父と陸上
拝啓 山田彬様
まだ残暑の続くこの時期に、突然のお手紙、申し訳御座いません。
私は杉本幹弘の息子、杉本大と申します。
この度、私が貴方にお手紙を差し上げたのは、一つお伺いしたいことがあったからです。
貴方のことは母から聞きました。父の古い友人だと聞いております。
本題に入らせて頂きますと、お伺いしたいことというのは、父と陸上の関係についてです。
父は昔から何故か陸上競技を嫌っています。
私には一人、三樹という名前の妹がおります。
三樹は小学生の頃からとても仲良くしている友達がいて、その子は昔から陸上をやっているのです。
三樹は小学生の頃から、その子が大会に出るというと、弁当を作って競技場まで応援に行っていました。
父はその頃から陸上に対して余りよく思っておらず、三樹がその友達の応援に行くのもほとんど黙認といった感じで、例えば夕食のときなどに陸上の話が出ると途端に不機嫌になって話を打ち切ってしまっておりました。
三樹が中学に入るとき、陸上部に入りたいと言い出したのは当然の成り行きだと思います。
父は三樹が陸上部に入ることを反対しました。
けしからん。見るだけならまだしも、婦女子が陸上をやるなど言語道断。
そう言って父は烈火の如く怒り、仕方が無いので私と母は一計を案じて、三樹はテニス部に入ったと父に嘘をつき、口裏を合わせてやり過ごすことにしました。
陸上を始めた三樹は本当に活き活きとしていました。具体的には短距離走です。
初めは友達との付き合いで始めたようなものだったのですが、三樹はめきめきとタイムを伸ばし、それにつれて本人も陸上そのものにのめり込むようになっていきました。
地区予選だけではなく、県大会にも何度も出場しました。
中学のテニス部は弱小で、大会などにも出れるようなものでは無かったので、大会に出るとと言っても父に黙っていれば、ばれることなどありませんでした。
それが先日のことです。三樹ももう中学三年になり、部活も引退して受験に専念というときになりました。三樹に県内でも特に陸上で有名な高校からスポーツ推薦の話が来たのです。
その高校は、それこそ有名な選手を何人も輩出している高校で、卒業生にはオリンピックに出場したような選手もいます。
この頃になると三樹はすっかり友達など関係なく、陸上が大好きになっておりました。
三樹はその高校へ進んで陸上を続けたいと言いました。
今までと違って黙っていれば済む話ではありません。
案の定、父は、今まで陸上を続けていた事を含めて激怒しました。
私も母も何度も父に頼みましたが、丸で聞き入れてくれませんでした。
しまいには父は三樹の頬を平手打して勘当だと言いました。
三樹も怒って、家出すると言って家を飛び出し、そのまま三日帰って来ませんでした。
私と母は三樹があの友達の家に泊まっていることを知っていたので、少しお互い頭を冷やせば話が進むのでは無いかと思ったのです。
しかしながら、結局は父も三樹もお互い折り合わず、ついには母も怒り出し、三樹を連れて実家の祖母の元へ帰ってしまいました。
それから、今手紙を書いているこのときで、一週間ほど経ちました。
私は父と二人で家に居たのですが、どうにかして三樹に陸上を続けさせてやりたく、まず父がどうしてそこまで陸上を嫌うのか知ろうと思い、母の元へ訪ねて相談しました。
そこで、貴方のことを伺ったのです。
母と貴方は元々は面識が無かったと聞いております。
父と母の結婚式に来て頂いたと聞きました。それ以来、父の古くからの友人として親交があると。
私と母は話し合って、昔からの友人の貴方なら何か知っているのではないかと、筆を取らせて頂きました。
重ねて、突然のお手紙申し訳御座いません。ですがどうか、何か知っている事がありましたら、どうかお聞かせ願います。
敬具 杉本大
ーーーーーーーーーーーー
杉本大君
これは商談でも何もありませんから、時候の挨拶などしても仕様がないですから省きます。
まず貴方に謝らなければならないことが三点あります。
一つ目は、せっかく頂いた手紙の返事がこんなに遅れてしまったこと。言い訳をすると、これは貴方が十八歳になるのを待って書いたからです。
二つ目は、貴方のお父さんに対して、随分と男を下げるような真似をしてしまったこと。私は彼とは昔から友人ですから、お互い嫌な思い出もいくつも知っているのです。彼を説得するのに、弱味を握るに近いようなことをしました。貴方と貴方の妹さんの為などと言っても、免罪符にもなりません。
三つ目は、この手紙を読んで貴方が不愉快な気分になるかもしれないことです。しかしこれにも言い訳があります。貴方のお母さんが、色々と私に丸投げした所があるのです。話を聞けば分かると思いますが、仕方無いことですけどね。
さて、あの手紙を貰ってすぐ、私は貴方のお父さんに会いました。
そこで色々と話したのですが、ともかくその後、貴方の妹さんは無事希望の高校へ進むことが出来たと聞いております。
