復讐の理由
コロナ禍の影響で更新が遅れました。お待たせして申し訳ありません。
/Transmigration …vol.19
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生前のナハルも、人並みにRPG──ロールプレイングゲームのひとつやふたつに触れる機会はあった。ファンタジーを題材にした映画やアニメなども、それなりに視聴する程度に好ましく思っていた。
ファンタジーの世界を訪れる機会があれば、一度でいいから本物の“竜”と会ってみたいというのは、いくらか自然な発想だと言える。RPGにおいて定番にして普遍的な敵役、あるいは味方役。主人公に牙を剥いて対峙するものもあれば、反対に助言や叡智を授け人々を守る役目を自らに課すものもいる、大自然の脅威にして最大の理解者。あらゆる人種や世代を超越して人気を博すキャラクター。そんな存在が実在し生存している姿を、直接目にする機会が巡ってくるのであれば、ファンにとっては垂涎ものだろう。
しかし、だ。
ナハルは突然の事態に、惑乱するほかない。
「けっ、とう? しょうぶ? いったい、なにを、何の話をして?」
少女の目の前に聳えるのは、ビルのごとき巨竜の威容。
ナハルは委縮しつつも訊ねた。
訊ねずにはいられなかった。
目の前の竜が──巨大な爬虫類の肢体に雄々しく広がる両翼の持ち主が──何を言っているのか、即座に判断するのは難しかった。
『ハハッ! 難しいことなどひとつもない!』
問いに答えた竜の口調は快晴の空のごとく澄んでいた。
ソタラハは竜の大きな口で、文字通りに大笑する。
『〈勇者〉である貴殿と! 〈魔者〉である我が! ただ“戦う”! それだけの話! ただ、それだけの事柄に過ぎぬのだっ!!』
「待っ──ッ!」
異論反論をぶつける間もなく、黒い空へと咆哮するソタラハの翼がすばやく羽搏く。
生み出される塵風に目を開けていられないナハル。どうにか風圧に耐えきり、瞼を押し開け、琥珀色の瞳が世界を映した瞬間、
「──!」
飛翔する竜の顎が、少女を丸呑みせん勢いで突っ込んできていた。
本能的に左へ跳ぶ。
二秒後、ナハルがいたあたりに、巨大な竜の重量が突進。その衝撃で、大地が大鋸屑のごとくめくれあがり吹き飛んでいく。楕円形劇場の観客席が──石椅子が、余波を受けただけで崩れ壊れた。
その衝撃的な光景を眺め、少女の心臓が破裂せんばかりに加速していく。
「う、うそ、な、なんで、こんな」
助けを求めるように観客席にいる人狼を見るが、〈魔者〉は腕を組んだ姿勢で睥睨するだけ。もう一方の〈魔者〉──木乃伊の姫君も、値踏みするような瞳と姿勢で腰掛けている。他に誰か、助けてくれそうな人物を探して視線をさまよわせるが、闘技場には他の気配は絶無であった。
『やはり的が小さい! さらにはすばやい! だが! 逃がしはせぬ!』
態勢を整え再び鼻面をナハルの矮躯に向かって照準する赤竜。
ナハルは遮二無二になって声を発した。
「ま、待ってください! 私は、魔王陛下の部下として働」
『待つという選択肢など、我には存在しない!』
傲然と轟く竜の絶叫。
ソタラハの突撃が、空間を薙ぎ払い突っ込んでくる。
ナハルはどうにか二度目の回避行動に成功する──しかし、
「ま、待って! 本当に待って! 私は〈聖痕〉を持っている〈勇者〉ですけど、あなた達〈魔者〉と敵対するつもりはない!」
『ハハ! 魔王陛下の幕下に加わったという話か! その程度の情報ならば、重々承知している!』
「な」
『〈勇者〉ナハル・ニヴ! 生前の記憶を持つ転生者! 神への復讐を標榜する黒髪金眸の少女だと、すでに魔王の配下に連なる者どもに遍く通達されている! 当然のことだ!』
竜が滞空すべく羽搏いた程度の風圧で、ナハルの総身は切り刻まれそうな威力を伴っていた。
その中でも少女は説得と抗弁を続ける。
そうしなければ殺されるだけだった。
「私は、こんな、急に戦うなんて……決闘なんて……私はまだ、戦い方なんて、一個も教わってない!」
『ダっははははハハハハッ! これはこれは! 異なことを申されるな!』
ソタラハの竜声に、ナハルは恐怖に身をすくませながら耳を傾ける。
『〈聖痕〉を全身に宿す〈勇者〉が、よりにもよって“戦えぬ”などと!
