二日目
皆が寝静まった頃、葉咲は気配を感じ取り、廊下へ出る。見ると身を低くし、平伏している巫女がいた。彼女の手元には和紙の書状がある。
「面会状ですか」
葉咲の何の感情もない声が人気のない廊下に響く。巫女はただ平伏したまま、任務遂行に務めた。
「はい。ご本家様からのものです。神殿に来られたのは懸命な判断だったと思います。下界は穢れておりますゆえ」
下界――巫女こそ人類の頂点だと考える者達が使う表現だ。その偏った思想の中で、神聖なる巫女は下界では生きられないと言われている。
馬鹿みたいだ。私、風本葉咲はそこで生まれ、今生きているというのに。
「確かに受け取りました。下がりなさい」
「ですが、ご本家は連れてくるようにと!! 葉咲様もなぜ戻ってこないのですか! よほど母の真似がしたいと見える」
世界が無音になる。しかし、巫女には恐れるものがあった。冷たい眼差まなざしの葉咲だ。細められた深緑の瞳は冷え切っている。ただ見られているだけなのに、どうしてこんなに恐ろしいのか。まるでご本家に睨まれているようだと巫女は思った。
「下がりなさい」
高くから見下ろされる視線は氷の如く――。
「は、はい!!」
巫女は直立し、九十度の礼をして去っていった。
「戻りたくなかった……」
ここには母の生家がある。古くからの名家である風本家。風属性の巫女を多く輩出した。
風本家は昔ながらの体制を守るため母にとって窮屈だった。しかし箱庭の中では自由もあったと母は語った。その後に決まってこう続く。けれど、人は自らで切り開くものだからと。
「私は自由でありたかった。巫女になんてなりたくなかった」
それでも葉咲は立ち向かうだろう。友を想うが故に。
面会状にはこう書いてあった。
すぐ 戻られたし。汝の風纏はすぎたるに――
葉咲は片手で握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。風本家で行われる成人の儀が風纏いだ。その成人の儀をすることで、大々的に風本の血筋として神殿の勢力図を広げるきっかけとしている。すでに葉咲は適正年齢から過ぎている。今更声がかかるということは、今風本には一族を導く新たな柱がいないのだ。下界で育った巫女を招くほどに。
「継承者がいなくて滅びるなら滅んでしまえ」
平時の葉咲とは思えない言葉だった。感情を押し殺した低い声だ。
そこでごそっと水翡がベッドの上で寝返りをうち、明かりに気づく。彼女は目が半開きのまま葉咲を見る。
「ん~、葉咲? スタンドライト眩しい……」
「あら、すいません」
葉咲はいつもの笑みを纏い微笑む。追求してくれるなと言外に滲んでいた。それを感じ取った水翡は「明日も早いから早く寝なさいよ」とだけ言った。
「お寝坊さんが何言ってるんですか」
彼女の言葉にクスクスと笑う葉咲。それを安心したように水翡は見つめる。
「とにかく早く寝なさい!」
水翡も早く寝なければとふとんを深くかぶる。
「おやすみなさい」
「おやすみ!」
葉咲がスタンドライトの明かりを消し、二人は再び眠りについた。
今日も巫女の力の授業がある。
水翡は洗面器を両手でしっかり掴み、意気込んでいた。そして意を決して洗面器の中へ顔をつける。
がぼっ、がぼがぼがぼっ。
気泡ばかり出て、一向にコツが掴めない。ずっとこの調子だった。
「う、げほっ、げほっ」
やっぱり水の中で息なんてできない!
