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元の理考察

作者: 東雲之東風

この世人間の真実を記しました。

また、世界平和の法則でもあります。

人間は生きながらにして生まれ変わる事が出来るのです。

現在存在する神とは「元は一つ」であると確信しています。

          『元の理・もとのり』考察   


〖第一部・分割解釈篇〗


《はじめに》

 今からお話しするこの「元の理」とは、天理教教理の根幹をなす最重要部分です。ただ、私は、決して信仰や神を皆さんに押し付ける意味でこれを記したのではありません。この世、自然界の人間が平穏に生きて行ける法則を知って頂きたいと思ったのです。この話しに触れ、その一端でも心に納まって心を入れ替えた時「人間は生きながらにして生まれ変わる」と教えられています。その入れ替えた心を神が受け取り、人生を切り替えてくださるのです。

 この話は、一般の方々からすると、荒唐無稽とも嘘であるとも思われるかも知れません。物質的、教育水準的にも豊かになった現代社会においては宗教を大変否定的に捉える方々が多くなりました。しかし、その一方特に先進国においては心の病を抱える人々や、人生の指針となる心の拠り所を求める人々が急激に増加しているのも事実です。こと日本においては毎年三万人以上の人々が自ら命を絶っています。これは、先進国の中で最多です。

実は、私も「人間は、何のために生きているのか」という疑問を漠然と持ち続けながら生きている一人です。多くの方々が私の様に、日々様々な疑問や問題を抱えながら現代社会を生きていると思います。

私も小さい頃より様々な神々の話に触れ、また、多くの指針となりそうな話や言葉を耳にして来ましたが、どれもその一時は感銘を受けるものの、心の中にしっくりといつまでも納まるものはありませんでした。しかし、この話を聞いた時は違いました。理解出来ないにも関わらず、心の中に残り続けたのです。

そして、やっとこの話がある程度理解出来るまでに至った時、この話こそその様な日々を生き続ける方々の疑問解決の一つの糸口となると確信し、これを記してみようと思い立ちました。私自身、疑問が全て解決している訳ではありませんが、自身の心の整理の一端としても始めた次第です。

このお話は、宗教、信仰と捉える以前に、この世自然界の真実の摂理として世界の多くの方々に知って頂きたいと只々私は考えています。

何故ならば、人間は何故この世に生まれたのか、また、こうして生きてゆけば日々満ち足りた平穏な心で生きてゆけるのだと言うことを明確に示してくれているからです。その様な話は、この話以外には無いと私は思っています。


 この話は、「こふき」「この世元はじまりの話し」「泥海古記」などとも言われ、教祖の「こふきをつくれ」との言葉より、教祖が話していたこの世人間の元始まりに関する話を、教祖に近い信者者達が書き留め、それらを集成し出来たものです。 これは、当時信者となった人々に教祖が聞かせた話で、読み書きが出来ない人々にも理解できるよう、解り易く喩え話しとして聞かせた話しでした。

 最も重要なのは、この話を教祖がをその当時に語っていたという事実で、片田舎の一老婆が、当時の最先端の学者でさえ知り得ない事をこうして語っていたのです。この話において最も驚愕するのは、他の宗教に見られる様に、いきなりこの世や人間が創造されたのではなく、人間が水中に生息するほんの小さな生命体から段々と成長、進化をし、その進化に合わせてだんだんと世界も形作られたと明言している点が挙げられます。

 教祖が在世の時代、チャールズ・ロバート・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレスの共著により「種の起源」が発表されたのが1859年の事で、片田舎の一老婆がこの様な事を語っているのが不思議としか表現出来ず、教理としての最重要部分がこの「元の理」であると私は感じました。つまり、この「元の理」こそが、この世人間を創った真実の神である証拠なのだと理解できたのです。

私は、他の宗教を否定するつもりは決してありません。全ての神は元は一つであると思っています。それと言うのも、神の言葉の中に、その時々の人間の成人に応じて、人間が理解できる範囲の教理を時の賢聖と呼ばれる人々に説き聞かせて来たが、最後の「元の理」はこの世の表に現れ出るまで語らなかった。「元の神、実の神」がこの世に現れた証拠として、この話を説き聞かせ、世界一列を助ける。と言われているためです。

特に起源の古い宗教では、文字や言語も現代のように完成されておらず、時代を経るにつれ筆記、転写に際しての誤字、誤植や誤訳、後世に受け継いだ人々の考え等が付与されて現在の教理になっていると容易に考えられるためです。なので、現在は種々に分かれている宗教も元は一つと私には考えられるのです。


 最後に、宗教とカルトは全く別ものであることは断言しておきます。カルトは断じて宗教ではありません。偽物ほどいかにも入り易く間口を広げているのです。また、御利益信仰も信仰ではありません。

更に、いかな理由であれ、他者を傷つけて良いなどと説くものは教理を自分勝手に曲解した紛い物、異端に過ぎないことも付け加えておきます。

しかし、現代の人々に宗教とその他を明確に区別できるよう説明出来ていないのは全ての信仰者の責任でもあると私は考えています。

 前置きが長くなりましたが、先ずは現在語られている「元の理」の原文をそのまま掲載したいと思います。

           「元の理」

この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。

 そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。

 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。

 更に、東のほうからうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。

 かくて、雛型と道具が定まり、いよいよここに、人間を創造されることとなった。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。

 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまで成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。

その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残った。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、1尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、1尺八寸から三尺になるまでは、1胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、1胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。

 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。



          《解釈を始める前に》

 私は、この話を初めて聞いた時にとても驚愕したのを覚えています。

方言や古い言い回しが入っているので最初は理解し難い部分もありましたが、「何と興味深く科学的な話なのか」と感じました。そして、現在の人間の知恵学問がやっとこの話に追いつき始め、それを証明しつつあるとも感じたのです。どの分野の学問でも、学者として、その分野の真理に近付いたり触れたりした者は、そこに、神の存在を確信するという言葉を耳にした事があります。

神の言葉の中に、この世に偶然は何一つない、理責めの世界。との言葉があります。最初は一見無秩序に思われる事でも、必ずそこには一定の法則が存在し、その法則に従って動いているのです。これが自然の理、真実であると思います。

ですが、人間の知恵学問が「元の理」総てを決して説明しつくせるものではないのも解るのです。永遠に謎を探求し続けるのも人間なのではないでしょうか。


 解釈を始める前に皆さんに理解しておいて頂きたい事が幾つかあります。

先ず初めに、神の尺度と人間の尺度には大きな違いが有ること、話しの中に登場する生物はその生物の形質、性質等を現代の生物に解り易く喩えていることを理解しておいて頂きたいのです。

例えば、神の言われる時間や長さを表す単位は、人間が実際に用いている単位そのものの意味とは異なります。また、現在「千」や「億」といった単位は日常的に使用され、左程途方もない数値には感じなくなっていますが、当時の人々にとっては途方もない数値であった訳であり、実際の数値よりも非常に長い或いは多い事を示しているのです。

 では、元の理の原文を私の解釈で少しづつ解説して行きたいと思います。

この解釈が全てであったり完全に正しいという訳では決してありません。悟り方は人それぞれ違うのです。私は、こう考える。という解釈があれば、是非若輩なる筆者までお伝え願います。これを元にそれぞれが「元の理」について考え、理解を深めると言う事が最も大切なことなのです。


 以後にみられる段落分けは、分割解釈を行う上で私が勝手に分割したものであり、実際にそのような段落が「元の理」に存在する訳ではありません。また、宗教色をなるべく排除したいため、語調も論文調に変化し硬い感じを受けられるかも知れません。更に、何度も同じ説明や言葉が繰り返されますが、それは、原文に則して説明を行っているためでくどく感じられる方もいらっしゃるかと思いますがご容赦下さい。



          【段落・一】

『この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。』


 【段落・一】は、神が、何故人間を創造するに至ったのか、その理由を明確に述べたものである。

これは、他の宗教では一切語られた事が無い。なのでこれこそ、本当の神のみぞ知る真実の一つであり、最重要部分の一つと私は考える。

 先ず、「月日親神・つきひおやがみ」とは、天理王命てんりわうのみことを示す。ここには出てこないが、神は、最初から天理王命と名乗った訳ではない。最初は、「元の神・もとのかみ、実の神・じつのかみ」次いで「月日」、「親」と順々に人間が理解できるようその時々により呼び方を変えている。

 では、本題に入ろう。先ず、「どろ海」である。下に「この混沌たる様を」とあることから、混沌と同意であると考えられる。

混沌とは、辞書に❶天地創造の神話で、天と地がまだ分かれず、混じりあっている状態。❷入り混じって区別がつかず、はっきりしないさま。とある。以上の事から、この最初のどろ海とは、全てが一つであった状態、現在科学的に言われる、ビッグバンの元となった宇宙の原初の姿、特異点シンギュラリティである。と私は考え、神とこれらは同意であると導く。

 そして、神がこのままでは「味気ない」と思ったのである。よってここでは、神にも人間同様、心、感情があると言うことが解るのである。

「味気ない」とは辞書に、つまらない、面白味がない、あじきない。とある。あじきないとは、あじけないのやや古い言い方。味わいに欠けて風情や面白味がない。わびしく情けない。とある。

つまり、神であっても、ただ唯一神が存在するだけでは、何の面白味もなく寂しく思った訳である。

 続く、「ともに楽しもうと思いつかれた」。言葉にすれば非常に短いのであるが、この神の閃きこそが、現在の科学で言うビッグバンであると考える。

ビッグバンとは、人間を思いついた神の喜びの感情が爆発したものとでも言うべきものであろう。現在の研究では、この宇宙空間は今なお広がり続けていると言われ、神の喜びが如何程であったか。また、神の無限の力が理解できるのである。

 前述より、宇宙とは、人間を創造するために用意された場であるということになり、創造主である神と人間が、同等の立場で楽しむことができる訳である。

神の言葉には、神と心を同じくして勇むなら、神も人間も同等であるとしている言葉がある。

つまり、神と人間の関係は、単に創造主と創造物の関係ではなく、親神とあるように親子の間柄なのである。

 そして、ここで最も重要なのは、人間は元々「陽気ぐらし」をするように創られているということである。

では、神の言う「陽気ぐらし」とは何か。それは、人間が互いにたすけあって生きる世の中の事を示す。これは、人間同士に限らず、地球に存在するありとあらゆる生命に対しても言える事なのである。

人間が、神を楽しませることにより神も助けられている様に、人間も互いに助けあわなければならない訳である。

これは、この世で生きるための「心」の正しい方向や、使い方を示している。なので、「陽気ぐらし」とは違う方向性に心を向けるということは、この世の根本原理より外れる訳であり、自然摂理として存在し続けることが出来なくなると理解できる。