そのようなことは、な……絶対に完全にありえない!』
ソタラハは颶風のごとく宙を疾駆し、ナハルの小さな肉体を鋭い鼻先に捕らえた。
小さな勇者は空を翔けて上昇していく感覚に翻弄される。
「ひッ!」
『〈聖痕〉を宿した時点で──貴殿はもはや、只人ではないのだ!』
死んだ時に味わった交通事故の衝撃、あの時のそれとは比べようもない程に重く迅い突撃を受けながらも、少女の身体は確かに、動いていた。
無意識というには流麗にすぎる身のこなし──体を独楽のように回転させ、ソタラハの竜鱗の上を舞踏家……あるいは武闘家のように舞い踊る。巨竜の一撃を寸分たがわず回避しおおせる技前は、それを成し遂げたナハル本人が肝を冷やすほどに完璧であった。
そのまま、空中に放り棄てられる形となった〈勇者〉ナハル。
上空で旋回した赤竜は、その口腔部を赤く、赫く、輝かせる。
「炎!?」
『ご名答、ダァッ!!』
竜の叫喚と共に、ナハルの全身を灼熱の吐息が蹂躙していた。太陽を思わせる光輝の奔流。真上から真下へと吐き出された炎熱の火力は、闘技場の大地を貫き、あまりの高熱高圧によって巨大な漆黒の陥穽を作り上げる。それほどまでに超高熱の魔力線であった。
通常人類であれば、放たれた炎熱に触れた瞬間、蒸発・即死して然るべき赤竜の火線にさらされたナハルは──
「う……嘘?」
無傷。
まったくの無傷。
魔力の炎熱に吹き飛ばされ、そのまま大地の上に墜落したにも関わらず、骨が折れるどころか、薄皮一枚分の擦り傷すら、見当たらない。
ふと思い、肌を撫でる。あの忌まわしい〈聖痕〉が、淡い光をともして浮かび上がってきた。
「な、なんで」
『見よ! 魔王陛下によって封印処理されて尚、我が灼熱の炎を軽々と無にする魔力への耐性! 怯えた言の葉とは裏腹に、堅実なる闘争機能のまま、鋭敏なる回避行動をやり果せる肉体の強弁ぶり! いやはや、すさまじいものではないか!!』
吐き気がした。息が苦しい。
ソタラハの攻撃や口撃のせいでは断じてない。
ただ、自分自身というモノの異常性に、ナハルは口を抑えねばならないほど強い嘔吐感を覚えたのだ。
『まったくもって神の奇跡とやらは奇天烈の極みだ! 実に恐ろしい! 実におぞましい! まさに人界における奇跡の象徴! 神より与えられし光の恩寵! ──吐き気を催す!!』
快晴の日光のごとく朗らかな声音。ナハルも同様の感想しか持てなかった。ソタラハは雄然と宣告する。
『通常人類を〈勇者〉という別個の存在に強化、もとい変異させる〈聖痕〉! いったいどれほど多くの同胞が! 神共による選別者によって屠られ! 嬲られ! 辱められ! 滅びの淵へと追い立てられてきた事か!! まったくもって反則の極み! 転生者らの宣う“ちーと”のそれであるな!! なァ!!?』
吠えながらも炎弾を口腔より連射する天空の赤竜。
連鎖する火山弾の破裂音は、人間の鼓膜をいとも容易く突き破る音圧の暴力であったが、ナハルの身体には何の影響も示せない。
火焔の直撃を受けても、〈勇者〉の身体はビクともしなかった。
今更ながらに実感する。
「こんな──こんな、もの──!」
ちーと……“チート”……その単語の意味を思う。
血が滲むほど、自分自身の肌に爪を喰い込ませる。
思い出さずにはいられない。
転生特典だの何だのと、戯言を呟いていた神とやらを。
────「お詫びと言ってはなんだが。君には異世界で、様々なチート能力を駆使して、気楽に生きていけるように手配しよう」────
こんなものが欲しいと誰が頼んだというのか。ガリガリと両肩から両腕に爪を立てる。噛み締めすぎた唇から赤いものがこぼれていく。
こんなもの、何ひとつとしてナハルは──鬼塚ハルナは、望んでなどいなかった。
にもかかわらず、あの神とやらは、ナハル・ニヴに〈聖痕〉という名の特典を施した。
