~ありし日の“二人”の夢~
一年十か月ぶりの更新
/Transmigration …vol.20
◆
気がつくと、どことも知れぬ診察室の光景が目の前に広がる。
診察をしてくれた年配の女医が、穏やかな口調で言ってくれる。
────おめでとうございます。ご懐妊です。
ああ、まただ。
またいつもの夢だ。
私は幾度となく、数限りなく夢を見る。
見続けてしまう。
あの雨の日。
事故に遭わず、“何事もなく”産婦人科を受診した夢。
車に轢かれ、クソみたいな神様転生なんてすることもなく、診断書や母子手帳などをもらい、夕飯の買い出し等をすませ、仕事から帰ってくる彼を、二人の家であるアパートで、待つ。
夕飯が万端整ったタイミングで、玄関のドアが開いた。『ただいま』と『おかえり』という、いつものやりとり。にやつく頬を懸命に押し固めながら、彼の上着と鞄を受け取る。
いつも通りお風呂を共にし、いつも以上に腕によりをかけたごちそうを振る舞う。『おいしい!』と子どものように笑う旦那を眺める私。食べ終わった皿の片付けを務める旦那を待ちつつ、ポケットにしのばせた今日の診断結果をもてあそぶ。
エプロンを脱いだ旦那がソファに座る私の横に並び、病院はどうだったかと問いかけてくる。
ここだと思った。
最近続いていた不調の原因がわかったと、実に神妙な面持ちで、深刻そうな声色で、いたずらっぽく彼に教える。
『妊娠した』と。
硬直する夫の横っ面に、さらなる一撃を打ち込む。
『子どもができたよ』と。
途端、テーブルに足をぶつけるほど飛び跳ねて喜ぶ彼。
思ってた通りの反応過ぎてびっくりする私。
虐待の痕で全身傷だらけの女を心から選んでくれた男に、私は泣き笑いながら、『これから大変だよ』と言い添える。
彼は朗らかに笑う。
『大丈夫』と、なんの根拠もなく宣う誠実な男が、力いっぱい私の肩を抱き締めてくれる。
『ぼくたちなら、きっと、大丈夫──』
とろけてしまいそうなほど甘い声が、涙の色で輝いていた。
彼の声の暖かさと誠実さで、目頭がつんと熱くなる。
けれど私は、そんな簡単に泣いてあげない。
昔からこのひとは、まっすぐで、正直で、世の中の怖さや厳しさとは無縁そうに振る舞って、こっちが心配になるほど純粋なやつで。
本当はそんなことないって判っているし、私と同じくらい親や家族に恵まれた人生ではなかったというのに、こんなにも良いひとで。
だから、私が、しっかりしないと。
彼を支えられるように、守ってあげられるように、強く、優しく、一緒に生きていたいと、そう思えた最初で最後の相手だから……
なのに。
私は死んでしまった。
彼を残して。
たった一人の家族をのこして。
この身に宿した命を……新しい家族を…………道連れに。
彼は今、どうしているだろう。
私が死んだら、きっと、たくさん泣くだろう。
うぬぼれではなく、彼はそういうひとだから。
できれば泣いてほしくないけれど、泣き虫な私の千倍くらい泣き虫だから。
事故の後、彼が私の鞄の中の妊娠検査キットを見つけたらと思うと、胸が凍えて砕けそうになる。
思った瞬間、見たくない光景が目の前に映る。
どことも知れぬ霊安室で、冷たくなった私の亡骸に縋りつく夫を、彼の姿を幻視する。
今まで聞いたこともない程の大声を奏でて、妻が死んだ事実をいやだいやだと拒絶し、幾度となく名前を呼び続けている、悲惨な姿。
──幻ではない。
彼は、
あの人は、
私の旦那様は、
そういうひとだから。
私なんかが世界の中心だと。
私と出会えたことは人生で一番の幸福だと。
恥ずかしげもなく語っちゃうほどのひとだから。
こんな汚い私を、……全身が虐待痕だらけのキズモノを、救ってくれた彼だから。
ああ。
どうか。
お願いだから。
私のことは、忘れて。
君なら絶対に、私よりも素敵なお嫁さんを貰えるから。
だから……もう、泣かないで。
あなたは、もう、泣かないで。
「ごめん……ごめん……、ごめん、……ごめんなさい 」
