第九紀・9821年 冬 -1
/Transmigration …vol.02
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ナハルは、転生した直後から──つまり赤ん坊のころから、自分の記憶を持っている。
赤ちゃんというのは一人では何もできない。
夜、お腹がすいても、排便しても、頭や背中が痒くて痒くてたまらなくなっても、自分で自分のことを何一つできない状態を余儀なくされる。その不快感は想像を絶するものだ。
その都度ごとに、この孤児院の大人たちの世話になり、ミルクを与えられ、おしめを換えてもらい、頭や背中を優しく撫でられ寝かしつけられた。
本当にたくさんの迷惑をかけてしまったと、ナハルは痛感している。
その恩返しとして、彼女は今日も修道女たちの手伝いを率先して行う。
大人たちはナハル・ニヴのことを奇妙な子だと思っていた。言葉を話せる時期になってもたどたどしい口調で意味不明瞭すぎる単語──「コンニチハ」「ワタシ」「ニホンジン」「テンセイサセラレタ」──を繰り返した(日本語など異世界では通じないのだから当然だが)。その時期はそれなりに不安視されたが、他の子どもたちよりも物覚えが良いことは確かであった。足し算引き算に奇妙な記号(アラビア数字であるが、それも異世界には存在しない)を用いた時も、いろいろと変なところが多く見受けられるという印象を持たれていたが、そういった幼少期の奇行もなりをひそめ、今では他の子らと同様に読み書きを覚える頃には利発で気立てが良く、何よりも優しく、大人たちの手のかからない立派な子であるように認知された。
五歳児とは思えないほど理解力に優れ、「遊ぶこと」よりも「学ぶこと」を楽しむ傾向が好ましく思われた。……日本語の通じない世界で、異世界の言語に習熟するために、彼女は必死になって勉強する必要があったとは、誰にも予想だに出来ない事情があったのだ。
他の子らの世話や仲裁を任せても良い結果を生んだ。彼女はきちんと物事の道理をわきまえ、不正を許さず、年長や強者に媚びず、年少や弱者をいじめることを大いに嫌った。……日本人の一般的な道徳観念を備えたナハルにとっては、至極あたりまえなことであり、良い大人であれば当然の判断でしかなかった。
それでも、問題がないことはなかった。
彼女は赤ん坊のころから悪夢に魘されることが多い子で、酷い時にはもはや発狂というほどに強烈な絶叫であった。何か怖い夢を見たのかと大人が紋切型に問いかけても、「なんでもありません。ごめんなさい」と震える唇で謝るばかり。……彼女が転生させられた経緯、その発端となった事故、生前の記憶が、彼女の悪夢の大半を担っていた。そのような事情を懇切丁寧に話したところで、異世界の人々に理解されることはないと心得ていたナハルは、謝り倒す以外の処方がなかった。
やっと掴んだはずの幸福──心から愛しあった相手──将来を誓い、未来を語り合い──夫と共にこれから築くはずだったもの、すべてを無為にされた。
どうして自分が。
何故こんなことに。
あの時に戻れたなら。
こんなことになるなんて。
彼は今、どうしているだろう。
そう思うごとに、彼女は枕を濡らし続けた。
(戻りたい……帰りたいよ……)
切実に思い焦がれ、憎悪と苦悩のあまり掌に食い込んだ爪で出血するほど拳を握った。
(返してよ……私の人生を……)
ナハル・ニヴの九年は、そうして過ぎ去っていった。
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集落はいよいよ冬の到来が本格化する。
純白に雪化粧する山々を眺めながら、ナハルは班の皆と共に、院長たちの今年最後の買い出しを手伝うことに。
このあたりの雪は冬になれば大人の背丈ほども降ることになるので、たいていの商店は売る品物が届かなくなる。今のうちに買いだめしておかなければ、いろいろと厳しい状況が起きかねない。食料の備蓄が尽きれば。薪が足りなくなったら。子供らが一斉に熱を出したら。コンビニや薬局で24時間年中無休に欲しいものが買いに行けるような世界ではないのが、この異世界だ。そんな場所で、ただでさえ貧しい暮らしを送っている孤児院では、最悪の事態にまで発展しかねない。やはり一日三食の食事で出されるメニューが、水っぽいスープと、二口で食べきれそうなパン切というのは、いろいろと察するのに余りある。不幸中の幸いというべきか、実際に人死にが出たことは、ナハルの見てきた九年間ではあり得なかった──と思った時に気づく。
(ああ、私のお母さん)
ナハルの母はどういう事情でかは知らぬが、孤児院の世話になって、ナハルを出産した直後に亡くなっている。