 人間は、現在の地球上で、食物連鎖の頂点として君臨しているのは紛れもない事実である。しかし、頂点という事は、途轍もない危険性を孕んでいるのを我々は忘れている。

人間は、他の生命を頂くことで自らの命を保っている。頂点という事は、下層のどの部分が欠けても存在できないことを示す。

我々人間が好き勝手に生きてきた結果、地球規模で環境破壊が進行し、他の生命を危機に陥れ、自らの命をも危機に陥れているのである。



           【段落・二】

『そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。』


 【段落・二】で先ず重要なのは「そこで」である。

続いて二回目の「どろ海」が出て来るのであるが、初めの「どろ海」とは時間差及び場面が違うことが解るのである。

 ビッグバン以降、時間や空間、素粒子が発現し、素粒子が集合し種々の原子が形成され、原子が集合し分子となり、分子が集合して様々な物質へと変化し、その物質同士が集合分散を繰り返し、原初の銀河、どろどろとした灼熱のマグマの流動体の塊のような原初の惑星を形成し、その惑星の地表に原初の海及び生命が誕生するまでの時間が「そこで」の間に経過していると考える。人間の感覚からすると途方もない時間経過であるが、神から見るとその程度の時間なのである。

「そこで」とは❶前述の事柄を受けて、次の事柄を導く。そういうわけで、それで、だから。❷話題を変えたり、元に戻したりすることを示す。さて、ところで。とある。

 時間差があるとしたのは、神が人間の完成した姿を想像するのにかかった時間と、「見澄ませば」にかかる時間である。見澄ますとは、辞書に❶気を付けて見る、心にとめて見る。❷見て確かめる、見届けるとある。神の目をもってしても、気を付けて見なければならない程であるという事は、それ程それらの生命体が小さかった訳であり、また、時間をかけて見届けなければならない程の種々の不確定要素を含んでいたと考えられる。不確定要素とは、突然変異とそこから発生する進化である。 

 場面が違うとしたのは、「どろ海中を」としており、「中」と言う空間の認識が発現している点である。空間が発現していると言う事は、原初の地球に生命体が誕生できる空間が出来ていた訳である。

つまり、神の想像は現実の創造となるという事である。人間の創造を想像した事が生命誕生へと繋がっている訳であり、平凡な表現になってしまうが、この生命誕生こそが、神にしか出来得ない奇跡である。只の物質の集合体であったものが生命をもつ生物へと変化したのである。

そして、これら以降の生命体を理解する上で必要なのは、これらの呼び名が原初生命体の形態、生態、性質等を喩えて示されているという事である。つまり「うを」も実際の魚ではない。「み」も蛇ではなく、「どぢよ」も泥鰌ではない。これは冒頭に示した理由による。

また、以降登場する生命体が、人間を創造する上で不可欠な元となるものであったと言う事が解る。

 続いて、「どぢよ」、「うを」、「み」、各生命体の個体数の差である。

「どぢよ」は沢山である。神から見て沢山という事は、どろ海中はほぼどぢよで占められていたという事である。

この沢山居た「どぢよ」が光合成を行い、現在の地球に酸素をもたらしたのである。ここから見られる様に、個体数の多い順に示されていると思われ、うをとみはほぼ同数で極少数であろう。更に、これらの生命体の発現順序でもあるかも知れなが、ほぼ同時に発現した可能性もある。これは私には解らない。

 次に、夫婦の雛型とするため、「うを」、「み」を引き寄せている。ここで、既に「夫婦」とある事から、雄性・雌性の区別と、それらによる有性生殖により増殖してゆく事が確定づけられている。

二種類の生命体を合わせることにより、次々と色々な種類の生命体が発現及び進化、成長をしてゆくという事である。雛型とは、❶実物を小さくかたどったもの、模型。❷様式、書式、手本とある。

 続いて、両者の性質を神は見ている。前回同様「見澄まし」ている。時間がかかっているのである。極小のものの更にその中を隈なく見たのであろう。そして性質を「一すじ心」と言っている。ひとすじとは❶細長いものの一本。❷それだけに専心するさま。とある。ただ一筋ではなく「一すじ心」としている。

つまり、両者の生命活動が永遠に単一的な動き及び、分裂等により同じものが繰り返し複製され続けるだけであったと推測できることに加え、心も存在していた訳である。

 ここで、私は一つの疑問を持つ。何故沢山居た「どぢよ」ではなく「うを」と「み」を雛型に選んだのかである。

私の考えとしては、両者には、現在総ての生物の中に存在する二重螺旋構造、遺伝子・DNAの前進である一本鎖構造、RNAの元を持っていたのではと「一すじ心」の言葉より推測するのである。これこそが、雛型として「どぢよ」ではなく「うを、み」を選んだ一番の理由と考え、更に、両者がある程度の機動性も備えていたためではないかと推測する。根拠は、「引き寄せる」である。動かすことが可能であったという事が解り、動物細胞への変化が可能であったと考える。

 そして、呼び寄せた両者に対し説得を行っている。神であるからその心までも思い通りに支配するのは可能である筈であるが、説得をしているのである。つまり、心は自由のままなのである。

この理由は、神にも心がある以上それらの生命体にも心の自由を与えたのだと考える。また、育んでゆく過程も親として楽しむためとも考えられる。

ここには記されていないが、その説得に対し、両者は断りの返答を幾度も神に対してしている。幾度も断ったとする理由は、「引き寄せ」「承知をさせて」である。両者の意思とは関係なく、引っ張って来られ、承知をさせられたのである。また、教祖の道中を記した各書物に、神が最初にこの世に現れた天保九年十月二十三日から二十六日までの神と家人達との遣り取りと、神の社となった教祖が、自ら命を断とうとした事が幾度かある事が記されているからである。つまり、度重なる神の説得に承服させられたのであると推測する。「承知をさせて」ということから、説得も「はい」と言うまで続けられるのである。

神は、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう」と説得をし、承知をさせた両者を貰い受けたのである。

また、ここより物事の順序が定められ、「順序の理」という事が発現したものと理解できる。


         

           【段落・三】

『続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。』


 【段落・三】ここからは、人間の元となる生命体を生み出すための雄性・雌性の元を形作ってゆく作業である。

現在「雛型かんろ台」が据えられている地点「ぢば」より見て各方角に住んでいた生命体を呼び寄せたのである。ここで初めて、方角の概念及び確定がなされている。【段落・二】までには方角は出てこない。

「ぢば」とは、この一連の人間創造を始めた元の場所であり、この世全てが神の身体であるが、地上において天理王命がお鎮まり下さる地点を示す。

更に、これらの生物達が発現する時間が、【段落・二】の間に経過しているのも解るのである。「うを、み」を引き寄せ承知をさせる時間である。【段落・二】まででは「どじよ、うを、み」の三種類の生命体しか発現していない。

「乾・いぬい」は西北である。「しやち」とは「鯱・しゃちほこ」である。怒張、緊張するような生物であったのだろうか。言葉にも鯱ばるというのがある。

鯱ばるとは❶鯱のように厳めしく構える。❷緊張して固くなる。とある。

「しやち」は「男一の道具、及び、骨つっぱりの道具」とある。

「男一の道具」は雄性生殖器を示し、「骨つっぱり」とは骨格器官である。両方共固く凸の性質を示している。つまり「しやち」の体内に骨格の元となるものが存在していたのであろう。

「巽・たつみ」は東南である。東南方向より「かめ」を呼び寄せたのである。海底をのろのろと這うような生命体であったのであろうか。ここからは「しやち」と「かめ」の素早さの違いも解る。「しやち」よりも「かめ」の方が動きが遅い訳であり、両者の性質も「荒々しい、大人しい」の違いがある。「益荒男ぶり、手弱女ぶり」と言ったところであろう。

そして、かめは「女一の道具、及び、皮つなぎの道具」であるから、雌性生殖器として、また、他の生命体よりもより強靭な外皮を持っていたことが解る。外皮というか細胞膜であろう。「かめ」であるから甲羅の様であったのかも知れない。

 また、今回は、「引き寄せ」ではなく、「呼び寄せ」としている。神の呼び掛けに応じやって来た訳である。

私は、この違いには四つの理由があると考えている。

一つ目は、「うを、み」よりもより従順であった。

二つ目は、「うを、み」よりも機動性が大きかった。

三つ目は、「ぢば」からより遠方に生息していた。

四つ目は、神の声を聞き届けられる耳や感覚の元となるものを有していた。

と考えるのである。

 承知をさせて貰い受けるのは前回と同様であるが、次に大きな違いが見える。「食べてその心味を試し」である。今回は「うを、み」と異なり食べているのである。私は、これが「うを、み」に対して食う食われるの関係であり、更に続く「その性を見定めて…仕込む」ここまでの一連の下りこそが、現在言われるところの細胞内共生であると考える。つまり、生命体のままその形質を失うことなく体内へ取り込まれたのである。

また、「夫々をうをとみとに仕込み」であるから「しやち、かめ」の両者を夫々「うを、み」の中に仕込んでいる。「うを」に「しやち」を「み」に「かめ」を仕込んでいるのではない。つまり、両者の中に雄性、雌性両方の性質が備わっているのである。ここはかなり重要な部分でもある。

つまり、雄性の中にも雌性的部分があり、逆もまた同じなのである。なので、男らしい男、女らしい女のみではなく、女らしい男、男らしい女の発現が十分に考えられる訳である。

 次に、「試し」という表現はそのまま取り込んだ生命体が「うを、み」のなかで調和して一つの生命活動となるのに要した時間経過と考える。更に、これより体の大小の関係も解るのである。「うを、み」の中に仕込むことが出来るということはより小さかった事を示している。

 そして、「しやち」には「月よみのみこと」、「かめ」には「くにさづちのみこと」、雄性の雛型には「いざなぎのみこと」、雌性の雛型には「いざなみのみこと」という神名を与えている。これは、人間を創造する上での元となってくれた道具衆への神からの礼である。神名を与えることにより、人間より上の存在としたわけである。


 ここには記されていないが、教祖による夫々の説き分けを記しておく。

「くにさづちのみこと」 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理

「月よみのみこと」 人間身の内の男一の道具、骨突つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理

「いざなぎのみこと」 男雛型、種の理

「いざなみのみこと」 女雛型、苗代の理

と、夫々説いている。


 ここより解るように、生命体の生命活動の原理だけではなく、この世の根本原理として地球を形成してゆく色々な作用へも道具である生命体の原理を応用し、人間が成長、進化するに応じて世界環境が整えられるようにした訳である。



            【段落・四】

『更に、東のほうからうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。』


 【段落・四】では更に、人間を創造する上で必要となる道具衆を呼び寄せている。「東」から「うなぎ」を。これはぬるぬると長い生命体、現在の腔腸動物の原型のようなものだろうか。これは「飲み食い出入り」つまり消化器系の元となるものを持っていた訳である。

「坤・ひつじさる」は西南である。その方面から「かれい」を。平たくひらひらした生命体であったのだろうか。これは「生き吹き分け」つまり呼吸器系の元となるものを有し、細胞内小器官のミトコンドリアの元となった生命体ではと推測する。

「西の方からくろぐつなを」私は、この「くろぐつな」が解らなかった。これは、「くろ」は色の黒であり、「くつな」は「くちなわ」、朽ちた縄が変化したもので蛇の方言である。なので、この生命体だけは色もはっきりしている。黒蛇ににたうねうねと長い生命体である。これは細胞小器官の中心体のような分裂時に引っ張り分裂をさせる役目と考え、そのような仕組みを有していたのであろう。

最後に「艮・うしとら」北東から「ふぐ」を呼び寄せている。この「ふぐ」は「出産の時親と子の胎縁を切り、出直しの時息を引き取る世話、世界では切る事一切の守護の理」と教えているので、自己細胞を破壊したり、生命活動を停止させる仕組みへと進化し、そのような仕組みを有していた生物と考える。

