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栄倉亜美のジャムらない話  作者: 明良 啓介
第二章 戦場を駆ける話
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早朝

 亜美が日本に帰国してきてから二日目の朝。


「――うと、勇人、起きろ。起きてくれ」


 勇人はユサユサと体を揺すられる感覚に目を覚ました。


「……う、うん?」


 勇人が目を開けると、ジャージ姿の亜美が体を揺すっていた。


「――――なっ、亜美!」


 勇人が何事かと体を起こした。


「起きたか勇人。それでは行こうか」


 亜美がさわやかに告げる中、勇人は枕もとの時計を確認した。

 ――時刻は午前五時。

 日もまだほとんど昇っておらず辺りは薄暗かった。


「行こうって、どこに? ……まだ五時じゃん」


 勇人が欠伸交じりに答える。


「ジョギングだ」


 勇人は亜美のジャージ姿に納得がいったが、なぜ自分も行かねばならないのか、ということには納得できなかった。


「……そうか。いってらっしゃい」


 勇人が布団を被り寝ようとするが、


「起きろ!」


 亜美が叫んで、布団を引っぺがした。


「うーん……なんだよ……寝かしてくれよ」


 勇人がベッドの上でモジモジと体を動かす。


「そんなことでは体が鈍ってしまうぞ」

「まだ鈍ってないから大丈夫……じいさんになったら毎日走るから……」

「なっ………………そうか」


 亜美の諦めたような気配を感じて、勇人が二度寝しようと目を瞑る。が、


「――――グボッアァ!」


 勇人が聞いた事もないような呻き声を上げた。

 亜美の左肘が見事に勇人の脇腹に突き刺さっていた。


「……ゲホッ……な、なにすんだよ!」


 勇人が脇腹を押さえて、涙目で亜美を睨みつけた。


「馬鹿なことを言ってないでジョギングに行くぞ」


 亜美が仁王立ちで勇人を見下ろす。


「…………」


 勇人がしばらく無言でいると、亜美の手がピクッと動いた。


「……わ、わかったよ」


 亜美の有無を言わせぬ圧力に負けて勇人はベッドから降りた。


「そのジャージはどうしたんだ?」


 勇人が亜美の全身を見ながら言う。亜美は青色に白の三本ラインの入ったジャージを着ている。


「これはマザーから借りた」

「あっ、そう……気合入ってるね」


 準備万端の亜美に勇人は諦観したような目で呟いた。


「とりあえず俺もジャージに着替えるから、下で待っといて」

「うむ、わかった」


 亜美が嬉しそうに返事をして、部屋を出て行った。

 勇人が着替えながら、チラリとベッドの方を見て二度寝の誘惑に駆られるが、


「…………」


 先ほどの亜美の嬉しそうな顔が脳裏を過ぎり、首を振った。


「ウプッ」


 数時間後――勇人は大学の食堂で食事をしながら胃液が逆流するのを感じていた。口の中に酸っぱい味が広がり、嗚咽特有の気持ちの悪い感覚が腹の底から沸き起こる。勇人は涙目で何かをこらえるように箸を持つ手をピタッと止めた。


「おい、頼むからここで吐くなよ」


 テーブルを挟んで向かいに座る梶が嫌そうな顔で勇人を見ていた。


「大丈夫……飲んだから」

「やめろっ、食欲なくなるわ」

「はい勇人くん、お水」


 勇人の左隣で、紗雪が心配そうな顔で水を手渡した。

 勇人は今朝方、亜美に起こされて早朝ハーフマラソンに付き合わされていたのだ。途中からはギブアップ宣言して歩いていたとはいえ、両腿はパンパンになり、疲労で食事が喉を通らない状態になっていた。