冗談ではないと思った。悪ふざけにも程がある。ナハルにとって、神とやらに選ばれた証など、汚辱の証明以外の何物にもならなかった。
『呆けている時間はないぞ、転生者の〈勇者〉殿!』
ソタラハは、ナハルの異変など顧みることなく、再突撃を敢行する。
〈勇者〉の小さな肉体は、〈聖痕〉に汚染された体は、魔力によらぬ攻撃──巨竜の大質量による物理攻撃──〈魔者〉からの脅威を寸手のところで回避してみせる。
翼を広げる赤竜は、尚も鋭く、どこか楽し気に声を発し続ける。
『貴殿は戦い方など教わっていないと言ったが! 断言しよう! 戦闘訓練などという生温い仕儀に訴えたところで! 〈勇者〉の質と力が向上することは決してない!』
その言葉は、ナハルに教鞭を振るってくれる魔王──彼が言っていたことと符合していた。
しかし、ソタラハは魔王らが“教えていなかったこと”……隠していた事実を告げる。
『〈勇者〉の〈聖痕〉を強化成長させる方法は、たったの「二つ」!
我等〈魔者〉と戦い、そして殺すか! あるいは! もうひとつの手法に頼るか! ……つまり!』
赤竜の翼が天を覆うほどに広げられる。
瞬間、大量の火球が皮膜の内側で集束し、特大の光線数本となってナハルの身に降りかかる。
少女はさらに高速で走り出す。火線の驟雨から逃げおおせるために。
『貴殿が“神”との戦いを望むのであれば! 我等を! 〈魔者〉を!
殺して殺して殺して殺して殺して、殺し殺し殺し、殺し尽くすつもりでかからねばならない!』
そうすることでしか、少女の目指す神への戦いは成し遂げられないと、赤竜は高らかに宣言する。
『戦うがいい〈勇者〉ナハル・ニヴ! 貴殿の目指す“神との戦い”に必要な力と技量を、己が物とするために!
さもなくば! 貴殿はここで! 我に殺され──あえなく、つたなく、死ぬだけだァッ!』
ソタラハは、自らが照射し続けた烈光の槍雨とともに降下する。
魔力攻撃をひたすら無力化していくナハルの矮躯めがけて、墜落する勢いで爪牙と竜鱗の質量を叩き込んだ。火線の驟雨が目くらましとなり、ナハルの肉体が反応するのが遅れる──しかし、やはり〈勇者〉は健在であった。
ソタラハは鼻白んだ。
『解せんな! 何故、我を殺しにかからん! 〈勇者〉であるならば、自前の剣を〈聖痕〉によって造ることも容易なはず! 何故それをしない!?』
攻撃の意思をほんのひとかけらでも懐けば、〈聖痕〉がそれに呼応して攻撃の手段を供出することを、ナハルも直感していた。理解せざるをえなかった。
それでも、ナハルは首を横に振った。
「私は、──あなたたちを──〈魔者〉を、殺さない」
『「殺さぬ」だと! それはまた面妖な!』
竜の鎌首を傾げるソタラハに、ナハルは言い募った。
「あなたたちは……魔王陛下の臣……神の敵対者……だったら……“私の敵じゃない”!」
頭を振って戦いを拒絶する少女。
しかし、
『愚か! 愚劣愚昧愚鈍愚考愚案! 愚かしいにも程があるッ!!』
ソタラハの気勢は削がれることはない。
少女の配慮と誠意を、巨竜はむしろ侮辱だとばかりにがなり立てる。
『その程度の御覚悟で! その程度の敵愾心で! 我等の大敵“神”どもを許さぬなどと大言壮語するとは! 片腹痛いわ!!』
激昂の色を灯す竜の瞳に、ナハルは数歩も後ずさった。
少女の申し立てる内容を、赤い巨竜は傲慢にも鼻を鳴らしてはねつけた。
『もっと本気でぶつかってこられよ! それとも! 貴殿の放言する神への敵意と憎悪、復讐の妄念など! その程度ということでよろしいか?!』
ナハルの喉がひきつった。
赤竜の超重量の突撃を受けたからではない。
『神に挑むのであればすべてを使え! 傲慢に! 傲岸に! ありとあらゆる手段を講じ、ありとあらゆる力を尽くせ!
