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栄倉亜美のジャムらない話  作者: 明良 啓介
第一章 迷彩服と帰還中
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大学にて

「ふわあぁぁ……あ……?」


 上本勇人が目を覚ますと、すでに講義は終わっていて、講堂内は喧騒に包まれていた。寝ぼけ眼で周囲を見渡すと、勇人と同じように今しがた起きた学生が何人か伸びをしている。単位をとるための退屈な講義など、寝ていても誰も文句は言わない。

 強烈な眠気から解放された学生たちは講堂から出るべく扉の前に列を成していた。その口からは早くも昼食の献立についてや、休日の予定についての話題が上がっている。週末ということもあり、学生たちの頭の中はすでに休日モードに切り替わっているようだ。そんな人の流れを勇人はしばらくぼうっと眺めていたが、会話を聞いて腹の虫がうずいてきたのか、ようやく肩を回すと講堂を出る準備をし始めた。


「勇人君ハロハロ~」


 帰り支度を整える勇人の顔の前に突然、気の抜けるような声と共に細く白い腕がニュッと横から伸びてきた。勇人が振り向くと同級生の緒川紗雪が唇を突き出しながら顔を近づけてきていた。


「ちょっ! 顔が近いっ!」


 慌てた勇人は反射的に紗雪の肩を押し、自分から離れさせた。


「え~、なんでぇ?」


 紗雪がつまらなそうに口を尖らせる。その口は明らかに先ほど勇人の唇を狙っていた。ぷるぷるとした唇が揺れる。勇人はなるべく紗雪のほうを見ないように視線を逸らして、机の上のテキスト類を鞄に詰める。


「やめろよ。危ないなぁ」

「それって――女の武器的な意味で?」

「いや、そのままの意味で」

「あっ、ひどーい。お目覚めのチッスしようとしただけじゃん」

「チッスて……どこのおっさんだよ」


 紗雪はいつもこんな感じで勇人をからかう。気のある素振りと言えなくもないが、勇人の反応を見て楽しんでからかっているようにも見える。だから勇人は常に『俺は騙されないぞ』という姿勢で紗雪と接していた。逆にそれが紗雪を調子付かせているのもまた事実だが。


「勇人君が隙だらけなのが悪いんじゃん」


 紗雪が語尾に☆が付きそうな喋り方をする。


「いや……そりゃ寝起きだし」

「気持ちよさそうに寝てたもんね。ほら、寝癖」


 紗雪が前屈みになり勇人の右側の寝癖を指ですく。勇人の横で栗色のウェーブがかったセミロングの髪が揺れ、シャンプー(植物性)の香りが鼻腔をくすぐる。勇人は内心ドキッとしながらも紗雪のされるがままになっていた。


「ああ~駄目だね、こりゃあ。後で水で濡らしたほうがいいよ」


 諦めたように紗雪が離れる。勇人の頭の右側から髪の毛がピョンと出た状態になっていた。ただでさえ冴えない風貌の勇人がより残念な感じになっている。人に指摘されて気になってきたのか、勇人が髪の毛をしきりに手で押さえようとするが、寝癖は一向に直りそうもない。


「とりあえず、お昼食べに行こうよ」


 興味が移ったのか紗雪が勇人をお昼に誘う。勇人は寝癖を直すのを諦めて、紗雪に向き直ると、申し訳なさそうな顔をした。


「いや、俺今日は半ドンだから。昼からちょっと用事があって……」

「ええ~、お昼一緒に食べようよ~」


 紗雪がわざとらしく腰をクネクネさせ、くびれたウエストからピップにかけての魅力的なラインを勇人に見せ付ける。勇人はついそこに目がいきそうになるが、机の上の鞄を手早く肩にかけるとすっくと立ち上がった。それなりに身長がある勇人が立つと、紗雪の顔の位置はちょうど勇人の胸の位置と重なる。


「いいじゃん、ちょっとぐらい……ねっ」


 破壊力抜群の上目遣いで紗雪がお願いしてくる。大抵の男なら「はい」と頬をゆるめて即答するところだが、今の勇人には効かない。午後から大事な用があるのだ。


「悪い、今日は本当に無理なんだ」

「うーん、そっか……わかった」


 紗雪が一瞬本気でがっかりしたような顔になったが、「じゃあ、また今度お昼食べようね」とすぐにいつもの笑顔に戻った。


「ああ。ごめんな」


 そのどこかぎこちない笑顔に少し罪悪感を覚えた勇人だったが、肩にかけた鞄を後ろに回すと、足早に紗雪の横を通り過ぎていった。

 心苦しい気持ちもあってか、勇人がいち早く講堂から出ようと扉に近づいたところで、向こうから来た生徒と鉢合わせした。


「おお、びっくりした! ……なんだ勇人か」


 目の前に現れたのは短髪で黒縁眼鏡の梶大輝だった。梶は勇人と同期で高校時代からの友人だ。


「ちょうど良かった。今日サークルに顔を出すから誘おうと思ってたんだよ」

「悪い。今日はちょっと……」

「今日も、だろ。ていうか、お前マジで幽霊部員じゃねえか。本物の幽霊でも、もうちょい人前に顔出すぞ」


 梶の言うことはもっともだった。勇人は梶の在籍するサークルに誘われ、初めは断っていたのだが「人が少なくて困っているから名前を貸すだけでいい」と言われ、文字通り名義だけサークルに登録した。それ以来、勇人は一度もサークルに顔を出していない。正真正銘の幽霊部員だ。


「いや、今日は本当に無理なんだ。今度ちゃんと顔出すから」

「えー、マジかよ……」


 梶は大げさに頭を抱えて演技交じりに残念そうな顔をした。この反応を見るからに駄目で元々だったらしい。が、梶はすぐに「あっ」と思い出したように声を漏らすと「そういうことか……」と一人で納得したように呟いた。


「なんだよ?」


 そんな梶の様子に不快感をあらわにする勇人。付き合いの長い勇人にはわかる。梶は空気の読めない男だ。おそらく余計なことを言ってくるだろうと確信していた。


「お前がそれだけ必死な顔になるってことは、例のあの娘がらみか?」


 梶がニヤニヤしながら言った。

 勇人はそれを無視して進もうとするが、扉を遮る梶の腕にガッチリと阻まれて進めない。


「いや、わかってるんならどけよ」


 勇人が梶を睨みつける。


「今度、その娘紹介しろよな」

「……断る」


 勇人は梶の腕を跳ね除け、講堂を出て行く。

 意気揚々と廊下を早足で駆けていく勇人の背中を見送りながら梶は苦笑を漏らした。


「一途だねぇ……」

「今の話、詳しく聞かせなさいよ」


 いつの間にか梶の後ろに紗雪が立っていた。



 大学を出た勇人は大学前のバス停からバスに乗り込み、一番後ろの席で一息ついていた。バスは斜面を下っている。そのせいで車内はガタガタと揺れていた。それと同調するように勇人の心は喜びで打ち震えていた。

(ついに……ついに亜美に会える)

 勇人は思わず顔がニヤついてしまうのを抑えられない。

 ふと前を見ると、手すりに掴まる同じ大学の生徒らしき娘が怪しい者でも見るような目つきで勇人を見ていた。勇人は誤魔化すようにコホンと咳払いをして、窓から外を眺める。

 見慣れた街並みが左へと流れて記号と化していく。


「十年振りか……」


 ぼんやりと窓の外を眺めながら勇人は十年分の思いを吐き出すように呟いた。

 ――話は前日に遡る。

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