なすなよ?コレはウラルの指示だ。後、運びやすそうな異形も二体ほど回収しろ。追加分はいつもの実験に回す。俺は少しだけ地上を調査する。回収は二名で実行だ。回収班は準備でき次第、直ぐに出発しろ。残りは疑似太陽光発生装置の破壊だ。完了次第、個別に帰投しろ。以上。」
彼ら七十九階層以下の兎狩は完全に統率された軍隊だった。八十階層以上の兎狩のようなママゴトとは違った。彼らは狂って自堕落ではあったが、鍛え抜かれた兎狩だった。彼らは音も無くチームごとに散開してそれぞれのミッションを遂行する為にLEDがつくる冷たい影の中に消えていった。