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塞の守り人  作者: 里桜
第二章
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十八 約束

 良蔵は、病院の構内で、一人煙草をふかしていた。

 首筋を、玉のような汗が流れ落ちる。

 しかし良蔵は、そんなことは気にもとめなかった。

 駐車場を囲むようにめぐらされている白い鉄柵に腰かけ、ただぼんやりと紫煙をくゆらせる。

 空調のきいた病院を一歩外に出ると、とたんに汗が噴き出るような暑さだった。

 夜だというのに、外の空気はいまだ蒸し暑く、昼のうちに熱せられた駐車場のアスファルトは、焼けつくような熱を放ち続けている。寝苦しい熱帯夜だ。

 良蔵は、滴り落ちる汗をそのままに、一心不乱に煙草を吹かす。

 必死で頭の中をからっぽにしていた。

 今日の出来事を思い出せば、生々しい怒りばかりが蘇ってくる。

 だから良蔵は、必死で頭を空にして、煙草を吹かすことだけに集中していたのだ。

 ニコチンが体にしみこめば、少しだけ苛々が解消された。

 続けて二本目を吸うと、ようやく人心地がつく。

 三本目の煙草を、箱から引き抜こうとすると、不意に暗闇の中、コツコツと足音が響きはじめた。

 良蔵は、足音のする方を何気なく振り返って、目を見開く。

「あんた…」

 小さくつぶやいて絶句する良蔵に、その人物は歩み寄った。



「さて日向、あなたと水箏は、ひとまず東京支部に戻ってください。それから明日の早朝、日向は修也が鹿嶋に送り届けることになっていますので準備をしておいてください」

 日向は、弾かれたように顔をあげた。

「え!? 鹿嶋に? どうして…?」

 日向は、驚愕に彩られた表情で首を横に振る。

「鹿嶋に帰るのは僕だけですか? 冴月様は残るのですか?」

 日向の言葉に、怜治は困ったような表情を浮かべた。

「たぶん水箏も戻ることになると思いますよ。冴月さんと土岐には、まだ東京の手伝いをしていただくことになっています」

「じゃあ、僕も残ります。僕も何か――――」

「日向、これは諏訪の本部からの指示です。今は怪我もしていることですし、あなたは一度鹿嶋に帰りなさい」

 怜治は、言いかけていた日向の言葉を遮った。諭すように言葉をかける。

 日向は、続けようとした言葉を飲み込み、ぎゅっと唇を噛みしめた。

 そして、両手の拳を白くなるほど強く握りしめる。

「ヒナ…戻ろう?」

 水箏が声をかけるが、しかし日向はその場を動かない。

 日向は視線を移し、無言で冴月を見つめていた。

 その表情には、ここに残りたいのだとありありと書かれている。

「日向――――」

 冴月が何かを言いかけると、日向は聞きたくないとばかりに首を激しく振った。

「せめて今晩は、ここに居させてください。支部に帰ったって、掃守さんのことが気になって休むことなんてできません」

 日向は、懇願するようにして冴月に訴えかける。

「お願いです冴月様、明日は…」

 そこまで言いかけて日向は苦しそうにうつむいた。

「明日は…ちゃんと鹿嶋に帰りますから…」

 小さくつぶやいた日向を見て、冴月が小さく息を吐き出す。

 冴月は、視線をめぐらし怜治を見た。

「卜部、今晩は日向をここに居させてやろうと思う」

 すると怜治は、仕方がないとばかりに苦笑する。

「冴月さん、あなたは本当に日向に甘い人ですね。仕方ありません」

 怜治の言葉に、日向はうつむいていた顔を、弾かれたようにあげた。

 日向と目が合うと、怜治はほほ笑む。

「日向、約束ですよ? 明日はちゃんと鹿嶋に戻りなさい」

 怜治もまた、日向のわがままを許していた。

 日向の表情に、喜びの色が浮かび上がる。

「卜部先生、ありがとうございます!」

 日向は冴月に視線を戻し、嬉しそうに微笑んだ。

「冴月様、ありがとうございます」

 冴月は、目を細めて日向の頭に手をのせる。

 静かな手つきで冴月が頭を撫でると、日向はさらに嬉しそうに笑った。



 掃守が治療を受けている集中治療室の前の廊下では、長椅子に日向と水箏の二人が座っている。

 うつむき、じっと座ったままの日向を、水箏は心配そうに見つめた。

「ヒナ、少しは横になったら?」

 日向は首を横に振る。

「みんな起きているのに、僕だけ休むなんてできません」

「でもヒナ…」

 いいかける水箏の言葉を遮るように、日向はもう一度首を振った。

「水箏さん、僕は明日になったら鹿嶋に帰るだけです。休む必要なんてありません」

「ヒナ…」

 水箏は、日向の言葉を聞いて眉根を寄せる。

「水箏さん、僕…くやしいです。僕はいつも大事なことは蚊帳の外なんです」

 日向の言葉に、水箏は黙り込んだ。その表情には、日向の苦しみを気遣う様子が、ありありとあらわれていた。

 けれども、水箏にはかけるべき言葉が見つからないようだ。

 辛そうな表情のまま黙り込み、じっと日向を見つめている。

 その時のことだった。

 不意に、静まり返っていた廊下に足音が響く。

 日向が顔をあげると、冴月と土岐が現れた。

 二人は怜治に呼ばれていたのだが、話が終わった様子だ。

 日向たちのそばまで来ると、土岐が水箏を見る。

「水箏さん、卜部先生が呼んでいます」

 土岐の言葉に水箏は立ち上がった。

「ヒナ、わたしちょっと行ってくるから。すぐに戻るからね」

 そう言い置いて、小走りに廊下を歩き出した。

 後には、日向、冴月、土岐の三人が残されている。

 冴月は、黙ったまま日向を見下ろしていた。

 日向もまた、黙ったまま冴月を見上げている。

 土岐は、そんな二人を見てから踵を返した。拳は、強く握りしめられている。

 後ろ髪をひかれるような思いが、その表情には、ありありと現れていた。

 しかし土岐は、その思いを断ち切るかのように、足を速めその場を立ち去ったのだった。

 静かな病院の廊下には、冴月と日向の二人が取り残されている。

 冴月が動きだし、無言のまま日向の横に腰かけた。

 日向はうつむき、膝の上で強く拳を握りしめる。胸の中にわだかまる何かを吐き出さぬよう、必死でこらえるような表情をしていた。

 二人の間に言葉はなかったが、不意に冴月が手をのばし、日向の頭を引き寄せる。

 少女の姿の日向はよろめき、冴月の胸に頭をあずける形となった。

 日向は、一瞬驚いた様子だったが、すぐに体の力を抜き、冴月に体を寄りかからせる。

 冴月は、無言のまま真正面をただ見つめていた。二人の視線が交わることはない。

 冴月の指先が、日向の頭を撫でた。それはまるで、元気を出せとでも言っているかのようだ。

 冴月の優しさに触れ、日向の口元にかすかな微笑みが浮かぶ。

 しかしその表情は、泣き笑いのようだった。

 日向は目を閉じ、じっと冴月に頭を撫でられるに任せる。

 やがて、ポツリと言葉を漏らした。

「冴月様、どうかお怪我はなさらないでくださいね」

「ああ」

 冴月は、かわらず真正面を見つめたまま答える。

「約束ですよ?」

 日向は顔をあげ、冴月を見上げた。

 気配を感じた冴月もまた、日向を見下ろす。

 二人の視線が交わると、冴月は穏やかにほほ笑んだ。

「ああ」

 微笑みあうお互いの眼差しには、相手を気遣うような優しさにあふれていた。


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