彼らへの花
『おとぎ話は未来をくれない』のサイドストーリーです。本編を読まれていない方を置いてきぼりにする内容になっており、なおかつ本編に関する重大なネタバレ要素を含んでおります。つまり、『本編を読み切った読者様』を前提に書いている作品なのでご注意ください。
彼女の部屋に、色とりどりの花が飾られていることを私は知っている。
残念ながらと言うかそれは造花で、本物にはかなわないかもしれない。けれどそれは、無機的な彼女の白い部屋を鮮やかに飾る。
そしてその造花は、常に同じものではない。減ったり、つぎ足されたりする。
その事実を、その理由を。私だけは、知っていた。
白い部屋の扉を三度ノックする。中から出てきた女性精神科医は、こちらを見るなり眉をひそめた。構わず私は挨拶をする。
「こんばんは、凛子ちゃん」
「その呼び方はやめて」
私は溜息を落として、言いなおした。
「こんばんは、菱木先生」
「何の用」
こんばんはに対する返事もない。私は腕時計で時刻を確認した。午後十時過ぎだ。
「ねえ、もう仕事の時間じゃないでしょ。凛子でいいじゃない」
「研究所で、その呼び方をされたくないのよ」
「研究所って言っても、ここは凛子の部屋じゃない」
私は室内を覗くようにして言った。研究員にはそれぞれ、六畳の個室が割り当てられている。一応プライバシーのために防音になっていて、ベッドだとかそういうものだけが備え付けられている粗末な部屋だ。それでも、ここは凛子の部屋であることに間違いはない。
「私の部屋といえばそうだけれど、それでも下の名前で」
「公私混同はやめましょう! 臨床心理士からのアドバイス!」
私の忠告に、凛子は眉根を寄せた。
「……赤井先生、あなた酔ってるんじゃないの?」
「酔ってない! 飲んだけど!」
「酔ってるわ。大して強くもないくせに飲むから」
飲んだと言っても、チューハイ二杯程度だ。流石の私も、この程度では酔わない。
けれど、多少酔ったふりをしないと、私は今の凛子に話しかけられそうになかった。
「――それで、何の用?」
凛子が改めて私に訊く。私は「えへん」と咳払いをしてから言った。
「今日、ここで一緒に寝たい」
この時の凛子の顔は酷かった。好意的な顔、を全部ひっくり返したような表情だ。つまり、好意というものはそこに一ミリもない。眉間に皺が寄ってるし、口は半開きだし、何よりその目。何その目。生ごみを見るようなの。酷い。
凛子は視線を下に向け、私の左手に枕が握られているのを確認した。靴底に張りついた汚いガムを見る目が追加される。酷い。
「昔付き合ってた女の子に向ける目じゃないなあー、凛子ちゃん」
「もういい分かった、ちょっと中に入りなさい。冗談でも、廊下でそういうこと言わないで」
「冗談じゃないってば。だって私たち昔は本当に」
「早く入って」
凛子は私の腕を思いっきり引っ張って、それから周囲の安全(無人)を確認してから扉を閉めた。凛子の大きな溜息が聞こえてくる。ものすごく面倒なものに巻き込まれたみたいな反応だ。酷いなあ。
無事に潜入できた私は、凛子の部屋を見渡した。デスクの上にノートパソコンが開かれてあって、カルテらしきものが表示されている。いかにも清潔そうなシングルベッド。恐らく中は整理整頓されているであろう物入れ。
それから、造花。
前回来た時は、もう少しピンク色が多かった気がする。今日は黄色の花が多い。
凛子の部屋の造花は、来るたびに変わっていた。それは決して、彼女の気分で変わるのではない。
「ちょっと」
後ろから凛子が、抗議の声を出した。
「どういうつもりなの」
「一緒に寝るつもり」
私は真面目に返した。なのに凛子はもう、それはもう酷い顔をしている。生ごみと、汚いガムと、うつくしい海に放置された花火の残骸と、コーヒーをこぼしてしまった書籍を見るような目だ。つまりは不快な目。とてつもなく不愉快極まりないといったその顔。
「その顔どうにかできないの?」
「あなたのせいでしょう」
「恋人に向ける顔じゃないよ、それ」
私が言うと、凛子は再度溜息をついた。
「……『元』、でしょう。今はただの同僚だわ」
私は微笑む。その通りだった。
凛子と知り合ったのは高校一年生の時だった。
お互い、家庭環境はよくなかった。凛子の家は崩壊寸前だったし、私の家は両親ともに私に無関心で、親と最後にきちんと会話したのがいつだったのかも思い出せないような状態だった。
