色好み
自分の信念を曲げてまで愛のために進んだ男。彼に待ち受ける運命とは、恋の行方と騎士としての誇りは。
――運命とは、変えようのない必然である。
月明りだけが頼りの暗い暗い道を走り抜け、門より東に少し行ったところのゴミ箱を踏み台にして塀を乗り越える。門を守る兵士には幸い気が付かれず庭の中の草木の上に着地する。音はあまり鳴らなかったものの、庭で羽を休めていた小さな鳥たちが数羽、わざとらしく羽音を立てて飛び去って行った。その時ばかりは流石に心底ひやりとしたが、この男がこれから成し遂げようとしていることに比べたら些細な出来事であった。
一国の姫を盗み出す。男の心にはそれしか無い。
警備が手薄な庭を音を立てずに走り抜け、時折見かけるランタンの明かりを避けるようにして敷地内を行くと、目的地である城内への扉に着くまで、予定していたより遥に遠回りを強いられた。
男はここで少し止まり、息を整えながら後方にある門を振り返る。
無論、引き返すつもりなど毛頭ない。しかし後ろに見える道には、確かに男が帰るべき日常が在った。
職務、忠誠、愛国心、そして倫理。全てを備えているつもりだった。わきまえていた。それらを疎かにしたことは一度だってなかった。王に誓える。神に誓える。それらを無下にするくらいなら喜んで自害する。その覚悟でさえ男にはあった。
だから帰るつもりはない。例え今日が命日になろうとも、理性よりも大切なものが人にはある。騎士十戒よりも貫くべき人道があるのだと彼は悟ったのだ。
男は向きを正し、行くべき道を見る。ドアを正面から開けて侵入する盗賊などいない。目当てはそこの扉の上にあるバルコニー、そしてその中にある姫の部屋であった。
慎重に狙いを定めて先端にかぎ爪の付いた縄梯子をバルコニーの手すりに向けて投げる。
中々苦戦をしたものの3回目にしてそれはやっと引っかかった。
引っ張って見て強度が十分にあることを確認した後、つるつるとそれをたどってバルコニーへと登っていく。
月明かりが自分を照らしたとき、俺は見つかってしまうのではないかと恐怖していた。足元に伸びる自分の影とは別に、人影が後ろから伸びるのではないか。月の光を背中に感じることが、酷く後ろめたく正面を向けない程であった。
しかし心配は杞憂に終わり、男はついにバルコニーへたどり着いた。
窓を開くと部屋の中に風が入る。目の前にはベッドに座ったままこちらを向かずにじっとしている愛しの姫に男の影がかかっていた。
「――姫、貴方を頂戴するべくお迎えに上がりました。さぁ、こちらへ」
男は片膝を付き手を差し伸べ、忠誠心を表す。国を裏切っている最中の説得力のかけらもない礼節である。
姫は言われるがままに立ち上がり、寝間着のまま男のほうへ歩み寄る。その時月の光に照らされた彼女の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいて、その表情が宝石のように美しく、泡沫のように儚く見えた。
男は彼女の手を取り、そのまま後ろへ下がって、腰がバルコニーの手すりに当たったのを感じた。そしてそのまま姫を強く強く抱き寄せ、後ろ側に倒れた。
刹那の浮遊感、2人だけの空の世界。それらの幸福は背中に伝う衝撃と鈍痛により現実へ返る。
背中に大きなクッションを仕込んだカバンを背負っていた為、計算通りの脱出が出来たものの、予想よりも痛みによる代償が大きくて男は直ぐには動けなかった。
しかし落ち着いても居られないため、姫を立たせ、続いて男が立ち上がり、背中に背負っていたカバンを投げ捨て、代わりに姫を背負う。
来た道とは反対方向へ歩みを進め、例によって兵士を避け、月明りさえも気にかけながら、城の塀へとたどり着いた。西の方角である。
そこには内側からは鍵を掛けられて、外側からは出入りが自由にできない扉があった。それも予定通りである。
見張りの兵との戦闘を覚悟し、姫を待た剣を抜いていた男であったが、幸いなことに見張りは居らず、剣を納め姫を背負い、扉から城外へと飛び出した。
そしてその名もなき男は走り出した。愛によって全てを失って一つを手に入れた男の逃避行だ。
時刻は朝に成りかかっていた。太陽こそ出ていないものの少しずつ夜が明けていっているのが男には分かった。
――朝になる前に、ここを出来るだけ離れなければ。
男は姫を背負いながら走り続けていた。城を越えた山道を、林道を、川を、全ての障害を乗り越えて尚止まらない。どこまで走ればいいのかも分からなければ、どれほど走ったのかも分からない。決して足元が良いわけでは無い。彼の履物の裾の部分は草木に引っかかってボロボロであった。
姫は姫で起きているのか寝ているのか、喋らないため分からない。しかし時折辺りの景色を見渡すように首だけが左右に動いているのを男は背中で感じていた。
息が切れる。横腹が痛い。口の中はカラカラだ。