先日、新聞のスポーツ欄の記事で、読みました。妹さん、随分ご活躍されているそうで、何よりです。
この返事を書くのが随分遅くなってしまったことについては、あのとき貴方のお父さんと約束したのです。もし仮に私の判断で貴方に真相を告げるときが来たとしても、貴方が相応の年頃になるのを待つと。
そろそろ本題に入らねばなりませんね。貴方のお父さんが陸上を嫌う訳についてです。
伺った所、貴方のお母さんは自分が昔は陸上をやっていたことを隠しているそうで、貴方もまだそれを知らないようですから、そこから書きましょう。
貴方の両親の馴れ初めの話です。
あれは私と貴方のお父さんが高校生だった頃です。
貴方のお父さん、書くのが面倒ですから、彼と言います。彼と私が夏の夜中に街を散歩していたときです。
もう零時を回った頃です。その時間帯は昼間と街の顔色が変わるから、面白い気分になれてちょっとした暇潰しになるものだから、よく散歩していたのです。
私と彼が道を進んでいると、同い年くらいの女の子が前から猛烈な速さで走って来ました。
お互い夜に目が慣れているとは言え、さすがに灯りも無かったものですから、お互い気付いたときにはもう遅く、彼とその女の子は激しくぶつかって倒れ伏しました。
その女の子は、あの陸上の選手が着ている、専用のあの腕や脚を覆わない衣類を着ていました。
大会などに向けて、本番と同じ格好で練習をしているのだろうか、それに昼間だと周りの目があるから恥ずかしいんだろう。そう思いましたよ。実際の理由は少し違いましたが。
女の子はすぐに起き上がると、済みませんと一言叫んでそのまま走り過ぎて行ってしまいました。
私は少し不思議に思いながら、彼に大丈夫かと声を掛けました。すると彼は少し口ごもりながらああとかうんとか言って立ち上がりました。
それから私たちはそれぞれの家に帰りました。そのときはまだ知らなかったのですが、あのとき彼は射精していたそうです。
そしてそのときの女の子が、貴方のお母さんになる人です。
それから、三日くらい後でしょうか。また私と彼は夜の街を散歩していました。
そしてあの衝突事故の現場に差し掛かった頃です。私はそのまま通り過ぎようとしたのですが、彼は何やら時計を見たりして、そのあと何だかんだとその場を動こうとしませんでした。
五分くらい経ったときだったと思います。前から猛然と走ってくる女の子が見えました。ぼんやりとですが、背丈とか雰囲気から、あのときの女の子だと思いました。
そのときこちらはその場に屯していた訳ですし、すぐに女の子に気付いて、今度はぶつからないよにしようとしました。
ところが、彼は道沿いに立ち塞がったまま動こうとしませんでした。
おい、と声を掛けた時にはもう遅く、二人はまた激しくぶつかり倒れ込みました。
女の子は立ち上がりそのままよろめきなから走り過ぎて行きました。
私は呆然とその様子を見ていたのですが、異変には臭いからすぐに気付きました。
尿の臭いがしたのです。暗いながら目を凝らして見ると、あの女の子が走って行った道を追うように尿の跡が続いていました。
女の子が漏らしながら走っていったという訳です。道理でよろめいていた訳です。
異臭はもう一つ、精液の臭いです。彼のほうからしたものでした。
私が困惑して彼を見つめていると、彼はゆっくり立ち上がり、射精して衣類をぐっしょり濡らしながらまだはち切れそうになっている性器を気にせず、言いました。
もうこんなことが、あれ以来毎晩続いている、と。
私が居ない三日の夜も、毎日、二人は一言も言葉を交わさないまま、示し合わせて零時廿分にあの通りでぶつかって、そしてお互い性的に満足していた訳です。
お互いに初夜の事故で目覚めてしまったという訳でしょうか。
彼はこんなことを続ける自分に嫌気が差しながら、やめられないでいました。
私は話を聞いて、とにかくあの女の子を捕らえてみようと思いました。
次の日の同じ時間、私と彼はあの場所で女の子を待ち構えました。
捕らえるのは簡単です。彼がぶつかるときにそのまま抱きつけば良い。
実際、女の子が昨晩と同じように走ってくると、そのまま首尾よく捕まえることができました。
始めは暴れましたが、すぐに観念したように大人しくなりました。
ぶつかった訳ですから、彼は射精して、女の子も尿を漏らして陸上の競技着を濡らしていました。
私は鼻をつまみながら、彼と二人で女の子に色々尋ねました。
全く口を開いてくれませんでしたよ。そこで私は一計を案じ、携帯電話を取り出して警察に通報するぞと脅しました。
事前に打ち合わせてあった訳では無いですから、彼も本気で焦っていて何だか笑ってしまったのを覚えいますよ。
女の子がぼつりぽつりと語り始めました。
女の子は父親が早くに亡くなって、母と姉妹の女だけの家庭で育ったこと、異性とは全く縁が無く、あのときの事故で始めて異性に触れたこと、そして、その快感に取り憑かれてしまったこと。
