父のウラの顔
つまり、こういうことらしかった。
父さんはこっそりと研究していた『創作の人物を実体化させる魔法』を使って自分で書いた小説のキャラ――特にヒロインがいる場合はそれを召喚することがあった。そうすることでより造形への理解が深まったり新しいアイデアを得たりしていたのだ。
しかし術者が死んだことでその魔法が暴走状態に。全ての小説のヒロインが本の中から自由に抜け出せるようになり、キャラを失った本は全部白紙になってしまった……と。
「信じていただけましたでしょうか?」
「いやいや……」
いきなり言われて、なるほどねと言えるような話じゃないだろう。
「いくら魔法使いだつっても、キャラを現実にするとか……。それこそおとぎ話チックだろ」
「ほ、本当なんですよぉ~!」
「そう言われてもなぁ」
疑ってかかる目をしていると、自称エシェロはみるみる半ベソ顔になった。それからやや頬を膨らませる。
「で、でしたら……! 騙されたと思って、やっていただきたいことがあります……!」
「えぇ~、騙されたくねぇよ……」
「騙しますっ!!」
とかなんとか言いながら、彼女は『空の誘い』を俺の前に突き出した。
「こ、これで私の頭を叩いてください……っ!」
「はぁ? いやいくらヤバい奴でも初対面の女の子殴るとかムリだろ」
「殴るまではいかないでほしいんですけど……。か、軽く、角でコツンッ、とやるくらいで……」
気が進まねぇなぁ……。下手なことして警察に駆けこまれたりしても最悪だし……正直もう帰ってほしい感あるし……。
けどエシェロの目はずっと真剣そのものなのだ。追い返して素直に引き下がる様子にも見えない。
「…………じゃあそのことで絶対に訴えない、って誓約書にサインしてくれるんなら、やってみてもいいぞ」
「うぅ、なんてしっかり者なんでしょう……」
渋々ながら致し方なし、と彼女は書面に拇印した。……さて、そこまでやるならこっちも付き合ってみるか。
俺は厚い本を手に取って、背表紙の角をエシェロの髪の上にかざす。
「はい、じゃあ行くぞ」
「ひぇぇ……お、お願いいたします……」
ぎゅっと目をつぶって身を縮こまらせるのを見ると、頼まれた側なのに罪悪感が湧いてくる……。さっさと済ませてしまうが吉だな。
そうして、『空の誘い』の角で彼女の頭頂をコツ、と叩いた。
――その瞬間、いきなり目の前を眩しさが覆った。
光を放つのはエシェロだった。より正確に言うなら、水に溶ける角砂糖のように彼女の体が散り散りになって、その欠片ひとつひとつが光の粒子と化している。そんな風だった。
「うおぉぁっ!?」
思わず目を庇った。その隙間から辛うじて見えたのは、完全に光になったエシェロが次々と本の隙間に染み込んでいく光景――。
そして眩しさが収まったところで目を開けると、今までそこにいたはずの自称エシェロは姿も形もなくなっていた。
「お、おい……まさか、マジなのかよ……?」
恐る恐る手元に残った『空の誘い』のページを開いてみる。
『空の誘い カミュワ著
神の園はどこにあるのだろうか?