我等、魔王の輩たちが、子々孫々に渡り挑み続けた神々との戦い! 彼奴等の悪逆放埓の手管によって、どれほどの人と魔が、無意味に命と魂を散らせ続けたことか! 我等“見捨てられし者”“歪められし者”どもの怨嗟と呪詛の重みは! 貴殿ごときの復讐心とやらとは、比較にならぬほどであろうよ!』
少女の琥珀色の瞳が、潤むように輝きを増した。
ソタラハとの戦闘による死への恐怖からではない。
『〈魔者〉を殺さず力だけを得ようとすれば、いったいどれほどの時を逸し、徒に弄することか! それだけの時間のなかで、いったいどれほど多くの同胞が、大いなる災禍と悪難に見舞われることか! ……しかし! それもまた“佳し”! 貴殿の意思決定権は、貴殿のみが有するものである!』
あくまでもナハルの意志を尊重するソタラハは、気づかない。
『であるならば転生者よ! そのちっぽけな復讐心を棄てて! 我等が王の庇護に守られたまま! 人として安寧なる一生を終えるがいい!!』
突撃体勢を整えた竜は、ようやく気付いた。
『──ぬ?』
少女の逆鱗に触れてしまった事実を。
「ちっぽけ?」
ナハルの瞳から、涙がこぼれだす。黄金の色に輝く、涙が。
「ちっぽけ……だと?」
その涙の光は、大地に落ちるよりも先に、針のように鋭い金属の形状に変化して突き刺さる。〈聖痕〉が輝きを増し、蠕動する虫のように肌の底を這い回る感触があった。
ナハルはそれらに見向きもしない。
ただ、己の復讐の理由、憎悪の根源、転生前の記憶が、脳の中を炎のように燃え広がる。
懐かしくも暖かい光景──生前の夫──彼の微笑み──差し伸べられた優しい掌を、瞬きの間に幻視する。
夢幻の中で、幾度も触れ合おうと伸ばした掌が、何もない空間を掻き毟る。指先に感じられる冷たさと虚しさが、ナハルの心臓を貫いていく……いつものように。
「私、には……私に、は、家族が、いた……家族になってくれたひとが……家族をつくろうと言ってくれた相手が、……彼が……」
鬼塚ハルナが、恋し、愛して、愛し合ってくれた──彼。
虐待の痕が体のあちこちに残った、世界で一番穢い女を、その手を取ってくれた、優しく愛しいひと。
彼と共に生きていこうと思った。
彼と共に生きていたいと願った。
彼と共に幸せになろうと誓った。
彼の子を生みたいと──彼の子を産もうと──彼と共に、家族を。
そう、夢を、見ていた。
そして、ついに、あの時、転生する直前の晩──
「私は、────私には…………」
連日続く気怠さと吐き気に、「もしや」と思った。
市販の“妊娠検査薬”を使ってみた。
結果は……
「私のおなかには! 子供がいたんだ!!」
彼と──夫とそういう営みをするのに抵抗がなくなってから、一年がたった頃。
妊娠検査薬の結果を見て、私は本当に嬉しかった。待ちに待った結果に、うれしくて、うれしくてうれしくて、本当にうれしかった。
こんな自分でも、穢い私でも、彼の子が産めるということが、どんなに望ましく思っていたことか。
彼に内緒で、彼をびっくりさせたくて、ひとりで病院に──産婦人科に向かった──あの雨の日に、
よりにもよって事故で──神の手違いによって、死んだ。
否。
殺された。
鬼塚ハルナは殺された。
おなかの命も──あたらしい家族も──生まれてくるはずだった彼との子も、一緒に
「私は! 彼と共に──彼との子と一緒に、生きたかった!」
鬼塚ハルナ……ナハル・ニヴは、魂の底から慟哭した。
転生してから今日まで溜め込み続けた憤怒の烈火を吐き散らした。
「彼と一緒に暮らして! 生まれてくる子を育てて! 生きて──生きて──生きて生きて生きて! そうして普通に死にたかった!」
