12 これでようやく終わり
「何で……僕じゃないんですか」
ぽつりと零れたその言葉は、橘さんの本音であった。
自分に覆い被さっている男の顔は、逆光でよく見えない。ただ、その瞳が暗く濁り、こちらに向けられていることだけは分かった。
その瞳が、私に突き刺すような視線を向ける。その鋭さに、私は思わず目を逸らした。
橘さんと出会ってから、彼は一編集者として私と向き合ってくれた。恋愛感情なんて持っていないと思っていた。作家である私を支えてくれたのも事実だ。
だが、彼の中にはどす黒い感情が渦巻きそれを私の前ですら隠し通し、押し殺してきたのだ。
彼は、自分の感情を隠すのが得意であったから。
「……秋世さん離してください。こんな事しても私は貴方を好きになんてならない」
「僕がどれだけ貴方を好きか、愛してるか知らないくせに」
「押しつけないで!それを私に押しつけたところで、私が貴方を好きになると思わないで」
私がそう叫ぶと、秋世さんは肩をすぼめ悲しげに笑った。
その顔を見て、胸が痛んだ。違う、本当はこんなこと言いたくなかった。私は、彼と作家と編集者という関係でいたい。そうでなくても、友人でもいい……そう思っていたのに。彼は違った。
彼が私に愛を望み押しつけるなら、私は彼を拒絶しなければならない。
だって、私は秋世さんの事をそういう対象として見れないから。それに、もしこの場で受け入れたら、きっともう戻れなくなる。
それは、嫌だった。だから拒絶した。
でも、それは間違っていたのかもしれない。
「僕は、貴女が好きだ」
「…………」
「初めて会ったときから、貴方に救われたあの日から……今は、貴方に出会い貴方の手伝いが出来るそれだけで幸せです。でも……もう、そんな幸せだけじゃ足りないんです」
秋世さんは苦しげに顔を歪ませ、私を強く抱きしめた。
―――――――苦しい。
彼に触れられると、心の奥底にある感情が揺さぶられる。それは、決して良い感情ではない。
これは、恐怖だ。
今まで、感じたことのない感情に、身体が震える。
そして、それに気づいた秋世さんはフッと満足げに笑う。
「震えてるんですか?可愛いですね」
「……離して」
秋世さんは、私の耳元で囁く。その声が妙に艶っぽくて、背筋がぞくりと粟立つ。
私は、どうにかしてこの状況から逃れようと身じろぎする。しかし、その動きを封じるように彼は腕の力を強めた。
「……ッ!」
「冬華さん……僕はもう待てないです。これ以上貴方に冷たくされるのも、意識されないのも……もううんざりなんです。僕を見て、僕を愛してください……」
泣きそうな声で言う秋世さんを見て、私は何か間違えたのかと思考を巡らせた。
エスタスだけでなく、イェシェィンまで愛に飢えていたのかと。
愛を知らないエスタスと、愛を求めたイェシェィン……私の、イヴェールの周りは本当に厄介な男ばかりだ。
彼女は魔性の女なのかと思うほど。前世の私だと言うが、絶対に違う。
そんな事ばかり頭に浮かび、私はどうしようもなかった。
「……なつ、め」
私は無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。
秋世さんのものになんてなりたくない。そう思ったときに、彼の顔が浮かんだのだ。
だが、そんな私の様子を見て秋世さんは乾いた笑みをこぼした。
「夏目?……ああ、彼ならここには来ませんよ。今日は大学のサークルで飲み会があると言っていましたからね」
「っ……」
私はその言葉を聞いて泣きそうになった。何故こんな目に遭わないといけないのか。
「泣かないでください。可愛い顔が台無しですよ」
そう言って橘さんは私の頬を撫でた。それが気持ち悪くて、私は身体を強張らせた。
「僕だけを見て」
「…嫌だ。助けて…夏目っ」
そう言った瞬間、部屋の扉が蹴破られるように開いた。
そこには息を荒げ怒りの形相をした夏目が立っていた。
「冬華っ」
部屋に入るなり、夏目は私を襲っていた橘さんを殴り飛ばした。
「…ッ」
殴られ床に転がった橘さんは夏目を睨んだ。
「如何してここに…?」
鍵はかけたはずだと、橘さんは血が滴る口元を抑えた。
それは簡単なことだ。私が昼間春音さんに渡したのは、橘さんの家の合い鍵だったからだ。
そして、だめ押しに夏目に会いたいと連絡を入れた。その結果がこれだ。
「……お前ッ」
「っ…たた……貴方はいつもそうですね。暴力で解決しようとして。ほんと、反吐が出ます」
壁に頭をぶつけたのか、頭を抑えながら橘さんは夏目を睨み付けた。
しかし、そんな睨みなど夏目に筈がなく、夏目は、着ていた服を私に被せると私を守るように前に立った。床に倒れていた橘さんを見下ろしもう1発殴ろう拳を握ったが、私はそれを制した。
夏目は気が済まないという様な顔で私を見たが、私は首を横に振った。
「橘さん…私は貴方に感謝してます」
私は、橘さんに歩み寄り彼の顔を真っ直ぐと見た。
彼の孔雀石の瞳は狂気で渦巻き濁っていた。見ていられなくなり私は目を細める。
「冬華さん……」
「…私は、貴方を愛していませんし、愛せません。ごめんなさい」
私はそう告げて、橘さんから離れた。
すると、彼は狂ったように笑い出し私と夏目を見た。夏目は私を抱きしめ、橘さんを睨み付けた。
「…そうですか…それでも僕は貴方を愛しています。これからもずっと……貴方だけを愛してる。冬華さん」
そう言うと橘さんは私の方へ手を伸ばした。私に触れる前に夏目がその手を叩き落とした。
「俺が、冬華を幸せにする。だから、もう二度と俺たちの前に姿を見せるな」
夏目はそう言って、橘さんに釘を刺すと彼は頭を垂れ、項垂れた。
私はそんな彼を見つめていたが、これ以上ここにいても仕方がないと思い、夏目の腕を掴んだ。
服は着直し、そうして橘さんを置いてそのまま玄関に向かい、靴を履いた。
外に出ると、先ほど降っていた雨はやんでおり満天の星空が私達を出迎えた。
(ああ、ようやく終わったんだ……)
イヴェール・アイオライトを取り巻いていた前世からの事件は、こうして幕を下ろしたのだった。