「もしかしてぇ……例の幼なじみになにかされたとか?」

「……ぶっ」


 紗雪の発言に、勇人が飲んでいた水を吹き出す。


「な、なんで紗雪が亜美のこと知ってるんだ?」


 勇人が言った瞬間、梶がサッと顔を伏せた。


「おい、梶」


 勇人が梶をキッと睨みつける。


「――いやいやいや、紗雪に聞かれたからさ。他は誰にも言ってないし」


 梶が手を振って自分に非が無いことをアピールする。


「へえ~、亜美ちゃんっていうんだ……」


 紗雪が一人呟いて不敵な笑みを浮かべる。


「へえ~、アンタもナナっていうんだ、みたいな感じで言うなよ」


 紗雪の意味ありげな反応に勇人が例えツッコミを入れる。そのネタがわかる紗雪がケラケラと笑う。


「とにかく今日はもう疲れたよ。朝五時に起こされて、亜美のジョギングにつき合わされたんだからな。いや、あれはジョギングじゃないな――軍隊のシゴキだ」


 勇人がその時のことを思い出し、気持ち悪そうに口を押さえた。


「ケッ、なんだよ。いいじゃねえか」


 梶が拗ねたように吐き捨てる。


「なにがいいんだよ?」


 勇人が梶の言い草にムッとする。すると、梶がワナワナと震えだし、


「なにがって――幼なじみに起こされて、あまつさえシゴかれるなんて羨まし過ぎるだろ!」


 涙混じりに声を上げる。

 ――ガタッ。


「誤解されるようなところだけ抜粋すんな!」


 勇人が腰を浮かせて(物理的に)突っ込んだ。


「痛っ! やめろ勇人――――痛てててっ!」

「ところで、その亜美ちゃんは今なにしてるの?」

「……ああ、亜美か。多分、今はお袋の仕事場に居ると思う」


 紗雪が聞いてきたので、勇人が梶への鼻フックを中断した。


「痛ってえ……鼻が無くなったらどうすんだよ」

「口があるからいいだろ。そしてクリリンに謝れ」

「なんでだよ!」


 梶が鼻を押さえながら突っ込む。


「亜美は海外生活が長かったから、勉強も兼ねてお袋の仕事場に行ってもらったんだ」

「あ~そっかぁ……勇人君のお母さんって絵本作家だもんね」


 勇人の母、一恵は絵本作家として活動している。勇人は食堂での一件で、亜美の日本語に不安を感じたため、絵本制作の仕事を見学させては――と一恵に提案したのだ。一恵もそれを快く承諾して、自分の作品を見せようと張り切っていた。


「ああ、だから日本語の勉強になると思ってな」

「私、お母さんの絵本見たことあるけど『ブルーチーズと浮遊犬』は好きだったなぁ」

「俺も見た見た。ラストの嗅覚がマヒしても食べる姿は泣けたなぁ」


 梶が会話に入ってくる。


「そんなにいい絵本か? 俺なんか子供の時に散々見せられて、逆にトラウマになったぞ」


 勇人が子供の時に見た、宇宙空間を彷徨い阿鼻叫喚の顔でチーズを食べる犬の絵を思い出す。


「亜美があれを見てトラウマにならないかが心配だな」

「……ふ~ん。随分、気にかけてるじゃん」


 紗雪が勇人のことをジト~ッと横目で見る。


「そ、そういうわけじゃ――その……なんだ……痛てててっ!」


 勇人が照れたように言いよどんでいると、紗雪に太腿をつねられた。


「なにすんだよ!」

「べっつに~」


 勇人が痛みで顔しかめながら言うが、紗雪は素知らぬ顔でとぼける。


「こらっ、お前らイチャイチャすんな!」


 梶がご飯を摘まんでいた箸で二人の顔を差す。ご飯粒が辺りに飛び散る。


「キャッ! もうっ……汚いぃ」

「うわっ、最悪……お前、俺のおかずに入ったじゃねえか!」


 ガチャガチャと食器の音をさせる勇人達のテーブルが食堂内で一番騒がしかった。周囲の学生達が怪訝な表情で勇人達の方を見ている。勇人がこっちを見ている集団に気付いて、


「――あっ、やばい。先輩方が怖い顔でこっちを睨んでるから、ちょっと静かにしような」

「そうだね」

「騒いだのはお前らだろ」


 梶が文句を言ったものの、勇人達は行儀良く食事をすることにした。


「ところで、亜美ちゃんっていくつなの?」


 紗雪がパスタをフォークでクルクルと巻きながら聞く。


「十八」

「もっとあるだろ、あの胸は」

「…………」

「…………」


 梶の言葉に時が止まった。


「……ごめん、今の無し」


 その空気に耐えかねた梶が謝る。そして何事も無かったかのように時は動き出す。


「私達と同い歳なんだぁ。亜美ちゃんは学生なの?」

「いや、大学には行ってない。まあ……その辺は色々と言えない事情があるんだ」


 勇人は誤魔化すように笑った。その辺のことを説明しようとすると亜美が軍にいたという過去を明かさなければならない。もちろんこの二人は勇人にとって気心の知れた友人だが、それはこの場で簡単に話せるようなことではない。