触れることのできない背中に手を伸ばし、感じられない体温を抱き締めながら、終わることない悪夢の底で、私はひとり咽び泣く。
◆
そこで夢の境界が曖昧になる。
◆
それは100年前の物語。
第九紀・9701年 冬の物語
二人の男の、戦いの、終局。
「────勝負、……あった、な」
崩れゆく城郭。
壊れていく大伽藍。
それら崩壊するすべての、中心。
四肢の砕かれた鎧。
割れた兜から零れる闇の一雫。
純白無比の“闇”……魔王が、ひとりの男を、心の底から賞嘆する。
「さすがは、当代最強、剣の王と呼ばれるに、たる──真の《勇者》だ」
城下においても、幹部たちの敗北や封印の報告があげられていた。この王城の要石にして、魔剣の極みたる生武器レギンも、鉄屑同然のありさまで転がっている。
ありとあらゆる魔術を統べ、すべての魔力を総括する“全魔の王”が、たった一人の人間に、完全敗北を喫していた。
勇者と魔王の血塗られた歴史に、またひとつ、巨大な白と黒の星が灯された。
魔王は悔し気というには澄明にすぎる音調で独語する。
「神の力──〈聖痕〉の力で強化したのは、自分の仲間の女たちに対してへの、ただ、一度だけ。
だというのに、この我を、ここまで完膚なきまでに打ちのめすとは、さすがというほかにない」
驚嘆して余りある事実。
歴代の〈勇者〉たちが身に帯びて戦う超級の戦闘手段──〈聖痕〉。
それを、魔王との戦いで使用せず、城下にて魔王軍幹部の元老級悪魔たちと戦う仲間たち──彼の“女”たちへの加護だけを願った。
結果、魔王軍は総崩れ。彼と彼女らの率いる人間たち──魔王討伐軍の矛は、確実に、完全に、魔王の命脈を絶った。
「白々しい真似はよせ」
だというのに。
勇者は事もなげに、黒い闇の粒子を指弾する。
「くそ堅苦しい口調しやがって。一緒に大陸を〈魔者〉退治しながら旅した仲間なんだ。
だから、いつもどおりに呼べや、『ニアラス』」
ニアラスと呼ばれた白銀の鎧の残骸──そのうちに凝る闇は、さもおかしげに嘆息する。
「……おまえは本当に、空気を読まんな、『イア』」
通称・剣王。名をイアラフトゥ。
それが、彼の名だった。のちにリーァハト統一王国を興す王──俗にいう『征翼王』──または『征欲王』とも。
聖剣の選定を受けたといういわれもなく、高貴なる血統の出自という証明もなく、ただただ、屈強かつ豪壮な傭兵団の団長として、大陸で跋扈する〈魔者〉退治を請け負ってきた兵。
イアは、崩れゆく魔王ニアラスの身体を見下ろしつつ、傭兵団の仲間である幼馴染が鍛えた“星剣”を、背中の鞘にしまった。魔王城の要石としての機能を有していたレギンが討伐され、城としての機能と形状を保てなくなった場が自壊し続ける空間に腰を下ろし、「よっこらせ」と胡坐をかく。白い紙巻の煙草に火をともした。
崩壊し、氷のごとく凍てつきつつある空間のなかで、その煙草は勇者の口元にのみ灯る、希望の光のようにも見えた。
イアは紫煙をくゆらせる。
「思い返してみりゃ、今回ほどキツい仕事はなかったな。これで世の中が平和にならないんじゃ、マジでやってられねえ。お飯の食いっぱぐれじゃねえか」
「ふふ。安心しろ。魔王である俺が封じられれば、少なくとも、人の大陸の災禍は遠のく。俺という極大の“魔”にあてられた人々も、少しは、ましになるだろう」
「だがよ。人は今後も“魔法”を使うぞ。いまの時代、いいや、この世界に生きる人間で、魔法の恩恵なしで生きていくことは、難しいを通り越して不可能な話だ」
イアが評する内容に、魔王は存在しない首……闇の微粒子を頷かせた。
魔王を打倒した英傑は未来を予告する。
「魔法を使い続ければ、魔力の汚染は拡大するのみ。そうしたら、遠からず魔王は復活する。これまで何百──いや何千回と繰り返されてきた歴史をたどるだけ。……くそ。やっぱりお飯のくいっぱぐれじゃねえか」
「…………そこまでわかっていながら、どうして、俺を、魔王を封じるという、役儀を負った?」