彼がいたから、自分の人生を生きたいと願った。
こんな自分でも、穢れきった自分でも、顔も胸も腹も背も腕も足も傷まみれにされた自分でも、幸せになれると思えた。
信じることができた。
「なのに! ──なのにッ!?」
すべてを奪った。
神によって奪われた。
神と名乗るモノによって、すべてを。
「……許せない──許さない!!!」
許していいはずがない。
許していい道理などない。
許していいという者がいたら、ナハルはそいつを許さない。
絶対に。
「神は殺す! 絶対に殺す!」
張り裂けそうな声が大気を震撼させる中。
少女の流す滂沱の涙は大地の上に集積し、いつの間にか光り輝く刃──両刃の長剣の形状をかたどった、ようにみえた。
ナハルの〈聖痕〉だらけの身体が、無意識に剣の柄を掴みとるのと同時に、長い刀身は波打つ形状に変貌、剣の形状を得体の知れないものに転化していく。目まぐるしく捩じくれ膨れて歪み崩れ、生きているかのようにのたうち回る。刃の部分は大剣、細剣、斧、槍、弓矢、戦鎚、鉈、鞭、鎖鎌、金砕棒などに変わり、それらが複数融合したような姿を現す。ついには柄部分から先が無数の棘のように光の刃が突き出す形へと変型。ナハルが武器を掴む片手で空間を払うと、その凶器は光の雫をあたりに飛び散らせていく。輝く雫は空中で針のように尖り、泡のように膨れ、大地の上に幾本も棘の刃を突き立ち抉った。
ソタラハはその光景を目にし、戦慄の声を牙の間からもらすのみ。
『おお……凡百な〈勇者〉どもとは比較にならぬ……まごうことなき……これこそ、我が父が語っていた真の聖剣──本物の“神聖武器”!』
神聖、と呼ぶには禍々しいにもほどがある凶刃は、今もなお千変万化の状態を維持していた。棘の刃は、所有者であるナハルの憤怒と憎念にあてられ一切の定型を持たず、その光量と刃渡りを広げ続けている。
赤竜は歓喜の雄叫びを上げて羽搏いた。
『今こそ! 我が全身全霊を賭すに値する!』
ソタラハが竜の両腕に赤い魔力を漲らせた。流動する紅蓮の砂塵──竜の掌サイズの砂嵐のごとき脈動を見て、観客席で成り行きを静観していた魔王軍幹部──レアルトラとアーンが腰を浮かせた。二人は口々に「お、おい竜の旦那! ここで“それ”を使う気かよ!」「ちょ、誰がそこまでしていいって!」と言っているが、巨竜は一切応じない。灼熱の息吹をゴォと吹いて、竜の巨大な面貌を大量の陽炎で揺らめかせる。
対して、ナハルは激情に身をゆだねるまま、光剣を右肩へ担ぐように両手で構える。輝きを撒き散らす棘剣が後光のごとく少女の後背を鮮やかに照らし、黄金と白亜の色彩が漆黒の天空を焼灼しはじめた。
「私の復讐は……ちっぽけなんかじゃない……ちっぽけなんて言わせない」
怒りの矛先にいるのは、巨大な竜の姿ではない。
「私は──絶対に──神を──!」
ナハルからすべてを奪った神。
殺しても殺したりない──ありったけの憎悪をこめて、巨大な光の棘を袈裟斬りに振り下ろす──
「二人とも。そこまでだ」
刹那。澄明すぎる男の声に、武器を持つ両手を掴みとられていた。
「な! 我が陛下!」
ソタラハは両腕の赤い魔力を散らし、焼けた大地の上に着陸。そして幹部たち全員が、ド肝を抜かれたように片膝を落とした。
決闘の場に水妖の女怪・イニーと共に姿を現したのは、純白の全身鎧に身を包む〈魔者〉の王……本国にいるはずの魔王そのひとであった。
「ナハル」
魔王に優しく呼びかけられるナハルは、野獣のような形相で王を見上げ両腕を振るう。が、魔王の片手の力に制止されビクともしない。
