我が家に伝わる、寿命が縮む呪術は覚悟と感謝で
俺がまだハイハイできなかった頃のことだった。
そんな小さい頃の記憶があるのは珍しいことだと思う。
でも記憶にあるんだ。
小さい顔が付いた毛玉が俺の所に近寄ってくるのを。
その顔、一生懸命なんだよな。
そして俺の隣に来てくっつくんだ。
俺がそんな小さい頃のことなのに、その毛玉はそんな俺よりも小さかった。
よく見ると、手足があるんだよ。それを一生懸命動かして、俺の所に真っ先に来た。
「俺の後輩でペットを飼ってるやつがいてな」
「それで?」
「生まれたはいいんだが、たくさんいるから育てきれないかもしれないっていうんでな。カミさんに聞きに行ったんだわ」
「ちょっと! あなた! そんな危ないことしていいの?!」
「あぁ、頼み事は滅多にできないさ。家族の寿命吸い取られるんだからな。だが質問だったら、しょうがないことじゃなければ自由に質問させてくれる」
「そ……そうならいいけど……。でも実感はないから……」
親父が、俺が生まれて間もなくして、犬の赤ちゃんを一匹譲ってもらったらしい。
我が家に、一度に二つも可愛いものがやってきた。
そんな感じのことを言って喜んでたとか。
俺が生まれた時のことの話は、俺が十五才くらいの時に聞かされた。
その話は、家族の一員になった雑種の犬、ケイトのことじゃない。
家族の命、寿命を吸い取るカミさんの話。
我が家の始まりは、江戸時代からと聞かされている。
その時からの我が家に伝わる言い伝えが残っている。
本当に困っていることがあったら、カミさんのお願いしなさい。
寿命と引き換えに、その困難を越えられるようになれるから、と。
カミさんへの頼み方は難しくはない。
カミさんが現れるところに会いに行くこと。
何度か建て直しをした我が家。その中にある土蔵は当時の物。
その入り口の横に現れる。
俺も会ったことはある。
お袋が俺を身ごもってから、何かの事故に遭ったらしい。
お袋と親父がカミさんに会いに行った。
お袋はうちに嫁いできて、初めてカミさんと会ったんだと。
親父は三回目くらいだったらしい。
けど尋ねに行ったことが何度かあって、すっかり見慣れたから驚くことはなくなったと言っていた。
お袋は初めてカミさんと会った時、親父は大丈夫と支えてくれたけどおしっこ漏らしそうになった、なんてことを話ししてくれた。
俺もこの目で見たときは泣きそうになった。
フード付きの茶色い布切れをまとってた。
その顔はとても痩せてた。骸骨そのものと思ってしまった。
だって目はなかったんだから。ただ、唇らしきものがあったから、ミイラか何かかとは思った。
親父が一流会社の要職についてたんだけど、部下のミスをかぶった。
それで会社は何とかなって、部下達も続けて勤務することが出来たのはいいけど、その責任を親父がとらなきゃいけなくなった。
このままでは職を失う。次の仕事を探してるけどなかなか見つからない。
退職金などの手当も出ない。
明日からの生活は貯金を崩す毎日ってことになる。
ケイトを誰かに譲って、少しでも生活費を削らないとって両親が相談してた。
俺と一緒に育ってきたケイトと離れ離れになるなんて考えられない。
両親が揃って買い物して、俺だけ留守番しなきゃならなかったことが何度もあった。
一人で留守番できるよって見栄はったんだよな。
三人家族で、俺も家族の一員だぞって。困ったときは、俺が出来ることはきちんとやれるって。そんな背伸びをしてたんだよな。
でも初めての一人きり。
寂しくなって、耐えきれなくなって泣いてしまった。
そんな時は慰めに来てくれた。
犬だって表情が出るんだよ。
俺のこと心配そうに見つめてきて寄ってきた。
まだ体にちょこんとした手足がくっついてる。そんな体型。
そんな短い手足を一生懸命動かしてさ。
俺のところに来るんだよ。
俺より小さいくせにだぜ?