「出直し」とは天理教で「死」を意味する言葉である。また、艮は陰陽道等で鬼門と言われ忌み嫌われる方角でもある。

神は、死も神の守護の一つであるとしていることから、神から見れば死は決して忌むべき事ではないが、死の本当の意味を理解できていない人間側から見ると死とは忌むべきものであるという考えの相違が発現した訳である。

 では、何故死が忌むべきものではないのか。神の言葉に「魂は生き通し」とあり、「古い着物を脱いで、新しい着物を着せてもらって帰ってくるようなもんやで」と説いている、魂は未来永劫生き続け、その「魂の器」である新しい身体を再び神から借りて再びこの世に戻って来るのである。

神の言葉によると、死ぬと身体より魂が抜け神の元へと帰る。人によりその時間差があるが、前生までの因縁に順った新しい身体を神より借り受け再びこの世に帰って来る。つまり、天国や地獄と言った所謂あの世は存在せず、この世があるばかりであると言う。ただし、人間に必ずしも転生するとは限らない。前世の行いの如何により「牛馬に堕ちる」とも言っている。つまり、人間以外の生物へと転生し、人間になるまで再びやり直さなければならない場合もあるのである。仏教の六道輪廻に似ている。

「新しい身体を借りて」としたのは以下の神の言葉による。

「人間神のかしものかりもの心一つ我が理」とあり、これを「かしものかりものの理」と言い、人間(の身体は)からのかしもの(であり、人間から見れば神からの)かりもの(なのである)心一つ(だけが)我が(ものである)と言う意味の言葉である。つまり、身体は借りているだけであって、心以外は自分のものではないのである。その証拠とは、一度病気や怪我をすると自らの意志では動かしたり自分ではどうすることも出来ない状況となる。

 次に、【段落・四】では【段落・三】までの時間経過により新たに四種の生命体が誕生している。また、これらの生命体は「承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試す」は同様であるが、「呼び寄せ」ではなく、【段落・二】と同じく「引き寄せ」となっている。「引き寄せ」なので意思とは関係なく引っ張って来られたと思われ、【段落・三】の生命体よりもより「ぢば」の近くに生息、また、機動性が乏しかったのではと推測する。

ここでは【段落・三】に見える「仕込む」が見られない。これは、捕食しそのままの形で取り込まれたものと、その性質、器官等のみを取り込んだものがあるのではないかと考えられる。具体的にはその形質が発現する遺伝子が取り込まれたのであろう。

そして、「試す」とあることから、その遺伝子に起因する性質や器官が発現し、一つの生命活動として成り立つまでに時間を要しているのである。

更に、「次々と」であるから【段落・三】よりも時間経過的には早急である。これは【段落・三】までの間にある程度進化しており、より時間の短縮が出来たものと考えられる。

ここでも食う食われるの関係から見るとやはり【段落・四】の生命体の方が夫々小さかったのではないかと推測する。

また、【段落・三】同様「うなぎ」には「くもよみのみこと」、「かれい」には「かしこねのみこと」、「くろぐつな」には「をふとのべのみこと」、「ふぐ」には「たいしよく天のみこと」の神名をさづけている。

 

 ここには記されていないが、教祖による説き分けを記しておく。

「くもよみのみこと」 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理

「かしこねのみこと」 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理

「をふとのべのみこと」 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理

「たいしよく天のみこと」 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引き取る世話、世界では切ること一切の守護の理

と説いている。

後の段落に出て来るが、「月様」に「くにとこたちのみこと」、「日様」に「をもたりのみこと」との神名をさづけている。

これを「十全の守護・じゅうぜんのしゅご」と教えている。

「くにとこたちのみこと」 人間身の内の目潤い、世界では水の守護の理

「をもとりのみこと」 人間身の内の温み、世界では火の守護の理

と説いている。

 前段落同様、生命体の生命活動の原理だけではなく、この世の根本原理として地球を形成してゆく自然の摂理、自然の大循環が、前段落の道具衆と合わせ十全の守護という形で形成されているのである。


 お気付きの方もあると思うが、引き寄せ或いは呼び寄せられた生命体の中に北と南の方角は無いのである。

現在に於いても、北極、南極は生命が存在するのに大変厳しい環境であり、当時もそうであったのではないかと推測できる。或いは、「うを、み」がその方角を司っているのかも知れないとも私は考える。



         【段落・五】

『かくて、雛型と道具が定まり、いよいよここに、人間を創造されることとなった。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。』


 【段落・一~四】までで人間を創造する上で必要となる全てが揃ったのである。つまり、人間へと進化してゆく生命体を生み出してゆく雄性、雌性の元の生命体が完成したことを示している。

 次に、どろ海中のどじよを皆食べて今度は「心味を試す」ではなく「心根を味い」とある。試さずにそのまま用いているわけである。皆食べてとあることから「どじよ」はほぼ食べつくされ絶滅したと考える。やはり、食う食われるの関係でゆくと「どぢよ」の方が小さかったのではと推測できる。

そして、神から見て「どじよ」の心は一点の曇りもない水のようであったのであろう、一言で表すならば「無」というところである。これを「人間のたね」とした。「たね」いう言葉より植物的な印象を受ける。「子種」等の表現もあるので動物に対しても「たね」を用いるのであるが、どじよに対し、他の道具に見られる「引き寄せ、呼び寄せ」等動的な表現がないことから植物的印象を持つ訳である。また、【段落・二】において、その数を「沢山」と言っていることから「ぢば」周辺にも数多く生息しその必要が無かった、或いは、雛型である生命体に機動性があり、動いて捕食出来たと考えられる。

 先より言っているように、これは形の喩えである。私は「どぢよ」とは糸状のシアノバクテリアのような生命体であると考え、「たね」とは「魂、心」であると捉える。動物細胞へと進化する過程で消えているが、現在の植物へと進化し植物細胞に見られる葉緑体の元となった生命体である。

その証拠として、人間は植物の作り出す酸素を呼吸で取り込まなければ生きて行けないように進化したのではないかと推測する。

科学的にには、メタン生成や光合成よりも、酸素を取り込むことによりATP(アデノシン三リン酸)というより効率的に大きなエネルギーを含む物質を作れるように進化したのである。

 そして、雛型と道具を揃え、そこより生み出される魂の器である人間の身体へと進化してゆく生命体に、一点の汚れも無い美しい魂を入れたのである。

 神は、人間として進化、成長させてゆくために作っているから、最初に生み出される生命体が我々人間の言う微生物に当たるものでもそれは人間なのである。



        【段落・六】

『そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。』


 現在でも十は「全て」を意味する数として用いられている。ここには記されていないが、「月様」に「くにとこたちのみこと」、「日様」に「をもたりのみこと」との神名をさづけており、これで全てが揃った訳である。これを「十全の守護・じゅうぜんのしゅご」と教えている。「くにとこたちのみこと」は「人間身の内の目潤い、世界では水の守護の理」、「をもとりのみこと」は「人間身の内の温み、世界では火の守護の理」と説いている。

いざなぎのみことの体内に月様が、いざなみのみことの体内に日様が入り込んだと言うのは、夫々に雄性としての神の力と雌性としての神の力を仕込まれたのだと推察し、両者をして、有性生殖の可能な状態に変化した事を意味すると考える。

その上で「人間創造の守護を教え」とは、有性生殖をもって、雄性・雌性の元である生命体の中に有る一本鎖構造・RNAを組み合わせ二重螺旋構造・DNAへと変化させる力を与えられたのだと考える。ここにおいて人間へと進化してゆく生命体がいよいよこの世に生み出される状態となった訳である。

 以降に見える数値は、神の目から見た数値であり、実際の現在の人間のそれとは異なる。

そして、「三日三夜」に当たる時間を要して「九億九万九千九百九十九」の子数を胎内に宿された訳である。

それから、「三年三月」その場に留まりその胎内にて子を育み、その後「七十五日」掛かって全ての子数「九億九万九千九百九十九」を出産している。

「留り」とあるので雌性の元である生命体には機動力があった事が解る。

また、産み出された生命体に性別等があるかは明記されていない。が、この産み出された生命体こそ現在全ての生命体の細胞内に存在する二重螺旋構造、つまりDNAをその体内に持った初の真核細胞の生命体である訳である。

 私は、「九億九万九千九百九十九」とは、途方もない無限の様な数であるものの、無限ではないという数値と考える。

現在の「億」と当時の「億」とでは人の感じ方に大きな違いがある事を理解して頂きたい。当時としては億とは現在とは比べる事が出来ない程途方もない大きさの位である。

魂が生まれ変わり出変わりして無限のように見えるが、数には限りがあるという意味と考える。

 私は、ここで一つの疑問が浮かぶ。「どぢよ」の数である。

最初は「沢山」であり、次は「皆食べて」、そこより「九億九万九千九百九十九」の子数が宿し込まれる。

私は「沢山=皆=九億九万九千九百九十九」であるのかという点についてはまだ答えは導き出せない。



         【段落・七】

『最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。』


「最初に産みおろされたものは、一様に五分であつた」一分を3㎜と考えると約1.5㎝であるが、その後ろに続く「五分五分と成人をして」と続くことから、ここでは、ほんの小さなものが長い年月をかけ少しづつ成長、進化をしたことを喩えていると捉える。現在でも「一寸」を「ちょっと」と言い、ほんの少しを喩えて言うのに用いられている。

 「九十九年」ここにおいて初めて生命体の寿命が出て来る。道具となった生命体達には寿命は記されておらず、「どぢよ」も含めそれまでの生命体には寿命と言う概念は無かったのかも知れない。

私は、前段落の数値から勘案みて不老長寿ではないが、現在の人間からみると不老長寿と思えるほど長生きであったと捉える。

 「九十九年」を経て最初「五分」の大きさであったものが「三寸」6倍まで成長している。この「三寸」も一寸を約3㎝と考えると約9㎝であるが原寸ではなく前述のとおりである。続く、「皆出直してしまい」であるが、先にも述べたが「出直し」とは天理教の教語で死を意味する。なので、絶滅した事となる。また、子供である生命体自身には性別、生殖、繁殖能力がまだ備わっていなかったのかも知れない。

 次に、いざなぎが身を隠したとある事から雄性の元も死んだ訳である。道具衆として神名を与えられているので「出直し」ではなく「身を隠された」となる訳である。既にこの時点で、雄性の方が短命であることも伺える。現在の人間も男性よりも女性の方が平均寿命が長い訳である。

ただ、「身を隠された」」とは、自然に寿命が尽きたのか、それとも自ら身体を返した(人間から見ると自死であるが、魂は死なないので魂となって広く守護しようとした)のかは私には理解できない。

 言葉の順序より考えると九十九年の寿命で子が絶滅しその後雄性の元の生命体が死んだと考えられるが、同時とも受け取れる。

この場合、地球環境的に考えると、「いざなぎのみこと」には「くにとこたちのみこと」が入り込んでおり、「くにとこたちのみこと」は世界では水の守護の理とある事から、水の守護が一時的に弱まり火の守護が大きくなったと考えられ、火山活動の活発化や隕石の衝突等何らかの理由で一時的に地上の水分が減少、気温上昇等の変化があったと捉えられ、それによる絶滅とも考えられる。