男は正直限界であった。今すぐに重たい姫をそこに置いて寝転びたいくらいであった。一滴の水分を口の中で踊らせたい。死んでしまったほうがマシなのかもしれない。
それでも男は走った、忠誠を誓った国王よりも、十戒を説いた騎士団長よりも、愛しここまで育て上げてくれた親よりも大事な者のために、決して走ることを止めなかった。
「ねぇ貴方、この草に付いている真珠のようなものは何かしら?」
ここまで30分程走り続けただろうか、やっと姫が口を開いた。
ぽつぽつと雨が降り始めた、雨粒は草木を叩き、頬を伝い、次第に勢いを増していった。
「――後ほど、お答えいたします」
今はそれどころではない。とにかく逃げなければいけない。
空が明るくなるにつれ、雨の勢いはどんどん増していく。このままでは姫が風邪をひくかもしれない。男はやむを得ず、雨宿りすることを選択した。
天からの導きか、そこには偶然ひとつの山小屋があった。中には人が居らず、隠れた場所にある為、休憩には持ってこいだった。
しかし油断はできない。こちらは姫を背負いながら悪路を走っているのに対し、異変に気付いた城の物は馬を使って追跡するであろう。
男は姫を小屋の中の椅子に座らせて、自分の上着を姫に預けた。
「雨が止むまで、ここで待機しましょう。私は外で追手が来ないか見張っています」
そう言って男は外へ出て、扉をしっかりと閉めた後、その前に座って腕を組みながらじっと草木が雨に打たれる様子を見入っていた。
――姫が先ほど仰っていたのは、恐らく朝露のことだろう。しかしこう雨が降り注いだ後だと、その答えは既に存在しなくなってしまった。
男はわざと雨の下へ立って、天を見上げて大きく口を開けて深呼吸をした。足に力が戻ってくる。激しく疲弊した肺は徐々にいつもの調子を取り戻す。雨が止んだら、また走り出そう。2人で、何処までも、どこまでも。
男は姫と2人きりの生活を想像しては興奮した。どこか知らない山の奥に小屋を建てて静かに暮らすのも良い。他の国で住民として生活するのも良い。俺は商人になって街へ繰り出し、姫は家で俺の帰りを夕飯を作りながら待っているのだ。それも良い。
雨は激しく男を責め立てる。男は慌てて扉の下へと戻り、再び座り込む。
「こうも雨が降り注げば、追手も追跡は至難の業だろう」
ぽつりと呟いた。自分に言い聞かせるように。不安を取り除くように。
瞬間、閃光が走り、轟音が耳に響く。
――神が鳴っている。
何を不満に思うことがあろうか、愛し合っている2人が結ばれたのだ。これほど喜ばしいことがあるだろうか。姫は婚約者を好んではいなかった。政略結婚だ?クソくらえだ。自由に恋愛をして、自由に生きる。これほど素晴らしいことがあるもんか。忠義も愛国心も倫理もいらない。愛する人と共に居られれば良い。俺も、彼女も、人はすべからくそうあるべきだ!
そこにはかつての崇高な騎士はいなかった。
「――止んだ、朝だ!」
その悲痛な叫びが天に届いたのか、雨雲は一切払われ、朝日が男の顔を照らした。
「姫、行きましょう。夜が明けました」
山小屋の扉を開け、殺風景な部屋を瞬時に見渡す。しかし椅子の上にも、小汚いベッドにも、机の下にも、どこにも。
――姫の姿は無かった。
代わりにあったのはドアとは反対側に空いた大きな穴と置手紙。
『姫をここまで連れ出した罪を心のままに感じるが良い。貴様の断罪に悪魔はいらない』
瞬時に姫は悪魔に連れ戻されたのだと悟った。雷の轟音と共に悪魔が現れ、抵抗する間もなく声を上げる間もなく連れ去られたのだろう。いや、もしかしたら声を大にして俺に助けを求めていたのかもしれない。俺が扉の下で妄想に耽っていた時に姫は涙を流して必死に訴えかけていたのかもしれない。
男は泣いた。自分の騎士としての信念を、生き様を曲げてしまったことに。愛のために連れ出した姫を失ってしまったことに。たった一つ、外の世界をまるで知らない姫が俺に問いかけた、朝露のことを説明してあげられなかったことに。
外に飛び出して天に向かい吠えた。不条理を嘆いたわけじゃない、全ては自分次第だった。姫にはどうすることもできないことを、男にはどうにかすることが出来たのかもしれない。それにも関わらず。なんと愚かで無力であろうか。
泥濘の中に顔を突っ込んで泣き喚いた。木に頭を打ち付けて泣き喚いた。
男にはもう、何も残っていない。
その後の男の行方について、知っているものはいない。
拝読いただきありがとうございます!初めましての方が多いと思います。神馬と申します。
『少年たちのクリミナル』という作品を長期連載しております。この作品がお気に召したのであれば是非こちらの作品も拝読いただければ嬉しく思う所存です。
コメントや感想が大変励みになります!まだまだ駆け出しのしがない作家ですが、再び皆さんのお目にかかれる日が来ることを期待しております。