「よせ、ナハル。武器を放せ──頼む」
静かな声に促され、ナハルは荒い呼吸を落ち着けていった。
剣柄を握っていた両手から力を抜くと、光の武装は瞬く間に霧散、消滅する。
「うん」
満足げに頷く魔王の両腕に、ナハルは崩れるように倒れ込んだ。尋常でない量の汗が全身から吹き上がる。呼吸がしづらい。
「いきなり“使い過ぎだ”。封印処理も解けかかっている。これじゃあ、また俺が風呂にいれてやらんとならんぞ?」
冗談めかした口調にそのまま小さな体を抱きかかえられた。ナハルは意識が朦朧としながらも訊ねる。
「魔王、さま……私、いったい……〈勇者〉って、いったい……」
魔王はナハルの髪を撫でつけるのと同時に、体表面に浮かび上がっていた黄金の輝きを鎮めるよう、ナハルの額に魔力を透す。
彼はそのまま少し考え込むようにしつつ、返答を保留。代わりに、彼は膝をつく巨竜……委縮したように軍服を着る人間の形状に変化した、赤髪褐色肌の青年の傍に。
「ソタラハ」
「申し訳ございません、陛下! 此度の件についての責任は、ひとえに我が!」
「いや。おまえらがナハルの──〈勇者〉の持つ戦闘能力をはかり、何より、神と戦おうと明言するナハルの個人的な心情を見定めようと行ったことはわかっている。そうしなければ納得もいかなかっただろうことも」
ソタラハは「見事なる慧眼!」と尊崇の眼差しで魔王に微笑む。
ここにいる魔王軍幹部たちは、神の選定を受けながらも神と敵対しようなどという少女の言い分を、そう易々と信じられることができなかったのだ。
それでも、と魔王は続ける。
「まず、ナハルに謝罪を」
「は! 申し訳ない、ナハル・ニヴ殿! 貴殿の力と、真の心意を試すべく! 我はふさわしくない物言いをしてしまったようだ! そのうえ興が乗ってしまい、御身の危険も顧みずに勝負を続けることを選びかけた──すべて、ここに謝罪させていただきたい!」
「え、と……あの」
「まことに! 申し訳ない!」
平身低頭の限りを尽くす赤髪の青年に、ナハルはどうにか頷きを返す。
「おお! 寛大な心遣い、大変痛み入る!」
土下座の姿勢で額を地面にこすりつけていたソタラハは、感謝感動のあまり顔を上げた。快い表情と声音に、先ほどまでの戦意や敵意はひとかけらも見いだせない。
「レアルトラとアーンも、これで納得がいったか?」
魔王の質疑に対し、劇場に降りて近寄ってきた人狼と木乃伊は、重く首肯する。
「ええ、まぁ……そういう事情っていうのは、想像もしてなかったですが」
「〈勇者〉ナハルの真意は判りました。そして、これだけの能力──〈聖痕〉であれば、陛下の望みに近づけるだろうことも」
幹部たちの様子に頷きを送る魔王。
純白の全身鎧は、とりあえずの応急処置を終えたナハルの身体を、連れてきていたイニーの右腕に託した。
ナハルは縋りつくように問いを繰り返した。
「魔王様……、私は一体、なんなのですか?」
超常の力を発揮する〈聖痕〉。その能力の一端を知ることになったナハルは、問わずにはいられなかった。
「〈勇者〉とは何か、という問いか?」
魔王は、逡巡する間もなく語り明かす。
「〈勇者〉とは。己の愛する者、真に大切だと思う者のために戦いし者──それらを想う心を力の糧とし、神から与えられた超常の力を振るうことを許された人間の総称だ」
だからこそ〈勇者〉の力と剣は、竜の鋼鱗を引き裂き、鉄の城壁を割断し、闇の軍団を掃討し、魔の王侯さえをも滅却できる。
そういう“力”──戦闘機能を与えられてしまった、神の選定者の総称であった。