「そっか~、なんか訳アリみたいだね」


 紗雪は軽い感じで答えて、それ以上は追求しなかった。本当は気になっているはずだが、それをサラッと流してくれる紗雪の気遣いに勇人は心の中で感謝した。


「だったらぁ~……」


 紗雪が人差し指を唇の下に当てて考える素振りをする。


「亜美ちゃんは、今どこに住んでるの?」

「ちょっ……なんで、亜美のことばっかり聞くんだよ!」


 勇人が焦るように声を荒げた。それは違う意味で答えられない質問だった。一緒に住んでいるなんて言ったら、前から罵声が飛び、横からはつねられるだけでは済まないだろう。


「え~、なんか怪しい~」


 なぜかこの問いに関しては流さない紗雪だったが、


「質問タイムは終わり。飯を食え! 飯を!」


 勇人は話を強引に切り上げて、目の前のご飯を口に押し込む。


「……だってライバルの情報は知っておきたいじゃん」


 紗雪が勇人には聞こえない声で小さく呟いた。


「んっ? ふぁにかいっふぁ?」


 勇人がご飯を口に含んだままフガフガと喋る。


「べっつに~」


 紗雪が少し拗ねたように顔をツンと動かして、パスタを口に入れる。


「…………」


 さっきから梶が黙々と食事を続けている。勇人はそれを見て、

(なんかやけに静かだな)

 と不思議に思った。先ほどの間を外した発言が尾を引いているのだろうか。

 食事が終わると、紗雪は講義の準備の手伝いがあるというので先に席を立った。勇人と梶は講義までまだ時間があるのでテーブルに残った。


「――さて、紗雪がいなくなったから聞くけど……亜美ちゃんは大丈夫なのか?」


 梶がいつになく真剣な表情で口を開いた。


「なにが?」


 勇人は梶の質問の意図がわからず怪訝な顔をする。


「その……高校の時にお前から聞いた亜美ちゃんの話を思い出して、昨日ネットで調べたんだ……」

「高校の時? ああ、そういえばお前には話してたっけ?」


 勇人は以前、梶に亜美のことを話したことがあった。隣に住んでいた幼なじみが八歳の頃に海外に行ってしまって、音信不通になってしまったこと――さすがに、亜美が紛争に巻き込まれたということは伏せたが、大方の事情は梶に話していた。


「亜美ちゃんが前に住んでた国……タチノアだっけ? ――について調べたんだけど」

「国の名前まで……よく覚えてたな」


 感心するように呟く勇人だったが、梶の真面目な声のトーンに嫌なものを感じて背中に汗が滲む。


「それで現地の新聞の記事を翻訳してるサイトを見て気になった記事があって……反乱軍の指導者を殺っちまったのは日本人の兵士だって――」

「……はあっ! なん……だよそれ!」


 梶の口から告げられた衝撃の事実に勇人の心臓が跳ね上がる。まさか、とは思いつつも勇人の脳裏にサバゲー部で目にした銃を構える亜美の姿が過ぎり背筋に悪寒が走る。梶は勇人のその尋常でない反応を見て、


「……やっぱり、そうなのか」


 確信めいた顔をした。


「なんか、銃の持ち方が様になってたんだよな。まるで戦場にいる軍人みたいに」

「まあ、俺も昨日サバゲー部に行った時にそう思ったよ。やっぱり亜美は戦場にいたんだなって」


 勇人はもはや隠す気を失ったように真情を吐露した。


「事実なんだな」


 梶が確認するように尋ねると、勇人は小さく頷いた。


「ただ……その……日本人兵士が指導者を殺したっていうのは初耳だ。どういうことなんだ?」

「公式のサイトで翻訳されたものじゃないから、確証は無いけどな――記事によると反乱軍の指導者アサドなんとかは、隠れ家に潜伏していたところをタチノア軍の日本人兵士によって射殺されたらしい」


 梶の口からさらなる情報が語られる。


「マジか……よ……」


 勇人はあまりのショックに動揺を隠しきれない。勇人の眼球がグラグラと彷徨うように揺れていた。


「……おい、勇人。おいっ……しっかりしろ!」


 梶が心配するように名前を呼ぶと、勇人はハッとなり正気を取り戻した。


「お前、亜美ちゃんからなんか聞いてないのか?」

「いや、全然」


 勇人が首を振る。


「じゃあ、きっと違う日本人だな。亜美ちゃんみたいな可愛い娘がそんなことするなんて想像つかねえし」


 梶が勇人に言い聞かせるように話すが、勇人は心ここにあらずといった感じだった。


「……そうだな」


 その一言だけを搾り出して、勇人は考え込むように顔を伏せた。

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