三十五 大手町 その十二
日向は、ぼんやりと東京の景色を眺めていた。
その目は虚ろで、お世辞にも明るいとは言えない表情で物思いにふけっている。
不意に背後から頭に手を置かれ、日向は驚いた表情で振り返った。
「叔父様」
目が合うと亮はほほ笑む。
「日向、ぼんやりしているね。何か考え事?」
言いながら日向の隣に座った。
日向は曖昧な表情で首を横に振る。無言のまま正面を見つめた。
胸の中では、様々な思いがない交ぜになっている。
冴月の事、沙織の事、両親の事。
考えれば考えるほど、どんどんと落ち込み、深みに陥るばかりだった。
亮はかすかに眉根を寄せ、困ったような表情を浮かべる。
「もし、あの女の言葉を気にしているのなら、聞き流しておきなさい」
日向は、息を詰めて再び亮を振り返った。
「他人を大声でけなして貶め、自分のちっぽけな矜持を守ろうとする輩の言葉など、真に受ける必要はないよ。全く迷惑な女だね。ああやって自分の価値観だけを押し通して、やかましく騒ぎ立てることが当たり前だと思ってるんだから、愚かで浅はかで低俗な女だよ。害悪にしかならない」
亮は、辟易した様子で肩をすくめる。
「困ったことに、善良な小市民は、ああいう手合いとぶつかるのが面倒で、結局みんな避けてしまうからね。だからあの手の人間はさらに増長する。そうやって他人の意見を聞き入れる機会を失い、最終的には自分だけが正しいと思い込んでしまう。だから自分の価値観にそぐわない人間をただ攻撃する。あの女は、自分に従う人間だけを周りに集めて、己の価値を正当化することしかできない愚かな人間なんだよ」
亮は手をのばして日向の頭を撫でた。
「あんな女の言葉に惑わされる必要なんてない。気にするな」
「叔父様…」
「お願いだから元気を出して? 日向がそんな顔をしていると、僕は心配でしょうがないんだ」
しかし日向の表情は晴れず、眉根を寄せて亮を見る。しばし躊躇ったのち、思い切ったように口を開いた。
「あの…叔父様」
「何だい?」
「冴月様が沙織様と婚約したというのは本当なんですか?」
日向の質問に、亮は軽く目を見開く。そして、視線を逸らしてさまよわせはじめた。
「あー…あの話ね…。まあ婚約したって言えばしたんだろうけど…うーん参ったな…」
亮は歯切れの悪い口調で、気まずそうに頭の後ろを掻く。
そして顔を背けると、日向に聞こえないように悪態をつきはじめた。
「あのクソガキ、日向にこんな思いさせやがって。だからあいつはダメだっていうんだよ。ったく、どこまで僕に迷惑かければ済むんだ? ホントむかつくガキだな」
亮は、面白くなさそうにぶつぶつとつぶやいていたが、しかし、ちらりと日向を見ると、痛いところを突かれたような表情でウッと息をのむ。
ややしてから盛大なため息を吐き出した。
「しょうがないよな…。僕は日向に甘いからなぁ。あいつのフォローしてやるのはしゃくにさわるんだけど、このままってわけにもいかないからなぁ」
こっそりとぼやいてから、日向を見る。
「日向、心配することないよ。さっきは僕も意地悪であんなことを言っちゃったけど、本当は一部の人間が勝手に言ってるだけの根拠のない話なんだ。冴月君は口下手だから特に否定しなかったけど、でも肯定もしなかったでしょ? だいたい冴月君とあのオジョウサマじゃ、うまくいくわけないよ」
だから元気を出せとばかりに、亮は日向の頭を撫でた。
日向は必死な表情で亮を見上げる。
「本当ですか? 叔父様」
「本当だよ。僕が今まで日向に嘘を吐いたこと、一度でもあったかい?」
亮の問いかけに、日向は首を横に振った。
「だろう? だったら僕の言葉を信じなさい」
軽いウィンクとともに告げられた言葉に、日向も肩の力を抜く。
亮は、そんな日向の頭をクシャリとかきまわした。
