亜美、はしゃぐ
勇人と亜美は階段を上がって、二階の右手側の部屋の前までやってきた。勇人が先立ってドアを開けると、部屋内は物が無く、窓際の隅っこに布団がちょこんと置いてあるだけだった。勇人は以前見た時に物置として使われていた部屋の変わりように驚いた。いつの間に、片付けられていたのだろうか――勇人が亜美のことを聞く何日も前から、勇人の両親はこの日のための準備していたのだろう。床にはしっかりとカーペットまで敷いてある。
勇人が腰に手を当てて、ぐるりと部屋内を見回す。
「一応、布団だけは親が用意してくれたみたいだけど。なにも無いな」
勇人は自分の部屋と同じ八畳とは思えない部屋の広さに落ち着かない様子だ。
「なんか寂しいな。家具とかあったほうがいいと思うけど」
勇人が素直な感想を口にする。
「いや、これでいい。屋根があれば十分だ」
「ほんとどんな生活してたんだ……」
「周囲も静かでいい部屋だ。兵舎にいたときは周りの音がうるさくて慣れるまでなかなか寝付けなかったからな」
「慣れなきゃ駄目とか……まあ、亜美がここを気に入ったんならいいけど」
「……それにしても一人部屋なんて久しぶりだ」
亜美はしみじみ呟きながら麻袋を床に置くと、窓際に移動した。そして脇に置いてある布団に目を落とすなり、
「なんだこの布団は! 軍の支給品と全然違う……フカフカだ!」
両手を布団の生地に沈ませながら子供のように声を弾ませた。亜美はしばらく布団の感触を楽しんでいた。そんな亜美の無邪気な姿を勇人は微笑ましげに眺めていた。
「勇人、これで寝ていいのか?」
亜美が振り返り、勇人に子犬のような目を向ける。
「うちの親がここに用意してたんだから……いいに決まってるだろ」
「そうか。勇人のファーザーとマザーが帰って来たら、ぜひお礼を言わないとな」
「それはいいけど、あんまり大げさに言うと変な心配されるから程々にしてくれ」
布団とのじゃれ合いが終わり、亜美が満足したように立ち上がる。その頃合を見計らって勇人は亜美に声をかけた。
「そろそろ、お昼でも食べる?」
「そうだな。ちょうどお腹がすいてきたところだ」
思い出したように亜美がその引き締まったお腹をさする。勇人もそれを見て試しに自分のお腹を触ってみるが、太すぎず細すぎずの平均的な肉の感触があるだけだった。贅肉があろうがなかろうが腹は減る。しかも午前中の大学の講義が終わってまっすぐ帰ってきた勇人は朝から何も食べていなかった。
(そういえば亜美って何が好物なんだ? 昔、よく一緒にバーベキューとかやってたから肉系とかがいいかな)
勇人が考えを巡らせていると亜美がおもむろに部屋の中央に置かれた麻袋に手を入れた。
「なに……それ?」
亜美が取り出したものを見て、勇人は口を挟まずにはいられなかった。亜美の手には謎の文字が書かれた缶詰が握られていた。
「レーションだが」
キョトンとした顔をして亜美が答える。その顔は『なんだ、そんなことも知らないのか』といった感じだ。
「いや、そんな当たり前のように知らない横文字出されても困るんだけど。それに食事はこっちで用意するから」
「いいのか? なら、これは野戦用にとっておこう」
「野戦もねえよ」
亜美は缶詰を麻袋に戻した。ちなみレーションとは――軍隊において軍事行動中に各兵士に配給される食糧のことである。日本では『戦闘食』や『野戦糧食』などと呼ばれ、最近では一般的に『ミリ飯』とも呼ばれている。普通に暮らしている勇人には知る由もない知識だ。とはいえ、ゲームや戦争映画などにはたびたび登場する物なので知っている者も少なくはないだろう。ただ、勇人のように一般人で実物を目にする人は稀といえる。
「とりあえず荷物は置いといて一階に下りようか」
「ん、わかった。そうしよう」
勇人が誘導するようにドアを開けると、亜美は麻袋の方を気にしながらも部屋を出ていく。勇人は麻袋をチラッと見て、レーションを使う時がこないことを祈りつつ部屋を後にした。
亜美をリビングのソファに座らせ、勇人はキッチンの冷蔵庫を覗き込んでいた。
「……なにも入ってねえ」
冷蔵庫の中身は貧乏学生の一人暮らし状態だった。どうやら、昨日のすき焼きで食材はあらかた使ってしまったらしい。
「なんでだよ。お袋も亜美が来るのはわかってたのに……」
勇人は諦めたように冷蔵庫の扉を閉めた。そしてズボンのポケットから携帯を取り出し、母親の一恵に電話をかけた。
呼び出し音がしばらく続く、
「………………出ろよ」
舌打ち混じりに勇人が呟いた瞬間、一恵と電話が繋がった。
『どうしたの? 亜美ちゃん来たの?』
一恵の抑え気味の声が聞こえてくる。電話口からガヤガヤと騒がしい声が漏れている。
