1.彼女の部屋で
彼女――名前はツキと言う――はその赤い瞳を開いた。赤い瞳を白い睫が縁取っていた。体温を表現しない透き通るような白い肌は美しさと不気味さの狭間を刻んでいる。髪も、白い。
彼女はいつも通りにアパートの一室で目覚めた。何もない部屋でベッドから半身を起こす彼女から黒いシーツが落ちて裸体が顕わになる。血管が透けて見える。彼女は枕元の眼鏡を取り、掛けた。血の色だった彼女の瞳が幾分か和らいだ。
彼女が生活しているのは百階建ての兎小屋の様な部屋が詰まった――しかし、超巨大で全てが「地下」にある――アパートだ。最上階にある1DKのその部屋は狭く、でも、充分に恵まれていた。
彼女が眼鏡をかけると同時にいつものメロディーが流れた。新しい一日と夜の始まりを告げるそれは、懐かしくて古い旋律だ。
ふるさと。
聞き飽きたメロディー。脳内でリフレインされる歌詞。
彼女は両手を上に突き出して、猫のようにしなやかな伸びをした。大きなあくびをする口内には同じく猫のような愛らしい犬歯がつるりと光っていた。寝癖エアリーなショートボブが小さな頭部をまあるい満月のように見せていた。
地下街のネオンLEDが彼女の色のない頭髪を、華奢な身体を輝かせていた。緩やかな身体のラインが美しい。自他の境界を様々な光が縁取っている。
窓から差し込むその街――百階建てのアパートは百棟あり、それらで一つの街を形成している――の下品で素直な色彩だ。
彼女は尿意を感じ、裸のまま狭い廊下に出た。寝室兼居間の部屋の外は細い廊下になっており、右にキッチン、左にトイレがあった。正面はそのまま玄関だ。彼女はトイレの照明を点けてドアを開けようとして気づいた。夢の中で口の中に拡がっていた味、その香りが廊下に充満していた。
廊下の明かりを点ける。床は血で溢れ、玄関のドアは開いていた。
そこには太った裸の男が満面の笑みを浮かべて立っていた。ツキは悲鳴を堪える。裸の男は、豚の頭部を持つ異形だった。下半身――腰から下の器官――は全て五人分ありそのどれもが血で濡れていて、その滴りから被害者は五人では無いと想像できた。
その異形はツキに襲いかかろうとしてしかし、身体の自由が効かず、妬ましそうに何事かを早口で呟いていた。ツキはゆっくりと部屋に引き返しドアを閉めた。勿論、それで何かが解決するわけではない。
異形はヒトを犯し喰らう。
ふるさとのメロディーがゆっくりとフェードアウトしていく。異形が支配する昼が終わり、ヒトが生活する夜が始まったのだ。異形は日中、日の光の中では強靱で素早いが、夜の闇の中では不活性化する。
ずりり……。ずりり……。
ツキのアパートに侵入した豚頭の異形も夜の中でその力を減じていた。でも、活動が完全に停止するわけではなく、ゆっくりとしか動けないが、その膂力は――ヒトを捻り殺す程度であれば――充分だった。
ゆっくり、ゆっくりその異形は進み、遂にはずしり、とツキの居る寝室と廊下を隔てるドアに身体を押し当てた。
「めーたん!兎狩を呼んで!」
ツキは叫んだ。彼女の眼鏡のフレームが七色に輝き答えを返す。
「はい。既に兎狩をコール済みですが、本日は詰め所を出払っている状態で、誰も応えません。兎狩が現れない場合は、残り四分三十七秒でツキは異形に捕食されます。」
「おおぉい!!」
すらりとした裸を晒すツキは間の抜けた答えを返す。眼鏡はそれに返事をせずに、黙ってカウントダウンを始めた。
ツキの視界の左下に残り時間が表示される。その間にも寝室のドアの軋みが大きくなっていく。ツキは何か異形と戦う武器になるモノを探したがウィスキーの瓶くらいしか無く、めーたんのコメントはこういう状況を反映してるんだろなとツキは思った。
眼鏡のめーたんに何か言い返してやろうとしたツキはしかし、寝室のドアが突き破られる騒音で目の前の事象に引き戻された。彼女の寝室に異形が侵入した。
既に日は沈んだ。異形がその活動を停滞させる時間帯だ。ここが広い運動場であればツキは余裕で逃げ出せただろう。