大丈夫だよ、僕がいるよって言ってきてるみたいでさ。
一緒に遊ぶことなんかたくさんあった。ほんとに楽しそうな顔するんだよ。
でもその時の表情と、あの時の表情、全然違ってた。
心配してくれてありがとう。励ましてくれてありがとう。
そんな思いで力いっぱい抱っこした。
そしたらキャンキャン鳴いたんだ。
ハッとしてケイトの顔を見たら、今度は苦しそうな顔をしてた。
慌てて離して、ごめんって声に出して謝った。
ケイトのやつ、しょーがないなー。まだまだ子供だねって、そんなことを言わんばかりの顔をしてまた近づいてきて、俺の顔をペロペロ舐めてくれた。
ずっと尻尾を激しく振ってた。
その後も俺を慰めてくれたり励ましてくれたりしてたケイト。
そんなケイトと離れ離れになるなんてとても耐えられない。
でかい声で泣いて、そのときも思いっきり抱きしめた。
ケイトは別れるのは絶対嫌だ!
父ちゃんも母ちゃんも家にいなくて寂しかった時、ずっと俺のそばに居てくれた。
辛い時、励ましてくれた。
ケイトがいなかったら、俺どうにかなってたかもしれない。
そんなことを訴えた。
親父とお袋は困った顔をしてた。
ケイトは、俺に力いっぱい抱きしめられても平気なくらい体が丈夫になってた。
「我が家の一大事だから……カミさんにお願いしてみようか」
「寿命、減らされるんでしょ?」
「……私のためじゃない。家族が一緒にいる間、いつも笑顔が絶えないように、だ。寿命の長い短いは、私達には分からないことだし誰だっていつかは死ぬもんだ。それまでの間、幸せを噛みしめ続けられるか、辛い時間ばかり過ぎていくかくらいしか違いはない」
俺はまだ子供だったから、難しい話は分からなかった。
親父とお袋の間で話はまとまったらしい。
「お前も一緒に、カミさんに会いに行くぞ」
厳しい顔つきで親父は俺にそう言った。
まず風呂場で冷たい水で体を洗った。
体を清めるんだ。
親父は風呂場での目的を俺にそう伝えた。
その後お袋も同じように体を洗ってきちんとした格好に着替えて庭の片隅にある神社にお参りをした。
生まれて初めて、俺の起きている時間が夜の十二時を越えた。
俺が十歳の頃。
物心ついてから初めて知ることはたくさんある。
この年になってそれまで全く知らなかったことがまだあった。
神棚があるんだが、封筒らしい物がそこにあった。
踏み台がないと手が届かない。
その頃の俺一人きりじゃ絶対届かない高さにある。
「絶対中身を出してはならない。この中身は紙で、呪文が書かれている。フルーい時代の物だから、この封から出したり入れたりするだけで紙が切れたりするかもしれない。見てはならないのではなく破れたりしたらそれこそ終わりだ。だから出してはならない物なんだ」
親父は真剣な顔をして俺にそう教えてくれた。
俺には終わりの意味が分かった。
ケイトと離れ離れになることなんて考えられない。
離れ離れになって暮らすとしたら?
何もない。
俺には何もなくなってしまう。
そんなことを意味する言葉。
俺も真剣な顔で思いっきり頷いた。
親父は少しだけ微笑んだ気がした。
普段も普通に使っている土蔵。
けど今回は何か空気が違う。
初めて見たこの時間帯の蔵だからか。
いつもはサンダルを履いてその中に入るんだけど
親父もお袋も裸足。
服装は神社に参拝したときと同じ、きちんとした身なりなんだけど、裸足。
俺も裸足にさせられた。
土蔵の入り口の、向かって右側の方に正座をし、両手をついてお辞儀をした。
現れた者をなるべく見るな、と言われた。
呪いがかかるとかそんなのではなく、せっかく鎮めた心が波打つからなんだって。
心を鎮ませたままなら見てもいいけど、人をあまりじろじろ見ることはしないだろう?