大損も大損だろうに。
魔王のことなど放置して、仲間たちと楽しく日々を過ごせればそれでよい──それが彼、イアラフトゥという男の信義であり信条であったはず。
普段は金に汚い、だが、女性関係では湯水のように金使いの荒い……奴隷にされた女を見ると、大金を積んで自分のところに引き取る傭兵団の長たる男は、魔王との激戦のさなかに負った傷の走る左の目元を微笑ませた。
「そんなの。『ダチのため』に決まってんだろ?」
「…………そう、だな。おまえは、そういう男だ」
空間がガラス細工のように罅割れる。
すでに、封印の刻限まで、残り僅か。
人の世を乱した魔王の居城が倒壊し、人心は喜びの輪を広げ、平和の賛歌が鳴り渡る──いつものように。
あきれ返るほど繰り返してきた行程をたどるべく、魔王──ニアラスは最後の力を振り絞るように、告げる。
「さぁ〈勇者〉よ。
お前の、勝ちだ。
おまえの、望みを、果たすがいい。
おまえが、その手に残された〈聖痕〉に、願いさえすれば、この人の世に、安息は約束される──」
それを聞いたイアは、不愉快げに赤い傷の走る鼻を鳴らした。
「〈聖痕〉による願望成就? ハッ。バカにすんな、魔王──いいや、“純白”のニアラス。
俺の願いは、俺たちの手で、必ず叶える。神様なんぞの手なんて、借りるまでもねえぜ」
そう言うとわかっていた魔王は、闇の粒子を塵芥のごとく微風に朽ち融かしながら、真に尊敬に値する人間を振り仰ぐ。
勇者は言い募る。
「100年かそこいらの安住なんざ、こんなちっこい〈聖痕〉なんぞに──神なんぞに頼らなくても、俺たちの力で築いてやるさ。人間さまをなめくさるなってんだよ」
闇の魔王は微笑う。
それでいい。
それが正解。
では──
「では、おまえは、何を望む──イアラフトゥ」
聖痕の力は奇跡の形象。
その手に宿る光の傷は、彼自身がいくら否定しようとも、保有者の望みを実現させ得る願望成就の機構であり機械だ。
望みさえすれば巨万の富を、永遠の悦楽を、絶世の美女も、思うがままだ。
だが、彼にはそんなものいらない。それに勝るものを、既に手にしている。
イアは天上を見上げ、煙草を手に考える。
「…………、ダチのために」
瞬間。
罅割れた空間を、清烈な輝きが満たした。
彼に残された最後の〈聖痕〉── 奇跡の一画が、まばゆいほどの光をあふれさせる。
イアは願う。
「〈聖痕〉よ。俺の友達の願いを叶えろ。
この“おひとよし”で、ずうずうしくて、いつまでも一人の女を追いかけてる、純粋で純情すぎる男の願いを、叶えてくれ──」
ばかなことを。
魔王にむかって、勇者の力を──〈聖痕〉の願望成就を託す勇者など。
「 はは は。 だめ だよ イア 」
魔王は暗澹とした様子で、無形の身体を崩していく。
「 そ の 願い は 叶わ ない 」
ほつれていく意識と言葉の中で、勇者は、友は、固く首を振った。
「……いいや──」
イアは強い口調で、魔王の残骸に手を伸ばした。
はじめて会った時のように──いつかの酒場のときのように──手と手を固く握りあう。
「──叶うさ、絶対に!」
だから待ってろと、そう告げる友の黒い右の瞳を見上げながら、魔王は勇者と別れた。
「あんたは絶対、夢をかなえるんだ。──あんたの“女”を、その手に取り戻せ──だから、それまで待ってろよ、■■」
名が呼ばれた瞬間、空間が断絶していく。魔王を封じる世界の法則が、彼を長き揺籃の檻に鎖される。
誰もいない、何もない、永遠停滞の淵の底へ落ちながら、“彼”は言う。
「 … … あ あ、 待 っ て る … … 」
闇色の涙が純白の鉄片に零れた。そのあとの言葉は紡がれなかった。闇の肉体が、空間の罅割れのうちに封じられ、閉じ込められる。
かくして、魔王は封じられた。
世には平和が、もたらされた。
・
ナハルは目を覚ます。
「──え」
少女は寝台から飛び起きた。
「……夢?」
夢にしては現実感が伴いすぎた。