それから競技着を着て走っていたのは練習の為というのは私の想像通りでしたが、昼間走らないのは、人に見られると股間がむず痒くなるからとのことでした。
一番驚いたのは、あの競技着は初夜に漏らしてから全く洗濯せず、尿を乾かして毎晩着ていたとのことですね。道理で臭う訳です。
女の子は泣きながらもうしないから警察は勘弁してくれと言いました。彼の方を見ると、彼は目を瞑って星空を仰ぎながら、まだ勃起していました。
お似合いだ、と思いましたよ、そのとき。あなたのご両親は。
彼は話半分で恍惚とした表情を浮かべていましたから、私が提案したのです。恋仲になってはどうかと。
思ったのですよ。とんでも無い変態の二人かもしれないが、べつだん悪人では無い。二人の媒酌人になってやろうじゃないかとね。
彼は話半分でしたから、前を蹴って精液で汚れるのが嫌だったので、尻を蹴ると、彼は思い出したようにこちらを向いて言いました。
もし女の子が良いと言ってくれるなら、願ってもない話だと。ぶつかった最初の夜、自分の精液の臭いを嗅ぎながら、運命の人に巡りあったと思ったと。
女の子はそれを聞くと、暗闇でも分かるほど顔を赤くして俯きました。加えて、また漏らしたのには流石に驚きましたけどね。
そして一言、よろしくお願いします、と。
仲人は宵のうち、と言いますが、私はそれを聞いて、後は二人に任せたと言って帰りました。これからの事は、二人で、自己紹介から始めて行けば良い。邪魔者はいないほうが良いでしょう。悪臭に耐えられなくなったというのもありますが。
それからの二人、貴方の両親は、私も見ていて羨ましくなるような理想的な恋人同士でしたよ。
二人で弁当を食べ、街を歩き、手を繋いで。
それから交際は順調に続いて、二人は一緒になりました。
結婚式では、貴方のお母さんは薄らと黄色く色付いたドレスを着ていたのですよ。私は始め尿を漏らして黄ばんでいるのかと勘違いしました。これは余談ですね。
それから蜜月の間、二人は新婚旅行に旅立ちました。日本中の陸上競技場を巡る、という珍しい旅路でしたね。
その間、私は電話で彼から相談を受けたのですよ。昼の間は仲睦まじい夫婦であるが、夜の二人は尋常ではないと。
昼間見学した競技場に、夜の間忍び込み、彼女が競技着を身に纏ってトラックを一周すると、ゴールの所で待ち構えている彼の胸に飛び込む。
そしてそのままお互い激しく交じり合うそうです。
どうしたら、やめられるだろうか、と私は言われた訳です。面倒な話だと思いませんか。やめる気など無く、誰かに弁護して貰いたいだけなのは明白では無いですか。
しかし、貴方の両親は、その面倒を引き受けてやっても良いと思えるくらい良い夫婦でしたよ。
不道徳というのは、人を裏切ることだから、ただお互いを愛し合うだけの事が、何が人倫に反するのか。
そう言うと、彼は満足したように礼を述べて電話を切りました。
旅行から帰って来て程なく、彼女の妊娠が分かったそうです。貴方ですよ。それから、貴方の両親は貴方の妹さんの騒動の一時期を除いて、全く仲睦まじい比翼の鳥です。
長々と話してしまいました。肝心の、貴方のお父さんが陸上を敬遠する理由を話していませんね。
彼と私とはそれからも何度も会っているのですが、一度二人で食事をしたとき、たまたま街で陸上競技着を着た若い女の子を見かけたことがあるのです。
懐かしいな、と私が言って彼のほうを向くと、彼は射精していました。
彼は言いました。もう陸上というものを性的な目で見ることしか出来ない。走っている女性を見るだけで勃起してしまう、と。
流石に私も、それは自分で何とかしてくれと言いましたよ。
彼が陸上を敬遠するのは、それが理由です。彼にとって陸上とはまさに淫猥な性と結び付いたものでしか無いのです。だから自分の娘にやって欲しく無いのですよ。
貴方の妹さんの騒動があったとき、私は彼に、貴方に返事を書くのはよしてくれと言われました。
当然と言えばそうですね。父としては恥ずかしい限りでしょうから。
その代わり、貴方のお父さんは妹さんが陸上を続けることを認めたでしょう。
では何故今になってこの返事を書いたかと言うと、これは貴方のお母さんから頼まれたからなのです。
知られていますよ、お母さんに。私も男であるから分かりますが、こればかりは手抜かりをした貴方が悪い。
どう調達したかは分かりませんが、使い古しの女性用の競技着を隠し持っていたそうですね。
さて、私に言えることは一つしかありません。不道徳というのは、人を裏切ることです。相手を裏切らない為には、その相手を見つけることです。
もしその競技着が、その相手から贈られたものなら、全く余計なお世話も良い所ですね。その場合は、年寄りのお節介だと思って勘弁して下さい。
それでは、貴方の今後の人生の幸福を祝って。
山田彬