上陸
深夜、港に一隻の貨物船が停泊していた。
数人の作業員が、船から積荷を降ろし倉庫へと運んでいる。その後ろを、闇に紛れて六つの人影が動いていた。立ち並ぶコンテナの隙間を縫って、足早に人影が移動していく。港のライトに照らされ、前方の二つの人影の正体があらわになる。
一人は黒髪のロングヘアーで右目に眼帯をしている女だった。女性にしては長身で全身黒の服装に身を包んでいる。女の名前はガジェット・ヘイデン。内紛が鎮圧されるまではタチノアの反乱軍に所属していて、階級は特務曹長だった。残党狩りから逃亡を図り、日本へと密航して来たのだ。さらに彼女が日本に来たのは、とある目的のためでもあった。
もう一人は、セミロングの銀髪で小柄の女性だ。ガジェットと同じく全身黒の服装だ。彼女の名前はフラン・H・レター。タチノアの反乱軍に所属していた。階級は伍長。どこか軍人としては頼りなげにも見えるが、表情に乏しく氷のように冷たい雰囲気をまとっていた。
『フラン、手はずはわかっているな』
『はい。私は作戦通りポイントに向かいます』
二人は日本語ではく、アラビア語で会話をしていた。
『それでは明朝〇六三〇時に第二ポイントに集合するぞ』
『了解』
手短に話を済ますと、ガジェットとフランは兵士を二名ずつ引き連れ二手に分かれて、港から街の方角へと消えていった。
勇人が眠い目を擦りながら自室を出ると、丁度階段を昇ってきた亜美と鉢合わせた。
「――あっ」
勇人が思わず声を上げる。
「勇人、おはよう」
「おはよう亜美」
亜美からの挨拶を勇人も返して、そこで亜美の服装に目をやった。下はいつものジャージだが、上はパーカーというボクサースタイルだ。いったいどれほどの距離を走ったのか、亜美の肩からうっすらと蒸気が上がっている。
「なんだ、今日も一人でジョギング行ってきたのか。誘ってくれればよかったのに」
「まあ、無理に強制するものではないと思ってな」
「この前は思いっきり強制してた気がするけど」
「……そうだったか?」
「そうだったぞ」
「そうか…………」
「…………」
なぜかそこで押し黙ってしまう二人。しばらくの静寂が続く。やがてその空気に耐えられなくなった亜美が口を開いた。
「もし昨日の話を気にしているなら忘れ――」
「えっ、昨日? なんの話?」
勇人が亜美の声にかぶせるように口を挟んだ。寝ぼけた顔であくび交じりに。亜美はそんな勇人の言葉の意味がわからず呆気にとられた顔で口をパクパクとさせた。
「いや、私がタチノアで――」
「だから、なんのことを言ってんだ?」
「昨日私が話したことだ!」
「さぁ、覚えてないな」
亜美には勇人の言うことが理解できなかった。一体どういうことだ。記憶喪失にでもなったというのか。亜美は一瞬、本気で勇人の脳に何かあったのではないかと心配した。
「だから俺は『覚えてない』んだから。そんなことより……今日の朝ご飯はなにかなぁ、とかそんなことだけ考えとけばいいんだよ」
それだけ言うと勇人は亜美のパーカーのフードをぐいっと亜美の頭に被せ、すぐさま階段を降りていった。亜美はフードの陰からぼんやりとその背中を眺め、自室のドアを開けた。そして、
「朝ご飯か……」
と微笑みながら呟いた。
勇人は階段を下りて、ホッと胸を撫で下ろしていた。先ほどの言葉。勇人は亜美が考えすぎないように気を使って言ったわけではない。実をいうと昨晩のことを引きずっているは勇人の方だった。鉢合わせした瞬間、思わず昨日のことが頭の中でぐるぐると回った。だから勇人は誤魔化すことも兼ねてとぼけることにしたのだ。十年のブランクは簡単に埋まるものではないが、気まずくなって亜美との溝が深まることだけは避けたかったのだ。
「どうしたもんかな……」
勇人が頭をかいて一人呟く。亜美が反乱軍の指導者を殺したというのは事実だった。梶が食堂で言っていた「亜美ちゃんは大丈夫なのか?」という言葉が勇人の脳裏に甦る。
指導者がいなくなったとはいえ、完全に反乱軍の兵士がいなくなったわけではない。残党がいるはずだ。日本に帰国してきたのは安全面の理由も含めてのことだろう。実際のところはわからないが、亜美が狙われている可能性は大いにあると考えるのが妥当だろう。日本なら安全――本当にそうなのだろうか。勇人の心に一抹の不安がよぎる。
勇人が玄関の方を見ると、大きな鞄が置いてあり、その横で武徳が靴を履いている最中だった。
「親父、ちょっといいか?」
座って靴を履く武徳の背中に勇人が近付いて声をかける。
「ん? 今から出かけるところなんだが」
振り返りもせず、急いでいることを主張する武徳に構わず勇人が口を開く。
「亜美は大丈夫なのか?」
勇人は総体的に伝えるのが一番早いと思い、梶の言葉をそのまま使った。しかし、武徳は振り返り疑問の表情を浮かべた。
「大丈夫なのかって……何がだ?」
「その……亜美は狙われてるんじゃないのか?」
「どうしてそう思う?」
「だって亜美だろ。指導者を……殺ったのは」
靴を履き終えた武徳が立ち上がる。
「そうか、知ってたのか」
「知ったのは昨日だけどな――やっぱり、そうなのか……」
勇人は事態の深刻さを受け止め、亜美が降りてこないか階段の方を気にしながら話を続ける。
「でも、さすがにここまでは来ないよな」
勇人が希望も含めて口にする。しかし武徳の表情は硬かった。
「父さんもその辺は大丈夫だと思うんだが……彼ら次第だな」
「……ど、どういうことだよ」
武徳の意味深な言葉に勇人は額に汗を浮かべる。
「まっ、とにかく勇人も怪しい人間を見たら一応警戒はしといてくれよ」
「警戒してどうにかなる相手なのか?」
「……………………じゃあ、仕事に行ってくる」
勇人の言葉には答えず、武徳は鞄を持って玄関のドアに手をかけた。
「ちょ、何その間?」
「ああ、そうだ。父さんは出張でしばらく帰ってこれないから。後のことはよろしく」
それだけ言って、武徳は玄関を出て行く。
「えっ? お、おい、親父……っ!」
バタンッ、と閉まったドアを呆気の取られた表情で見つめながら、勇人は肩を落とした。
「勇人、どうした?」
勇人が声をかけられ振り返ると、シャツとジーパンに着替えた亜美が階段を降りてきたところだった。
「えっ、いや……靴を見ていただけだ。亜美は今日どこか行くのか?」
焦りながらも武徳との会話が頭に引っかかって、勇人が問いかける。すると亜美の顔がパァと花が咲いたように輝いた。
「今日はマザーが私に携帯電話を買ってくれるのだ!」
よほど嬉しいのか亜美の語尾が自然と跳ね上がる。
「そうか、うん。それはよかったな」
(なんだよ……うちの親も、ちゃんと考えてるじゃないか)
勇人は自分の危惧していたことを先回りするような両親の行動に感心していた。もしもの時の連絡手段として亜美に携帯電話を持たせることは勇人の考えの中にもあったことだ。そもそもショッピングモールに行ったのも亜美に携帯電話を買うためであった。
「手に入ったら勇人にはいち早く番号を教えてやろう」
「あ、ああ、わかった」
勇人は「もしかしてこいつ、家の中でかけてこないだろうな?」とこの先のことを危惧しながらも、亜美の楽しそうな顔を前に納得することにした。