それと、これから会う物は人じゃない。人が出来ないことをしてくれる存在だから神様だとは思うけど、見返りを求めるからカミさんって呼んでる。いや、呼ばれてる。
他の神様との区別もつけやすいからお前もそう呼ぶように。カミさんも気に入ってるらしいから。
そんな説明を事前に聞いた。
そして感じる何かの気配。
視線を少しだけその向こうに向ける。
目に入ったのは筋と皮だけの両足。それを通して骨の凸凹が見えた。
爪もボロボロ。
俺は生唾を飲んだ。
顔を見てみたい。けれど、泣きわめいてこの場から逃げたしてしまうかもしれない。
その行動は、ケイトと離れ離れになることを意味していることも理解できていた。
「ほぅ、初めて見る顔だな」
しわがれた声。地の底から聞こえてるくような響きが声にまとわりついていた。
「はい、長男です。これからはこいつもお世話になることがあると思います」
親父はそう返事をした。
いや、この世のものとは思えない声の持ち主と会話をしていた。
「……この場から逃げなければお前たちの話を聞かんわけではない。……坊主、ワシの顔を見てみろ」
恐ろし気なその声に誘われるようにその顔を見た。
あとでその時の俺の様子を親父とお袋から聞いた。
おしっこを漏らしてたらしい。
その臭いがあたりに漂うのは当然。
けど、カミさんは気にしなかった。
「ほう、頼もしい後継ぎが出来たものだの。……今回の用件は何だ?」
その恐ろしい顔の物に、少しだけ気に入られたみたいだった。
これまで通り今の職場にいられ、家族を養い続けられること、家族の寿命は定年退職するまでは維持したいことを親父とお袋は願った。
「それはできん。が、その坊主が一人でも生きていけるくらいの年までは、二人は生きていられるだろう」
つまり俺が就職して給料をそれなりにもらえるようになるまでは、親父もお袋も生きていられるということらしい。
いいのか?
それでいいのか?
俺は、わがままでケイトと一緒にいたいと言い張った。
両親の寿命と天秤にかけて、ケイトの方を選んでしまった。
親に向かって、俺とケイトが一緒に居られるために死ね。
そう命じたも同然だ。
親を殺した。
そんな罪を犯した気になった。
罪深いことをしてしまったのではないだろうか。
親に向かって何ということしてしまったのか。
自分自身に恐ろしさを感じ、思わずカミさんに縋ろうと顔を上げてしまった。
そこで再び俺の目に入る恐ろしい、目のない顔。
けど恐ろしさは感じなかった。
それより恐ろしいものが俺の中に、十歳になったばかりの俺の心の中にあることを知ったから。
「お前の息子も、なかなか恐ろしいことを考えとるな」
カミさんはそう言った。
指摘された。
バレていた。
しかしこの願いを引っ込めても、自分の心の中にある恐ろしさは消せない。
「犬を飼いました」
親父はいきなり話し始めた。
カミさんは俺の事を話ししたのに、なんで犬の事を?
親父の頭、あんな恐ろしい顔を見て狂ったのか?
