二人の兵士
夕方――勇人は大学から自宅の周辺に帰ってきたところで異変に気付いた。
自宅の前に軍服姿にベレー帽を被った二人の女性が立っていた。
思わず電柱の影に隠れた勇人が、自宅の方を覗き見る。小柄な方の女性が自宅のインターホンのボタンを押している。
「なんだ、あいつらは……?」
家の中からの反応が無いので小柄な方の女性がもう一度インターホンを鳴らした。もう一人の女性が周囲を警戒するように辺りを見回す。勇人はそこでピンときたように目を見開いた。
(――まさかっ! 亜美を追ってきた連中か!)
勇人は慌てて頭を引っ込めて電柱に背を預けた。勇人の額に汗が浮かび、心臓が早鐘を打つように高鳴りだす。
(なんで家の場所までバレてるんだ――?)
勇人がそっと電柱から顔を出すと、小柄な方の女性が誰も出てこないことに苛立ったように門を足でガシガシと蹴っていた。もう一人の女性がそれを止めるようになだめている。どうやら、家には亜美も一恵も居ないらしく勇人はホッと胸を撫で下ろした。
やがて二人の女性は諦めたように逆方向へと歩き出した。
その時――プゥルルル、プゥルルル、と勇人の鞄の中の携帯電話が鳴り出した。勇人は心臓が口から飛び出そうになり、慌てて鞄から携帯電話を取り出し通話ボタンを押した。そして携帯電話を耳に押し当てながら、電柱から二人の女性がいた方を覗き見る。
「――――やべっ!」
二人の女性は足を止めて振り返っていた。勇人はすぐさま顔を引っ込めたが、女性の一人と目が合ってしまった。
『――あ、あ、メーデー、メーデー。勇人、聞こえるか』
電話口から亜美の声が聞こえてくる。
「……あ、亜美か?」
勇人が口元を手で覆うようにして小声で話す。
『ああ、そうだ。今かけているのが私の番号だぞ。登録しておいてくれ、オーバー』
普段の勇人なら最後の言葉に引っかかるところだが、今はパニックになっていてそれどころではなかった。
「あ、亜美は今どこにいるんだ?」
あの軍服の二人が亜美を狙っている連中だとしたら、今自宅に帰ってくるのはまずい。
『駅前の携帯ショップだ。今からマザーと帰ろうと思っていたところだ。オーバー』
「亜美、いいか……家にはゆっくり帰って来るんだ。なんならどっかに寄ってもいい」
亜美がまだそれほど近くにいないことがわかり、勇人は安堵して指示を出す。
『んっ、なぜだ? オーバー』
勇人の真剣な声とは裏腹に電話口から亜美の気の抜けたような声が聞こえてくる。
「とにかく今はまずいからっ――ゆっくり帰って来るんだ! わかったな、オーバー!」
勇人は焦りと亜美がいちいち挟んでくる『オーバー』に対する苛立ちをぶつけるかのように語気を荒げた。
『……なっ、ちゃんと説明しなければわからんだろう。オーバー!』
亜美も勇人の物言いにカチンときたようで、声が険しくなった。
「なんでもいいからっ――――ぐえぇ!」
勇人が喋っている途中で何者かに背後から思いっきり鞄を引っ張られ、肩にかけていた鞄のベルトが首に食い込む。勇人は呻き声を上げながらも咄嗟の判断で携帯電話の通話を切った。その際、電話口から『勇人、どうした!』という亜美の慌てる声が漏れたが、勇人の耳には入っていなかった。
勇人は携帯電話を地面に落とし、首に食い込む鞄のベルトを両手で必死に外そうとした。しかし、背後から膝の裏を蹴られ、勇人は片膝をついた状態でさらに背後の人物に腕をまわされて首を絞められた。一瞬、背中に柔らかい胸の感触があったが、
「ぐぅっぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――ッ! ぐっ……うぅぅっ……うぅ……」
それどころではなく、勇人の首を絞める腕は頚動脈にしっかりと食い込んでいる。勇人の口が酸素を求めるようにパクパクと動き、顔色が紫に染まっていく。勇人は体に力が入らず暴れることもできなくなり、徐々に意識が遠のいていくのを感じていた。視界が狭くなり、目の前が暗くなっていく。
(マジかよ……俺はわけもわからず殺されるのか……俺の人生ここで終わるのか……)
…………………………………………。
……………………。
…………。
――そして勇人は気を失った。
『完』
「……………………ッパネルラァァァァアァァアァァァ!」
まさに息を吹き返したように勇人がガバッと勢いよく上体を起き上がらせた。
しかし、勇人は後ろ手で縛られていたためすぐにゴロンと横に倒れてしまった。勇人が辺りを見回すと見覚えのある庭にいることに気付いた。芝生に寝転ぶ勇人の左側にはリビングの窓があり縁側の下に一恵のスリッパが置いてある。右側には物干し竿があり、衣服やタオルなどの洗濯物が掛かっている。その奥には花壇があり、手入れの行き届いた草花が並んでいる。最近、一恵が趣味でガーデニングを始めてから出来たものだ。どうやら勇人が気絶してから自宅の庭へと運ばれたらしい。
「……チッ」
勇人の頭上から舌打ちが聞こえた。勇人が見上げると、逆光を浴びた二つの人影が立っていた。今の舌打ちは前に立つ小柄な人影から発せられたようだ。
「な、なんなんだ、あんた達は!」
勇人が首を起こして叫ぶが、動揺から声が裏返っていた。
陽の位置が変わり二つの人影が西日によって照らされ、正体があらわになった。
(金髪……の女の子……?)