大人になったら家を出るんだ、という話を二人でした。そこから仲良くなって、付き合うまでに時間はかからなかった。彼女がレズビアンなのか、バイセクシャルなのかは分からない。私は特別男性嫌いでもないけれど、凛子としか付き合ったことがなかった。
同じ国立大学を受験して、彼女は医学部に、私は心理学部に入学した。そして、二人で一つのマンションを借りた。いわゆる同棲だ。周囲の人間にはルームメイトと称していたけれど。
彼女はそれはもう、きっちりとしていた。私がそこまでズボラだという訳ではなく、彼女がしっかりしすぎていたのだ。物の配列は平行か直角しか知らないみたいだし、本棚の本はジャンルや著作者はもちろん、出版年数まで見てきっちりと並べられていたし、食器用洗剤は地球にやさしい『なんとかかんとか』という成分にとにかくこだわった。
それでも私と彼女が一緒に住み続けられたのは、彼女がそれを私に強要しなかったからだ。「私が好きでやってるだけだから気にしないで」と、澄ました顔で言われた。なので私は、物の配列にななめをたくさん作ったし、本棚の本をばらばらに並び替えたし(故意ではない)、間違えた洗剤も購入した(これも故意ではない)。
ここまではまあ、現在の『菱木先生』と大して変わりないかもしれない。
けれど、当時の彼女と今の彼女は違う。まったく、違う。
昔の彼女は笑っていた。そりゃあ、げらげらと下品に笑うことはなかったけれど、人並みには笑っていた。今のように無表情あるいは不機嫌な顔だけをしているわけではなかった。むしろ、そんな顔をしている時の方が少なかったように思う。
現在の菱木先生だけしか知らなければ、信じられないかもしれない。
けれど本来の彼女は、どことなく私と似ていた。
変わってしまったのは、大学を卒業してから。私は大学院を卒業し、臨床心理士の免許を取ってから、この研究所に引き抜かれた。凛子は、研修医二年目になる直前に引き抜かれた異端児だった。研修医という期間を、凛子は一年しか知らない。倫理も何もないこの研究所は、そんなものにこだわらなかった。
ここの給料は高額だった。私たちは自立したくて、だからある意味お金欲しさでここにきた。それだけだった。
研究の内容も何も知らずに、ここにきてしまった。それが間違いだったし、私たちが別れることになった間接的な原因でもある。
ここに来た私たちが任されたのは、とあるクローン人間の育成だった。犯罪者のクローン人間。この時点で研究所の『馬鹿さ加減』が露呈されていたように思う。そんな実験、聞いたことがない。そもそも、クローン人間を作っている時点でバイオエシックスをまったく無視している。
けれど、私も凛子もそれを引き受けた。帰る場所がなかったからだ。
凛子は精神科医として、私は臨床心理士として、そのクローン人間に関わり始めた。
クローンの乳児に、名前はなかった。呼び名は「α」。それはただの記号だった。
ここからは憶測になるけれど、恐らくは『嫌な仕事』を新人に押し付けたのだろうと思う。実験『動物』の育成なんて、誰が好き好んでやるだろう。表向きは「母親として一番年齢の近いだろう菱木先生と赤井先生に」だのなんだの言われていたけれど、そういうことだ。
みんな、αというクローン人間に向かい合いたくなかっただけだ。
私は発達心理学の観点から、凛子は精神医学の観点から、αの記録をし、育てた。
記録をしたと言っても、私たちと出会った頃のαはまだ一歳だった。つまり、オムツを変えたりミルクを与えたりするだけで、普通の子育てと大して違いはなかった。――いや、決定的な違いはあった。
とにかく愛情を与えるな。そう言われたのだ。
αはよく泣き、よく笑った。けれど私たちは、それに対して大きく反応したり、優しい言葉をかけたりしてはいけなかった。
「物のように扱え」
――当時の最高責任者の、最低な言葉だ。それに従順だった私たちも、きっと最低だった。
そのうち、私と凛子には、決定的な違いが出始めた。
私は、上辺だけの笑顔を作るのがとても上手になった。
凛子は、何もかもを拒絶するような態度を取るようになった。
私たちは、αのことを仕事として割り切った。けれどその割り切り方が、決定的に違っていたのだ。