そう考えたら、ますます俺のしでかしたことが恐ろしく感じた。
けど、そうじゃなかった。
「私は父親です。しかし父親でありながら、親らしいことが出来ないことが数多くありました。子供を作りながら、育てる責任を放棄したも同然の恐ろしい人間です。その子供は、飼い犬と仲良くなり、人の心が育っていきました。犬も家族同然です。三人と一匹が一緒に過ごす時間を幸せに感じたいのです」
「お前の子供は、その犬との生活と親の命の二つを比べているぞ? どちらが大切かとな」
気付いたら親父は背中をまっすぐに伸ばして、カミさんに自分の言葉をぶつけるような言い方に変わってた。
「子供の生きる時代は、親が生きた時代のあとです。親よりも先に子供が亡くなる家庭もある。それに比べたらその言葉は、カミさんのお力によって親の死んだ後も子供が生きていることを約束されたも同然です。この一族を次の世代に託せる幸せを、今は感じております。ましてや家内と共に、カミさんに寿命を何度か吸い取られているはずです。親が死んだあとの息子の人生を祈ることが出来て有難く思います」
親父はそんなことを言っていた。
お袋もいつの間にか姿勢を正して親父の話を聞いていた。
カミさんは、「ふむ」と一言うなってた。
そしてその恐ろしい顔を俺に向けて近寄ってきた。
そしていきなり怒鳴られた。
「両親はそう思っているぞ……? ……思い上がるな! 両親の命と飼い犬の生活の天秤? ガキが何様のつもりだ! 何もわからぬ者が、何でも知っているかのように物事を語るな!」
近所、いや、町内中に響き渡るような、地の奥底からのような声が俺に襲い掛かってきた感じがした。
お漏らしをしても続けていた正座から、いろんなことに感じる恐ろしさにさらにその怒気の恐ろしさが加わって、足を前に投げ出して尻もちをつく格好になった。
反射的に俺は声を上げて泣き出した。なんで怒られてるのか分からなかったから。
そして、その怖さにとうとう耐えきれなかったから。
とにかく何かに縋りたくて出てきた俺の言葉、「ごめんなさい」は、さらにカミさんの気持ちを逆なでしたみたいで、さらに大きな声で叱り飛ばされた。
その時は俺は理解できなかった。
親父もお袋も俺見て微笑んでたんだ。
そうか。
俺は、怖くて、怖いのから逃れたくて、何とかしたくて咄嗟に謝る言葉が出てきたんだけど、そうじゃなかった。
赦してもらいたくても赦してもらえなかったらどうしよう。
そんな恐怖で泣いてたんだって。
縋る相手はカミさんじゃなくて、親父とお袋だった。
だから真っ先に親父とお袋の前に座ってその足にしがみついて謝ったんだ。
頭をなでる手は間違いなく親父の手。
背中をさする手は間違いなくお袋の手。
そして耳に聞こえてきたのは、最初に聞いたカミさんの地響きの声。
「お前たちの事情などは知らんが、その願い聞き届けた」
俺はそのままいつの間にか眠ったらしい。
その次の日、目が覚めたのは俺の右側と左側で、布団に入って寝ていた両親に挟まれた布団の中。
いつもの寝室だった。
翌朝、土蔵の前に行った。
お漏らししたおしっこの跡があった。
そして入り口の正面に、神棚から持ち出した封が置かれていた。
なぜそれが必要なのか、いつそれが作られたのか一切分からない。
そしてカミさんとは何者なのかも分からない。
これが、俺が初めてカミさんと出会ったときの話。
…… …… ……
両親がともに三十一歳の時に俺が生まれた。
そして俺が二十五才、社会人になって三年目。
初めて就職した会社での扱いはひどいもんだった。
けど、共同で仕事を進める別の会社からスカウトされて転職。
一気に収入も増えて、家計を助けることもできるようになった。
それまでの間に、俺は一回カミさんと会った。
それはお袋にがんが見つかった時。
早期発見で、手術で完治できる話を医者がしてくれた。
