1章
モンターグはほんの一瞬、一行読みとっただけだったが、文字は赤熱した鋼で刻印したようにあかあかと心のうちで輝いた
レイ ブラッドベリ「 華氏451度」より
何事にも言えることだが、身体は資本だ。
故に、公威は身体を徹底的に鍛えている。
毎朝ランニングを欠かさない。さらに取材も兼ねて総合格闘技も習っている。
今日も早朝からランニングを行う。
この時間はまだ涼しい。
とはいえ、1時間近く走ったので、さすがに汗をかいた。
制服に着替える前に、一旦シャワーで汗を流す。
制服に替えてリビングに向かうと、既に朝食が用意されている。
ご飯に納豆、塩サバ、野菜たっぷりの味噌汁。
「おはよう」と母の陽子が挨拶してきたので、公威も「おはよう」と返す。
「おはよう……」
寝ぼけまなこを擦りながら妹の歩実もリビングに現れた。
「おにい、新作面白かったよ」
「もう読んだのか」
「寝ようと思ったら通知が来るんだもん」
どうやら夜更かししたらしい。
「成長期なんだからちゃんと寝ろ」
「そう思うなら、あんな時間にアップしないでよ」
公威は「善処する」とうわべだけの答えを口にし、朝食に手をつけた。
私立宮脇高校。
進学実績はそこそこ、部活動もそこそこ、自由な校風が売りの私立高校。
私立なので学費は高いが、成績優秀者は学費が免除せれる特待生制度がある。
文岡公威が通う高校であり——本田沙耶香が通う高校でもある。
昼休み。
沙耶香は心あらずと言わんばかりに物思いに耽っていた。
昨日読んだ小説、「自由の戦士」が頭を離れない。
国家が成り立ってこそ個人の自由が保障されると考える帝国。
個人の自由が成り立つからこそ国家が発展すると考える王国。
二つの国を舞台に、帝国の軍人と王国の騎士がぶつかりあうストーリー。
面白いだけじゃない。
帝国と王国の戦いを通して「自由」について深く考えさせられる作品だった。
私もいつか——
「自由の戦士、読んだよー」
沙耶香の思考は、とある男子から発せられた聞き覚えのあるワードで中断された。
声の主は隣のクラスの朝山信長。
小柄で優男風の少年だ。
「相変わらず、タケの小説は思想というかメッセージ性が強いよねー」
どうやらタケと呼ばれる人物が「自由の戦士」の作者のようだ——そして、タケが誰なのかはすぐにわかった。
文岡公威。
いつも本を読んでいる変わり者。
精悍な顔立ちでそれなりに男前なのだが、浮ついた話も一切聞かない。
(よりにもよって文岡くんか……)
沙耶香は、公威に創作の指導をお願いしたいと思った。公威の小説の才能には圧倒されていたし、自分もいつか——と思っていたところだ。
しかし、公威との交流がこれまで一度もなく、どう話しかけたらいいのか分からない。
結局、この昼休みに話しかけることはできなかった。
チャンスは思いもよらない形で巡ってくる。
翌日の午後。
部活の練習を終えて昼食を食べた沙耶香は、自習をするために図書館に訪れていた。
学生の本分は勉強だ。部活や創作に打ち込むのはいいが、それはやることをやった上での話だ。
「うわ……いっぱい」
一目で席が空いてないないことがわかった。
図書館は諦め、別の場所を考える。
「マックかファミレスか……』
財布とPayPayの残高を確認する。
「……マックかな」
——この判断が分水嶺だった。
休日なのでマクドナルドも混み合ってはいたが、席は十分空いており——文岡公威がいた。
カウンター席に座って、コーヒーを飲みながら本を読んでいる。
思いがけないタイミングでチャンスが訪れた。
マックに行く判断をした過去の自分に感謝したい。
「よしっ……!」
このチャンスは逃すまい。
沙耶香は気合を入れて公威に話しかける。
「隣いい?」
ちょっと馴れ馴れしかっただろうか?
沙耶香が平静を装いながらも内心心臓をバクバクさせていると——
「俺になんか用?」
公威が本からは目を離さずに、されど遠慮なく踏み込んできた。
他にも空いている席はあり、この席でなければいけない理由はない。
もし、この席しか空いていなくてもカウンター席なんだからわざわざ声をかける必要はない。
ちょっと考えれば用があるのはわかる。
とはいえ、沙耶香としては不意打ちだった。
てっきり「空いてるよ」と返ってくるものだと思っていた。
「あの……その……」
金魚のように口がぱくぱくする。
言葉がうまく出てこない。
「じ、自由の戦士……よ、読みました」
何とか言葉を絞り出せた。
公威は自分のファンと分かったからか、小説から目を離しこちらを見上げてくる。
沙耶香のくりくりとした可愛らしい目と、公威の猛禽のような鋭い目が交差する。
「文岡くん、私を弟子にしてください!」
「…………とりあえず話を聞くからテーブルに移ろうか」
公威は小説に栞を挟んで、コーヒーを手に立ち上がった。
2人用のテーブルに移動し、沙耶香はキャラメルラテを注文する。
「で、俺の弟子になりたいって、どういうこと?」
公威は精悍な顔に困惑の表情を浮かべていた。
宮脇高校において、校長の名前を知らなくても本田沙耶香の名前を知らない者はいないだろう。
容姿端麗で成績優秀、そしてバスケ部のエース。
たまたま一緒のクラスになったが、基本的には自分と縁のない人間だと思っていた——その沙耶香が自分に弟子入りを志願してくるとは……晴天の霹靂もいいところだ。
「その…私、ライトノベル作家になりたくて……でも、うまく書けなくて」
「あー……なるほど」
やっと事態を飲み込めた。
公威は思案する。
正直に言えばめんどくさい。
他人の創作に口出すし暇があったら、自分の創作に集中したい。
とはいえ、彼女が勇気を振り絞って声をかけてきたのは、いつもの明朗な性格からは考えられない、しおらしい態度から感じられる。
(迷える後輩を導くのも先達の役目か……)
それに、人に指導することによって新たな知見が得られるかもしれない。
「分かった。引き受けよう」
こうして、文岡公威と本田沙耶香の師弟関係は締結された。