「それに日向、君の件だってそうだよ。今回ばかりは物わかりのいい子になっちゃだめだ。自分の意志は、はっきりと表示しないと。僕は君のためならどんなことでもする。日向には幸せな人生を送ってほしいんだ」
「叔父様…」
「たとえ本部の意向であったとしても、納得できないことは絶対に受け入れてはダメだ」
「…でも叔父様、僕が我が儘を言うと、周囲の方に迷惑がかかります。もう誰も、お父さんやお母さんのような目には合わせたくないんです」
そう言って表情をゆがめた日向に、亮は困ったような表情を浮かべる。
「確かに姉さんも義兄さんも、本部の意見に逆らい続けて、結局は国外追放にまでなってしまった。でも、あれは日向の事だけが理由ってわけじゃないんだよ? 姉さんたちの場合、結婚前からいろいろと揉めてたから…」
亮は曖昧に言って一度口を閉ざした。
「え?」
日向が不思議そうに見つめていると、亮は苦笑する。
「いい機会だから少し昔話をしようか」
いたずらっ子のように微笑むと、亮は口を開いた。
「姉さんは、昔から自由奔放でさ…。だから父さんとはいつも喧嘩してたんだよね」
懐かしそうに言いながら、亮は忍び笑いを漏らす。
日向は、大きく瞬きをした。
「最首のお爺様と喧嘩…ですか?」
「そ、父さん――――日向にはジーサンとでも言ったほうがいいかな?――――とにかくあの人はがっちがちに頭固いだろ? だから、気ままな姉さんとは全くそりが合わなかったんだよ。だから姉さん何回も家出してさ、でもその度に石神の情報網使ってすぐに連れ戻されてたんだよね」
「家出…ですか?」
初耳だとばかりに日向は目をまたたく。
「そうだよ、意外だった?」
「はい…」
亮はくすりと笑った。
「姉さんは十代の頃、古い因習に雁字搦めにされる鬼の仕事に、真っ向から反抗してたんだよ。まあ十代後半頃には鬼の役目については納得して、随分と落ち着いたけどね…。でも、成人してからは、勝手に結婚相手を決められたことが原因で父さんと毎日のように大喧嘩してたんだ」
亮は懐かしそうに目を細める。
「あの頃、父さんは縁談の話をいくつも持ち込んできたんだけど、姉さんは片っ端から断ってたね。結婚まで親の言いなりになるなんてまっぴらだっていつも言ってた。そうやって平行線をたどっているうちに、姉さんは義兄さんに出会ってしまったんだよ」
「お父さんに?」
「そ、義兄さんは婚約者がいて、本当は結納まで済んでたみたいだけど…でも、二人は出会ってすぐお互いに一目ぼれしてしまった。そこからは凄かったよ。義兄さんは、勝手に婚約を解消して、家から勘当されてしまったんだ」
日向は驚きに目を見張った。
「義兄さんはあの通り温厚な人で、それまでは鬼のお手本のような人だったんだ。親の決めた相手との結婚も了解していたし、鬼の仕事も真剣に励んでいた。本当なら石神本部の幹部で、もしかしたら守長にもなっていたかもしれないような人だったんだ。でも、そんな未来全部蹴っ飛ばして、一人で婚約を解消して姉さんを選んだ。おかげで才神の家からは勘当されるし、うちの父さんも義兄さんとの結婚には大反対で、もう凄かったよ」
亮はその頃の光景を思い出したのか、嫌そうに首をすくめる。
「それでも義兄さんは姉さんとの結婚を認めてもらえるよう、毎日父さんに会いに来てた。うちの頑固親父も毎回突っぱねてたけどね。そのうち父さんは、姉さんが断れないような相手との縁談話を持ち込んできて、思い余った二人は、とうとう駆け落ちしたんだ」
「え!? 駆け落ち!?」
「あれ? 日向は知らなかった?」
「知りません」
日向は呆然とつぶやいた。
「そっか、知らなかったんだ…。二人はアメリカに駆け落ちしたんだよ」
「アメリカ…」
「そ、アメリカ。その頃には、さすがに父さんも諦めてさ。勝手にしろって感じになったんだよね。義兄さんはもうとっくに勘当されてたし、なんとなく二人のことはそのまま有耶無耶になったんだよ。でも、二人の間に生まれた日向が、なんと百年ぶりに生まれた半陰陽だった」
