第1章 4話愚かな人間を神は嘲笑する
パリまでの旅は順番としか言いようがないほど上手くいっていた。昨夜は何事もなく寝床を確保し、残った時間で狩りを楽しみ、そして夕食を楽しみ、悪魔とのエンカウントもたったの二回、どちらも単体の屍鬼に遭遇したのみだ。つまりこの旅は無事何事もなく終わるに思われた、この瞬間までは。
「見えるか」
「1km先に武装したグループ、目視できるだけで六人はいる。」
リナのハッキリとした言葉にイアンはやはりかと頷く。最初に異変に気がついたのは五分前、イアンが明らかに人間の足跡であるものを発見した。屍鬼とは違うしっかりとした足取りで真っ直ぐ進む複数の足跡を。異変を感じたイアンは念のためにリナの〈スコープ〉で周囲を警戒していた。
「他になにか見えるか」
「あれは·····捕虜かな?男の人が三人と女の人が二人捕まってる。」
「そうか····少し遠回りになるけど迂回して行こう」
イアンの決定にリナが「えッ」と顔をしかめる。
「あの捕まってる人達は?」
「助けるのは無理だ。俺達の装備じゃ返り討ちにされるのは目に見えてる。」
イアンはため息をつき言い放つ。リナは納得いかないといった表情だ。
「アナタは私を助けてくれたでしょ。」
「あのな····お前の時は一人だったし相手が死人、屍鬼だけだった。でも今回は人間が相手ときた、それにお前の足のこともある。諦めろ」
イアンは再度ため息をつき強い口調で言う。実際人間が相手なのと悪魔が相手なのとでは状況が違う。人間は執念深い、仮に上手くいっても後々復讐されたり助けた相手に裏切られる事もあるかもしれない。イアンはそれを経験から知っている。
「ねえ、正直に答えて····こういう場合捕まった人達はどうなるの。」
ここで誤魔化すと逆効果か
「男は奴隷にするか殺すか、女は奴隷にしたり楽しんでから殺したり人それぞれ」
イアンは正直にハッキリと言う。リナは目をつぶり歯を食いしばって自分の足を強く握りしめている。
「·····悪いけど、これが現実だ。アンタの生まれ育った場所とはだいぶ違うかもしれないけどこれが俺の生きてきた世界だ。」
きっと彼女は自分の無力を呪ってるだろう。俺にもそういう事が何回もあった、でも慣れた。いや、学んだと言うべきか。人間には限界がある、その限界はその人の能力、状況、装備、相手、目的でその都度変動する。自分の限界以上のものを救おうとすると救えるはずだったものさえもこぼれ落ちる。俺に出来るのはこの少女を無事にパリに返すこと、それが俺の限界。俺達はときに選択しなくちゃいけないんだ、捨てる命と拾う命を
選択肢1
リナと一緒に捕虜を助けに行くーー成功率3%
選択肢2
反対するリナを引きずってでも迂回して当初の目的地を目指すーー日没が近くて危険な可能性があるため成功率90%
選択肢3
「もういいや、お前には付き合いきれない」と言ってここでリナと別れるーー俺だけの安全度を考えると成功率100%
1は却下、3は論外。結果的に2を選ぶのが最善策
「夜襲」
「は?」
リナの突然の提案にイアンは開いた口が塞がらない。
「夜襲で不意をつけば、もっと言うと悪魔を誘導すれば多分今の私達でもなんとかなる。」
まさかの選択肢4
日没を待ち悪魔を誘導、相手グループのキャンプを襲わせ混乱に乗じて捕虜を救出ーー成功率55%おそらく現在の装備で実現可能な捕虜救出の最善手
「あのさ、捕虜を助けてもその捕虜に俺達が攻撃されるって事もあるんだぞ。それにあのグループにだって善良な人がいるかもしれない、そこらへんはわかってるのか?」
「わかってる····でもねあの捕虜の中に多分私達と同い年ぐらいの子がいたの····その子、悲しそうな顔をしてた···だから助けたい。」
相変わらずのあまあまな考え。
「そのミス悲しい顔の女の子が俺達に友好的じゃなかったら?」
「そのときは····アナタの判断に任せる。アナタならわかるでしょ。」
イアンは三度目のため息
「はいはい、わかったよ。ここから地下入口までは?」
「約2km」
「作戦はこうだ、お前は地下入口で待機、日が沈んだら俺が捕虜を救出に行く。」
イアンが提案するがリナは不服そうな顔をしている。
「私は置いてきぼり·····」
「仕方ないだろ、怪我人にウロウロされても困るからな。念のために付近の悪魔は俺が全部引き連れてくけど危険を感じたら地下道の中に逃げろよ。最悪俺が戻らなくても地下道まで行けば一人でもパリに辿り着けるだろ。」
「·····わかった·····ちゃんと帰って来てね。」