勇人が目の前の少女を見て、目を奪われた。
そこにはベレー帽の両脇から垂れ下がる、夕日に照らされた金髪を艶やかに輝かせる少女の姿があった。少女の吊り上った目の奥の瞳はルビーのように青く透き通っていた。
その後ろに立つのは、赤みがかった髪の女性。しなやかな体躯の中にも女性的な部分はしっかりと主張されていて、全体的に柔らかそうな印象を受ける。
(ゴクリ……じゃなくて――っ。いかんいかん……こいつらは敵なんだっ)
思わず二人に見惚れてしまった勇人が自分を戒めるように目を瞑った。
勇人は二人から視線を外して、今の状況を把握しようと頭を働かせた。
(まだ日が落ちてないということは、俺が気を失ってからそんなに経ってないな。あれっ?)
勇人が腰を見ると、ズボンのベルトが無くなっていた。
(もしかして……これか?)
勇人が手をモゾモゾと動かして縛っている物の感触を調べた。勇人の予想通りベルトは勇人の手を縛るのに使われていた。金髪の少女の足元には勇人の鞄が置いてあり、その周囲に教科書やノートが散らばっていた。勇人が気を失っている間に鞄の中を検められたようだ。
少女が見下したような目で勇人の顔を睨みつける。
「私はミリー、こっちはニコールよ」
少女が言いながら、背後の赤毛の女性を親指で指した。ニコールと紹介された赤毛の女性はにっこりと勇人に微笑みかけるが、この状況にはそぐわない表情に逆に恐怖を覚える。
「アンタこそなんなのよ。こそこそ隠れてこっち見てたでしょ?」
ミリーと名乗った少女が問いかけるが、勇人は目の前の金髪碧眼の少女が流暢な日本語を喋ったことに目を丸くしていた。
「……なに? 驚いた顔して」
「いや、日本語うまいな……と思って」
「あったり前でしょ。私には最高の教官がついてたんだから」
勇人に褒められて金髪の少女――ミリーが得意気な顔で薄っすらとした胸を張った。
(んっ、日本語……教官? ……まさかな)
勇人は何か引っかかるものがあったが、それよりもミリーが突き出した控えめな胸に無意識的に目を向けてしまった。
「……な、なによ?」
勇人の視線に嫌なものを感じて、ミリーが怪訝な表情をする。
「いや、胸無いな……と思って――ゴバァ」
言い終えた瞬間、勇人の腹部にミリーの右足がめり込んでいた。
「だ、黙れ。この変態!」
ミリーが交差した両手で胸を押さえて、怒りで顔を真っ赤にさせる。その足元では勇人がうずくまるように悶えて咳を繰り返していた。
「ゴホッ……ゲホッ……マジかよ。女の蹴りじゃねえ……ゴリラの蹴りだろこれ」
ミリーの想像以上に重い蹴りに勇人の顔は苦痛で歪む。ミリーが履いているのがコンバットブーツというのもあって、威力に拍車がかかっていたようだ。
「ゴリ……な、なんてムカつくヤツ――っ!」
ミリーが勇人にもう一発蹴りを食らわそうとしたところで、
「もう、駄目じゃないの。相手のペースに飲まれちゃ」
後ろで勇人とミリーのやり取りを楽しそうに眺めていたニコールが優しく子供を叱るような雰囲気で割って入った。
「ち、違うわよ。二度と舐めた口を利けないよう、体に教え込もうとしただけよ!」
言い訳がましく言うミリーの脇を素通りして、ニコールは勇人の前にしゃがみ込んで体を優しく抱き起こした。勇人の顔に一瞬、フワッとした感触がして、気付けば勇人は芝生の上に座らされた状態になっていた。
「ごめんなさいね。手荒な真似をして」
言いながらニコールが離れていくのを見て、勇人が「あっ」と名残惜しげに声を漏らした。思わず声を出してしまったことに恥ずかしくなって勇人の顔の温度は上昇した。それに気付いたニコールが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ふふっ、なんならもう一回してあげようか?」