         【段落・八】

『しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。』


 「いざなみのみこと」は再び同数の子数を宿し込んでいる。

前段落より、子供を産むに適した地球環境に戻ったと推測される。ここでは宿し込みに要した期間が記されていないのでどれ程時間を要したのかは分からない。が、前段落に見られる時間がより短縮されていることを考慮すると、同じかより短縮されていると推測できる。

 ここで疑問が生ずる。雌性のみで有性生殖を行った事となる訳である。

ここで、「一度教えられた守護により」の言葉より、いざなぎの雄性の生殖細胞を体内に持っていた。或いは、魂の抜けたいざなぎの身体のみがいざなみに接合されたり、取り込まれたままの状態で残存していたのではと推測できる。現在の生物にもそのような形で生殖を行う生物が存在するのである。

 更に、今度は、出産までにに掛かる時間が三年三月ではなく大幅に短くなり十月となっている。雌性の元の生命体自身も進化、成長をしたものと考えられる。最初は産み下ろすのに七十五日かかっているが、今回はその表現がない。

文章から察するに「これを産みおろされた」とだけあるので、最初と同じか短縮されたと考えるのが妥当である。

 そして、同年の寿命で最初よりも五分大きくなり「三寸五分」にまで成長しまたもや絶滅する。この絶滅は、寿命が尽きた事による自然な絶滅であると捉えられ、五分の成長は、身体、身体機能、魂等が最初よりもほんの少し成長、或いは進化したことを示していると考える。

ここでもまだ子供である人間の元となる生命体自身には性別生殖、繁殖能力が備わっていなかったのではないかと考えられる。


        

         【段落・九】

『そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまで成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。』


【段落・九】では更に三度目の宿しこみを行っている。雌性の生命体のみで有性生殖を行えるのは【段落・八】に示した通りである。

 三度目も生まれた当初の大きさは「五分」と同じであり、寿命も九十九年と同じであるが、更に五分大きくなり最終的に「四寸」となる。この五分の成長も、身体、身体機能、魂等が前回よりも更に成長、或いは進化したことを示している。

 ここで雌性の元である「いざなみのみこと」が身を隠している。つまり死んだ訳である。これも「いざなぎのみこと」同様寿命による自然死であるのか、自ら神に身体を返したのかは判別がし難いが、死に際し「これまで成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」との言葉を遺しているので、つづく「につこり笑うて」の言葉からも自ら身体を神に返し、魂として世界より守護をするように考えたと推測するのが妥当と考える。

つまり、この大きさにまでなれば自身が直接見守らずとも人間へと成長、進化をしてゆく事を確信したわけであり、更に、人間の元となる生命体自身に性別、有性生殖及び繁殖の能力が備わったのではないかと推測できる。

ただ、雌雄の個体数の割合はこの段落までのどの部分にも述べられていない。ただ、現在の人間を含む動物の雌雄の個体数の差をみるとほぼ半々であるから同数であったかも知れない。また、中には性別を変化できる生物も存在しており、そのようであった可能性もある。

 今回は、「いざなみのみこと」が身を隠したために子供達は後を追い絶滅したのである。前段落の様に九十九年の寿命による自然死ではなく自死という事になる。

地球環境的に考えると、「いざなみのみこと」には「をもたりのみこと」が入り込んで居る。「をもたりのみこと」は世界では火の守護の理であるから、火の守護が一時的に弱まった、つまり温度、気温の低下により絶滅したと捉える事が出来る。地球史における全球凍結であろう。




          【段落・十】

『 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残った。』


 【段落・十】ここからは「いざなみのみこと」より人間の元となる生命体が生み出されたのではなくなる。前段落において死んでいるためである。

 前段落において、人間の元となる生命体自身に有性生殖及び繁殖の能力が備わったと捉えられるのはこの段落による。前段落でも最後は絶滅しているのだが、それ以前に生命体自身による出産が完了していたことが解る。そうでなければ以降に続く生命体及び我々人間が完成していない。

 疑問として、「九億九万九千九百九十九」の子数が全て生存している状態では、その生命体が生み出した子の中に魂が入っていないのでは?と考える方もおられると思う。私も最初そのように考えた。だが、これは間違っている事が解った。最初の出産時全ての子数を産み下ろすのに七十五日かかっている。つまり一番最初に産み下ろされた生命体と一番最後に産み下ろされた生命体とでは神の目から見た七十五日の時差があるのである。以降の産み下ろしにおいても短くなるが時差はあるのである。という事は、同じく九十九年生きるとするとその時差により先に死ぬ者と後に死ぬ者の差が生まれ、これにより生まれ変わり出変わりの時間差が生じる。また、「いざなぎのみこと」が先に死んでいるように、雄性の方が寿命が短いと推察され、同じ九十九年の寿命であっても雌雄により若干の差があったのではないかと考えるのである。更に、十種の道具衆の魂はこの「九億九万九千九百九十九」に含まれておらず、それらが転生したとも考えられる。

 この段落からは、人間の元となる生命体の形質がより進化、成長、分化し、「虫、鳥、畜類など、八千八度の生れ更りを経て」と、前段落までの生命体の種類より急激に生命体の種類が多くなっている。現在の地球上に存在する生命体のありとあらゆるものに生まれ変わり、進化、成長してきた事が記されている。なので、現在の我々は如何な環境においても生息出来るように神が創り上げていることが解る。ただ、道具衆の生命体同様、形質等を喩えたり、やがて虫、鳥、畜類に進化する生命体であると考える。

 私は、本段落の時代に多種多様の生命体が発現したと考え、これこそ地球史上のカンブリア爆発と考えられ、カンブリア紀からデボン紀辺りに相当するのではと考える。また、本段落においてはこれらの生命体の寿命は記されていないことから、進化した生命体により寿命の差が現れたと考えられる。

 本段落でも、最後に再び「皆出直し」とあり絶滅している。この絶滅は理由が明確でない。隕石等外的要因か、火山活動等内的要因による地球環境の変化であるのかはわからない。

しかし、現在のミミズの祖先に当たる生物や虫類は先に陸上へ進出していたことが解っている。なので、先に陸上生活を他の生命体として学ばせておき、後に人間へと進化してゆく生命体として生まれ変わらせるために絶滅させたとも捉えられる。

 そして、段落最後の「最後に、めざるが一匹だけ残った。」である。他者は全て絶滅したが、一匹だけ雌性のさるが残されたのである。この一匹も実数としての一匹なのか、ほんの極少数であるのかはわからない。が、私は、極少数と捉える。

そして、この「さる」も現在の類人猿等の所謂哺乳類の猿ではない。まだ、水中に生息するやがて猿に進化するものあるいは、さるの様な生き物なのである。ここまでの生命体が全て水棲生物であるのは後段落に記されている。


          【段落・十一】

『この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。』


「この胎に、」とは前段落の最後に一匹残った「めさる」の体内である。そこに「男五人女五人」とあり、ここで初めて性別及び性別個体数の割合が示されている。つまり、五対五、半々の同じ割合であり、文章から察すると既に胎生のようにも思えるが、卵の状態を示しているともとれる。やはり、ここでも神の目から見た「五人」であるので、実数ととるよりは、雌雄ほぼ同割合の個体数ととるのが自然であろう。

 そして、ここでもまだ成長に関し、「五分から生れ、五分五分と成人して」と前段落までと同じ表現なのであるが、私は、各段落に於ける「五分から生れ」の「五分」が同じ大きさではないと捉えるのである。それは、【段落・九】までに九十九年の間に生命体の最終的な大きさが少しずつ大きくなっているためである。なので、これは最初から成体と同じ大きさで産み出されるのではなく、小さな子供、幼生、幼体として生み出され、段々と成長してゆくと理解するのである。

更に、本段落に於いては九十九年という寿命の表記はなく、個々に寿命に差が生まれ、成体の大きさになるまでの時間がかなり短縮されたと考えられる。

 次に、本段落では、人間の進化、成長に応じ段々と世界、地球環境が整えられてきたことが明言されている。

これによれば、人間に進化する生命体が、神の目より見て八寸に成長出来るまでになった頃どろ海の中に高低差が神の十全の守護により出来かけたとしている。

つまり、海中に地球内部のマントルやそれに伴うマグマの働きによりプレート運動が生じ、海溝や海嶺が出来たのであろう。

そして、一尺八寸にまで成長できるようになった頃に、陸地、海等現在の地球の元となる状態が整ったのである。

「天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた」とは、原初の雲や火山灰で覆いつくされていた大気の状態から現在の大気の状態に近づき、一様に闇に近い状態から、昼、夜と言った環境が整って来たことを示唆していると考えられる。



          【段落・十二】

『そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。』


 本段落では、人間へと進化してゆく生命体が、進化、成長するに連れて段々と一度に産み出す個体数を少なくしていった事が示されている。

確かに、魚類等の水棲生物よりも、陸棲生物の方が一度に産み出す卵や子の数は少なく、高等な生物になるほどその数は少ない。哺乳類ともなると更にその数は少なくなる。

更に、神の目から見て「三尺」になった時点で声を発現させたことも解る。これも現在人間が発声している声とは異なり声の元となる器官へと進化するものであろう。また、「ものを言い始め、」とあるので、知性の元となる脳のような中枢神経系も獲得していたかも知れない。

「五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。」

 ここに見られる「五尺」は今までとは異なり実寸と考える。その根拠とは、現在では魚類が進化し、陸上生活を始めた頃の化石とされるのが、イクチオステガと呼ばれる種の生物の化石であり、この体長が約1・5m程であったと推測されている。

五尺は、明治時代に一尺=303.0303㎜(曲尺)と定義されており、約30㎝と考えると1.5mである。

ここは、非常に重要な部分であると私は考える。なぜならば、現在はこれが約1.5mと解っているが、当時の人間では知る筈の無いことであり、これこそこの世人間を創造した「真実の神」であることが人間の科学によって実証された根拠の一つとなると考えるからである。

ここより推察すると、尺で示されている成体の大きさについては、実寸である可能性も十分考えられる。



          【段落・十三】

『この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。』


この最後の本段落も大変に重要である。何故ならば、教祖が生きていた時代には、人間が水中に生まれた微生物より段々進化、成長をしてきたなどとは解明されておらず、また、地球史的に見た場合進化、成長の過程において生物が陸上生活を始めたのがほんの最近の事であり、それ以前は長期に渡り水中に生息していたなどとはまだ知られていない時代である。

そして、人間が段々と知能を発達させ、文字を獲得してゆくに至る経緯までを記している。

 現在の地球史を大まかに見ると、地球誕生より約百四十億年が経過しているとされている。

その中で、生命が誕生した始生代が約三十八憶年前、生物が陸上へと生活の場を移した古生代石炭紀が始まるのが、三憶五千九百万年前、哺乳類に猿が誕生し、その猿が世界へ移住し始めたのが、新生代第三紀の中新世で、約二千三百万年前、人類の誕生と二足歩行を獲得したのが、鮮新世で約五百万年前である。