その手術で失敗になったらどうなるか。
カミさんから吸い取られて残った寿命よりも早い時期に死んじゃう可能性がある。
質問や相談は何の見返りも求められないから、親父はそんな質問にしたらしい。
それは有り得る話だということで、俺も一緒にカミさんに会い、手術成功をお願いした。
吸い取られて残った寿命の時間を無駄にしたくなかったから。
「その願い、聞き届けよう」
そう言って、カミさんはその封筒を手にして土蔵の中に入っていった。
土蔵に入る前に、多分俺に言ったんだと思う。
「少しはマシになってきたか?」
俺や親父からの返事を待つ質問じゃなかったらしく、そのまま土蔵の中に入り、その扉は閉められた。
「さぁ、戻るぞ」
と親父に声をかけられ、言えの中に戻り風呂に入る。
翌日、封筒を回収し、それでカミさんとの邂逅の儀式は終わりになる。
二回目の時は初めて最後まで立ち会えたから、今までどうやって負わせるんだろう? と疑問を持ってたけど、それで解決できた。
そして家族で過ごす楽しい時間はまた続けることが出来た。
そしてその時はやってくる。
ケイトも一緒に家族みんなで宿泊旅行を楽しんでた。
「ケイトも連れて、一緒にお出かけってあまりないな」
「俺と同い年でしょ? お出かけできる体力もそろそろなくなるよな」
「じゃあ最後に一緒のお出かけしない?」
その帰り、自動車事故に巻き込まれた。
その事故で死亡者は二人。
俺とケイトは社外に放り出されて奇跡的に無事。
お袋の言葉は、まさしくその通りになってしまった。
親父とお袋には兄弟はなく、その親もすでに鬼籍。
葬儀などの一切は、親父の職場や俺の職場から応援に駆けつけてくれた。
カミさんのことは誰にも話をしていないから、家の中に入られても不審がられることはなかった。土蔵は珍しがられたけどな。
いつの間にやら葬儀が終わって数日たっていた。
職場も、気持ちが落ち着いたら連絡しろなどと言ってくれて有難かった。
が、カミさんには報告しなきゃまずいだろうな、とは思った。
命を奪ったのは自動車事故。
そこまでしか生きられない人生。
長生きするかもしれなかったその期間をカミさんに吸い取られた。
いや、人生の中身に見合うだけ、その期間をカミさんに捧げたのだろう。
生きている間、願い事があるないに拘わらず、自分の命を捧げ続けなければならないわけではなかったのだから。
両親には感謝しかない。
罪悪感を持とうものなら、またカミさんから叱責される。
そして両親が赦してくれたこともある。
ひょっとして。
親父もお袋も、吸い取られた寿命がもっと必要だったのではないだろうか?
そりゃ親子げんかもしたし、親に逆らったこともあった。
けど一つ屋根の下、にこやかに過ごした時間の方が圧倒的に多かった。
しかもケイトと共に。
両親はもっと寿命を吸い取られてもおかしくないくらい、有難く感じられた。
けど、寿命をおまけしてもらったのではないだろうか?
お人好しと言われるだろうか。
その夜、夢枕に立った。
両親じゃなく、カミさんだった。
それでも両親を失って、悲しくないわけはなかった。
少しくらい慰めてくれたっていいじゃないか。
夢を見ながらそう思った。
だって、カミさんの姿は相変わらず骨と筋と皮だげだし、目はないし、鼻もなくなりかけて中の骨が見えそうだ。
声もそのままだった。言い方もそのままだったから。
「そのままでいいから、何も持ってこなくていいから来い」
その後、ホントに寝耳に水って感じで、耳に水をかけられた感触があった。
飛び起きた。
すぐに土蔵に向かった。
「……来たか。お前の両親だが、ワシが寿命を吸い取った残りの分すべてを費やした。何も文句はないはずだが念のためな」
言わなくても、聞かなくても分かってたことだろうけど、けじめと言うか、区切りはつけたい。
でもこのカミさんってなんでここにいるんだろう?