まるで自分が、実際そこにいたかのような臨場感。
いったい全体、何がどうなっているのか、彼女にはわからない。
ナハルは夢の後半部を鮮明に思い出す。思い出すことができた。
「いまの、……魔王、さま、の?」
本当にあったことだろうか。
だが、それを何故、自分は夢に見たのか、理解が追いつかないでいる。
「まさか、これも」
聖痕とやらの奇跡。
思い至って見下ろすと、背中の長い髪の一本が神々しいまでの輝きに満ちており、そして、黒い髪の色に戻っていく。
間違いない。これも〈聖痕〉の力。
「……〈聖痕〉」
ためしに、ナハルは寝台脇に活けられた花──わずかに萎れたそれらに触れて“願う”。すると、花は淡い輝きに包まれ、たちまちのうちに瑞々しさを増し、萎れていた姿が嘘のように復活する。
これが〈聖痕〉の能力。
まさに奇跡の御業だ。
しかも、ナハル・ニヴの総体に刻まれた〈聖痕〉の数は、“幾億”にも及ぶという。
それはまさに、夜に瞬く星の数にも匹敵する──爪の先から髪の毛一本にまで刻み施された神の徴だ。
彼女は心底おぞましく思う。神とやらの恩寵のなす事柄を、心の底から恨めしく思う。
こんな夢を見せてなんのつもりなのか──いや、それとも。
「……これは、私が願ったから?」
〈聖痕〉は保有者の、つまり、ナハルの願いに即した力を発揮する。
生存を望めば戦いの術を与え、自己を害する暴威の群れを瞬滅せしめる。それが神の御業の証たる願望成就。
「くそッ!」
ナハルは毒づき、小さな拳で枕を潰した。
あまりにも忌々しい。
あまりにも呪わしい。
自分をここへ、この世界へ追い落としておきながら、何が恩寵か。何が奇跡か。
こんな盗み見のごとき現象を、ナハルが本当に必要だと思ったのだろうか。
「ごめんなさい、……魔王さま」
あなたの過去を盗み見するような真似をして。
忘れようにも、忘れられない。
魔王の切なる声が、一人の男の願いが、ナハルの耳には残されていた。
剣王、イアラフトゥは言っていた。
──『この“おひとよし”で、ずうずうしくて、いつまでも一人の女を追いかけてる、純粋で純情すぎる男の願いを』と。
「魔王さまの、願い……」
考えたこともなかった。
考えてみれば、魔王にも願いの一つや二つはあって当然。叶うことなら、私も彼の望みをかなえたい。
だが、そう思い、真摯に願うナハルに対し、聖痕の群れは無反応。無力感と脱力感で、ベッドを荒々しく叩いた。神の敵対者たる魔王
「何が願望機だ……何が〈聖痕〉だ……」
神とやらへの呪詛を強めるナハル……彼女は勇者との戦いに敗れ、封じられていく男の切々たる声音を思い出す。
『 … … あ あ、 待 っ て る … … 』
彼が希う待人は、果たしてどんな女性だろう。
あれほどの声を──想いを──受け止めるべき相手とは、何者なのかという興味。
「魔王さまにも……恋人とかがいたのかな……」
明日にでも訊ねに行ってみようか、しかし、これは彼にとって、とてつもなく個人的な事柄でもあるはず……あまり気乗りしない。
何より、これはナハルが〈聖痕〉を通じて、夢で見たこと。どう説明したとて、盗み見を本人に明かす気持ちにはなれない。
そして同時に、ナハルはもうひとつの夢のことを思い出し、たまらず涙をこぼす。
魔王封印の直前に見ていた、自分の夢──すでに千回はくりかえしたみたと確信できる、正真正銘の悪夢に思いを致す。
「ごめん……ごめん、レーくん」
一人にしてしまって、ごめん。
そして、ナハルは少女の身体を──自分のお腹を抱きしめる。
「ごめんね、ごめんね……」
生前、そこに宿っていたはずの、生命……
事故によって奪われた、彼との子供……
産んであげられなくて……
本当に申し訳ない。
あの時に戻りたいと願っても、事故に会う前に戻りたいと切に願っても、〈聖痕〉はやはり望みをかなえはしない。
軌跡など嘘っぱちじゃないか、そう泣き続ける少女の声に対し、戸外に佇む魔王は、何も言わず無音で立ち去っていく。