人類が農耕牧畜を開始し、最初の文明が現れるのが、有史時代第四紀完新世(沖積世)で約一万年前である。

なので、現在提唱されている部分と照らし合わせた場合、「九億九万年は水中の住居」が約三十四憶年に相当し、「六千年は智慧の仕込み」が約三億六千万年、「三千九百九十九年は文字の仕込み」が約一万年と考えられ、神の目から見た時間の流れや数値にこれだけの差がある。

また、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら」は九億九万九千九百九十九年後であり、それが天保九年十月二十三日となる。

最後に付け加えると、現在の全人類の数は六十憶人を突破し、あと少しで七十憶人になると言われている。

そこから考えると、九億九万九千九百九十九とは、無限に近い数と考える方が良いかも知れない。



《考察を終えて》

 この考察を終え、私が思うに、天保九年十月二十三日とは、人間が神の話を理解でき、尚且つ、学問が真理に到達し始めるギリギリのラインであったのではないかと考える。それは、ある程度の事象が学問により証明されて後では、人間に神として信ずるには値しない、と判断されてしまう恐れがあったと私は考える。

 最初にも記したが、チャールズ・ロバート・ダーウィン、アルフレッド・ラッセル・ウォレスの共著によりこの頃の最先端の学問であろう「種の起源」を発表したのが1859年の事である。だが、発表当時は、当時の生物学の根本であった宗教的信念の否定に繋がったため、科学的だけではなく、宗教学、哲学的論争をも引き起こした。広くこれらの学説が世に受け入れられるようになったのは1900年代に入ってからである。

 この頃より、科学と宗教は対極に位置し始めたと考える。しかしながら、科学、学問の元は、宗教的信念の解明が元なのである。故に、その学問を究め、真理へと到達した時、この世の全ての事象が余す事無く自然の一定の法則の元に動いている事が理解出来、人間はそこに神の存在を意識するに至るのである。

 また、現在の各国の法律の元もやはり宗教学的信念が元となっているものが多いのである。人間は現在に至るまで、世界的な戦争を経験しながらも、自らが本当に致命傷に至る最悪の出来事は回避している。それは、人間が、自らの過ちを反省できる英知を神より授かったからである。

教祖が語っているように、神が表に現れるまでの間は、人間の成長の度合いに応じその時々の賢聖に神の真理の一部を解き明かし、人間が大きく間違えた方向へと進むのを回避させ親として守護をしながら、約束の年限である天保九年十月二十三日を待っていたのであると考える。

そして、それまで決して解き明かす事の無かった究極の真理であるこの世と人間創造の真実を「元の理」として伝えることにより「元の神・実の神」の証明としたのであると考える。

 このように私は、全ての智慧、学問の発展こそが、この世自然の摂理であるこの神の真理を証明する事へと繋がると信じている。

 次に、天理教が世界へ広まった背景には「病助け」がある。

神の言葉に、「医者の手余り神が助ける」とあり、当時医者に匙を投げられた数多の人々が教祖を頼って訪れ、それにより助けられた人々により急速に広まった。その中には、最早自ら教祖の元へ行くことが出来ない者が、家人や代理の者を教祖の元へと遣わし、その者が聞き帰った話を聞く事で助けられたり、先に天理教の信者となった者より神の話を聞き助けられた者が数多く居る。

その神の話こそ「元の理」であり、話を聞くだけで助かる理をもって真実の神、真実の話である事の証明ともなると考えるのである。

神は、医学等を否定していない。その言葉には「修理や肥に医者薬」と言われているのである。

現在は、「医者の手余り」が当時よりも医学の発展と共に無くなってきているのであるが、これは、現在でも変わらない。日々助けられている者が数多く存在する。私もその一人である。

 最初にも記したが、私は他の宗教を決して否定するつもりは無い。

これは、最初に記した理由によるのであるが、それが証拠に、キリスト教や他の宗教においても奇跡は存在する。

それは何故か。それは、現在信じられているところの神とは元は一つであり、喩え宗教が違えども、神から見れは人間は皆自分の子供であり、互いに助け合う陽気暮らしの心さえあれば、皆助けて頂けるからである。

 だが、他の宗教にはこの世と人間創造の真実を明確に語っているものは一つも無いのもまた事実である。

他の宗教に見られる様に、最初からこの世や地球が現在の形にあり、人間がいきなり創造されたのではない事を明確に示している事、その当時にこの事実を語っていた事が正に驚嘆に値する事実なのである。

私が、初めてこの話を聞き、興味を感じ、これを現在の人間の学問と照らし合わせて見た時の驚きは今でも忘れられない。これこそが、私が神を信ずるに行き当たった理由でなのである。


《「こふき」について》

 この研究については、「こふきの研究」(天理教道友社より出版)として二代真柱である中山正善様が道友社より刊行されているので、それをご覧頂きたいと思う。

私は、教祖の「こふきをつくれ」の言葉より、他の意味も含まれるが、「こふき」=「元の理」であることは間違いないと思っている。

更に、正善様は本の中で「こふき」を「口記」と当てるとのお考えを示しておられるが、これも確かにその通りと思うのであるが、私は「神記」とも当てられるのではないかと考える。ただ、どの様な字を当てるのが適当かと言う事については、はっきり言って枝葉末節の部分と考える。

私が思うに、神名同様「こふき」の文字、或いは、そこより発せられる音に既に神の力「理」が宿るのであり、それを聞く、或いは読み、真実に触れたり理解することで助かるのであると考える。



      〖第二部・私的解釈篇〗


 さて、ここからは、皆さんに解り易いように、私なりの言葉で物語風に「元の理」を記したいと思います。


「元の理 私的解釈」                    

 昔々、一体どれくらいの昔であろうか我々には、想像もつかない遥か彼方・・・。

今、私達人間が暮らしている地球も、太陽系も、宇宙も、何一つ存在していなかった一番最初の話し。

 そこは、時の流れや空間、物質等、現在「この世」といわれる世界を構成する一切のモノは何一つ存在せず、正負、光陰、ありとあらゆる現在表裏をなすものが一体に「どろ海」の様に混沌と存在し、何の変化もないまま存在し続けるばかりで、そこに唯一「神」が、ただ存在するのみであった。

 神は、長い間このまま過ごしてきたが、この状態をなんとも寂しく思い、「ただ私が居るだけでは何の楽しみも無い。人間を創り、人間達が互いに助け合って生きる様を見て共に楽しもう。」との考えに思い至った。

この閃きは、ただ唯一存在し続けた神自身の途轍もない喜びの感情となり、無限の創造力として爆発した。

 すると、そこからは、今現在も広がり続けている、宇宙という無限大の空間と、総ての原子の元となる素粒子がが生まれ出た。そして、その時より空間が生まれ、時間も流れ始めたのである。

 それから、どれ程の時が経った頃であろうか。

宇宙には、素粒子が集合し原子が出来、原子同士が集合した無限の種類を持つ物質が出来ていた。更に、これらの物質同志が寄り集まって無数の星々を作り、その星々が寄り集まり無数の銀河を形成していた。

それはまるで、星の海であった。

 ここで神は、この世全てを見渡し、人間を創造する「場」を見出したのである。

そこは、明るく輝く燃える星を中心に、まだ出来たばかりの若い十個の星々が集まった銀河で、更に、それらの星々の中から一つの星を選び出した。傍らに小さな星が一つ周りを回っている星「地球」であった。

その頃の地球は、まだ、灼熱のドロドロとした「どろ海」の如き流動体の塊であった。

 神は、この流動体の中より、この星を分厚く覆い尽す程の雲を引き出すと、大量の雨を降らせた。やがて、地球の表面を水が覆い、更にその周囲を大気が包み込むようにした。

その水や大気の中には、多くの物質が含まれており、これから先必要となる全ての元が揃えられていたのである。

それから神は、夜には月、昼には太陽として、引力、熱、風、落雷等、自然現象と呼ばれるありとあらゆる「守護」として、その力を長い時間地球に作用させ続けた。  

 そして、その時が訪れた。

神が、まだ「どろ海」の様な海中を見渡すと、無数の「生命」が誕生し、その光で満ち溢れていた。

ただの物質の集合体が、命を持ったのである。

この生命誕生こそ、神以外には創造しえない、奇跡の瞬間であった。

 そこで神は、先ず初めに人間の「元」を産み出すのに相応しい生命体を選び出す事とした。

神が、海中を見渡すと、初めに見えたのは無数のひょろ長い「どぢよ」の様な生命体が、光を全身に浴びながら、天に向かい酸素を吐き出していている姿であった。

更によく見ると、それらの生命体に混って、自由に泳ぎ回る「うを」の様な生命体と、にょろにょろと動く「み」の様な二種類の生命体がいるのが見えた。

 すぐさま神は、両者を自分の元へ引き寄せると、両者を体内に至るまで隈なく見渡した。すると、両者は、体内に一本の構造体を持ち、永遠に同じ生命体を生み出すのみの実に真直ぐな性質の生命体であった。

次に神は、両者が他の生命体と力を合わせることで生み出せる新たな生命体の進化、成長した姿を見極めた。

すると、そこには真に神が理想とする「人間」の姿が映し出されたのである。

 そこで、すぐさま両者にこれから「人間」と言う存在を創ろうとする思いを伝え、夫々雄性、雌性の「元」にするために神が貰い受けたいと伝えた。

しかし、両者共到底想像もつかない申し出であったため、揃って神に断りの返事をした。

 これに対し神は、その「楽しみ」と、『最初に生み出す子数と同じ数の年限が経った時、「人間」を創造し始めたこの「元の場所・ぢば」へと両者を連れ帰り、私と共に「この世一の神」、「人間」を生み出した「元の親」である神と慕い祀られる存在にしよう』と、これらの話を順々に幾度となく両者に説き聞かせ、約束すると、漸く承知した、両者を貰い受けた。

 次に、この場所を中心として周囲を見渡すと、それぞれ別の「方角」の遠方に生命体が生まれ出ているのが見えた。

初めは、西北の方面に住んでいる鯱ばった「しやち」の様な生命体を、次に、東南方面に住んでいるのろのろと這いつくばり強靭な外皮を持つ「かめ」の様な生命体を「ぢば」へ呼び寄せた。

夫々に、人間創造の話を幾度も説いて承知をさせると、「うを、み」夫々に神が入り込み、呼び寄せた生命体をそのまま飲み込み「うを、み」の体内へ入れ、その特性を試し性質を見定めた上で、北西方面に住んでいた生命体を雄性生殖器官、又生命体の身体を形作るための骨格器系、それらに関するありとあらゆる一切の生命活動の道具として、東南方面に住んでいた生命体は、やがて雌性生殖器官、又生命体の身体を外界から保護するための生体膜系、それらに関するありとあらゆる一切の生命活動の道具と成るよう「うを、み」の体内に共生させた。

そして、夫々を共生させたものを雄性、雌性の「原型」と定めたのである。

 神は、人間創造の元の道具となる事を承知をしてくれた礼、及び約束の印として、雄性の元には「いざなぎのみこと」、雌性の元には「いざなみのみこと」と夫々名付け、北西より呼び寄せた生命体には「月よみのみこと」、東南より呼び寄せた生命体には「くにさづちのみこと」との神名を与え、「突っ張る事全て、繋ぐ事全て、全ての種、全ての苗代」として此等の生命体の性質を、人間の進化に応じ地球を住み易い場として完成させてゆくための世界建設の道具としてもその性質を利用する事とした。