「まぁワシがいなくてもお前は今後生活はしていけるだろう。だがワシを呼び出すときは……分かっておるな?」
「あの封筒、そしてその前に体をきれいにして神社に参拝」
「その後のことも忘れるなよ?」
封筒の回収のことだろう。何が書かれているのかさっぱり見当もつかない。
その前に。
「カミさん……って呼んでいいのかな……」
「……気安く呼ぶでない。……何の用じゃ」
「……死なれるとやっぱり悲しいですが、最後までいい思い出が作れました」
「ワシが出来ることは、願いを叶えさせることとその見返りを受け取ることくらいじゃ。礼を言われる覚えはないの」
また怒鳴られるかもしれないから言わないでおくけど、心の枷を取り除いてくれたことは、望外のことだった。
本当にうれしかったんだ。
けど、悲しみはそれで終わらない。
生きている物にはすべて寿命があるんだ。
いや、むしろここまで生きているのは奇跡だろう。
親に死なれて間もなく立ち直った俺は、ケイトと……二人暮らし。
家族だからそんな言い方も間違っちゃいないだろう。
俺はもう三十目前。
ケイトもそれくらいの年齢になる。
犬小屋で伏せたまま一日を過ごすことが多くなった。
日中に世話をしてくれる人がいないため、一日分の食事と水を用意する。
そして出勤。
同僚達にケイトのことを話すと驚く。
そんな長生きしてる犬なんて聞いたことがない、と。
全くだ。
でも立ち上がることも出来なくなって、水を飲むのがやっと。
その中に栄養剤みたいなのを混ぜてみる。
まぁ普通に飲んでくれるのは有難い。
けど、我慢できなくなっちまった。
寂しくなってしまった。
一番小さい頃の、一番古い思い出はケイトがちょこちょこ歩いて来て傍に近寄ってくれたこと。
もうそんな小ささはないし、ちょこちょこ歩くことも出来なくなった。
代わりに俺がケイトに近寄る。
力はないけど、喜んだ顔を見せてくれた。
あんな可愛い顔が、大人になり、そして年を取った。
甘やかしてもらった。励ましてもらった。
慰めてもらった。
一緒に散歩した。
一緒に遊んだ。
社会人になってからは、なかなかそんな時間は取れなくなった。
それでも休日はそばにいた。
そのときは、いつお別れになるか分からない、なんてことはちっとも思っていなかった。
そして今も
いや、今はそうでもないか?
でも、分かる。
俺が近づくと、しっぽを振ってくれてることが。
耐えられなくなった。
両親がもしこんな亡くなり方をしたら、その前にカミさんにお願いしていただろう。
けどそんな時間はなかった。
そして今、俺の職場の長期休暇中、ケイトと過ごす時間には、そんなことを考える余裕があった。
決めた。
俺の寿命を吸い取ってもらおう。
そして、もう少し。もう少しだけ、一緒に過ごしたい。
体を冷水で清め、神社に参拝する。
そして夜の十二時を過ぎる。
裸足で土蔵の前に行く。
習った通りになぞる。
「何か用が出来たか? 話してみろ」
「ケイト……飼ってる犬かもうじき寿命みたいです」
「……で?」
「もう少し、もう少しだけ、一緒に過ごす時間を長くしてほしいです」
もう家族と言えるのはケイトだけ。
ただ生きているだけとしか言えないかもしれない。
けれど、それでも心の支え。その世話をすることが、自分の生活を律する支えになっている。
「ふん。息をするのも苦しそうではないか。その苦しい思いをさらに伸ばそうと?」
カミさんの言うことは、間違ってはいない。
けれど。
「俺はあいつにたくさん支えられてきた。その恩返しも……。何が恩返しになるか分かんないけど……」
エゴだ。
あいつのそばに寝そべって、いつかのようにあいつの体温を感じていたい。
他の生き物の温かさって、暖かいんだよ。
暖かさを感じることで、生きてる実感が湧いたり、自分が存在する実感を感じたりするんだよ。
そして……。
「暖かさを感じさせてくれて、うれしかったんだよ」
「ま、その願いを叶えても、さほど寿命が延びるとは思えんし、その見返りとして吸い取るお前の寿命が釣り合わんが、それでも構わんと言うのならな」
「お願いしますっ!」
カミさんは封を手にして土蔵に入る。
一回きりだったが覚えている。
その後風呂で体を洗って日常に戻る。
少しは元気になっただろうか。
翌朝の日が昇るのが待ちきれない。
いつもより一時間も早くカーテンを開け、鍵を開ける。
「ケイト、おはよう。具合はどう……」
瞬間、俺は頭から冷水を浴びた気分になった。
もうないはずの体力なのに、歩いてこっちに来ようとしている。
その足取りは限界を超えているようなふらつき具合。
そして膝が折れる。
そして再び立ち上がろうとし、また俺に向かって歩き出そうとする。
願ったのは寿命だけだった。健康や体力は全く考えてなかった。
カミさんに会う準備をしようと、頭の中は慌てるばかりだった。
「も、もういいよ。分かった! そっちに行くから!」
寝間着姿のまま、ケイトのそばに駆け寄った。
地面の上であぐらをかいた。
ケイトはその上に乗ろうとした。
何度も何度も同じ姿勢でケイトを迎え入れてきた。
足の上にちょこんと乗り、丸くなってその小さい体を俺に摺り寄せていた子犬の時代。
無理だよ。
お前の体、俺の足からはみ出したじゃねぇか。
お前の体、暖かかったのに、今はそんなに感じられないな。
けど、その体重は比べ物にならないくらい重くなった。
俺と、親父とお袋と一緒に過ごした思い出も入っているのか?