敬虔な神のしもべならばそれは地上であると言うやもしれぬ。あるいは、地上の終焉のときにのみ姿を現すと言う者もあるだろうか。
それらは誤りである。
神の園は人間の頭の中にのみ姿を持つようなものではないと私は断言できる。
ならばどこにあるのか。その答えすら既に知悉している。
神の園、それすなわち、空にのみ。――』
文字が……戻っている。
最初から最後まで、物語の全部がシミひとつない文字で完結していた。その中にはやっぱり、何度も何度も繰り返して〝エシェロ〟という名前が登場していた。
「…………マジじゃん、どうすんだこれぇ……」
頭を掻きむしってなんとか整理をつけようとしていると、やがて本が勝手にページを送りはじめた。
開いたのは本編とあとがきの間に挿入された不自然な空白のページだった。覗き込むと、そこに徐々に挿絵が浮かび上がってくる。
体を反らして胸を張るエシェロの絵の横にセリフが浮かぶ。
『ほらぁ、言ったじゃないですかっ!』
「なに、こっちの声聞こえてんの? ……キモッ」
『そ、そんなこと言わないでくださいよぉ……。出ようと思えば出られますから……ねっ?』
バサッ!! ……と、ページから突如として腕が生えてきた。
悲鳴する間もなくバサバサッとさらにもう一本腕が出てきて、それから三次元のエシェロがまるで仄暗い井戸の中から湧いてくるみたいにして這い出てきた。
「よいしょ、と……。ど、どうです、これで信じていただけますか!?」
「信じる、信じるからその現れ方はやめろ!」
「自力で出ようとするとこんな感じになってしまいまして……てへ」
「てへじゃねぇんだよ怖ぇよ!!」
汗がダラダラ流れる。まだ動悸が止まない。入り方はいかにも魔法的だったくせになんで出るときだけゾンビみてぇになるんだよ……。
しかしこうなると、荒唐無稽なエシェロの話も信じざるを得ない。
……確かに、確認してみるとほとんどの父さんの小説は白紙になっている。きちんとした状態なのはおよそ人物というものが出ない魔法指南書ばかりだ。
「これを元に戻すため、本から出て行った登場人物を探せ、って話か……」
「そういうことになります。私にしてくださったようすれば、他の方たちも本の中に戻して制御できるかと……。か、勝手なお願いとは承知ですが、お父様と同じカミュワの名を持つデオ様にしかお願いできないのです……!」
なるほどね、とやっと言える。事情は理解してきた。ただ微妙に気になっているのが――、
「なあ、そのお父様ってどういう意味で言ってる?」
「え、え……それは、もちろんデオ様と私の生みの親、という意味で……」
「だよね……」
まあある意味間違っちゃいないし、それは別にいいんだけども……。
「ひ、引き受けていただけますでしょうか……!?」
閻魔の判決が下るのを待つみたいなカチコチの顔をしてエシェロは俺の言葉を待っていた。
「ふぅむ…………」
さてどうしたものか。
父の本となると、小説だけに限っても数十冊はある。一冊につき一人としても、そのキャラを全部捕まえるのはラクじゃない。
郵便運びの仕事もいつまでも休むわけにいかない。この俺の肩に、たくさんの人々の大事な手紙がかかっているのだ。
……もう少し試してみよう。
「エシェロ、訊いても?」
「な、なんなりと!」
「キミさっき、父さんが死んで魔法が暴走した結果、キャラが自由に本の外に出られるように――って言ってたな?」
「はぁ、申しましたね……」
「それってつまり、キミらは『外に出たかったから出た』わけだろ? だったら別に無理やり連れ戻さなくたっていいんじゃないの? 折角三次元でも生きられるんなら好きに生かしてやればよくないか」
そう言うと彼女はあからさまにギクギクッとした顔になった。
「………………」
サラサラと光の粒になってちょっと本の中に吸い込まれようとしたので、俺は慌ててエシェロの実家を奪った。
「逃げようとしてんじゃねぇよ!!」
「うぇぇ……正論ハラスメントです……」
父がそういう風に書いたのだろう、という出来すぎた顔を涙色に染めてエシェロはめそめそ言う。
「ほ、本の世界って限られたシーンの中でしか行き来できないから……どうしても、飽きてしまってえぇ……」
「同情するよ。こっちの世界で自由に生きられるよう祈ってるぜ」
「うぅぅっ、デオ様はいじわるです……」
そう言われてもそれが素直な感想だし。世界は広い、総人口が数十人ぽっち増えたところで困りはしないだろう。
それに、本が全部白紙ならこの家にあるのも躊躇わずに捨ててしまえる。こういうのをウィンウィンと言うのじゃないか?