 更に周囲を見渡すと、東方にはぬるぬるとした長い「うなぎ」の様な生命体、西南方面には平たくひらひらとした「かれい」の様な生命体、西方には黒くうねうねとした「くろぐつな」の様な生命体、北東方面には自分より大きな生命体を包み込み殺してしまう「ふぐ」の様な生命体が生まれていた。

それらの生命体を次々と「ぢば」へ引き寄せると、夫々に人間創造の話を幾度も説いて承知をさせ、夫々雌雄の原型に食べさせて同化し、その特性を試し、東方に住む生命体をやがて消化器官系、それらに関するありとあらゆる一切の生命活動の道具、西南方面に住む生命体をやがて呼吸循環器官系、それらに関するありとあらゆる一切の生命活動の道具、西方に住む生命体をやがて、細胞、細胞内小器官等の増殖、複製等体内よりありとあらゆる機能を引き出す一切の生命活動の道具、北東方面に住む生命体をやがて免疫、細胞分裂、生命活動停止等、体内のありとあらゆる切る事一切の生命活動の道具へと成るように、雌雄の原型の体内に共生、或いは、一本の構造体の一部として組み込み、全ての生命体が、生命維持活動として「一つの働き」と成る様に調和させた。

神は、これらの生命体にも、人間創造の道具となる事を承知をしてくれた礼、及び約束の印として、東方より引き寄せた生命体には「くもよみのみこと」、西南より引き寄せた生命体には「かしこねのみこと」、西方より引き寄せた生命体には「をふとのべのみこと」、北東より引き寄せた生命体には「たいしよく天のみこと」の神名を与え、夫々の特性を、地球環境が「人間」の進化に応じ順々に創り上げられる様、有形無形の自然現象や、根本原理として存在する「水の大循環、風、引き出す事全て、切る事全て」として取り入れ、「一連の自然現象の大循環」と成る様にも調和したのであった。

 こうして、神は全ての「生命活動」及び「世界創造」の準備を整え終えると、いよいよ「人間」を創造する事とした。

神は先ず初めに、沢山居た「どぢよ」を雌雄の原型の生命体として全て食べ、自身と同化した。

すると、その心は、澄んだ水の様に一点の曇りも無いものであったので、人間の「心、魂の元」として、これから産み出す「人間の身体の元」の中に入れる事とした。

そして最後に、月に「くにとこたちのみこと」、日に「おもたりのみこと」の神名を与え、人間が水中で生まれた証拠として、どの様な環境でも目や体内が水で潤った状態で居られるよう、また、人間がどのような環境でも体内の熱が一定に保てるよう、月の力を雄性の原型の体内に、日の力を雌性の原型の体内へと入れ込み、月日はそれぞれ、自然の根本原理である「水」と「火」の守護を司るようにした。

そして、雄性の元の中に存在する一本の構造体と、雌性の元の中に存在する一本の構造体を、両者の力を有性生殖として一つに合わせる事により、二重螺旋構造として組み合わせ、「二本で一本の構造体」である遺伝子を創り、産み出される生命体の中に、「遺伝子」、「魂、心の元」を入れ込むという人間創造の方法を教えた。

 こうして、数に限りはあるが、それらが順々に生まれ変わり出変わりすると無限に感じる程数多の「人間」となる命を、三日三夜の間に、雄性の元の生命体と共に雌性の元の生命体の胎内へ宿し込んだ。

それから、雌性の元の生命体は、三年三月の間その場に留り、体内で二重螺旋構造を複製し、胎内で育む子共達へ命と共に吹き込んだ。

 どれ程神は、この時を待ち望んだであろうか。

やがて、七十五日掛けて「人間」が生み出された。

この様に人間創造とは、神をもってしても宇宙創造を遥かに凌駕する力を費やさねばならない事であった。

 最初に産み出された人間は、極々小さな生命体として生み出され、段々と成長、進化をし、やがて長い長い年月を経て三寸まで成長したが、この時「父」である雄性の元が死ぬと、どんどん地球の気度が上昇し、それと共に全ての人間は死んでしまった。

 しかし、雌性の元の生命体は、地球の環境が再び整うと、神より教えられた通りに再び同数の人間を今度は十月余りで宿し、産み出した。

今度も人間は、やはり極めて小さな生命体として生み出され、だんだんと成長、進化をし、長い年月を経て三寸五分まで成長したが、寿命を迎え全て死んでしまった。

 そこで、雌性の元の生命体は、三度同じ数の人間を宿し込み産み出した。

今度も人間は、ほんの小さな生命体として生み出され、だんだんと成長、進化し、長い年月を経て四寸まで成長したところで、「母」である雌性の元の生命体が、「自分達で子供が産めるようここまで成長出来れば、私が直接見守らずとも、やがて五尺の立派な人間へと成長できるでしょう。」とにっこりと微笑み死んでしまった。

すると、地球の気温がどんどん低下し、子供たちを残して人間達は、母の後を追うように全て死んでしまった。

 こうして、残された子供達が成長、進化をする間に、地球環境は再び整い、やがて人間は、虫、鳥、獣へと進化、成長し、その間にありとあらゆる地球環境へ適応できるように経験が出来た。が、寿命には大きく差が現れた。

 ここに於いて神は、最後に人間が真の姿へと成長出来るように全ての人間を出直しさせ、海中へ一匹だけ残しておいた、やがて「さる」へと進化する雌性の生命体の胎内へ雌雄同数の人間を宿し込んだ。

 そこから生み出だされた人間は、最初はやはり、小さな生命体として生み出され、段々と進化、成長し、やがて八寸にまで成長した。

それに伴い、この頃になると、神の十全の守護により、今まではただの「どろ海」の様な状態であった海中にプレート運動による海嶺や海溝等の高低差が生まれた。

やがて、人間が一尺八寸にまで成長出来る頃になると、海や大陸、山や川や谷と言った環境が整い、それまで夜、昼の区別がつき難かった大気の環境も、夜に月が現れ、昼には太陽が現れる現在に近い大気の環境も整った。

 この間人間はだんだんと成長、進化するに伴い段々とその胎内へ宿す子数を減らし、一尺八寸から三尺近くへと成長出来るようになった頃には、雌雄一人ずつ、計二人となった。

三尺以上にまで成長出来る様になった頃、人間は「声」を獲得し、ものを言い始めるようになり、一度に宿る子数も雌雄どちらか一人となった。

そして、五尺に成長出来る様になった頃、現在とほぼ同様の地球環境が整い、人間は陸上へと棲み処を変えたのである。


 神により、人間が「ぢば」で創造されてから現在に至る間、そのほぼの間を水中に住まい、陸上の生活を始めてより人類が文明を獲得するまでを智慧の仕込み、その後、神がこの世の表に現れた天保九年十月二十三日までが文字の仕込みであると言われる。

《特有の教義等の簡単な解説》

 ここまでお読み頂いた方の中には「難しい」と感じられた方が多々いらっしゃるかと思います。実は、私もその一人なのですが、この点については少しづつ考えが改まって参りました。それを以下に述べさせて頂きます。

天理教には、これは食べてはいけない、あれをせよこれをせよ等、種々の宗教に見られる厳格な戒律の様なものは一切存在しません。なので、教祖により伝えられた神の言葉を自ら悟り陽気ぐらしを実践するのみです。つまり、信仰のための生活ではなく、生活のための信仰なのだと捉えられます。

そして、神様が休むことなく日々この世、私達を御守護下されていると感じ、日々神様への感謝をするのです。

また、「元の理」の他にも天理教には他の宗教に見られない特有の教義が幾つかありますのでその幾つかを説明させて頂きたいと思います。


①『教祖 中山みきについて』

天理教の教祖は「中山みき」と言う女性である。

天理教では教祖を親しみを込めて「おやさま」と呼ぶ。

寛政十年四月一八日(西暦1798年6月2日)大和国山辺郡西三昧田やまとのくにやまべごおりにしさんまいでんの大庄屋であった父、前川半七正信と母きぬの間に生まれる。

十三歳の時、山辺郡庄屋敷村しょやしきむらの大庄屋であった中山善兵衛(二十三歳)へ嫁入り。

教祖の立場としては「神の社」である。他の寺社仏閣の様にご神体等に神が鎮まっているのではなく、人間「中山みき」の身体の中に入り込まれたとされる。これは、②に述べる部分に基づく。

九十歳没


②『立教の迄の簡単な経緯』

天保八年十月二十六日(西暦1838年12月9日)、長男秀司の突然の足の痛みに中野市兵衛に祈祷を頼み治まる。その後も度々足の痛みがある度に市兵衛へ祈祷を頼み治まるが、天保九年十月二十三日秀司の足の痛みに加え善兵衛は目の痛み、みきは腰の痛みが起こり何時ものように市兵衛へ祈祷を頼むが、何時も加持台となっていた女性が不在のためみきが加持台となる。この時、みきの口を通して初めて「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」との言葉があった。この日をもって教祖(天理教では「おやさま」と読む)の口を通して神がこの世の表に現れ出た日とする。

これに対し家人は、再三言葉を尽くして辞退を申し上げたが、神は厳として退かれず、また、みきの命を案じてそれより三日後の天保九年十月二十六日に、一家の都合を捨て、仰せのままに順う旨を対えられた。

この、天保九年十月二十六日が、天理教立教の元一日である。教祖四十一歳。

西暦に直すと、1838年12月12日の事である。

そこから神の言葉に順い、中山家は、天保の大飢饉とも重なり全ての財産を貧しい人々へと施し、自らは食べる米も無いまで貧のどん底へと落ち切り家屋敷まで取り払った。これらの行動やその口から伝えられる言葉は、当時としてはとても直ぐに理解されるものではなく、その間親戚には見放され、世間では気違い、憑き物付きと蔑まれ筆舌に尽くし難い道を通る事となる。その様な中、夫善兵衛は嘉永七年二月二十二日六十六歳で没する。

そして、初めて米を借りた信者が米四合を返しに礼に来たのが、立教より実に二十年後、安政四年(西暦1857年)教祖六十歳の時であった。

これ以降、安産や医者の手に余る病人を次々と救い、急速に広まる事となる。これら天理教の流れは、劇画教祖物語(天理教道友社より出版)に大変解り易く詳しく記されているので、興味を持たれた方は、是非ご覧いただきたい。


③『神名・かみな』

ここでは神名の重要性について述べてみたいと思っています。

 神名は「天理王命・てんりわうのみこと」と言います。

先にも記しましたが、この世には偶然は何一つない、理責めの世界。との言葉もあるように、この世の全てが神の身体であり、その一切が「天の理・てんのことわり」によって動いています。その天の理の王と言う事です。「我は天の将軍なり」との言葉もあります。

 教祖の話を伝え聞いて、集い来る人々を病等から助けられ始めた頃には、「たすけてやろ、たすけてやるけれども、天理王命という神は、はじめてのことなれば誠にすることむつかしかろ」と仰せられています。

更に、現在のように「つとめ」や「さづけ」の方法も初期にはまだ教えられておらず、人々の中には、神を信じて神名を「なむ 天理王命てんりわうのみこと」と只管唱える事を教えられ、それにより助かった人も居られました。

