三十六 大手町 その十三
日向と亮が会話をしているところから少し離れた場所で、火織は両腕を組んで仁王立ちしていた。その目は遠くを睨んでいる。
「なーんかヤな気配がするんだよな…。どうも癇に障るなあ…」
言って火織は、自分の首の裏を撫ではじめた。
「みーたん大丈夫かな」
不安そうに目を細める。
「ま、りょーちゃんが行ってくれたから、大丈夫だとは思うんだけど。なんだかんだ言って頼りになるしな――――」
そこまで言って、火織は不自然に言葉を止めた。
表情をこわばらせて、ある一点を見つめる。
そこには人影が見えた。
「マジかよ…」
にわかには信じられない様子で、首を横に振る。
火織の視線の先には、宿主となり果てた沙織の姿が在った。
火織は我に返ると、すぐに日向と亮を振り返る。
「おい! 気をつけろ! 沙織が闇堕ちしたぞ!」
その声に、二人は弾かれたように立ち上がった。
日向は、目じりにうっすらと残っていた涙をぬぐう。そして、宿主となった沙織の姿を見つけて息をのんだ。
「僕、鬼の闇堕ちなんてはじめて見ました…」
亮は舌打ちをする。
「闇堕ちは厄介なんだよね。鬼の場合、憑依されると祓うのが面倒なうえ、普通の宿主と違って虺が大きくなるスピードが桁外れに早いんだ。それに、闇堕ちが末期まで進行すると、虺はオロチになってしまう。だから、さっさと祓わないと、とんでもないことになる」
言うなり霊符を取り出して放り投げ、刀印を結ぶ。
「急急如律令」
呪文を唱えると、霊符は梟へと姿を変えた。梟は、沙織めがけて大空を滑降する。
しかし沙織は刀印を結び、周囲に結界を張ると梟を退けた。
梟は、見えない結界にぶつかって弾き飛ばされる。
間髪開けずに火織が両手で印を結んだ。
「オン サゲイ サメイ ウン ハッタ」
真言を唱えると、輝く手のひらを沙織に向けて突き出す。しかし沙織は、人間離れした動きで後ろに飛び退ってかわすと、すぐに蹴りを放って火織を攻撃した。
火織は軽く頭を後ろに引き、ぎりぎりの位置で蹴りをかわして再び掌底を突き出す。
だが、さおりは上から肘を打ちおろし、火織の掌底を凌いだ。
日向も素早く印を結ぶ。
「ノウマク サラバ タタギャテイ ビヤサルバ モッケイ ビヤサルバ タタラタ センダ マカロシャナ ケン ギャキ ギャキ サルバビキナン ウン タラタ カン マン」
手のひらを沙織に向けて突き出すが、沙織はその攻撃をかわし、うつろな視線を日向へと向けた。
「ヒ…ナタ…コロス…コロス…」
呪文のようにつぶやき、日向へと歩み寄る。
亮が再び刀印を結び、梟を沙織めがけて滑空させた。
沙織は刀印を結んで亮の式神を退ける。
火織は辟易した様子で首を横に振った。
「こいつ、めちゃくちゃ性格悪い女だからな。たぶんもう、とんでもなく虺がでかくなってるぜ」
亮も頷く。
「きっと、たんまりと負の心をため込んでいるだろうからね。すんなり祓うことは難しいはずだ。それにしても、憑依されてなお自我が残っているとは、呆れた執念だね。だから闇堕ちなんかするんだよ、バカが」
吐き捨てるように言って、亮は再び刀印を結んだ。鋭く振り下ろすと、梟が風を切って急降下する。
しかし梟は結界に阻まれ、沙織にとどくことはなかった。
「オン サゲイ サメイ ウン ハッタ」
火織の攻撃も、大きく後ろに跳躍してかわす。
高々と飛び上がり、瓦礫の頂点に飛び降りた沙織の姿は、人間の姿とはかけ離れはじめていた。
背中がカーブを描いて前のめりになり、力の抜けた両腕はだらしなくゆらゆらとぶら下がる。乱れた髪が顔に降りかかり、その隙間からのぞく目は、暗く輝きを増していた。
「まずいな…、すごい速さで闇堕ちが進行しているぞ」
亮の言葉に、火織は頷き、日向は表情を曇らせる。
その時、沙織が人間離れした跳躍力で空を飛んだ。鋭い蹴りを日向めがけて繰り出してくる。
「日向!」
亮の切羽詰まった声が聞こえると同時に、日向は横に飛んで攻撃をかわした。沙織の蹴りは地面に深々とめり込み、周囲に瓦礫が吹き飛ぶ。
「くっ!」
日向は腕をあげて瓦礫から顔を庇いつつも、蹴りを沙織の顔めがけて繰り出した。
しかし、沙織はその足をガシリと掴む。
亮がすぐさま大地を蹴って沙織に走り寄った。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝正、文王、三台、玉女、青龍」
刀印を結んで九字を切り、直に沙織の背中にぶつける。まばゆい光が弾け爆発が起こるが、沙織はびくともしなかった。
亮は驚愕に目を見開いた。
「オン サゲイ サメイ ウン ハッタ」
火織も印を結んで真言を唱え、輝く手のひらを沙織の腹部めがけて叩き込む。しかし、沙織にダメージを与えることはできなかった。
沙織は日向の足を掴んだまま、うるさげに回し蹴りを放つ。
亮と火織は、飛び退ってその蹴りをかわした。
沙織は、おもむろに日向へと視線を移し、空いている手で日向の喉元を掴み上げる。
「ぐうぅ!」
「ヒ…ナタ…コ…ロス…」
「日向!」
亮は刀印を結んで、再び呪文を唱える。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝正、文王、三台、玉女、青龍」
再び沙織めがけて刀印をぶつけるが、まるで効果がなかった。
「くっ! この化け物が!」
亮は、もう一度梟を滑降させ沙織に体当たりさせる。
しかし、沙織は結界を張ることもなく梟を退けた。梟は沙織の体にぶつかって弾き返される。
火織は息をのんだ。
「こんなのどうやって祓うんだよ」
「泣き言をいってるヒマがあったら、数を打て! 少しでも中の虺を弱らせるんだ!」
火織は我に返り、プルパを取り出して親指で挟み印を結ぶ。
沙織に憑依する虺を外側から弱らせるために、浄化の真言を唱えた。
「オン シュッチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ」
真言を唱えると、火織の持つプルパが輝く。光り輝くプルパを逆手に構えて沙織の体めがけて滑らせた。プルパの刃先が沙織に触れると爆発を起こす。しかし、沙織の体はびくともしなかった。
舌打ちしながら亮は再び九字を切る。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝正、文王、三台、玉女、青龍」
呪文を唱えて、結んだ刀印を日向を掴み上げる沙織の手首にぶつけた。
すると、その衝撃でひなたの首を締めていた手が緩まる。
日向の体は、地に落ちた。
「ゴホッ…ゲホゲホッ…」
「日向! 大丈夫か!?」
亮の言葉に、日向はうなずく。
「は…い、大丈夫です」
日向は、喉元を押さえながら立ち上がる。
亮と火織は、日向を背中にかばうようにして立ちはだかった。
「ヒ…ナ…タ…コロ…ス…」
沙織の虚ろな目は日向を捕え、ゆらゆらと体を揺らしながら、一歩また一歩と近づいていった。




