十九 迅雷 その一
怜治と別れた冴月は、廊下を走り抜けた。
エレベーターのあるL字を折れ、階段の前を通り過ぎると、廊下の最奥にある扉を押し開く。
開け放ったその室内は暗かった。
しかし、確かに感じる人の気配に、冴月は警戒しながら慎重に一歩室内に踏み込む。
「ようこそ、石神の戦士よ」
低い声が冴月の耳を打った。
冴月は、すぐに足を止める。声のした方向を見やれば、暗い室内の窓際にヨアヒムの姿が見えた。
ヨアヒムの体は、窓の外に見えるネオンに、ほんのりと照らし出されている。
不意に稲妻が走り、ヨアヒムの背後から、目のくらむような閃光が室内に飛び込んできた。
一拍おいて、つんざくような雷鳴がとどろく。
一瞬だけ照らされた室内には、ヨアヒム以外にも三人の人間が存在していた。
一人はブラウエ・ゾンネのスタッフである新井義久である。他の二名は、ゲルマン系の外国人だった。
「そんなところでは、ゆっくりと話もできない。さあ、中にお入りなさい」
ヨアヒムに声をかけられたが、冴月は黙ったままその場から動かない。
「警戒しているのか? 手出しはしないと約束しよう」
ヨアヒムはさらに続けた。
「私は、君と語り合いたいのだよ。君は、大いなる過ちを犯している。真実を追求するとなく、間違った解釈のもと、過ちを犯し続けているのだ。君たちの行っている行為が、本来、数多の人間に幸福をもたらすはずの存在を隠蔽している。その事実を、君は知るべきだ」
冴月は無言だった。
ヨアヒムの言葉は、冴月に何の感銘ももたらしてはいないようだ。冴月は、ただじっと静かに佇んでいる。
「石神の戦士ともあろう者が、怯えているのか? それとも、我々と話し合いの場を持つ程度の度量も持たないのか」
ヨアヒムは、揶揄を含んだ声で詰った。
それでも冴月は無言だ。
ヨアヒムは、演技がかったため息をついて見せた。
「君は、知的探究心、好奇心といったものは持ち合わせていないのか? カビの生えた古臭い因習をすり込まれ、本来人間が持つべきすばらしい論理的な思考を奪われている。そのことに気づけないのか? 目の前にある真実から、目を背けている場合ではない。君は真実を知るべきだ。真実は、すぐ目の前にあるのだから――――」
そこで、かすかに冴月の表情が変わった。
それは、冴月をよく知るものだけしか読み取ることのできないほどのささいな変化だ。
冴月の口元が、ほんのわずか皮肉げにゆがんでいる。
「興味ない」
冴月は、冷たく言いきった。
ヨアヒムは、一瞬だけ虚を突かれたような顔をする。
だが、冴月の言葉を理解すると、凶暴な表情を浮かべた。
「なるほど、それがお前の答えか。愚かだな、お前は選ばれ、真実を知るチャンスを与えられたというのに」
「三流のペテン師なみの戯言だな。聞くに値しない」
冴月は、かすかに嘲るような表情を浮かべて冷然と言い放つ。
ヨアヒムは、凶暴な表情のまま冴月を見返した。
「残念だよ。お前はもっと賢い人間だと思っていたのだが、とんだ見込み違いだったようだ」
「御託はいい。そのうるさい口を閉じろ」
冴月は、一歩前へと踏み出す。
すると、室内に居た外国人の男たち二人が、冴月の進路を阻むようにすばやく移動した。
ヨアヒムは、ほの暗い眼差しを冴月に向ける。
「不毛だとは思わないか? お前は、いったい何のために戦っているのだ?」
その問いかけに、冴月は再び歩みを止めた。
ヨアヒムの目は、冴月の変化を一つも見逃すまいとじっと注がれている。
冴月の目が、ほんのわずか揺らいでいた。
その刹那、ヨアヒムの表情がしたり顔に変わる。口元に微笑みが浮かんだ。