「昨日と変わりなし。馬鹿?」
煮詰まってしゃがんでいる水翡を水属性の幼い巫女が見下ろす。水翡に対して大きな態度をとる、すごく生意気な少女だ。
相手は子ども、相手は子ども。水翡は脳内で繰り返す。
「じゃあ、コツを教えてくれる?」
「ふん、まあいいけど。あのね、水面をじーっと見るのよ。そうしたら水と同調できるから」
胸を反らしていう言葉は、何故かその通りにしようという気にさせる。お姉さんぶる姿が微笑ましいからだろうか。水翡は言葉通りにしてみた。
「……さっぱりだわ」
水面から顔を遠ざけて、水翡は肩を落とす。彼女も呆れたと口をへの字に曲げた。
「雑念が多すぎるんじゃない?」
腹が立ちすぎた時は何も言えない。それを実際体験するとは思わなかった水翡だった。
今日も水翡と陽花は上手くいかなかった。ただ、葉咲だけは成功したようだ。
「私は普段から風の声を聞いているので同調しやすかったんだと思います」
風聞きが得意な葉咲。でも、水翡と陽花はそんな能力はない。水と火の性質のため仕方ないが……。
「つまり私達は損しているの!?」
「そんなぁ!」
水翡に続いて陽花もショックを受ける。そこに、いつの間にか部屋に入っていた裕樹がため息をついた。
「なるほどな。そういうことか」
「入ってこないでよ!」
反射的に祐樹のことを気に入らない水翡が牙をむく。
「生憎入ってこれるからな。我慢しろ。陽花」
「はい!」
彼女は鬼教官に呼ばれたが如く、背筋を伸ばして起立した。
「これから寝るまでろうそくに火を灯せ」
「はーい」
陽花は渡されたろうそくを見る。見たところ普通のろうそくだ。
「水翡」
「なによ」
「ついてこい」
「いやよ」
「ほう? ずっとあのクラスにいたいのか?」
脳裏に教室が思い出される。小さな背丈の中で、1人だけ飛び抜けた自分。何とも情けない絵面だった。
「――ついていくわ」
「最初からそうすればいいんだ」
祐樹と水翡は連れ立ってどこかへ行った。陽花は自室に早速行ってしまう。
「あら、暇になってしまいました。仕方ありませんね」
残った葉咲は伝え聞いた図書館へと向かう。
読書好きの葉咲は図書館に着くと目当ての本を探す。最近は歴史小説がブームになっていた。目当ての六巻をとろうとした時、手が重なる。少し角ばった手をしている。視線が真横でかち合った相手は少年だった。サラサラとした茶髪で、髪よりもワントーン明るい茶色の瞳をしている。一見、爽やかな好青年に見えた。しかし今は本を狙う関係だ。
「譲ってくれないか?」
「嫌です」
「ゆーずーれー!」
「いーやーでーすー!」
どちらも一歩も引かなかった。これではキリがない。どう相手に諦めてもらうか考えなければ。そう考え込む葉咲に彼は断じて譲らない。
「なんでだよ。一つとばしで七巻を読めばいいだろ!」
「あなたこそ、とばして読めばどうです!?」
「しつこいな」
「そっちこそ!」
しばらく睨み合いが続く。
「はあ……。こんなでも一応ナイトだし? 巫女は大事にしないとな。譲ってやるよ」
結果ナイトの彼が折れた。
「いいんですか」
「ああ、すっごく悔しいけどな」
それでもなお、笑う彼に好感が持てる。
「じゃあ、今日で読みきって明日渡します!」
「は? その本何ページあると思ってんだ?」
「もしもの時は授業中にでも読みますし」
「ダメじゃん。いいよ、急がなくても。体を壊しちゃいけないからな」
「あなたって本当にナイトなんですね」
葉咲は体までも思いやる姿に感心した。ナイトは基本的にそういうものなのかもしれない。
「おいおい、これでも新人卒業してるんだぜ? 巫女を気遣うなんざ、基本中の基本だ」
「ナイトにも新人があるんですね」
「知らなかったのか? 最近入ってきたんだな。つーことはあんたの担当、祐樹さんだろ?」
意外にも一発で言い当てられ、葉咲は目を大きく見開いた。
「よく知ってますね」
「そりゃあ、あの人は大ベテランだからな。あの人の担当した巫女はだれもが才能を開花し、トップに立ち続けている。あんたはそのナイトの巫女だ。そのうち勝負をしかけられるだろうな。気をつけろよ」
葉咲と同じ背の少年が、葉咲の頭を励ますようにぽんとたたく。
「あなたのお名前は?」
「珪。そっちの名前は?」
「葉咲です」
「そっか、また会おうな」
珪はにっと笑って図書館から出て行った。
彼の去っていった先を見て、葉咲はクスリと笑う。彼女は譲ってくれた六巻を借りた。
その頃水翡はというと、室内プールにいた。祐樹監督の元、ひたすら泳がされている。
「水を感じとれ。そして水になれ」
水になれ、だなんて狂ったのかしら?
そんな考えが顔に出ていたらしい。祐樹は今日何度聞いたのだろうと思うセリフを繰り返し言う。
「とにかく泳げ。毎日だ。この場所は覚えたな?」
「はーい……」
その後、水翡は鬼コーチに力尽きるまで泳がされた。