そうして、色々なものを捨てた私たちは、αを狭くて白い部屋の中に閉じ込めた。
αがある程度大きくなったあたりから、私は「臨床心理士の赤井みどり」として彼女に接した。臨床心理士は、患者に対して受容的な態度を取る。それはあくまで技法であって、本当の心ではなかった。
凛子は精神科医として、αの成長を記録した。彼女は常に無表情で、冷たい視線をαに向けた。それはあくまで態度であって、本当の心ではなかった。
――明確に別れようとは言わなかったし、言われなかった。けれどお互い耐えきれなくなって、距離が開いていった。言われなくても分かる。私たちはもう、恋人ではないのだということも。昔のように笑いあうことは、ここではできないのだということも。
いつの間にか終わりが来ていて、私たちはそれに抗うこともなかった。
それを悲しいと思う気持ちすら、私たちはどこかに置いてきていた。
「……ねえ、いつまで白衣を着てるの?」
ワークチェアに座りなおす凛子の背中に向かって、私は話しかけた。凛子はまだ仕事をしている。私を含め他の人間は、とっくに今日の仕事を終わらせているのに。
「まだ仕事が終わってない」
「もう十時だよ? いいじゃない、今日はもう」
「嫌よ。明日に持ち越したら余計に面倒だわ」
私は自分の枕を抱きかかえて、ベッドに腰掛けた。綺麗なシーツに皺が寄る。けれど、凛子は怒ったりしないだろう。
「ねえ。今日はもう寝ようよー」
私が抗議の声を出すと、凛子は生ごみ以下略の目をこちらに向けた。
「先に寝てて」
「一緒じゃないと嫌」
「四十目前の女が言っても効果がない言葉ね」
「凛子だって、同い年のくせに」
声に出してみると、本当に歳をとったと思う。出会った時は十六歳だったのに。
私の声に、凛子は応じなかった。視線をパソコンに戻して、何かを打ち込み続けている。その細い背中を、私はしばらく眺めた。
「――……痩せた?」
返事はない。聞こえているはずなのに。私はベッドから立ち上がり、凛子の元へ向かった。細い肩に手をかける。彼女はもともと細身だけれど、ここまで細かった覚えはない。
「ねえ、ちゃんと食べてるの?」
「……仕事の邪魔しないで」
「もう寝ようって言ったじゃない。白衣脱いでよ。早くしないとパソコンの電源ボタン押すから」
私の声色の変化に気付いたのか、私のしつこさに負けたのか。凛子は何度目か分からない溜息をついて、パソコンをスリープ状態にした。そうして、鬱陶しいという言葉を五十個は貼り付けてるような顔で、けれども手際よく白衣を脱ぐ。黒のタートルネックは、やっぱり少しダボついていた。この一か月で、何キロ落ちたのだろう。けれどもう、それ以上は何も言わないことにした。
地下は照明を消すと正真正銘真っ暗になるので、眠る時は豆電球にする。私と凛子は並んで、シングルベッドに横たわった。……流石に狭い。私は壁際だからいいけれど、凛子は寝返りをうったら落ちるかもしれない。
時刻は十時半。私もだけれど、凛子はまずこんな時間に寝ない。彼女は誰よりも遅くまで起きて、誰よりも早起きする。それを、私は知っていた。そしてそれが、ショートスリーパーとかそういう問題でないことも。
二人で天井を向いたまま、無言を貫く。流石は地下の防音室。怖いくらいに無音だ。隣の呼吸は規則正しく、けれど眠った気配はない。
「……ねえ、凛子」
囁くように、声をかける。彼女は上を向いたまま、「何」と短く言った。
「――セックス、する?」
彼女の呼吸の音がかすかに変わった。けれどそれは決して、欲情したわけではない。私たちは同じベッドに入っただけで勝手に盛り上がるような関係でもなければ、年齢でもなかった。
凛子はほんの少しだけ、顔をこちらに向けた。枕のそばがらが、がさりと音を立てる。
「何なの。あなた欲求不満なの?」
「違うけど」
「まだ酔ってるの?」
「それも違うけど、さ」
私も凛子に顔を向けた。
「慰めた方がいいのかと思って」
凛子はもう、生ごみを見るような目はしていなかった。――知ってる、その顔。出会ってからこれまで、何度か見た。滅多と見せないけれど。特に、『菱木先生』になってからは。
「……卯月ちゃんのこと」
私は言う。凛子は黙ってしまった。
αは約二年前、十三歳の時にようやく部屋の外に出た。その時与えられた名前は『斎藤卯月』。現在の最高責任者、堺先生がつけた名前だった。