「あのさ、なにもないんだけど」
『えっ、なに?』
一恵は周囲がうるさくて勇人の声が聞こえづらいようだ。
「だから! ……冷蔵庫になにも入ってないから、昼飯をどうしようかと思って」
勇人は一瞬、声を荒げるがリビングに亜美が居るのを思い出して、少し声を抑えた。
『ああ、そういうことね。せっかくだから、外食するなり店屋物とるなりしてもいいわよ』
「なんだよ、それっ」
『とにかく、亜美ちゃんのことは任せるから。今、忙しいのよ。それじゃあ……』
「ちょっ! おい!」
一恵が電話を切ろうとしているのを察して、勇人が慌てる。
『あっ、レシートは取っておいてね』
「いや、ちょっと待っ……」
プツ、と音と共に電話は切れた。勇人は携帯をズボンのポケットに戻してため息をついた。
さて、どうしたものか――と勇人が考えていると、
「どうかしたのか?」
不意にキッチンにやってきた亜美に声をかけられた。
「えーと……亜美はなにか食べたい物とかある?」
勇人が冷蔵庫を背中で隠すようにして振り返る。用意すると言った手前、今さらなにも食べる物が無いというのはばつが悪い。
「いつも勇人が食べている物でいいぞ」
「食べている物って言われても、昼はいつも大学の学食だからなぁ」
勇人は何の気なしに口にしてしまった。
「では、それにしよう」
亜美がそれに反応することを予測していなかったのだ。
「へっ? ……いやいや、無理だって!」
勇人が慌てて思いっきり首を振る。亜美と一緒に大学なんか行ったら、知り合いに会った時になにを言われるかわからない。特に梶なんかに会ったら最悪だ。紹介しろと、うるさく言ってくるだろう。紗雪に会うのもまずい。いつもの調子で来られたら、亜美にどんな目で見られるか。勇人は額に冷や汗をかきながら、なんとか諦めさせる口実を探していた。
「なぜだ? 私はその学食とやらを食べてみたいぞ。それに勇人が通う大学も見てみたい」
「いやぁ……だってほら、大学は遠いから」
「私はそれでも構わんぞ」
「味とか普通だよ」
「私はその普通が知りたいのだ」
亜美の切実な願いに対して勇人の口からは苦しい言い訳しか出てこなかった。
そもそも、亜美と歩いているところを知り合いに見られたくない、という勇人の心情は一口では言い表せない。もちろん文字通り言えば酷い言葉として受け止められるだろう。しかしその心情はかなり複雑である。
例えるなら、高校で出来た友達と遊んでいるときにたまたま地元の友達とばったり会うと変な感じになる、あの感覚だ。しかも、昔を良く知る友達に「お前、なんかキャラ違くね?」とか言われた日には、家に帰ってベッドで悶絶ものである。だからこそ、知り合いに会う確率が極めて高い大学に行くことは避けたいのだ。だが、そういった勇人の微妙な照れや恥ずかしさが亜美にはわかるはずもなく。
「私は構わんぞ」
「うーん、でも学食ってそんないいものでもないし。あー、あれだ、たまにウンコとか入ってるし!」
「十年ぶりに再会した、この私がお願いしているのに駄目なのか?」
亜美は到底お願いとはいえないような高圧的な態度で言ってきた。
「…………」
「…………」
「わかったよ。連れてくよ」
ついに折れた勇人は諦めたようにうな垂れた。
そして勇人は今、一時間ほど前にいた大学に戻ってきていた。その隣に立つ亜美は、勇人の私服である紺のパーカーと頭には黒のキャップという出で立ちで、初めて見る大学のキャンパスに目を輝かせている。
「ここが勇人の通う大学か。攻めがいのありそうな場所だ」
学生が頻繁に通るキャンパス内で物騒なことを言う亜美。周囲の学生が聞きなれない台詞に何事かと亜美の方を見る。来た時の服装のままでは亜美は目立つので、勇人は自分の服を着せたのだが、あまり意味は無かったようだ。
「お、おい……やめろって……警備員に聞かれたらどうするんだ……っ」
大学行きのバス内で、はしゃぐ亜美を落ち着かせるのに体力を使った勇人の顔はすでに疲弊していた。
「こんなに広いのか。勇人、学食はどこにあるんだ?」
「三号館の一階にあるから、ちょっと歩くよ」
キャンパス内には巨大な箱のような建物が三つ並んでいて、大学の正門から入って手前から一号館、二号館、三号館となっている。そこからさらに奥の広大な土地にグラウンドがあり、その周囲には研究棟やサークル棟等が建っている。
「この銅像はなんだ、指導者か?」
勇人が少し目を離していると亜美は大学の創設者の像に興味を示していた。
「まあ、間違ってはないけどな」
勇人が亜美に歩み寄り、銅像を見上げる。髭のおっさんが偉そうに腰に手を当てている銅像だ。実際に偉い人だったのだろうが、勉強を学びに来ている学生にとっては正直どうでもいい銅像だ。大学が機能してさえいればいい。勇人はさも興味がなさそうに見ていたが、亜美は銅像を見て首を傾げていた。