また、娘のこかん様には夫善兵衛様が亡くなった年に大阪へ「神名流し」にも行かせておられます。これは「なむ 天理王命」と唱えながらそれに合わせて拍子木を叩きつつ、市中を歩き回るものです。

つまり、一番重要なのは真実の神を知る事、「天理王命」という神名自体が一番重要なのです。ですから、何も今まで話している様な難しいことを初めから理解せずとも、最初は神を信じ、神の名は「天理王命・てんりわうのみこと」である事を解ってさえいれば良いのです。

そうすれば、神様の方からその人個人個人に合わせ時々に応じた成人を促して来られます。その時に、色々な話、互い助け合いという事が段々と解って来る様になります。

 こんな事を偉そうに書いて来ましたが、神名一つにしてもまだ、完全に理解し切れない部分が私にはあります。

それは、神名を唱える時に「なむ てんりわうのみこと」と唱えるのですが、この「なむ」が私には理解し切れません。

 「なむ」とは辞書に南無、仏教語namas梵の音写、敬礼、帰依、信順の意。仏や菩薩、三宝などを敬い帰依する気持ちを表す言葉。なも。とあり、本来は仏教語なのです。なので、何故ここに仏教用語が出て来るのかが私の中の解決し切れない疑問なのです。

ですので、今私は、当時の人々が南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経等「なむ」という言葉に対し親しんでおり、無条件に心に入り易かった。教祖は十三歳の頃に浄土和賛を暗唱しており、十九歳で五重相伝を受ける等の仏教的素養もあったこと。また、神様から見ても「なむ」がある種の真理であるのかも知れないと考える様にしています。


④『十全の守護』

 「考察篇」において全ての生命また、人間の元となった十種の道具衆に神名を授けていますが、これは神のこの世の原理と人間の身体における働きに対して神名をさずけたのであり、十の神が居るという訳ではありません。神は唯一であり、その神の働きを十に分けて表したものです。それをもう一度まとめてみたいと思います。(執筆途中)


⑤『ぢば』

天理教教会本部を『おぢば』とも呼びます。

これは、現在神殿の中心部分に「かんろだい・甘露台」と呼ばれる木製の台が据えられています。この「かんろだい」の据えられている地点こそ「元の理」に記された「うを、み」をはじめ、他の道具衆を引き寄せて人間創造を始めた地点であり、此処を「ぢば」と呼びます。

神の言葉に「人間を始めかけた証拠にかんろだいを据えておく」とあり、この「ぢば」に神がお鎮まり下されています。

この「ぢば」は教祖の口を通して初めて神がこの世に現れ出た時の「この屋敷に因縁あり」と言う言葉に密接に関係しています。それは、当時中山家の敷地内にこの「ぢば」があり、貧のどん底に落ち切り、その母屋が取り払われた跡地にあったのです。

この「ぢば」を定めた時を「ぢば定め」と言い、明治八年(西暦1875年)六月二十九日(陰暦五月二十六日)昼頃に行われました。先ず教祖(この時七十八歳)が庭の中を歩かれ、その足がぴたりと地面にくっ付いて動かなくなった地点に印をされました。続いてそこに居合わせた信者達に目隠しをして庭を歩く様に伝えると、不思議と皆その地点へ吸い寄せられる様にぴたりとそこで立ち止まったのです。中には足が止まらない者も居ましたが、教祖の「自分の子供を背負うて歩いてみなはれ」との言葉に目隠しをして子供を背負って歩くとその地点でぴたりと足が止まったのです。こうして「ぢば」が定められました。この、教祖のみで定めたのではなく、一般の信者達が共に試し定めたところにこそ、その事実たる証拠があると私は考えます。他に現在聖地として伝わる場所にその様な場所は存在しません。そして、その証拠として据えるこの台は本来は石造りですが、現在はまだ雛型かんろだいとして木製の台が据えられています。これは、世界中の人間の心が澄み切った時に石造りの本かんろだいを設置するのだと言われ、本かんろだいの上に平鉢を乗せ、その上に降った雨をほんの少し飲むと教祖が予てより「人間は百十五歳定命」と言われていた通り、百十五歳まで病む事もなく皆元気に暮らせるようになるのだと伝えられています。

天理教教会本部の神殿は、二十四時間、三百六十五日、決して閉ざされる事無く何時でも何方でもかんろだいを拝し、参拝する事が出来ます。


⑥『陽気ぐらし』

 「人間が互いに助け合って陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」

「陽気ぐらし」とは、「元の理」の冒頭に記される、神が、何故この世人間を創造するに至ったのかと言う「元の理」の根源となる部分です。もし、神がこの考えに至らなければ、この世人間は誕生し得なかった事になります。

なのでこれは、この世自然界の一番大元の原理、人間が人間たる所以である事が解ると思います。ここで一番重要なのは、この事を理解し、心を入れ替えたなら、その心を神が受け取り、人間は生きながらにして生まれ変わるとの言葉がある点です。神が人生を切り替えてくださるのです。

 また、ここで注目したいのは、神自身が「共に楽しみたい」と言っている事です。つまり、神にも心が存在し、神自身も人間と言う存在によって助けられているのだと言う事実です。人間と対等の立場で話している様にも思えます。なので、神自身が人間に助けられている様に、人間達も互いに助け合わなければならないのだと理解できるでしょう。

 自然界では、水中でも、陸上でも一様に食う食われるの関係が成り立っています。そこでの各生物達は、必要以上の殺生を行いません。そればかりか、時には種を超えて助け合う姿さえ見られるのです。それは、捕食する側の生物に、捕食される側の生物達が絶滅していまえば自らが存在できなくなる事が本能として備えられているからではないでしょうか。

これは、現在食物連鎖の頂点である人間にとっても同じ事が言えます。

ですが、現在の人間は、自然界の一員としての存在を忘れ、己の利益のために他の生物の命を顧みなくなってきており、大変危機的状況へと自らを追いやっているのです。

 人間は、現在存在するどの生物よりも神より知恵を与えられた存在であるのは事実ですが、人間が他の生物達と一番違う点は何でしょうか。

先にも記しましたが、私は、自らが何故この世に存在するのかを理解出来、また、自らの過ちを認め考えを改められる点であると考えています。

 天理教では、病気等直接身体に現れる事象を「身上・みじょう」、身体ではなく、その人の周囲に現れる事象を「事情・じじょう」と言います。

 先にも記しましたが、神は、人間の身体は神からの貸し物と言う「かしものかりものの理」があるとしています。

本来人間には、身上、事情等何不都合な点は何一つ存在しないのであるが、子供である人間が、親である神から見て「陽気ぐらし」とは異なった心の使い方をした場合に、それは違うと親からの意見として、その心遣いを改めるようにその身に表すのであると言っています。それに加え、自然災害も「神の立腹」との言葉もあります。現在の我々人間が、自分は良いと思って行う事が、実は、他者には害となっている事がしばしばあるのを考えなければなりません。

 現在の世界情勢は、また過去の過ちを繰り返そうとしている寸前の処まで来てしまっている状況にあります。更に、現在の科学力は、人間が立ち直る事が出来ない処まで進めてしまう力を秘めているのです。

人間は、自然界の一部として存在しているのだと言う事実を再認識し、それを踏まえて人間同士だけでなく互いに助け合って生きる事こそが「陽気ぐらし」の実践であると私は考えています。

 神の言葉に「たんたんとなに事にてもこのよふわ神のからだやしやんにてみよ」とあります。読み方は「段々と何事にてもこの世は神の身体や思案してみよ」と読みます。現在私達が生活している世界は「無」の状態から親神様が創造された事が「元の理」に示されています。つまりこの世全てが神様の身体と同じ事であるのは言うまでも無い事です。しかし、人間は一人一人が日常生活を営んでいる間、全てを自分で行っている様に感じ、勝手に生活をし、まるでこの世界を支配しているかの様に振舞っているので、この様な事を省みる事は殆どありません。確かに地球上の生命をピラミッド状に示した場合その頂点に人間が君臨しているのは紛れも無い事実です。しかし、頂点という事はその下を支えているどの階層が消滅しても存在する事は出来ない一番危険な立場という事でもあります。唯一、地震、台風等の災害や異常気象、自然界の脅威に直面して初めてその無力さを経験します。更に人間は酸素を消費して生活しています。その酸素は昼間植物が行う光合成や、その他多くの自然の営みの中より作られます。又、人間は野菜、魚、肉等多くの生命を奪う事により日々の命を保っています。以上の様な事を踏まえた場合、もっと広い視点に立って謙虚な心遣いをしてゆかなければならない事が明らかになります。現在私達人間の心の状態は、「自分だけが今現在良ければ」という短絡的、享楽的、表面的な思考の上に成り立っている事が多いのです。それらを少しずつ考え改めてみる事から始めてみるのが良いでしょう。


⑦『かしものかりものの理』

⑥の「陽気ぐらし」でも少し触れましたが、「陽気ぐらし」を理解し、心を入れ替えたなら、その心を神が受け取り、人間は生きながらにして生まれ変わると言われています。神が人生を切り替えてくださるのです。これは、他の宗教では一切見られません。仏教ならば死後に極楽浄土ですし、キリスト教でも死後に魂の裁きを受けると言われています。他の宗教では全て「死後」の救済と言われているのです。ここが大きく違う点だと思います。

人間の「魂は生き通し」と言われ、あの世は存在せず、ただこの世があるのみと言われ、死ぬと、古い着物(身体)を脱いで(魂は神の元へと帰り)、新しい着物を(新しい身体を神より)借りてこの世へ帰って来る。と言われているのです。ただ、生前の行いにより「牛馬に堕ちる」とも言われているので、必ず人間に生れ変る訳ではありません。他の生き物へと生まれ変わり、再び人間になるまでやり直さなければならない事もあります。

現在でこそ、医学の発展に伴い人間の身体は百歳以上生きられる様になっている事が証明されていますが、教祖は当時より「人間の定命は百十五歳」と伝えていました。教祖自身が九十歳で死んでいるのは、二十五年先の命を縮めて身体より教祖の魂を解き放ち、世界中で人を助けさせるためと神が言っています。

 神の言葉に「にんけんハみなみな神のかしものやなんとをもふてつこているやら」との言葉があります。読み方は「人間は皆々神の貸しものや何と思うてつこているやら」と読みます。「つこているやら」は「使っているやら」という意味です。

この言葉は、人間を創造したのが天理王命である事、又その人間は日々その神の働きによって生かされている事を明確にしています。先に示しました「元の理」によってこの世人間がどの様に創造されたのかはお解り頂けたかと思います。そこからも解ります様に、人間の身体の元を御創り下さり、その中へ魂を入れ込まれた訳です。その中でも人間個人個人に身体を与えたとは一言も仰られてはいません。つまり神は私達人間に身体をお与えになったのではなく、お貸し下されているだけなのです。同じ事をお示し下されたお言葉に「人間神のかしものかりもの心一つ我が理」とあり、「人間(の身体は)神(から人間へ)の貸しもの(であり)(人間から見れば神からの)借りもの(なのである)(唯一)心一つ(だけが)我が(ものなのである)」という意味です。