あれから人死には出していないと考えた方が正確だろうか。
(あのひとが、お母さん──)
正直に言えばピンとこない。
生まれて数分もしないで死別した女性よりも、まだ生前の頃の母の記憶の方が鮮明に映えるのだ。
無論、ものすごく悪い意味で。
(でも、あのひとの、お母さんの笑顔と掌は……良かったな)
この異世界で経験した数少ない良き事。
まぎれもない母の愛。ナハルを産み、紫の花の指輪を形見として残した女性。
彼女の指輪は、ナハルの首にネックレスとしてかけられ、いまも冬服の下で存在を主張してくる。
母が死の直前に言った言葉を思いだす。
(「やっと、会えたね──」「アタシと、あいつの、あかちゃん……」「アタシが、おかあさん、だよ……」)
異世界の言語を覚えるようになって、ようやくそう言っていたことを理解した。
あいつ、というのが、おそらくというまでもなく、ナハルの父ということになるのだろう。
だが、父親が誰で、どこでなにをしているのか、ナハルには知る術がない。
母と共に生活していたロースや院長も、詳細は知らないようだった。
(なにか事情があるのだろうとは思うし)
わからないことをわかろうとするほどの余裕は、今のナハルには欠片も存在しないのだ。
男と女の話だと割り切って考えることが、生前の記憶を持つナハルには簡単であった。
そんな昔のことよりも、今は目先のことが重要である。
(今年はいろいろと大変そうだな)
商人との交渉がヒートアップしていく院長と修道女たち。
ここで良い結果をうむことが、孤児院が春まで持つかどうかの瀬戸際となれば、必死になるのも当然である。
もちろん。院には国からの支援もあるにはあるが、王室と最後まで戦った旧帝国の領地ということで資金供与は乏しい部類に入る。人々からのお布施もあるにはあるが、寂れた寒村──街の規模にも届かない人口では、そこまでの額にはなりえない。
さらには院長が極度の〈魔法〉嫌いということで、国が直送してくる〈魔法具〉の類も、すべて使用することは禁じられていた。「〈魔法〉なんぞに頼るのはやめなさい」というのが、院長クローガの絶対的な主義主張。誰もが憧れる〈魔法〉の存在を、あの老婆は鬼か仇のごとく思っているようであった。
さすがに不思議かつ不審に思った修道女の一人が理由を聞いても、多くを語ってくれたことはない。
(それだけ、神様というのを篤く信仰している──って感じじゃないんだよね)
儀礼や作法が粗末ということはない。
神を信じているというよりも、自分が信じるものにまっすぐな人だ。
教会がおおやけには〈魔法〉というものを「神の摂理に反しているやもしれない」と疑念を懐いている派閥に呼応しているというのでもなく、本当に〈魔法〉というものを信じ切っていない印象が強かった。
これは噂であるが、院長の部屋には年代物の“剣”がいくつかあるらしく、『帝国の武人として名を馳せた』こともあるとかないとか。武人だったから〈魔法〉に頼るのを良しとしない性格なのだろうか。
院長の噂について、子供たちの間で囁かれているものが、もうひとつ。
『あるいは、〈魔者〉を討滅する〈勇者〉だった』──とも。
(元〈勇者〉──か)
ファンタジーでしか聞いたことのない職業だが、こちらの世界では実際に〈勇者〉と呼ばれる人間が存在している。
年長の子供たちや、修道女の話曰く、『〈勇者〉様は、奇跡の象徴である〈聖痕〉を身に宿し、神から与えられた光の恩寵の力でもって武器を振るう。人々を守護するために悪しき存在──〈魔者〉を駆逐し、殲滅する』と。
しかしながら、ナハルたちの住む地域では、実際に見た者はほとんどいないらしい。
ナハルは興味本位で、事の真相を本人に訊ねたが、
『さてね』
と肩をすくめられるだけに終わっている。
(何にせよ、強かな女の人っていうのは、個人的に嫌いじゃないな)
さらに言えば、あのひとが助産師役として、私をこの世界の母から取り上げてくれたのだ。感謝こそすれ、嫌う理由などひとつもない。
不動の姿勢で村の商人と真っ向から根切り交渉を満足げに終えた院長の闊達さを眺めながら、やや積もった雪をだるまにして遊ぶプレアと同班の子供たちに声をかけた。
「そろそろ戻ってくるよ」
荷車の上で監視塔を務めていたナハルの声に、慌てて立ち上がっていく子供たち。手の雪をはらって背筋を伸ばす。
老婆の漆黒のベールが寒風にたなびき、年月を積んだしわだらけの面に厳格な表情を彫刻した姿が、商店の扉を勢いよく開け放った。
「買えるものはこれで全部だね。さぁさ、荷物を持って。院に帰るわよ!」
大きな声で応じる子供たちと修道女の集団は、荷車に積んだ大量の荷を馬に牽かせ、手に手に荷物を抱えて家路を急ぐ。