「えっ……い、いや、いいです」
先ほどのニコールの柔らかな感触を思い出して勇人がドギマギとする。ニコールのお姉さん的な雰囲気の前に勇人は一瞬にして主導権を握られてしまった。
「……ケッ」
ミリーが勇人から一歩下がってつまらなそうに口を尖らせる。
「それで、君はなんで隠れて私たちを見てたのかな?」
ニコールが柔らかい口調で勇人に問いかける。
「軍人がこんな住宅街で何してんのかと思って見てたんだよ」
それでも勇人は亜美の存在を隠してとぼけた。
「アンタ、嘘ついてんじゃないわよ!」
ミリーが声を荒げて勇人に近付こうとするのをニコールが押し留める。
「まあまあ、落ち着いてミリーちゃん」
「ちゃん付けすんな!」
反射的にミリーが言い返す。
「あんたら本当に軍人かよ」
勇人がミリーとニコールの掛け合いを見て思わず突っ込む。それを聞いて、ミリーの口の端がピクリと上がり、そして不敵な笑みを浮かべた。
「……ええ、そう――よっ!」
ミリーが素早く手を動かし、腰からなにかを抜いてヒュッと勇人に投げつけた。その瞬間、勇人の顔に一陣の風が吹いた。勇人が自分の頬をかすめていった物の正体を見ようと振り返ると――地面にナイフが突き刺さっていた。それを見て勇人の背筋が凍りつく。
「うおっ、危ねえっ! なにすんだ――今のマジでやばいだろ!」
「うるさいわね。ナイフごときで」
勇人の焦りとは対照的にミリーは人にナイフを投げておいて当たり前のような顔をしている。この平然とした反応こそが軍人である証拠なのかもしれない。頭のネジが外れてるともいうが。
「君も早く本当のことを言った方がいいよ。ミリーを怒らせると怖いから」
ニコールもミリーの行動については言及せず、勇人に意地悪そうな笑みを向ける。
「いやいや、止めて下さいよ!」
勇人がニコールに対して思わず敬語で救いを求める。ニコールは少し考えるフリをして、
「うーん……私は口が聞ける状態なら、君がどうなっても構わないから」
などと恐ろしいことを言う。
「――――っ!」
勇人は言葉を失った。この二人はアメとムチかと思っていたが、どうやらアメの方も毒入りだったようだ。
「ほら、さっさと言いなさいよっ!」
ミリーが腕を組んで顎をしゃくり上げる。観念したように勇人がため息をついた。そして、一呼吸置いて口を開いた。
「あんたら亜美を探してるんだろ?」
ミリーとニコールが「やっぱり」といった感じで目を合わせた。ミリーが駆け寄り、勇人の服の襟を掴んだ。
「亜美軍曹はどこなの?」
ミリーが目を吊り上げて勇人を睨む。勇人はここで初めて亜美の階級が軍曹だということを知り、内心驚いていた。軍の階級については詳しくないが何となく凄いということだけはわかる。
「それを聞いてどうするんだ?」
「ハァ? アンタ達の目的を阻止するだけよ!」
「……んっ?」
ミリーの言葉に違和感を覚えて、勇人は首を傾げた。何かがおかしい。会話がかみ合っていないように思える。
「アンタ達ってどういうことだ?」
「なに言ってんの? さっき仲間に連絡取ってたじゃない」
ミリーが襟を掴んでた手を離して一歩下がると、疑問の表情を浮かべる勇人の前にニコールが勇人の携帯電話を持って突きつけるように見せた。
「携帯電話に偽装してるみたいだけど、よくできてるわね……この通信機。中を開けようと思ったけど、もし壊して連絡手段が無くなったら敵に気付かれてこちらも困るからそのままにしておいたわ」
ニコールが携帯電話をジロジロと眺める。勇人は二人の言っている意味がわからず、困惑した。
「通信機? 何を言ってるんだ?」
「知らばっくれてんじゃないわよ! 私達が近付いた時に聞こえてきたんだから――アンタが言葉の最後に『オーバー』って言ってたのが。なによりの証拠じゃないの!」