日向は息をのむ。
亮は真顔になり淡々と続けた。
「姉さんたちは日向の事、最初の一年はなんとか隠してたんだけど、隠し通せるようなことじゃなかった。結局日向の存在を本部が知ることとなり、日向は姉さんたちから引き離されることになったんだ」
日向は大きく目を見開く。
亮はかすかにほほ笑んだ。
「むろんそんなことを、黙って指をくわえて見ているような人たちじゃないからね。二人は綿密に計画を練って、日向の奪還に成功した。その後しばらくは石神の追跡を振り切って、海外で逃亡生活を続けてたんだけど、でも長くは続かなかった。結局見つかり、赤ん坊の日向は、再び本部に戻された。その時姉さんたち二人の国外追放処置が決まり、根回しをされて、姉さんたちは日本に入国できないようになってしまったんだ」
日向は首を横に振った。
「僕、知りませんでした」
「そうだろうね。事実は他人に知らされるたびに捻じ曲げられてゆく。だから、勝手に作り上げられた虚構ばかりがまことしやかに広められてしまう。大方日向の耳に入ってたのは、捻じ曲げられた事実の方だったんだろうね。とにかく、そういう訳で日向は本部預かりになっていたんだ。後見人は才神のご老体に決まって、諏訪に身を置くことになったんだ」
日向は呆然とした表情で口を開く。
「僕、それを知ってたら、あんな我が儘言ったりしませんでした」
今度は亮が小さく息をのんだ。
「我が儘って…もしかして面会の時の事言ってるの? あんなの我が儘に入らないよ。両親ともっと一緒に居たいなんて、わがままじゃないだろ? そんなの当たり前の事じゃないか」
「でも、僕が面会の時に帰らないでほしい。もっと一緒に居たいなんてお父さんに言ったから、だからお父さんたちは国外追放に…」
「だからそれは違うよ。さっきも言った通り、もともと入国できないようにされてたんだよ。でも大物忌のご高配で、年に数回の面会を許されることになっていて、その時だけ入国できるようになってたんだよ。それを日向は知らなかったから誤解していたんだね」
亮は頭をくしゃりと撫でる。
「それにね、日向があんな可愛いことを言うから、姉さんも義兄さんも嬉しくてたまらなくて…。だから、わかっていながらまた浅慮なことをしでかしてしまったんだよ」
日向は小学生の頃、年に数度訪れる両親に対し、寂しさのあまり『帰らないでほしい』と言ったことがある。
その願いをかなえるべく、日向の両親は、再び日向を連れて海外に逃亡しようとした。むろん前歴があるので、すぐに本部の知るところとなり、再び強制的に国外退去をさせられていたのだ。
その後、三年ほど日向との面会も許されなくなり、日向はずっと自分のせいであると責め続けていた。
そのことが成長の妨げになると修也たち医師が訴えたことや、大物忌の配慮もあり、すずと主税は、再び日向と会うことを許されるようになった。だが、面会は年の初めに一度きりと減らされていた。
「姉さんと義兄さんは、日向の事が大好きなんだよ。だから今も、君のために頑張ってる。僕も全力で頑張るよ。日向たちのためなら、どんな無理難題だってやり遂げて見せる。本部への貸しをたくさん作って、君たちが一緒に居られる時間を必ず増やすから」
「叔父様…」
「日向の願いは、我が儘なんかじゃないよ。誰もが望んで当たり前の事だ。日向が幸せに過ごせる未来を、僕が必ず手に入れてあげる。だから諦めるな、日向」
亮の言葉に、日向はクシャリと顔をゆがめる。そのまま亮の胸に額を押し付けた。
亮は口元に慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、日向の体を優しく胸に抱きしめた。




