上本家
上本家の食卓に久々に家族三人が揃った。
リビングの四人掛けのテーブルに、勇人、その向かいに母親の一恵、その隣に父親の武徳が座っていた。武徳は仕事の関係で出張が多く、あまり家には帰ってこなかった。一恵も普段は家にいるが、絵本作家の仕事の打ち合わせなどで家を空けることがあった。だから、家族揃って食卓を囲むことは上本家では珍しいことだった。
勇人の向かいで、武徳と一恵が仲良く夫婦の語らいをしていた。夫婦がうまくいく秘訣は夫が長く家にいないことだと聞いたことがある。勇人はそれを地でいく両親を見つめながら、まさにその通りだな、と苦笑した。一家団欒の象徴でもあるすき焼きを箸で摘まみながら、勇人は目の前の新婚さながらの光景をうんざりとした様子で眺めていた。もうすでにその状態が二十分ほど続いていた。
小皿の黄身がほとんど無くなり、そろそろ食べ終わろうかという時、
「――勇人。少し話があるんだが」
武徳が勇人に対して話を振ってきた。武徳のいつになく真剣な表情に、少し不安を感じて勇人は喉を鳴らした。
「隣に住んでいた亜美ちゃん、覚えてるか?」
その言葉に勇人がピクッと顔を強張らせる。
忘れるはずがなかった。産まれた時からずっと隣に住んでて、幼稚園も小学校も一緒で、いつも勇人の後ろについてきていた、幼なじみの栄倉亜美。勇人が八歳の時に海外へと引っ越してしまった女の子だ。
しばらく手紙のやり取りはしていたが、亜美の引っ越し先の国で紛争が起きて、音信不通になっていたのだ。勇人はそれをニュースで知り、亜美を救いに行くと言って両親を困らせた。武徳も亜美の家族について調べたが、現地で行方不明扱いになっていた。亜美の親と勇人の親も仲が良く、家族ぐるみの付き合いをしていたので、ニュースを見て顔を青ざめさせていた。勇人が深夜リビングに訪れ、一恵が泣いているのを目撃したこともあった。
その後も勇人は亜美が生きていることを信じて疑わなかった。両親もそんな息子の姿が痛ましく思えて、次第に亜美の話題を口にすることは無くなっていた。
「もちろん覚えてる」
ニュースで紛争の映像を見た時、ここに亜美がいるんだ、という恐怖は今でもトラウマとなっている。暗闇の中で、光の粒が飛び交い、建物が砕け散っていく様は映画よりも地味で、それが逆に不気味に感じられた。別の日にニュースでまた映像が流れた。担架で運び込まれる血まみれの人間、瓦礫の隙間から見える子供の手、銃を持った大人達が瓦礫となった街並みを歩いている。なにもかもが、現実とは思えない光景だった。
――それでも亜美は生きている。
勇人の頭の中はその思いだけでなんとか正気を保っていた。
「それがなに?」
勇人が感情のない声を出す。武徳は顔色ひとつ変えない。向かいで一恵が泣きそうになるのを堪えているのが見えた。亜美の話題が出て、この空気。勇人は嫌な予感がした。
(嫌だ……聞きたくない……)
勇人の脳裏に最悪な状況が思い浮かぶ。この場から逃げ出したい。勇人の手は震えていた。
武徳が重々しく口を開く。
「実はな……」
「いい……聞きたくない……」
武徳の語り口で、勇人にはその先が想像できてしまう。
勇人はたまらなくなって席を立とうとした。しかし、勇人の考えは良い意味で裏切られることとなった。
「亜美ちゃんが見つかったんだ!」
武徳がリビングに響き渡る声で言った。
「………………………………えっ?」
その瞬間、一恵がせきを切ったように泣き出し「よかったね」を連発しだした。
勇人は武徳の言葉に頭が追いつかず、戸惑いを隠せない。
「えっ? どういうこと?」
「生きてたんだよ。亜美ちゃんが!」
武徳が満面の笑みで答える。
「えっ? なに……誰……?」
「亜美ちゃんだよ。隣に住んでた」
武徳の言葉に勇人の思考がだんだんと追いついてくる。
「……本当に……亜美が……?」
緊張が解けるように勇人の表情が柔らかくなっていく。
「……ハハッ……なんだよそれ……」