故に、ナハルがこの力を振るうに際して、生前の夫──愛する男のことを想い起こすことで、その機能は十全に発揮されうる。
「努力や鍛錬、才能や才覚、継続や事前準備という概念からは程遠い、神の手によって公然と行われる反則技──それが〈聖痕〉と、それによって生み出される〈勇者〉の仕組み──神の選定システム……あんなものとやり合わなければならない〈魔者〉にとっては、まさに悪夢以外の何物でもないわけだ。おまけに、最近はアチラの大陸、人間の国で──いや、これはまたの機会に話そう」
瞼が重くなりつつある少女の様子に、魔王は改めて告げた。
「今はゆっくり休め。熾きた〈聖痕〉を鎮めて、十分以上に養生するように」
ナハルは「はい」と答えたかったが、イニーの体の柔らかさに包みこまれ、深い眠りの淵に落ちていく。
・
イニーに抱きかかえられた〈勇者〉の少女が、漆黒の天空を戴く闘技場から運び出される。
その様子を、観客席のさらに上、屋根の上から眺める人影があった。
「子どもがいた、ね」
金髪碧眼のエルフ──ガルは、屋根のふちに腰掛け、憮然とした表情を浮かべながら両手で頬杖をついている。
しかし、ガルの艶めかしい肢体、女の輪郭は地上にいる同胞たちには見えていない。
隠形の衣によって発生した霧を身に纏ったことで、ガルはほとんどの存在から認知されえない隠密性を発揮可能。
『夫と引き離され、子を奪われた女か──神への復讐を望むには十分な理由だのう』
「それはどうかしら? リギンの御爺様」
『うん?』
そんな彼女と意思疎通する声の主は、ここにはいない。否、厳密にいえば、この場所──この城そのものというべき人物。
「確かに、数多くある転生者の中では極めつけに運がない事例でしょうね──けれど、すべての婚姻や出産が、そのまま幸せに直結するだなんて、私個人は思っておりませんの」
影を落とすガルの微笑み。
数千ファードという彼方を見透かすエルフの眼は、ふと、眼下で幹部三人へ説教を続けていた魔王と視線が合った。
「おまえがそう考えることは否定のしようがない」
気づいた時には、ガルの背後に魔王の純白の姿は転移していた。
魔術を行使するための準備行程もなしに行えるのは、まさしく〈魔者〉の王たる証に他ならない。
「だが彼女の、ナハルの転生した経緯を考えるならば、彼女の一番の幸せを、神によって奪われた事実には、何の変わりもない」
「陛下には、本当にかないませんわね」
エルフは頭を振った。隠形の衣の頭巾を落として、盗み見と盗み聞きを働いていた非礼を詫びる。
「これで納得がいったか? 俺がナハルに肩入れをする理由について、だったか?」
「やはり私どもの考えを読まれておいででした? それとも──アバルちゃん──骸骨姫様や、リギンの御爺様の奸計に、まんまとのせられちゃったのかしら?」
とぼけるように肩をすくめる魔王の姿に、ガルは軽い微苦笑で応えた。
「そうですわね……神への刃となりえる〈極大聖痕〉、不幸な境遇に堕とされた娘、復讐の炎に憑かれた女……確かに、手放すには惜しい逸材ですわね」
「理解してくれて助かるよ」
「ただ……」
「?」
「いえ。なんでもありませんわ」
ガルは最後に残った疑問を、己の胸の内に留め置いた。
幹部らへの声掛けを済ませた魔王は、リギンに二言三言話しかけた後、転移によってリギンの城をあとにした。おそらく、ナハルの解けかかった封印の処理に向かったのだろう。
金髪碧眼の亜人は黙考してみる。
(……陛下は、魔王様は一体、どこまで知っていたのかしら?)
それがガルの気がかりと言えば気がかりであった。