彼女は生まれて初めて外に出て、生まれて初めて学校に通い始めた。それすらも実験だったけれど、六畳の白い部屋に閉じ込められているよりかはずっといいと思っていた。思っていたのに。
斎藤卯月が病気だと判明したのは、今から一か月前。彼女が十五歳の誕生日を迎えた日のことだった。
その日、凛子はいつになく深刻な顔をしていた。会議に呼ばれたのは私と凛子、それから助手が数名。
そこで堺さんはあっさりと、「彼女の実験を疾病に関するものに切り替える」と言った。そこにはなんの迷いもなかったし、同情も悲哀もなかった。深刻さも大してない。まるで、新しい遊びを見つけた子供のように無邪気な声。そんな声で、彼はどこまでも残酷なことを言いきった。
斎藤卯月を病気の実験体にし、死後、解剖し研究すると。
その日から、凛子はますます変わった。休憩や睡眠という言葉を忘れたみたいに。一日中何かと向き合っていて、目を離さない。食事を摂っている彼女を見たこともない。恐らく、ほとんど食べていないのだろう。
凛子は頭がいい。だからこそ知っていた。
自分では、斎藤卯月の病気を治すことができないという、事実を。
「――卯月ちゃんの、」
「アルファ」
凛子は私の言葉をさえぎって、言いなおした。それはきっと、彼女らしいのだろう。
けれど、本当の彼女では、ない。
「……卯月ちゃんの病気が判明してから、あなたは泣いたの?」
凛子は体勢を変えて、再度天井を見た。それは、私と目を合わせたくないがための行動だった。
「ねえ。凛子は泣きたい時、私を押し倒してたんだよね。……単に欲してくれてる時もあったけど、そうじゃない時もあった。違う?」
答えはない。けれど構わなかった。
「私を抱いてる時、たまに。……凛子は少しだけ、泣いてた」
彼女が息をのむのが分かった。室内が無音だと、そういう音まではっきり聞こえる。
「ばれてないと思ってた? 何年の付き合いだと思ってるの。分かるよ。――ねえ。そうでもしないと、凛子は泣けないんだよね? 何かでごまかさなきゃ、悲しい気持ちと向き合えない。素直に泣く時間を作れないんでしょ? ――違うなら違うって言ってよ」
どうして責めるような口調になってしまうんだろう。臨床心理士として最低だ。
けれど、今の私は臨床心理士ではない。仕事中でもない。私は赤井みどりで、彼女は菱木凛子だ。そして、単なる同僚同士でも、ない。
「……ねえ、凛子。卯月ちゃんは」
「アルファ」
「凛子!」
大声というほどでもないけれど私は声を荒げて、彼女の名前を呼んだ。細い肩がびくりと震える。その肩を無理矢理掴んで、こちらを向かせた。私にしては強引で、けれど凛子は抵抗しなかった。
彼女はおびえていた。それは、私の行為に対してではなく。
自分の感情に、現状に、おびえていた。
「――悲しくなるのは当たり前だよ。だってもう、十四年も卯月ちゃんのことを見てきたんだよ? 赤ちゃんの時からずっと。初めて立ち上がったり、歩いたり、喋るようになる瞬間を、私たちは全部見てきた。……感情移入してもおかしくないよ。医師や心理士としては失格かもしれないけれど、人間としてそれは普通なんだよ。――だからね、凛子」
泣いてもいいんだよ。私がそれを言う前に、彼女の目から大粒の涙がこぼれた。
ああ、やっときちんと向かい合えたなあ、と思う。彼女の涙に私はようやく対峙できたし、彼女はようやく自分の気持ちに向かい合えた。セックスに頼らずに。
私は無言で凛子を抱き寄せた。凛子の腕が、私の背中に回る。服ごしとはいえ爪が食い込むのが分かって、少し痛かった。けれど、何も言わない。
斎藤卯月はもう覚えていないかもしれない。彼女が物心つく前から、凛子はずっと、彼女に絵本を読み聞かせていたこと。それは教養のためであって、愛情のつもりではないと凛子は断言した。けれど、きっとそうじゃない。
凛子はいつだって、彼女が一番喜ぶ物語を読んでいた。無表情で、棒読みで、お世辞にもうまいとは言えない音読。けれども幼児の斎藤卯月は手を叩いてそれを喜んで、凛子はいつも物語の最後まできちんと読んでいた。できるだけ無表情で、できる限り棒読みにして。愛情なんてない、そう自分に言い聞かせるようにして。
震える凛子に同調したのか、気づけば私も泣いていた。いつの間にか私も、アルコールに頼らないと素の自分をさらけ出せなくなっていた。