私達は、日常生活を行っている間、身体を自由に動かしまるで自分の物であるかの様に感じています。私を含め多くの方々もそう感じていらっしゃる事でしょう。しかし、神はそれは違うと仰られているのです。それが証拠に、人間は生きている間、呼吸等人体の生命活動を行っています。その呼吸や人体の生命活動は意識的に行っている訳ではありません。寝ている間もそれらは規則的に行われています。よく考えてみればこれらは大変不思議な事なのです。又人間はその一生の中で時に病、怪我といった形で身体の自由を奪われたりもします。皆さん考えてみて下さい。私達人間は病気等でただ熱が数度上昇しただけで思うように身体を動かす事さえ間々成らなくなるのです。

「なんとをもふてつこているやら」がこの事をお示し下されています。人間は健康に日常生活を送っている間は其の心通りに我が身自由、勝手気ままです。しかし、その心遣いが神の思いとはかけ離れてしまっている場合、その親心から、私達の身体の自由を奪う事でその事に気付かせているのであるから、その心遣いを直す様にと御教え下さっているのです。何気ない日常生活を送っているだけの様に感じていても、日々私達を絶え間なくお見守り下さり、身体を自由に使わせて頂き生かして頂いている訳ですから、神への感謝の心を忘れてはならないのです。

神の言葉に「しやんせよやまいとゆうてさらになし神のみちをせいけんなるぞや」とあります。読み方は「思案せよ病と言うて更に無し神のみちおせ意見なるぞや」と読みます。「みちをせ」とは「道を教える」の意味です。

この言葉は、もともとこの世の中には病気や困った事等は一切存在しないのである。ただただ、真実を知らないばかりに、間違った心遣いをしているので、それを親心から病気というかたちで子供(人間)達に教えているのである。という意味です。私達人間が病気に罹った時は、神の目から見て何か間違った心遣いを日常生活の中で必ずしている訳のです。ですから、その時はよくよく普段の行いや、心遣いを振り返って反省しなければならないのです。

又あまり病気に罹らない人であっても、「自分は何も間違っていない」と高慢に思うのではなく、謙虚な心になって、日々私達を御守護下さっている神への感謝の心を忘れてはなりません。

感謝を込めた一番の神様への恩返しの方法をお示し下されているのが次の言葉です。「わかるよふむねのうちよりしやんせよ人たすけたらわがみたすかる」

読み方は「解るよう胸の内より思案せよ人助けたら我が身助かる」と読みます。

この言葉は読んでそのままです。今まで記して参りました心遣いを積み重ね、少しずつ胸の内に修まって、日々神に対しての感謝の念がこみ上げて来たならば、神への一番の恩返しの方法として他の人を助けなさい。という事です。ここで一番大切なのは「自発的に行う」という事です。それが「わかるよふ」です。もう一つの意味はそれが神にも解るようにという事です。嫌々ながらでもしないよりはましですが、神は一人一人の心をお受け取りになっておられるのですから、嫌々では申し訳ありません。また勘違いしてならないのは、自分が助かりたいばかりに人を助けるのでは無い。という事です。あくまでも心の内から自然にこみ上げて来る神への感謝の念に対し、他の人を助けさせて頂く事でその恩に報いるのです。自分が助かりたい為に他の人を助けるのでは神はお喜びにはなりません。何故なら、神は日々私達を生かし、お見守り下されている事に対してその見返りを私達には求めておられません。皆さんも自分の子供を育てている事に対してその子供に見返りを求めていらっしゃるでしょうか?それと全く同じ事なのです。「わがみたすかる」とは他の人を助けさせて頂く事により結果として自分が助かってゆく事になるのだから、助けさせて頂いた方に対しても感謝の心を持ちなさい。という事なのです。神は一つ一つの小さな自発的良心が連鎖して世界中に広まり、全ての人々が喜び勇んで暮らせる世の中になる事を望んでおられるのです。


⑧『日々の心遣いの指針』

 教祖は、日々人間が生活をするなかで戒めるべき心遣いを「八つのほこり」として解り易くお教えて下さっています。仏教においては煩悩は百八つあるとされていますから、それと比べると随分と少なく思います。以降は天理教教会本部のものをそのまま抜粋致しましたので、古臭く硬いように思われる方、或いは「こんなの今更常識でしょ」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、先ずはご一読下さい。


一「をしい」

 心の働き、身の働きを惜しみ、税金や納めるべき物を出し惜しむ。また、世のため、人のための相応の務めを欠き、あるいは、借りた物を返すのを惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。


二「ほしい」

 努力を怠り、十分な働きもしないで金銭を欲しがり、分不相応に良い物を着たい、食べたい、また、何によらず、あるがうえにも欲しいという心。


三「にくい」

 人の助言や忠告をかえって悪く取って、その人を憎む。また、嫁姑など身内同士の憎しみ合い。さらには、人の陰口を言ってそしり、笑い、あるいは罪を憎まず人を憎むという心。


四「かわい」

 自分さえ良ければ人はどうでもよい。我が子への愛に引かされて食べ物、着物の好き嫌いを言わせ、仕込むべきことも仕込まず、間違ったことも注意しないで、気ままにさせておくという心。また、自分のために人を悪く言うのもほこり。


五「うらみ」

 体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと自分の不徳を思わず、人を恨み、根に持つような心。


六「はらだち」

 人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。理を立てず、我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。


七「よく」

人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人を欺して利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物をただ我が身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。


八「こうまん」

 力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮り、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。


また、これらに加えて「うそとついしょこれ嫌い」とお教え下されています。

「うそ」とは勿論嘘。「ついしょ」とは追従、所謂おべっかの心です。


以上に挙げられた言葉は、もう既に皆さん「こんな事とっくに知っているよ」と思われる事だと思います。ですが、この常識と言われる事こそ、簡単であるが故に実際に行うのは大変難しい事です。私自身、これ等が守れているかと言えば、到底「はい」とは言えない毎日を送っています。ですが、これらの事を知り、心の片隅にでも置いて日々の心遣いを少しでも神様の方向へと向ける事が大切だと思っています。


⑨『神様が喜ばれる心遣い』

 教祖は、神様がお喜び下さる「陽気ぐらし」へと繋がる心遣いとして、

「朝起き」「正直」「働き」とお教え下されています。

朝起き、正直はそのままお解り頂けるとして、「働き」については、「はたはたを楽にするから、はたらくと言うのやで」と仰られています。

自分のためのみに働くのでは無く、常に相手や世界の事も考えて、こうすれば後の人が少しは楽になるかな?、これが実現したら人々や世界のために役立つのかな?という事を考えて働くことを仰せられています。

以上挙げて参りましたように、決して難しいことをせよとは仰せられていません。ですが、簡単であるが故に実践が難しくもあります。

先ずは、自分に出来そうな一つの事から始めてゆくことで、やがては「陽気ぐらし」の実現へと繋がってゆくことになります。

先にも記しましたが、御利益信仰は信仰ではありません。それでは、神様に心を受け取って頂けないのです。

神は、日々休むことなくこの世と人間を天の理によって御守護下されています。その、世界・人間の親である神に対し、日々感謝の心を忘れずに参りましょう。


《最後に》

最初にも記しましたが、私は宗教や信仰を押し付けるためにこれを記したのではありません。便宜上「神」という言葉を使っていますが、以上に記してきたのはあくまでもこの世自然世界の摂理、人間が平穏に生きて行く為の法則であると信じているのです。なので、これらを理解し心を入れ替える事で人生がどんどん大きく切り替わって行くのです。私自身がこれを体験しています。

 宿命、命を宿すことは神にしか出来ません。が、いずれもしかすると人間にも出来る日が来るのかも知れません。この宿命に向かい人生と言う長い道のりを時間をかけて命を運んでゆく、これが運命です。ですが、心を入れ替える事によりこれらが切り替わって行きます。そしてこの運命に順い日々どの様に命を使って行くのかこれが使命なのです。この言葉は私が講習を受けた際に先生が仰られた言葉で、大変感銘を受け今も心に残り続けています。

私は、今も毎日多くの事で悩み、自問自答を繰り返しています。多くの方々も恐らく同じではないでしょうか。ですが、以上の法則を知っているといないのとでは人生が大きく異なります。これからの日々が満ち足りた平穏なものであり、多くの世界中の皆様と共に歩んで行ける事を願っています。



       〖あとがき〗

 私が「こふき」と呼ばれているこの天理教の「元の理」と出会ったのは、大学在学中の事であります。母に言われるまま、「別席・べっせき」と呼ばれるこの話が語られる場のある天理教教会本部へと足を運び初めてこの話を聞いた時、私は、それまでに色々な宗教の神話等を見聞してきたのですが、その中で一番「何だこの話は?」と科学的印象を受け驚愕と共に興味を持ったのが最初でありました。「別席」においてこの同じ話を九回聞くと「満席」となり、神様にお願いをして自分以外の病人を助けて頂ける「さづけの理」を誰でも頂く事が出来ます。

 「別席」では、案内される部屋へ入ると、特に何か印刷物等が配布されるでは無く、ただ席に座ったまま「取次人」と呼ばれる方が語るのを約二時間掛けてゆっくりと聞かされるのみで、方言や、やや古い言い回しのある話しでしたので、私は理解するのにやや時間を要しました。

 それから数年後、縁あって教会本部へ暫く所属する事となり、その際再びこの話に触れ、探求心を刺激されるがままに少しづつ色々な書物を読み、又多くの方々の話に触れ、それを少しづつ自分なりにノートへまとめ出したのが始まりでした。

 「元の理」に対し、自分なりの理解が深まるに連れ、世間一般の方々にも解り易く通じる様に纏められないかと思う様になりました。

しかし、これは始めて見ると切りの無く途方もない事であると気付くと共に、私の様な一般の信者で、しかも、特に学識らしき物も何も無い者がこの様な事に挑んで良いのか?何というとんでもない事を始めてしまったのだろう、と思う様にもなりました。

その後、一身上の都合により二年程で本部を去る事となり、一般社会へと戻ったのですが、そうなると、仕事や周囲のごたごたの忙しさの中でその様な事もすっかり忘れがちとなり、それに加えて、生来の面倒臭さが出て度々中断を余儀なくされたのでした。

 しかし、その都度度重なる神様からのお手入れを頂く事となり、本年四十五歳を目前にして脳梗塞という最終的なお手入れを頂くに至り、約二十年を経て漸くここまで辿り着く事が出来ました。

二十年もの長きを費やした結果がこれでは、神様にも、お読みいただく方々にも大変申し訳なく思う気持ちは山々ではありますが、「なにかめづらしこのふしん しかけたことならきりハない」と神様のお言葉にあるように、これはここで終わりと言う訳ではありません。教祖おやさまご在世時、「こふきをつくれ」とのお言葉に順い、教祖に近い信者の方々が自分なりに「こふき」を書いて教祖に差し出されたのですが、それに対し教祖は「これでよい」とは仰せにならなかったのであります。現在の「元の理」はこれらの書物を元に集成され現在の形に裁定されたのですが、然るに、教祖は「こふき」が延々と私達が後々まで考えさせる様にされたのでは、と私は考えるのです。なので、私にそ生のある限り、又後々これを引き継いでくれる方々がきっと現れ、私の間違いを正し、或いは新たな発見を加筆しながら続けてくれる事と切に願うのであります。



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