しかし、今は違った。唯一の出入り口である寝室のドアは打ち破られて、豚頭の異形が、腐ったようなぶよぶよとした身体で、出口を塞いでいる。
豚頭の異形は、何を想像したのか大量のよだれを零した。そのよだれには血と髪の毛が混ざっていた。音を立てて床を汚す。異形は早口で何かをまくし立てていた。ツキには聞き取れないし、そもそも彼らの言語はヒトには理解できていなかった。
ツキは異形の脇を抜けて廊下に逃げたかったが、太った裸の異形は大きく、細いツキであってもそれをすり抜けて廊下に出ることは出来なさそうだ。
地下街の毒々しいネオンLEDに同じく裸体を照らし出される二人はしかし対照的だった。
「残り二分。」
眼鏡は冷酷だ。ツキは焦る。窓から飛び出すことも考えたが、隣りの部屋の窓に手が届く距離でもないし、落ちれば軽く死ねる位の高さがある。
まぁ、死ぬ。
窓は実質的に行き止まりと等しかった。ツキは判断する。どれだけ可能性が低くても、この異形をやり過ごして廊下に逃げ出すしかないのだ。
自身の呼吸だけが響く世界に少しずつ異形の豚の呼吸が混ざり込んでくる。それと供に異形の身体もツキの部屋に入ってくる。居住空間と呼吸の混ざりに嫌悪を覚えるツキはそれでも拒否する術を持たず、ただ、その呼吸を耐えた。
「残り十秒。」
「ちょ!もう少し――。」
ツキはもう少し小刻みに時刻を教えてよねと思ったが、視界の左下にずっと残り時間が表示されていたので、クレームも付けられなかった。
(くそ!悩む時間は無いか!)
ツキは華奢な身体を精一杯引き絞って弾けるように突進した。白い肌が闇に踊り、赤い瞳が瞬いた。ツキは異形の背後に僅かに現れた隙間を目指して飛び込んだ。血と汚物に塗れた異形の下半身を掠めながらツキは廊下に躍り出た。
「よっしゃあ!!」
作戦がうまくいったツキは喜びの声を上げた瞬間に気付いた。
(あ。フクキテナイ。あーもー!いいや!)
彼女の決断は早い。
素っ裸のまま外に出ることになるが、背に腹は代えられない。ツキはそのまま外に走りだそうと姿勢を低くして――あの気持ち悪い異形はどうしているだろうか?――うっかり振り返ってしまった。
異形はこちらを向いていた。異形の後頭部にヒトの顔が付いていた。長い腕が五人分、異形の背中に生えていた。
何本かの手は棍棒のような形の強力なライト持っていた。その古いライトはLEDではなく、弱くしかし、暖かい光を周囲に投げかけていた。異形はライトで彼女を照らし出し、彼女が走り去るより早く、鷲掴みにして寝室へと放り投げた。ツキはベッドに激突する。
「――っつ!!」
ツキは声にならない悲鳴を上げた。そのまま跳ね返って床に倒れこむ。体中が痺れて身動きが出来なかった。おしりを突き出す形に突っ伏したツキはそれ以上、動くことも叫ぶこと何もできなかった。
異形の手が伸びる。異形は笑い、それの口から大量の涎が、血液や皮膚の付いた肉片がこぼれ落ちた。
「ゼロです。」
眼鏡のめーたんが宣言すると供に、異形の豚頭が切断されて床に落ちた。大量の血がツキの寝室の天井にぶちまけられて何もかもを汚染した。その、背後に人影。
「兎狩だ。異形は頂いていく。」
その兎狩は倒れこんだままのツキを見て少し心配したのか、彼女に声をかける。
「大した怪我じゃねぇだろ?必要なら自分で病院に行けよ。ま、部屋の方はアレだけど、それも自分で何とかしな。」
言い終わらない内に次々と黒装束の兎狩が彼女の部屋に入り込み、異形の身体を切断して、ボディバッグに詰め込み持ち去ってしまった。
誰も居なくなってからも暫く身動き取れなかったツキは裸のままお尻を突き出した間抜けな姿勢で、血と暗がりの部屋に佇んでいた。
最後に一人の兎狩が現れて、低い、優しい声をかける。
「ツキ。もう大丈夫だよ。周囲には異形は居ない。早く着替えてイーロンに行かなきゃ。おばさんにどやされるよ?」
ツキは幼馴染み――名前はアシといった――にお尻を向けたまま返事をした。
「……ふぁい。」
「お尻で返事しないでよ。」
優しく笑ってアシは部屋を出て行った。