「どうした? なんか気になることでもあったか?」
「この銅像……パーツが足りてないな。指導者なのに、銃を持っていない」
「持ったとしたらそれたぶん大学じゃない! それに銅像にパーツとかないし!」
勇人が全力で突っ込むが亜美は自分がおかしなことを言っている自覚がないらしく、
「タチノアには国を独立に導いたラガール大佐の像が建っていたが、ちゃんと銃を持っていたぞ」
まさかの実例の反論が返ってきたので勇人は一瞬戸惑った。
「そ、それはそれで凄い人なんだろうけど……指導者の意味が違うだろ。ここは大学だから、しいて言うならこの人の頭脳が武器だな」
勇人が「うまいこと言った」見たいな顔をするが亜美はそれを無視して、
「なるほど。確かに戦場では知識も必要だからな」
よくわからない納得の仕方をする。噛み合っているようで噛み合っていない二人だった。
しばらくキャンパス内を歩く勇人と亜美だったが、今のところ知り合いに会わずに勇人はホッとしていた。二号館の脇を抜け、徐々に三号館へと近づいていた。木が道なりに植えられていて、人の手で造られた自然の道が出来ている。三号館は比較的に綺麗な建物だ。一階の角にはオープンカフェがあり、学生達が良く利用して常に賑わっていた。
「ここで昼食が食べれるのか?」
「違うよ。ここは休憩所みたいなものだから――食堂はこっち」
勇人がオープンカフェの手前で亜美に右へ行くようにうながす。
食堂は三号館の中央の正面口から入って右側に位置するので、オープンカフェとは逆側になる。しかし、亜美はオープンカフェに興味深々だ。
「学生達はここで英気を養っているのだな」
亜美が外のテーブルに着く学生達に近づいていく。
「おいおいおい……」
勇人が慌てて亜美を追いかける。
「ティータイムも結構だが――お前達は隙だらけでいかんな。そんな所に座って狙撃されても知らんぞ」
「はあ? なんだよアンタ」
手前に座る男子学生二人組みが、話しかけてきた亜美に奇異の視線を向ける。
「日本人はどうも平和ボケしているからな」
「アンタも日本人だろ」
「おい、この喋り方。もしかしてサバゲー部の奴じゃねえの?」
男子学生の内の一人が亜美を見ながら馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「ああ、それなら納得だわ。言動が寒いのも」
男子学生二人組みが笑い合う。
「むっ……なんだ、お前は? 寒いとはどういうことだ……?」
言葉の意味がわからなくても馬鹿にされたニュアンスだけは伝わったのか、亜美がムッとした顔をする。そして、亜美が男子学生に歩み寄ろうとした瞬間――
「はいはい、うちの連れが邪魔してすいませんね。ほら、行くぞ!」
すかさず勇人が割って入り、亜美の右腕を取りその場から連れ出した。
「お、おい勇人。私はまだ言いたいことが……」
勇人に引っ張られていく亜美を男子学生二人組みも周囲で休憩していた学生達も口をポカンと開けたまま見ていた。一体なんだったんだ、という空気が辺りを包んだ。
「問題を起こすなよ。お前がここの学生じゃないとバレたら、追い出されるんだぞ」
オープンカフェから離れた三号館の正面口まで来てから、勇人は亜美に振り返った。
「わ、わかったから、手を離してくれ」
「あ、悪い」
勇人は亜美の右腕を取ったままだったことに気づき、左手をパッと離した。一瞬、亜美がなにか言いたげな顔をしたが、すぐに勇人から顔を逸らした。
「今から食堂に入るけど、頼むから大人しくしてくれよ」
「……すまなかった」
急にしおらしくなった亜美の態度に勇人がたじろぐ。
(やべぇ、言い過ぎたか)
「えーと……まあ、亜美は日本の生活から離れてたからしょうがないけどさ」
勇人が慌ててフォローを入れる。
「すまない。まだタチノアでの習慣が抜けないのだ」
狙撃されることを気にかけるのは習慣なのか、と色々と引っかかることはあったが、勇人はまず基本的なことを亜美に教えておかなければと思った。
「とにかく、ここには銃を持った人間もいなければ、襲ってくる敵もいない。みんなここに勉強しに来てるんだ。だからもっとリラックスしろ」
「……うむ、そうだったな。どうにも自制が利かなくて」
「とにかくさっきみたいに周りの人には声をかけないように」
「ああ、わかった」
顔を上げ、頬を叩いて気合を入れる亜美。勇人がリラックスするように言ったことをすでに理解していない様子だった。「大丈夫かよ」と勇人の心配をよそに亜美はズカズカと食堂へと足を進めた。