乾いた笑いと共に勇人が前屈みになった。鍋の上に顔を伏せるような状態で、勇人が肩を震わせる。すき焼きの鍋に、ポツポツと雫がこぼれ落ちた。
(良かった良かった良かった良かった良かった良かった……本当に良かった)
勇人の心は歓喜の声で埋め尽くされた。
「今どこにいるんだ?」
涙を拭くのも忘れ、勇人が顔を上げる。
「多分、今は空の上だ」
「――なっ、おい! 縁起でもねえ!」
勇人が、ガタンッと音を立てて椅子から腰を浮かせる。
「んっ? ……あっ、いや、違う違う! 飛行機に乗ってるってことだ」
自分の言葉の意味を理解したのか武徳が説明を付け加えた。
今にも武徳に噛み付きそうだった勇人がフンと鼻を鳴らして腰を下ろす。
「それで、いつ会える?」
武徳は勇人を刺激しないように恐る恐る喋りだした。
「……そうだな。色々と手続きがあるから午前中は無理だけど、明日の昼には会えるんじゃないか」
「本当に?」
「いや、本当だって。勇人、目が恐いよ」
勇人は自分の父親を親の敵のように睨みつけていた。
「ちょっと、勇人。お父さんを威嚇しないの」
一恵が勇人をたしなめる。勇人が我に返ったようにハッとなる。さすが母親。絶妙のタイミングで父子の間に割って入った。
「お父さんも順を追って話をしないと」
「そうだな。すまん」
武徳が頭を垂れてシュンとする。
「そういえば、亜美のおじさんとおばさんは? 無事なの?」
勇人が思い出したように口を開く。亜美は出てきたのに、その両親の話題が出てこなかったからだ。
武徳と一恵が顔を見合わせて、悲しげに目を伏せた。
「残念だが……紛争に巻き込まれて亡くなった」
「…………二人とも?」
武徳が無言で頷いた。
「そんな……」
勇人はなんとも言えない無力感に包まれた。
(亜美だけじゃなく俺にも優しくしてくれて……良い人達だったのに……なんで……っ!)
なんで亜美の家族がこんな目に合わなくてはならなかったのか。勇人はどこにもぶつけようの無い怒りを覚えた。
「んっ……ちょっと待って。紛争が起きたのって何年前だっけ?」
勇人が違和感と共に、武徳に尋ねる。
「亜美ちゃんが引っ越してから一年後だから、だいたい九年前だな」
「九年前……」
勇人にひとつの疑問が生まれた。なんで今頃になって亜美が見つかったのかということだ。これまで亜美はどうやって暮らしていたのか。両親がいつ亡くなったのかは定かではないが、少なくとも亜美は九年間も紛争地域にいたということになる。九年前といったら亜美は九歳だ。戦場に子供一人で九年間――想像するだけで背筋が凍る。そんな過酷な状況の中で、亜美は生きていたという事実。あの泣き虫な亜美がどうやって――勇人は訳がわからなくなっていた。
「なんで今まで見つからなかったんだ?」
「そのことなんだが……父さんの仕事ってわかる?」
急に関係のなさそうな質問をされて、キョトンとした顔をする勇人。
「いや、知らん」
考えてみれば勇人は父親の仕事を知らなかった。小さい頃に聞いたような気もするが、はぐらかされた記憶があった。
「実は、父さんは内閣調査室で働いているんだ」
「はぁ!?」
なんだかものすごくでかいことを言い出した。勇人にとって職業の肩書きに『内閣』という言葉が入っていること自体がピンとこない。
「それって――国の探偵みたいな?」
「厳密に言うと日本のCIAみたいなもんだが。まあ、そんな感じだ」
いきなりの武徳のカミングアウトに勇人は一恵に助けを求めるが、ニコッと笑って返された。「聞きなさい」という意味らしい。
「それで、今まで個人的に色々と調べていたんだ」
「思いっきり職権乱用だな……」
「まあな。といっても一般人よりひとつ上のレベルの情報を知れる程度だよ」
『それでも十分バレたらやばくね?』という台詞が勇人の喉元まで出かかっていたが、自分もその立場にいたら、そうしていたに違いないと思ったので口をつぐんだ。
