蝉の声、太鼓の楽、くちづけの音
やめろって、という言葉を、眉の下がった男は聴こえなかったように振舞った。ただ、ますます眉を八の字にした。目は細めた。それで余計、瞳が濡れたようになっているのを眉のしっかり上がった男は目の端で認めた。祭囃子があたりに響くのは相変わらずだった。提灯の灯りがそこここで赤い光を放ち、人影のまばらな公園内をほのかに浮かび上がらせていた。どうやらカップルがあちこちに潜んでいるらしく、かすれた甘い声や衣擦れの音がふたりの男の耳にも入ってきた。垂れ眉の男が、大きな、幹の太い、年のいった木にもたれかかった吊り眉の男に全身で擦り寄っている間、すっかりうまくことを進めた恋人たちは、この公共の場で、それぞれのモラルが許す限りの交歓を続けていた。人間たちだけでなく、虫たちもみずからの生を全力で叫んでいた。ためらっているのは目の前のこのいとしい男ただひとりだ。そう、垂れ眉の男は思い、呼吸を速め、血流の勢いを増していた。少し下にある赤い、小さめの唇から目が離せなかった。かすかに曲がったその隙間から、歯が、その白を黒の中で訴えていた。自分も相手も震えていることを、どちらもが知っていた。それはそれぞれをいたたまれなくさせた。垂れ眉の男は欲望と恋情の激しさの、吊り眉の男は恐怖と困惑の深さの現れであった。双方がしっかりとそのすべてを認識していた。己が、友が、どういう状態であるのかを。分かっているからと言ってどうにもならなかった。逃げれば追われるだろう。逃げられれば追うだろう。それだけだった。それほどもう、のっぴきならない羽目に陥っていた。後回し後回しにしてきたつけが、今ここで払われようとしているのだった。
高い頬骨を持つ、白い肌の顔に、指先が触れた。
びくりと体を揺らすのを目にし、垂れ眉の男はなお、相手にぴったりと自分を押し付けた。股間はすっかり硬くなっている、それをどこまでも教えてやる気だった。気温は夜をものともせず、恒温動物の汗腺から皮膚を冷やすための水分を溢れさせていた。つまりふたりの人間は、触れているところ全体が湿っていた。熱く、まるで少しずつ蒸発している湯のようだった。じりじりと吊り眉の男は体を動かした。しかし無駄だった。そうとはそんなに意識されないが、垂れ眉の男はしっかりとした肩と太い腕を持っていた、そして全体重を木の方へかけていた。体を若干そり返らせ、脚もまともに立たせられていない吊り眉の男は相手を突き飛ばすことが叶わなかった。唇を噛み、絶対友人を見るものかと可能な限り横を向いた。その唇に当てられた歯の先が男を更に誘っているなどと、当の本人に分かるはずもなかった。そうしてことはどんどん吊り眉の願わぬ方へと転んだ。見て見ぬ振りをしていたことを悔やんだ、実際こうなってしまった今、最善の策はいったいなんなのか、皆目見当もつかなかった。先程まで見ていた垂れ眉の男の表情が、脳の中でくっきりと像を結んでいた。あんな顔を自分に向かってしている人間を見たのは生まれて初めてだと気付いていた。そしてそれに対する感情は、自分でもはっきりとつかめない類のものであることも。確かに吊り眉の男はこの年下の友人を非常に愛していた。それはだが性愛ではなかった。こうしてそれを求められてもなお、しかし吊り眉の男は彼を愛することをやめられなかったし、彼を失いたくないと思っていた。どんなに自分が欲せられているか、痛いほどに、ほんとうに、体に痛みを覚えるほどに、実感していた。認めたくはなかったが、そのことにどこか高揚する自分がいた。太い首から、喉仏を上下させて、声を響き渡らせる年の下のこの男を、小柄な男は買っていた。いっしょにいるのが好きだった。目と眉を菱のかたちのようにして、顔を溶かすのを見ると、胸の周囲が大変温かくなった。相手の中に、自分への恋慕があり、共に時間を過ごすことでより彼を幸福感のヴェールに包ませ、その内に吊り眉の男を取り込んでしまっていただなどと、どうして気付くことができただろう。
銀の指輪のはまった指は、尖った顎の先をなぞった。
そのまま親指が下唇を押した。ずらりとなんだ歯。奥にちらつく赤い舌。ここまでの道のりで目にした金魚を、垂れ眉の男は想起した。真紅の大きな金魚であった。水の中でゆらゆらと尾を動かし、自分の美しさを気付かぬままに誇示していた。まさしく現在、そこにあるのはそういった美であった。唾液をまとわせ、今か今かとこちらを待っている、そうとしか思えなかった。指の腹で押した部分の柔らかさを確かめるたび、びくんびくんと脚の間のものが揺れた。すると相手はもどかしそうに腰を動かす。そのさまと摩擦に、吊り眉の男は霧のように消えかけた理性が完全に夜へと吸い込まれそうになるのが分かった。
好きだ。
公園に入り、木に押し付けられるなり、言われた言葉がまた繰り返し耳に注ぎ込まれ、吊り眉の男は硬直した。頬にその声の濡れた息がかかり、上がった体温が再び上昇したのを恥じた。下腹に当たる硬い部分に、自分のそれが対抗しようとするかのように同じ反応をしているのに気付いて愕然とした。勘付くな。そう祈りながら、そっと黒目だけを相手に向けた。そこにあるのは知らぬ男の双眸だった。自分が待ち構えられていたことを、この瞬間を逃すまいとただ見つめられていたことを、男は知った。指の代わりに唇が押し当てられた。口の中の赤い金魚が踊った。
おわり