時折かかる重心の位置が変わる。
まだ、こいつも生きている。
伸びた寿命の分だけ、もっともっとと楽しい思い出を必死で作ろうとしている。
耐えられない。
長生きさせてその分苦しい思いをさせるより、亡くなるその時まで楽しい思いでこいつの心の中をいっぱいにしてやりたい!
俺は悲しい思いになるだろうけど、たくさんの楽しい思い出が出来たうれしさをケイトに感じてもらいたい!
その願いを叶えるんだ!
時間なんて関係ない!
カミさんに今すぐ会うんだ!
「ケイト、ごめんな。すぐ戻ってくるから、待っててくれな?」
俺は慌てて家の中に入り、土蔵の前に行く。
封筒は入り口の前に落ちてあった。
が、それを手にしたのは神棚に戻すためじゃない。
入り口の右に置きなおすためだ。
「……昨日の今日……いや、日付は既に今日になってたか。頻繁に呼び出されるのも面倒な話よ。場合によってはお前の寿命の半分以上吸い取るぞ?」
「俺が悪かったでした! あいつの……ケイトの寿命が来るまで、少しでも苦しみを軽くしてあげてください! 何の苦痛もなく、静かに最後の時が訪れるまでゆっくりできる時間を与えてあげてください!」
平身低頭。
背中は極力水平に、そして地面になるべく近く。
その延長上に後頭部のラインが真っすぐになるように。
「バカ者が!」
いつぞやの、小さかった頃の俺が小便を漏らした時以上の恐ろしい怒鳴り声が響いた。
そして背中全体に衝撃が走る。
何者かが俺の背中に何かの一撃を食らわしたように。
その痛みと反動で、背中が地面に垂直になる。
「何でもかんでも叶えてくれるなどと思うな! お前一人で出来ることじゃろうが!」
「で、できません! だってあいつ、あんなに苦しそうに……っ」
「……おおまけにまけて、お前にあ奴の気持ちが分かるようにしてやる! そりゃあっ!」
俺の背中に、一度目以上の衝撃がかかった。
後ろに倒れ掛かる俺の背中に、服を掴まれる感触が走る。
土蔵の中に引っ張り込まれるように引きずられている。
「う、うぁ……。お、俺、ケイトの」
「やかましいっ! グダグダ言わんと、とっとと去りなんせ!」
カミさんに背中を掴まれて土蔵の中に連れ込まれそうになっていた。
なぜか俺は抵抗できない。
ただもがくだけしかできない。
だって、ケイトのそばにいてやらないと、俺はあいつの最期を見届けられない。
そして土蔵の中に放り込まれ、扉が閉ざされ辺りが暗闇になる。
ハッと気づくと、犬小屋のそばで胡坐をかいてケイトを足の上に乗せていた。
「あ……あ? 俺……俺、いつの間に?」
「暖かいな……」
「え? え?」
「気持ちいいな……」
「……ケ、ケイト?」
「うん……泣きそうな声になってるね、どうしたの?」
「あ、あぁ、いや、えっと、ホントにケイトしゃべってるの?」
「……しゃべってないよ……あったかいなって思っただけ」
カミさんの言う通り、ケイトの気持ちが分かるようにするというのはこういうことらしかった。
「小さい頃ね、君の体暖かかったよ。今の君の体も暖かいね……」
ドキッとした。
心の中覗かれてるのかと思った。
「お、俺もケイトの体、暖かくて、ずっとそばに居てほしいって思ったこと、何度もあった」