「で、情報を整理するとこういうことだ。栄倉さん……亜美ちゃんのお父さんは外交官の仕事で『タチノア』という国に行くことになった。しかし、その一年後、そこでクーデターが起きてしまった。タチノアはアラビア海の南に位置する島国で、中東の国とも交流があったから武器の流通があったらしい。そして、そのクーデターの際に亜美ちゃんの家族が住んでいた日本大使館も攻撃された」
勇人の脳裏に子供の頃に見たニュース映像がフラッシュバックする。
「その時すでに、亜美ちゃんのご両親は亡くなっていたようだ。しかし、事態が収拾するまで関わりたくない日本政府は亜美ちゃんの家族を行方不明扱いにし、事実を隠蔽した。そしてつい先日、やっと九年間に渡るクーデターが鎮圧され、政府が日本人の生存者の調査に乗り出したというわけだ」
「亜美はどこで見つかったんだ?」
勇人は日本政府の対応にも腹が立ったが、今は亜美の情報をいち早く知りたかった。
武徳はそんな勇人のソワソワとした態度に微笑を浮かべた。
「そうだな。じゃあ重要なことだけを言おう。亜美ちゃんは保守派の義勇兵――クーデターを鎮圧する部隊――の中にいたんだ。日本人の女性兵士は珍しいから、部隊の間では有名人だったらしい」
「なっ!? あの……亜美が……」
にわかには信じられない話だった。亜美が兵士として戦場で戦っていたなんて。昔のイメージからは想像がつかない。泣きながら銃を撃っていたのだろうか。
勇人は自分の知っている亜美からどんどんイメージがかけ離れていくのを感じた。
「なんでそんなところに?」
武徳の話に勇人は全く実感が湧かなかった。
「日本大使館から逃げてきた亜美ちゃんを反乱軍と交戦中だったタチノア軍が保護したらしい。それからどこでどうなったかわからんが、義勇兵として軍の中で暮らしていたみたいだ。詳しい話は本人から聞くのが一番だろうな」
「そんなこと怖くて聞けるかよ」
武徳が微笑する。優しく育った息子に対して。
「まあ現実的に考えて、戦場で銃を撃つだけが兵士じゃないからな。給仕係とか、後方支援とか、そんなところだと思うけどな」
「きっと、そうよ。優しい子だったし」
武徳と一恵がうんうんと頷く。勇人も両親の言い分に納得した。なんで勝手に前線で戦っていると思い込んだのだろう。考えたくもないが、亜美みたいな女の子が前線に出ていたら間違いなく死んでいたはずだ。今まで生きていたのは、後方にいて軍に守られていたからだ。その方が断然説得力がある。
「じゃあ、もうその話はいいから。明日の昼どこに亜美を迎えに行ったらいいんだよ?」
勇人の言葉に武徳が不思議そうな顔をする。
「なに言ってるんだ。亜美ちゃんはうちに来るんだよ」
「なんだよ、親父が迎えに行くのか?」
武徳が首を横に振る。
「いや、タチノア大使館の人が亜美ちゃんを車でうちまで送ってくれるから、勇人は昼にうちに居てくれればいい。父さんと母さんは明日仕事で家を空けるから、帰って来るのは夜になるしな」
「……てことは、俺一人で亜美を迎えるのかよ!? そんなの無理だって!」
「どうして? 別にいいじゃない。若い二人で積もる話もあるでしょうし」
慌てる勇人を尻目にのん気にお見合いの仲人みたいなことを言う一恵。
「うっ……そりゃそうだけど」
意識したのか顔を赤らめる勇人。
「二人きりになれるから嬉しいでしょ」
勇人の反応に一恵は気を良くして、さらにからかう。
「だあぁぁぁああぁぁ、わかったよ! 一人でいいよ! 明日はちゃんと家に居るよ!」
言い捨てるように席を立ち、リビングを出て行く勇人。
「照れてたわね、あの子」
一恵が「フフフッ」と笑う。武徳も一恵につられて笑う。
「そうだな。よっぽど嬉しかったんだろうな……あっ」
武徳が思い出したように声を上げる。
「亜美ちゃんと一緒に暮らすこと言い忘れてた……まあ、いいか。明日になればわかることだからな」
武徳はそのことを気にした様子も無く、すき焼きを箸でつついた。