それは、何かを掴んだという、確固たる自信に裏打ちされた笑みだった。
ヨアヒムは、邪悪な微笑みを浮かべて口を開く。
「何故お前は、虺を狩り、塞を守るのだ? お前のその行為に、いったいどんな意味があるというのだ?」
ヨアヒムは、冴月に生じているかすかな揺らぎを感じ取り、くさびを打ち込むべく続ける。
「お前はもっと賢くなるべきだ。お前たちを束ねる組織が、お前たち戦士から、いったい何をひた隠しにしているのか、知りたくはないか?」
ヨアヒムは、狡猾な弁舌をふるう。
それは、さながらアダムとイブをそそのかす蛇のようだ。禁断の果実を口にさせようと、巧みに言葉を弄している。
「騙されているのだよ、お前たちは。本当は気付いているのだろう? どうだ、真実を知りたくはないか? お前には、真実を知る権利がある」
「…くどいな、興味はない」
「果たしてそうかな?」
ヨアヒムが、老獪な笑みを浮かべた。
「きっとお前は、本心では己の行為に疑問を感じているはずだ。本当はどこかで気付いているのだ。己の行為の無意味さを――――」
ヨアヒムの確信に満ちた眼差しが、冴月に注がれる。
「お前は、真実を知るべきだ。お前のしている行為は、無意味でしかないのだから。いや…むしろ悪でしかない」
とどめとばかりに、自信に満ち溢れた声でヨアヒムが言い放った。
しかし冴月の答えは、ヨアヒムを満足させるようなものではなかった。
「違うな」
そう言い放った冴月の表情からは、先ほどまで見え隠れしていた迷いが、全て消え去っている。ゆるぎない何かが、そこにはあった。
「お前は、思い違いをしている。俺が虺を狩り、塞を守ることには意味がある」
冴月のその言葉は本心であった。そこに嘘や偽りはない。
冴月は、脳裏に日向の姿を思い浮かべていた。
その怜悧な顔から険が取れ、穏やかな面差しに変わっている。
日向を思い浮かべただけで、冴月の心の中は温かい思いで満たされるのだ。
冴月は、その温かな思いを抱いたままヨアヒムを見返す。日向の存在が、冴月の答えを迷いのないものに変えていた。
「俺は、正邪の選別など興味がない。立ち位置で変わるような、つまらぬ規範も関係ない。好きにほざくがいい。俺が虺を狩り、塞を守るのは、アレがそう望んでいるからだ。他に理由などない」
冴月はそう言い終えるや否や、床を蹴った。
すぐさま外国人の男たちが、冴月に向けて攻撃を仕掛けてくる。
冴月と、外国人の男たちの攻防が始まった。
冴月の放った蹴りをかわすと、男たちが同時に距離を詰めて攻撃を仕掛けてくる。
冴月はその攻撃をかわしながら、同時に二人の男を攻めた。
ヨアヒムは、そんな冴月を落胆の表情で見つめる。
「なるほど、お前がそれほどまで愚かな男だったとはな。どこまでも見当違いだったようだ。無駄足だった。貴重な時間を浪費した」
幻滅したような表情で冴月を見つめるヨアヒムに、横から新井が声をかけた。
「ヨアヒム様、どうやら到着したようです」
不意に外から、バリバリとヘリコプターのプロペラ音が聞こえてきた。
ヨアヒムは、演技がかった様子で肩をすくめて見せる。
「幕切れのようだ。失礼するよ」
言って踵を返す。
新井がうやうやしく開けたドアを通って、ヨアヒムは外へ出た。
その後ろを、新井が付き従う。
冴月は、視界の隅で、部屋から出ていくヨアヒムの姿をとらえると、目の前に居る外国人に鋭い蹴りを放った。
腹部に蹴りが決まり、一人が、呻き声とともに腹を抱えて蹲る。
襲い掛かってきたもう一人の外国人のみぞおちにも拳を叩きこむと、冴月はすぐさま二人の後を追ってドアから飛び出した。