私だって、割り切れている訳ではない。
だって、すべて知っている。斎藤卯月が初めて空を見た時泣いたことも、学校生活が楽しいのだと笑う顔も、これまでの境遇もこの先の未来も。すべて知っていて、けれど何もできない。私は、私たちは、神様ではなかった。
シングルベッドにおさまって、二人ぼっちで泣いた。
凛子の部屋に、色とりどりの花が飾られていることを私は知っている。
それは、無機的な彼女の白い部屋を鮮やかに飾る。
その造花は、常に同じものではない。減ったり、つぎ足されたりする。
――マウス、ラット、ウサギ、猫、犬。
名前もない命がひとつなくなるたびに、その花がひとつずつ減ることを、私は知っていた。
この研究所で、私だけが知っていることだった。
凛子が、内心ではαのことを「卯月」と呼んでいることも。
――いいじゃないか。一晩だけでも。
布団の中でくらい、人間らしさを取り戻したって。
目が覚めると、そこは当然のように凛子のベッドの上だった。
壁に顔を向けていた私は、ごろりと寝返りを打った。泣いたせいか、身体がだるい。
凛子は既に起きていた。けれど、パソコンに向かい合っている訳ではない。ベッドから両脚を下ろし、私に背を向ける形で座っていた。
昔と変わらないなあ、とぼんやり思う。
付き合っていたころ、私はいつでも凛子より遅く起きて、けれど彼女はいつも私が起きるまでベッドに腰掛けて待っていた。その細い背中を見るのが、好きだった。そのために寝ているふりを続けたことも、何度かある。
「……おはよ」
寝起きらしさ全開の声で私が言うと、凛子は振り返った。凛とした、けれどいつもより少し崩れている顔で。
「おはよう」
無音状態が続く。窓がないので、太陽の日差しも鳥の鳴き声もなく、ちっとも朝らしくなかった。
「――ねえ」
声を出したのは凛子の方だった。
「散歩に行かない?」
私たち研究員は、施設の外に出ることを許されている。そうでもしなければ、精神衛生上よくないからだ。流石に地下でずっと過ごしていると、色々と滅入ってくる。
太陽がその輪郭を少し見せ始めたころ。私と凛子は二人で、浜辺を歩いていた。周囲には誰もいなくて、まるで無人島のような景色だった。
私たちは長い間二人で漂流して、漂流し続けて、ようやくここにたどり着いたのかもしれない。
五月とはいえ、まだ肌寒い。特に海は。私は「寒いね」とか「寒いね」とか「寒いね」ばかりを繰り返した。それは文句ではなく、ただの情報だった。凛子もそれを知っていた。
二人で適当なところに腰を下ろして、海を見た。ロマンチックだなあとは微塵も思わなかった。二十年前なら思ったかもしれない。けれど私たちはもう、歳をとりすぎた。いや、出会ってから月日が経ちすぎたのだろう。いつまでも乙女ではいられない。
「……そろそろ時効だと思うから言うけれど」
海を見たまま、凛子が口を開いた。
「なに?」
「――あなたとキスする時、私いつも目を開けてたの」
いたずらっぽく、凛子は微笑んだ。久しぶりに見るその笑顔が眩しくて、けれども私の口は「はああ?!」という素っ頓狂な声を出していた。
「私はばっちり目を閉じてたのに?!」
「ええ」
「キスする時の私の顔を観察してたの?!」
「ええ」
ええ、じゃない。
「いやそれすっごく見られたくない顔なんだけどね?! 寝顔よりも酷い気がするんだけど!」
「いいえ」
凛子はそこで初めて否定をして、こちらを見た。
「――可愛かったわよ、とても」
その顔が懐かしくて、私は何も言えなくなってしまった。なんとなく気まずい沈黙が続いて、けれど何故か、その先を簡単に予想できている自分がいた。
どちらからともなく、私と凛子は唇を重ねた。
最後がいつだったのかは覚えていなくて、だから何年振りなのかも分からなかった。けれどそれはとても自然で、流れるような行為だった。
私は結局、昔のように目を閉じた。凛子が目を開けていたのかどうかは分からない。
どちらでも、よかった。
「……そろそろ帰りましょうか」
唇を離した凛子は、あっさりと立ち上がってそう言った。私はそれを少し残念に思いながら、腰を上げる。凛子は私に背を向け、研究所の方を見ながら言った。
「あの子が待ってるわ」
――卯月、とは言わなかった。けれど、αとも言わなかった。
それがとても彼女らしくて、私はその細い背中に向かって、笑った。