「でも……や、やっぱり、今までにないくらい長い時間こっちの世界にいると……なんとなく、ここは私たちのための世界じゃないんだ、って思えて……」
「へぇ」
「そっそれに! ……私たちはお父様が書いてくださった素晴らしい物語の、栄誉ある〝ヒロイン〟なんです……!! 私たちがいなくちゃ、お父様の物語もこの世からなくなって――だ、ダメですそんなのっ!!」
今にも泣きそうだったエシェロはそう言いながら、顔にみるみる熱気を滾らせていった。
なんだか、思っていたより強情な子だな。『空の誘い』は一度だけ、半分くらいまで読んだが、そのイメージとちょっと違っている。
「う~ん、なんか感心しちまった」
「ほ、ほんとですか? えへへ……」
「つっても俺にも仕事があるしなぁ」
これでも郵便のお兄さんとして街の人からは結構好かれているのだ。穴を開けたくないのはその信頼に対してもだった。
やっぱり協力を約束はできなさそうだな……。
そう思って、それとなく表情に断りの色を出してみた。どうやらエシェロにもすぐにそれが伝わったようで。
「だ、ダメですか……」
「悪いけどな。まあ、うちの近くに探してるヤツがいるようなことがあれば手伝えるけど――」
その時、窓にピシピシと小石が当たるような音がした。見ると、ガラスの向こうにずんぐりしたカラスが一羽。
「おや、あれは……?」
「新聞売りの使い鳥だろ。この辺じゃカラスなんだよな、俺のとこはサギだけど」
「へえぇ~……鳥さんが売りに来るんですね! 私の国はすごい高空なので、鳥自体見るのが珍しくて……」
「ははぁ、なるほどね」
俺は窓を開け、カラスが足に引っかけた筒から新聞を一部取り、代金をあげた。カラスはそれを器用に嘴で拾うとそのまま次の家へ飛んで行った。
さて、新聞はエシェロを見送った後で読むか……。父さんが死んだときなんかは号外まで出て、それから何日も一面にカミュワの名前があったものだが、今日は果たして?
ちらっとだけ紙面に目をやってみた。
『書聖カミュワ――』
また名前が出ている。しかも結構大きな文字だ。故人のことでこう言うのもなんだが、やっぱり自分の父親がこれだけ取り沙汰される人間だと思うと嬉しいところもあって。
「エシェロ、ほら、父さんの記事が載ってるみたいだぞ!」
そう言って彼女に新聞を見せてみた。
「わあほんとですねぇ! ……え~っと、書聖カミュワ、裏――――」
と、そこで読み上げる口が止まった。
にっこりしていた顔がみるみる青ざめて、また申し訳なさそうなそれに逆戻りして。
「…………や、やっぱり……ヒロイン探し、て、手伝っていただいた方がよいかもしれません……」
「は?」
何のこっちゃ、と思うしかなくて首を傾げた。それからエシェロが差し出し返してきた新聞を読んでみて――、
『書聖カミュワ、裏名義発覚か!?』
ウ、ウラメイギ……?
『先日逝去し、魔法士兼作家として知られたカミュワ氏が裏名義を用いていた可能性が浮上した。しかも氏は多数の裏名義により正体を隠した上で、世にも卑猥な作品すら執筆していたというのだから驚きである』
はっ? 何? どういうこと? 何を言ってんのこの紙。
『さらに驚くべきは、氏直筆の原稿を持ち込みその事実を告発した人物が、その作品に登場するキャラクターを自称していることであった』
「…………エシェロ。なあエシェロ」
「ハイ」
「この話は、本当ですか?」
「……ハイ、本当、です……」
ビリビリイィッ!!
俺は新聞を破り捨てて雄叫びを上げた。
「あんのオヤジ何をやってんだああぁぁっ!?」
「ひ、ひぇぇ……。で、でもそのぅ……そちらも結構売れたんですよ……?」
「聞いてねぇよンなこと!!」
「うう、余計なことを申しましたぁ……」
光になって逃げていくエシェロを傍目に、俺は爪が食い込むほど拳を握り込んだ。
「つ、捕まえなきゃなんねぇ……!! そんな本から出てきたヤツなんて、存在そのものが父さんどころか一族――いや、俺の恥でしかない……ッ!!」
しかもこの事実を一から百まで事細かに知ってる人間が一人のみならず何人、何十人いるとも知れないのだ、もう仕事がなんだのと言ってる場合じゃないんだよ!!
この話がつまびらかになれば、俺は一夜にして『魔法と書の権威の息子』から『エロ作家の息子(意味深)』にすらなりかねない、そうなりゃいくら真摯に郵便を運ぼうと変な目でしか見られなくなる!!
「――エシェロ」
『は、はいこちらに……』
ひとりでに開いたページの隅で、半分だけ顔を覗かせていた。
「この口の軽い文字畜生を強制送還しに行く……!」
『で……では、このエシェロにお付き合いいただけるんですか……!?』
挿絵がパッと華やいだ表情に描き換わる。
「ああそうだよ……全員元の退屈な世界にブチ込んでそのニセモンの声が二度と三次元空間に響かねぇようにしてやんだよ……ッ!!」
俺の怨嗟の唸り声が父さん――いや、オヤジの遺した広い屋敷に鳴り渡った。
『ひぇぇぇぇ…………』
挿絵が描き換わると、セリフだけ残してエシェロは見えなくなっていた。