リナが俯きながら言うとイアンは「あぁ」と答える。イアンはリナが自分に不安の感情を向けていることに気づいていた。
あれこの感じ····どこかで一度····どこだったっけ。
「じゃあそうと決まれば地下入口を目指そう。正直日没に間に合うか微妙だからな。」
「だいぶ休んだし、多分もう休憩はいらないね。」
「別に元々休憩する予定なかったから」
イアンの言葉にリナは「うそ!」と目を丸くする。それを見たイアンはどこかおかしくて笑みを浮かべる。
なんか楽しいな····こういうの
結果的に目的地についたのは日が沈むギリギリだった。
「それじゃあ俺は予定通りに」
「待って!約束して、ちゃんと戻ってくるって。」
「わかってる、絶対だ。」
自分から言い出したはずなのにリナは不安が拭えない。イアンの表情も少し緊張している。
まただ、この感じ、この目、俺はどこかでこれを知ってる。それにこの表情を見る度に俺の中の何かが抉られる。これはいったいなんだ。
やる事は簡単だ、屍鬼にエンカウントして適当な距離を保って誘導、ある程度集まったら相手グループのテントの近くに身を隠す、すると·····
「おい、何だあれ!!大群だぞ!」
「クソ!ついてねえ!全員叩き起こせ!!迎え撃つぞ!」
イアンはテントの近くの木影に隠している。イアンが集めた屍鬼の数は六十、普通こんな大群に遭遇したら尻尾まいて逃げるのがセオリー、でも複数人のグループだと話は別だ。物資を放棄して逃げれば後々仲間同士で残り少ない物資の奪い合いになる、だから迎え撃つしかない。
「ここまでは作戦通りさてさて捕虜は何処にいるかな」
イアンの感情受信体質は相手の感情を受信するだけの能力、つまりは一方通行。しかし彼の能力の真髄は自分に向けられていない感情もある程度受信することが出来ることにある。
「はぁ、これ体力使うからやなんだよな···」
イアンは目をつぶり意識を集中させる。彼の感情の受信範囲は直接イアンに向けられてる感情は何処からでも受信することが出来る、しかし自分に向けられていない感情を受信できるのは半径2m、意識を集中させる事によって最大10mまで拡大できる。
怒り、困惑、恐れ、どこも似たような感情だな。どこだ、どこだ··········見つけた、悲しみ、それもかなり深い。北西8m、あのテントか。周りの連中は屍鬼の対応に追われてる、さっさと救出して撤退するか。
イアンがテントに入ると二人の裸の女が膝を抱えて座っている。一人は虚ろな目をして下を向き、もう一人は顔をテントの天井に向けながら口をパクパクしている。
目の焦点があっていない、それにこの匂い·····シンナーか
捕まえた女を薬漬けにして愉しむ、ここの連中は相当に外道なようだ。イアンがテントに入っても二人は感情も表情も変化しない。
「お前は喋れるな、他の捕虜はどうした!」
「死んだ」
「この人は」
「知らない、会ったのは今日が初めて」
「名前は」
「テレサ、ただのテレサ」
イアンの問に対してテレサと名乗る少女は抑揚のない声で答える。冷たい声とは対照的な赤髪の少女は変わらず虚ろな目をイアンに向ける。
「何しに来たの」
「君を助けに来た」
イアンは驚いた。イアンは確かに「助けに来た」と少女に言った。しかし少女はその言葉を聞いて一切の感情の変化を見せなかったからだ。
「この人は」
「俺が運ぶ、走れるか?」
テレサは無言で頷き立ち上がる。途中で自分が服を着ていないことに気付き近くにあった鹿皮の布を羽織るがその間に彼女の感情は一切変化しない。
イアン達がテントの外に出ると屍鬼の群れがすぐそこまで迫っていた。
アイツら····もう全滅したのか。いや、物資を捨てて逃げたのか?
「走るぞ!!はぐれるなよ!」
イアンの言葉にテレサは一切反応を見せないがイアンは全力で走り出す。人ひとり背負ってる状態とは言え少女はイアンの走る速度についてきている。屍鬼の群れがどんどん遠くなる。
「リナ!!入口を開けろ!」
入口まで残り50m、夜の闇の中薄らとリナの姿が確認できる。かなり距離があるが屍鬼の群れはまだイアン達を追跡している。1km以上の全力疾走、それも人ひとり背負って。イアンの呼吸はかなり乱れている。並走するテレサに表情の変化はない。
入口まであと10m、あと少し
イアンがそう思った瞬間、リナとイアンの間の空間が歪む。そして、夜の平原にガラスがひび割れるような音が大音量で鳴り響く。
「なんでだよ····あと少しなのに」
小さな希望、それが目の前にあるのに届かない。この世界に神がいるなら神は今、小さな希望にすがりつく愚かな人間を嘲笑っている。