十六 賢者の石
重苦しい沈黙が辺りを包む中、日向は不安そうに怜治を見上げた。
「あの赤い石は、本物の賢者の石だったんでしょうか?」
すると怜治は、首をひねりつつ両腕を組んだ。
「それは難しい質問ですね。私自身、賢者の石というものを目にしたことはありません。ですから、その真偽などわかろうはずもありません。それに賢者の石というものは、その存在からして疑わしいものですから…」
怜治は、わずかに困ったような表情を浮かべる。
しかし、一度考えるような動作をしてから、怜治は再び口を開いた。
「ですが、あなた方の目撃したその赤い石とやらは、どうやら虺を閉じ込めることができたようですから、何か特別な力を秘めた石であることは確かなのでしょう。それに…」
そう言って、怜治は顎をつまむ。
「錬金術において赤は特別な色です。一説では、賢者の石は赤い石であるとも言われています。件の石が、『賢者の石』と呼ばれるものである可能性は否定できません」
日向は、驚きに目をまたたいた。
「賢者の石は、赤い石なのですか?」
驚きに満ちた日向の声に、怜治は頷く。
「ええ、一説では、そう言われています。ただし、実際に賢者の石を作り出すことができたと伝えられている人物はごくわずかですし、いずれも伝承の域を出ません。賢者の石の存在は、伝説と言って差し支えないのです。ですので、賢者の石が、どんな形状をしているのかも定かではありません。赤い石であるというのは、一つの説にすぎないのです」
「そうなんですか…」
「しかし、パラケルススのアゾット剣自体も、私は伝承にすぎないと思っていました。その剣が現存するとなると、賢者の石の存在も、にわかに現実味を帯びてきますね」
すると、そこで水箏が、質問とばかりに手を上げた。
「怜治先生、さっき錬金術師たちの最終目的は、賢者の石を作り出すことみたいなことを言ってたけど、賢者の石は人間が作り出したものなの?」
怜治は頷く。
「そういうことになります。水箏、あなたは辰砂というものを知っていますか?」
「ええと、確か水銀のことよね?」
突然の怜治からの質問に、戸惑いつつも水箏はこたえた。
「おおよそ当たっていますね。正しくは水銀と硫黄の化合物です。水銀は、この辰砂を熱することによって取り出せる物質です。錬金術において、賢者の石という概念が生まれたのは、およそ12世紀ごろ。比較的新しいものですが、一般的な錬金術において、賢者の石は、水銀と硫黄の結合によって、生成されると考えられています。つまり中世の錬金術師たちは、この辰砂から賢者の石が作り出せると考え、大いなる関心を寄せていたのです」
怜治がそう話すと、水箏が辟易したような表情に変わってくる。
「こんな時になんだけど…私、理科って苦手なのよね…。難しい話をされると、眠くなってくるの」
渋面を浮かべた水箏の言葉に、怜治が苦笑した。
「私もそれほど得意な分野ではありませんよ。ですから、なるべく簡単な説明にとどめますが、現在も伝えられている賢者の石を生成する方法には、多様な流派が存在しています。がしかし、そのどの流派においても、ある共通する原則が存在しています。それは、色の変化です」
「色の変化?」
日向と水箏は、不思議そうに首をかしげる。
「はい、そうです。私は先程、錬金術において、赤は特別な色であると言ったことを覚えていますか?」
日向が頷いた。
「はい覚えています」
「水銀と硫黄の結合からはじまって、賢者の石が出来上がるまでの工程は、先程も言ったように、流派によって様々なものなのですが、しかし、色だけは、全ての流派において共通しています。その色の変化とは、黒から白へ、白から赤に変わるという変化です」
日向は、目を驚きにまたたく。
「それはつまり最後には赤い色に変わるということですよね…。だったら賢者の石は、やっぱり赤い石なんじゃないでしょうか?」
「そうだといいたいところですが、賢者の石の形状については、色々な説があるのです。賢者の石という名前が表すように、石の形であると考えられることが一般的ですが、他にも粉末であったり、粘土であったり、液体であったり、その最終形状は、流派によってまちまちなのです」
「そうなんですか…」
日向の言葉に、怜治は頷く。
「何分、賢者の石というものは、言伝えに過ぎない存在ですからね。それに、賢者の石が、どんな力を秘めているのかという定義についても千差万別です。通説では、不完全なものを、完全なものへとかえるための触媒であるといわれていますね。つまり、金ではない物質を、金という『完全な物質』へ変化させ、さらに、人間という不完全な生き物を、完全な存在――――『神』へとかえるための触媒ということです」
そこで良蔵が顔をしかめた。
「もとから胡散臭い話だったが、ここにきて、いよいよ胡散臭さに拍車がかかったな。つまり、賢者の石とやらを使ったら、人間が、神にもなれるってことだろ? 不遜な話だな。錬金術師っていうやつらは、ただの勘違いヤロウばっかりだったんじゃねえのか」
良蔵の話を聞いて、水箏は両腕を組んでうなずく。