「そっか。遠慮したこともあったんだよね……」
「今のお前……」
体が冷たくなってきた。そう言おうとして止めた。
もうすぐ死ぬんだぞって言い聞かせるようなことになってしまう気がしたから。
「……ねぇ」
「ん? な、何?」
「あたしがいなくなったら、君、一人きりでしょ? 一人で心配だな、あたし」
死ぬ間際まで心配かけさせて、どうしようもねぇな、俺。
「ガールフレンドの一人でもできるかと思って楽しみにしてたのになぁ」
「……ものの言い方が古い気がするけどな」
悲しさを紛らわすように軽い冗談も言ってみる。
けど、声が微妙に震えてる。
口数が多くなると、いろんなことを知られてしまいそうだ。
「あたしが死んだら、君とずっと付き合えそうな人連れてきてあげよっか」
バレていた。
いや、自らの死を悟っていた。
そんな相手に気を遣わせてしまっている。
「お、おま……。……お前以上に素敵な相棒なんかいやしなかったよ」
「バカねー……。でも、ありがと」
死期を自分で悟っているのなら、遠慮はいらねぇか?
「礼なら……死んだ後親父に言ってきな。お前を連れてきたの、親父なんだって」
「そっか。そこら辺は分かんなかったから……うん、言っとく」
朝日が昇る。
まぶしいが、日当たりがいい。
暖かな日差しを浴びている。
「のんびりした時間を過ごしたのって、幼稚園以来だと思うな」
「うん、君の体暖かくって、朝の太陽も暖かくって……」
「……ケイト?」
「……ごめん。寝坊したいの」
「……いいよ……。今まで、ありがとな……」
言えた。
気持ちを込めて、涙声みたいに声が弱々しくならずに。
「……うん。毎日、ご飯食べなね。……じゃ、あね」
最後の最後にめんどくさい遺言残しやがって……。
冷たくなった体にも、暖かさがあることを実感した。
その暖かさが逃げないように、覆いかぶさるようにしばらく、しばらく抱きしめてた。
ケイトの意識が感じられなくなって、死が訪れたことを実感した。
ペット霊園で一切を任せる。
ケイトに対しての思いは伝えた。
あとは。
……。
いつもの手順通りにカミさんを呼び出した。
「……こんなに頻繁に呼び出されたのは初めてじゃ。今度は何ぞ?!」
いつもにない凄んだ声。
「礼を、言いに」
「言われる筋合いではないと言うたはずじゃが!」
まるで俺の残りの寿命全て一気に吸い取ろうとする勢い。
「あいつの気持ちを知るなんて思いもしないことをしてもらったんだ! 礼なら言う筋合いはあるっ! ……ホントに、本当にありがとうございました」
「で、今日の用件は何ぞ?」
「礼を言いに来ただけで……」
「……ワシは願い事をする者から寿命を吸い取っておる。この家には今は一人。ということは、吸い取られる人間はお前一人だけ。人間の数を増やすようにしておこう。なぁに心配はいらん。お前は普段通り毎日を過ごすだけでいいさ」
そう言って土蔵の中に消えていった。封筒はその場に残したまま。
寿命を吸い取るのは見送ることになったということだろうな。
カミさんは俺に何をするつもりかは分かんないけど。
でも今は、仕事をしながらケイトの冥福を祈る毎日を過ごすだけで充分幸せのような気がするんだ。