八 ブラウエ・ゾンネ日本支社
刑事と別れると、怜治は良蔵に電話をしていた。
先程聞いたばかりの情報を良蔵に教え、自分はブラウエ・ゾンネ日本支社に向かう旨を伝える。
怜治は、良蔵と電話をしながら、日向と冴月をちらりと見た。
すると冴月が、何かを察して口を開く。
「俺たちは塞の巡回に回る」
しかし怜治は、しばし考えてから首を横に振った。
「いえ、車で待っていてください。少し中の様子を探ってくるだけですから」
冴月に向けてそう言ってから、再び電話に戻る。
「私たちは、一度ブラウエ・ゾンネの様子を見てから、台東区の塞の巡回に向かいます。良蔵も、何か気になることを掴んだら連絡をください」
怜治は、良蔵にそう告げて電話を終わった。
怜治は、再び車を走らせはじめる。
「本家筋の貴方としては、私の采配に従うのは不本意でしょうが、この場は従ってもらいます。いいですね、冴月さん」
「好きにしろ」
冴月は前を向いたまま答えた。
怜治の運転した車は、千代田区の目的地へとたどり着く。
怜治は、ビルのすぐ前のコインパーキングに車を止めると、二人に車で待つように指示をし、自分は看板の掲げられたセミナー会場へと歩き出した。
入り口横に、看板で大々的に書かれている外資金融企業面接対策セミナーの開催日は、一週間後の日付になっている。
どうやら今日は、セミナーが開催されていない日のようだ。会場周辺にはひと気が少なく、がらんとしていた。
怜治は、迷うことなく人気のないその会場のエントランスへと入っていく。
日向は、車の中からその背中をぼんやりと見つめていた。
怜治の姿が中に消えると、冴月が助手席から日向を振り返る。
「日向、本当に疲れてはいないのか? 今のうちに休んでおいた方がいい。どうせ卜部が戻るのを待つだけなのだから」
日向は、冴月の気遣うようなその言葉に微笑んだ。
「冴月様、ありがとうございます。でも本当に大丈夫です。昨日から皆さんが気を使ってくださるので、ずいぶんと休めているんです。冴月様こそお体は大丈夫なのですか? 冴月様は、絶対に弱音を吐かないので、僕心配です」
日向が、心配そうに冴月を見る。
冴月は首を横に振った。
「俺の心配はいい。そんなことよりも日向、お前は時々一人で突っ走って無茶をする。一昨日のような勝手な行動は、今後絶対につつしめ」
冴月は、日向が奥野にとり憑いていた虺と、一人で戦っていた時のことを言っているのだ。
「ああ…あれですか…。でもあの時はああしないと、せっかく見つけた虺に逃げられそうだったから…」
「だからといって単独行動はするな」
冴月の厳しい声に、日向は一度目をまたたく。
やがて――――。
「…はい…」
日向はしゅんとうなだれた。
冴月が、そんな日向を見て小さく息を吐き出す。
「わかればいい。次は気をつけろ…。それから、少し休んでおけ。疲労のせいで怪我をしては元も子もない」
「じゃあ…冴月様も休んでください。冴月様が、僕に隠れて僕以上に鬼の仕事をこなしていること、ちゃんと知っているんですよ」
冴月が軽く目を見開く。
やがて冴月は、困ったようにかすかにほほ笑んだ。
感情の起伏の少ない冴月は、普段から無表情が定番だ。
しかし、気を許した相手に対してだけ、こうして時折素の表情がのぞく。
冴月は、かすかに口の端を持ち上げ、優しげに目を細めた。
「わかった。だからお前も休め」
そう言うと、冴月はヘッドレストに頭をもたせ掛け目を閉じる。
その姿を見て、日向は嬉しそうに笑った。
冴月に続いて、日向も目を閉じる。
二人の年若い鬼は、しばしの休息に浸った。
三十分後、車に戻った怜治は、車のドアに手をかけて開けようとしたが、車内を見てその手を止めた。
一度、驚いた様子で窓越しに車内をのぞきこんでから、くすりと笑みをこぼす。
車の中では、椅子に座ったまま深い眠りにつく、日向と冴月の姿が在った。
怜治は、自分の首の後ろを撫でながら踵を返した。
パーキングのすぐ側にあった自動販売機で缶コーヒーを一本買うと、金属製の柵に腰かける。
缶のプルタブをあけ、しばしのどを潤した。
十五分後、怜治は車に戻ると窓をノックした。手には自動販売機で買ったばかりのスポーツ飲料を二本持っている。
冴月はすぐに目を開いたが、日向は眠たげな表情で目を擦っていた。
「お待たせしました」
怜治は車の中に乗り込んで、ペットボトルを二人に渡す。
「奥野が頼ろうとしたというセミナー担当者の新井に会ってみようと思ったのですが不在でした。どうやらブラウエ・ゾンネは、他にもセミナー会場を持っているようです。新井は今、そちらの会場に行っているそうです」
「他の会場?」
冴月が聞き返した。
「ええ、新宿にあるというセミナー会場です。新宿の会場は、自己啓発セミナー専用の会場だそうです。こちらの神田会場でも自己啓発セミナーを行っているそうですが、メインは面接対策講座のようです。私は先程、新宿セミナーに申し込んできたので、明日、問題の自己啓発セミナーとやらに参加してみます」
「卜部先生、セミナーに申し込んで来たんですか? …じゃあ、僕も参加してみたいです」
「日向、貴方はよしておきなさい。自己啓発セミナーなんて、大概が胡散臭いものですからね。ただの洗脳ツールですよ」
「でも…じゃあ卜部先生は、一人で参加するつもりなんですか? そんなの危険です」
すると怜治が笑った。
「心配はありがたいですけどね、大丈夫ですよ。私もそれなりに場数を踏んでいますから無謀なことはしません」
怜治は、バックミラー越しに日向に言い聞かせる。
「さて、そろそろ所定の作業に戻りますか。車を出しますよ」
怜治の運転する車は、コインパーキングを出て台東区を目指したのだった。
台東区の、とあるコインパーキングについたころには、すでに夕暮れ時になっていた。
怜治は腕時計を見下ろしてから、バックミラー越しに日向を見る。
「そろそろ日の入りですね。過ぎてから巡回をはじめましょう」
「はい、ご迷惑をおかけします」
「迷惑などと…そんなことはありませんよ」
怜治が答えると、三人の間に沈黙が落ちる。
車の外では、西の空が茜色に染まっていた。
日向は、深呼吸を数度繰り返す。
やがて太陽が西の地平線に沈みはじめると、日向は苦悶の表情を浮かべて苦しげに胸を押さえた。
噛み殺し切れなかった声が、唇から洩れる。
「うっ…」
後部座席で、日向は蹲るように丸くなった。
徐々に体が変化し、少年だった体が華奢な少女の体に変わる。変化が終わると、日向は少しだけ息を乱していた。
「すいません、お待たせいたしました」
鈴を転がしたような、少女特有の澄んだ声音が響く。
その声を合図に、三人は車の外に出た。