「私、りょーちゃんのそういうところ好きだわ。そうよね。人間が神様になろうと考えるだなんて、自意識過剰の、とんでもない勘違いヤロウに違いないわよね」
良蔵と水箏の言葉に、怜治は小さく笑った。
日向はというと、わずかに眉根を寄せる。
「『賢者の石』というものは、なんだか怖いものですね…」
すると、水箏が不思議そうに首をかしげた。
「怖いもの? 便利なものの間違いじゃないの?」
しかし日向は、強張った表情で首を横に振る。
「便利すぎて怖いです。神になれるような…そんなすごい力を秘めた石であるならば、使い方を間違えたら大変なことになります。もし悪用されたらと思うと…僕、怖いです」
日向の言葉に、一同がしんと静まり返った。
良蔵が、がしがしと自分の頭を掻いた。
「人間てのは、嫌になるほどバカな生き物だからな、人間が決して手にしちゃいけない力ってやつは、確かに存在する。賢者の石は、まさにそれだな」
怜治も頷く。
「自己評価ばかりが高い愚か者に、賢者の石をもたせることは、まるで抑制のきかない幼児に、拳銃を持たせるようなものですからね」
良蔵がため息を吐き出した。
「っとに人間てやつは、ろくなこと考えねえな。不老不死だの、神になるだの…。ある程度の地位や権力を手にしたやつが、その次に欲しがりそうなものだ。始皇帝も欲しがっていたことだしな」
「あ、それなら私も知ってる。始皇帝は、徐福に不老不死の薬を探すように命令したのよね」
水箏の言葉に、怜治は頷いた。
「東洋においても、錬金術に似たような技術があります。不老不死である仙人になるための霊薬を作る技術――――錬丹術です。西洋の錬金術とは別個に起こったと考えられていますが、目指すものは錬金術と同じ不老不死ですね。奇しくも、この錬丹術においても、水銀が用いられています。過去の為政者たちの中には、この水銀を霊薬と信じ、服用して命を縮めた者も多くいますね」
「確か始皇帝もそうだったよな?」
良蔵の言葉に、怜治は頷く。
「そうですね、始皇帝は不老不死を求め、水銀を服用していたと言われています。日本でも、持統天皇が服用していたと言われています。古代の日本においても、辰砂――――丹は特別なもので、権力者たちによって独占されていたのです」
そこで日向が口を開いた。
「そういえば、日本でも、すでに弥生時代には、丹が産出されていたと聞いたことがあります」
日向の言葉に、怜治が再び頷く。
「その通りです。火山国である日本では、辰砂が多く取れるのです。北海道にも有名な鉱山はありますが、中央構造線沿いには、かつて多くの水銀鉱山が存在していました」
「そうなんですか?」
日向は、驚きとともに目をまたたいた。
「はい、現在では、環境問題や需要の低迷により、閉山していますが、かつて日本には多くの水銀鉱山が存在していたのです。特に三重の丹生鉱山での採掘は、かなり古く―――― 一説には縄文までさかのぼれるほど昔からおこなわれていたようです」
良蔵が腕を組んだ。
「今では有害物質として、毒性ばかりが注目されるが、昔は色々なものに使用されていた。薬としても扱われていたくらいだからな」
「そうですね。とりわけ古代の日本において、丹は、宗教的な意味合いを持って使われていました。大仏のめっきに使われたり、神社の鳥居や神殿の朱に使われたりもしていました。毒性がクローズアップされ、敬遠されるようになったのは、近代になって公害が発生して以降です。それまでは、消毒薬や、歯の治療などにも使われていました。現在でも、医療機器には使用されていますね」
「そうなんですか…水銀というものは、案外身近に使われていたのですね」
日向が感心したようにつぶやく。
すると、水箏がわざとらしく肩をすくめた。
「そうね、水銀は、薬から賢者の石まで、ずいぶんと幅広い原料として使われているのね。知らなかったわ」
水箏の言葉に、良蔵の表情が厳しく変わる。
「賢者の石だか何だか知らねえが、あいつら虺を捕まえて、いったい何をするつもりなんだ。しかも、掃守さんを、こんな目にまであわせやがって…奴ら、次に会ったらただじゃおかねえ」
良蔵が、唸るように言いながら、自分の手のひらに拳を打ち付けたその時のことだった。
突如として手術室の自動ドアが開く。
すると、それまで黙って長椅子に座っていた土岐が、反射的に立ち上がった。
良蔵、怜治、日向、水箏、土岐の五人は、入口から出てきた医師を取り囲む。
この医師もまた、石神の鬼であった。
「掃守さんの容体はどうなんです? 手術は無事に終わったのですか?」
怜治の言葉に、医師は頷いて答える。
「手術は無事終わりました。後は掃守さん自身の力を信じるしかありません」
「どういう意味だよ!?」
良蔵の苛立った声に、医師が静かな声で返した。
「はっきり言って、良くない状態です。今夜が峠でしょう」
その言葉に、五人は絶句する。
そのまま医師は、疲れた表情で歩き出した。
立ち去る医師の足音が、カツカツとこだまする深夜の病院の廊下に、五人の鬼たちは呆然と立ち尽くしていたのだった。