ミリーが勇人に向かって、『ズビシッ』と音がしそうな感じで指を突き立てた。まさか亜美との会話のせいでこんな展開になるとは予想もしていなかった。勇人はあらぬ容疑をかけられていることに驚き、それを全力で否定した。
「いやいやいや、本当に電話してただけだって!」
「どこの世界に電話で『オーバー』なんて付けるバカがいるのよ」
「それは…………いるほうがおかしいよな」
勇人は亜美の顔を思い浮かべて呟いた。
「なに自分で納得してんのよ………………もういい、ラチがあかないわ」
ミリーが呟いて勇人の背後に行き、地面に刺さったナイフを抜いて再び勇人の前に戻ってきた。
「なっ! お、おい! 何する気だ!」
勇人は嫌な予感がして、ミリーが持っているナイフに視線を向けた。
ミリーが持っているナイフは刃渡り十三センチ程のコンバットナイフだった。映画(特にランボー)で見るような馬鹿でかいナイフとは違いやや小さめだが、戦闘用に作られたナイフで切れ味は鋭く、殺傷力は折り紙つきだ。ミリーはしゃがみ込んで顔を近づけ、そのナイフを慣れた手つきで勇人の顔の前に持ってくる。キラリと光る刀身に勇人はゾッとして顔を強張らせた。
「こうしている間にも亜美軍曹に危険が迫っているのよ!」
切羽詰った表情でミリーが勇人に迫る。
「まさかアンタ達が家の場所までつきとめていたのは計算外だったわ。しかも、アンタみたいな日本人の工作員まで使って!」
「……んっ?」
ミリーのその言葉で勇人がずっと感じていた違和感が一気に解消した。
「ちょ、ちょっと待て! あんたら誤解してるよ!」
「なによ!」
ミリーがナイフを持つ手を止めて声を荒げた。
どうやらお互いに大きな勘違いをしていることに勇人は気付いた。
「……そうか。なんだよ、そういうことか」
と一人納得したような顔で勇人が首を縦に――振ることはナイフの刃が首筋にあてがわれていたのでできなかったが、全てを理解したように顔を綻ばせた。
「あんたら反乱軍の兵士じゃなかったんだな。亜美の味方か?」
「…………?」
「どういうことかしら?」
勇人の言葉を理解できず、硬直したままのミリーに代わってニコールが疑問を口にする。
「俺はここの家の住人なんです。帰ってきたら軍服姿のあなた達が家の前にいたので、てっきり亜美を狙っている奴らだと思って勘違いしてたんです」
勇人の言葉の意味を理解して、ニコールが驚いたような顔をした。
「えっ、じゃあ……君はミスター上本の?」
「ええ、そうですっ! その息子の上本勇人です!」
父親がミスター付きで呼ばれていることに違和感があったものの、ニコールに話が通じたことで勇人はホッと胸を撫で下ろした。ミリーはというと気まずそうな顔で、ナイフを勇人に突き付けた体勢で固まっていた。
「あの……そろそろ、ナイフをどけてくれないかな」
勇人は物騒な物を持ったミリーを刺激しないようゆっくりとした口調で話した。ミリーが手元を動かしナイフを首筋からそっと離した。そして、今さらながら自分と勇人の顔の距離が近かったことに気付き、パッと離れようとしたその時――
「何をしている!」
亜美の怒声がその場に響いた。その声に驚き、その場にいた全員が亜美に注目した。亜美が玄関の前の石床に立って勇人らを見ていた。亜美は庭の光景を目の当たりにして、ピクッとこめかみに血管を浮かせた。そこには共に戦った同胞のミリーとニコールがいて、後ろ手で縛られた勇人にミリーがナイフを突き付けている――ように見えた。
怒りで肩を震わせる亜美の横に一恵がゆっくりと顔を出して、
「あら、亜美ちゃんのお友達? だったら晩ご飯の材料を買ってこないとね」
とのん気な声を上げながら、踵を返して買い物に出かけていった。
「………………」
夜の訪れと共に静寂が辺りを包み込んでいた。