二 十の塞
古より歴史の裏側で日本を守り続ける一族――――鬼は日本各地に存在している。
鬼たちが守り続ける、龍を封じるための『塞』もまた日本各地に散らばり、ひっそりとその地の安寧を守っていた。
あまたに存る塞のなかでも、要となる場所は日本に十か所ほど存在する。
その重要な十の塞は、日本を縦横に走る巨大な二つの構造線の上に存在していた。
関東から諏訪、紀伊半島、四国を通り、九州まで続く巨大な中央構造線。
新潟の親不知から諏訪を通り、静岡の安倍川に至る糸魚川静岡構造線。
これら二つの構造線の上には、古来より信仰の対象となる霊場が数多く点在している。
それは、単なる偶然ではないのだ。
そして、この二つの巨大な構造線の交わる場所――――諏訪は塞の心臓部にあたる。
その諏訪には、鬼たちを統括する組織『石神』の本部が置かれていた。
十の塞のうちの、一つが存在する茨城県鹿嶋市某所。
道沿いに、背の高い白壁の塀が長く連なっていた。
塀の内側には鬱蒼とした木が生い茂り、外から中は窺い知れない。
漆喰で塗り固めた土塀は、石垣の上に築かれ、頂上には瓦を葺いてある。
その正面には巨大な門構えが聳え、古めかしい重厚な木戸は固く閉ざされていた。
門の前に一台の車が止まった。
丁寧に磨かれた黒塗りのセダンである。
車が到着すると、木戸がギイと音をたてて内側に押し開かれる。車はゆっくりとその門をくぐった。
車は、まっすぐに続く石畳の上を通り抜け、巨大な屋敷の前で止まる。
後部座席から、才神日向と物部冴月の二人が降り立った。
「お帰りなさいませ」
屋敷の前で迎えた家人の言葉に、冴月はかすかにうなずいてかえす。
日向は、出迎えた家人にペコリと頭を下げ、「ただいま戻りました」と告げた。
屋敷の正面には、重厚な木戸の閉ざされた式台玄関があり、その横に内玄関がある。
日向と冴月が、内玄関のくぐり戸を抜けると、そこには、ひょろりと背の高い優しげな面立ちの青年の姿が在った。
青年――――匝瑳土岐は膝を折って二人を迎え入れた。
「お疲れ様でした」
「ああ」
冴月は、土岐の言葉に頷きながら靴を脱ぐ。
日向はというとくぐり戸の前で立ち止まり、目元を擦っていた。
車の中でうたた寝をしていたため、まだしっかりと覚醒しきってはいないのだ。気の抜けた表情であくびをかみ殺している。
土岐は苦笑を浮かべて玄関を降りた。日向に歩み寄り、手を伸ばすと、くしゃりと頭をかき回す。
「寝ぼけている場合じゃないぞ日向。守長たちがお呼びだ」
その言葉に、日向は弾かれたように背筋を伸ばした。
土岐は冴月に視線を移して口を開く。
「皆様広間にて、今回の件の報告をお待ちです」
「そうか」
冴月は、日向に視線を移した。
「日向、行くぞ」
「はい!」
日向は元気に返事を返して靴を脱ぎ、冴月の後を追った。
日向たちは、式台玄関の先にあった下座敷を通りぬけて右に折れ、開け放たれた障子の向こう側にある、黒く艶めく板張りの廊下を進んだ。
年月を経て黒さを増した木材は、丁寧に磨かれ艶やかな輝きを放っている。
日向の後ろには土岐も随っていた。土岐もまた、一緒に今回の報告を聞くべき立場にある鬼なのだ。
奥にある大広間にたどり着くと、土岐が前に進み出て部屋の中に声をかけ、障子をあけた。
中では、日向たちの報告を待つ『守長』と呼ばれる、各地を統括する鬼たちが、胡坐をかいて待ち構えていた。
「お待たせいたしました」
冴月は、声をかけてから入口側の下座に座った。
日向と土岐は、冴月のさらに背後に控えて座る。
各地の鬼を統括する守長は、塞と同じく全部で十名。
そのうちの四名が、広間で待ち構えていた。
机はなく、座布団のみが敷かれている。鬼たちはその上に坐していた。
冴月の真正面、床の間を背に上座に座るのが、茨城と千葉の鬼を統括する常陸の守長信太栄泉だ。
その他の鬼たちは、信太栄泉の手前側に、左右向い合せになる形で列をなして座っていた。
上座から順番に、駿河の守長志貴浩嗣、越後の守長阿閉桂月、武蔵の守長弓削保孝である。
守長たちは同列の立場にあるため、その並びは歳の順であった。
信太栄泉は満七十五歳、弓削保孝は五十八歳になったところだ。
そして守長たちから少し離れた下座に、信濃の鬼である甕弦が座していた。
甕弦は、今年で二十五になったばかりの若い鬼である。
がしかし、その実力は各地の守長たちも認めるほどの腕前で、一目置かれている存在であった。
信太栄泉は、両腕を組んで口を開く。
「先に電話で連絡を受けているが、今回の件では虺がかなり成長していたそうだな」
信太栄泉の問いかけに冴月は頷き、昨晩の経緯を順を追って説明しはじめた。
日向もまた、昨晩から今朝にかけて起こった出来事を、脳裏に思い起こしていた。
『虺』とは、人間に憑依し、負の心を糧に肥え太って強大化していく邪霊である。
日本の地下に眠る龍の一部であるとも、あるいはその眷属であるとも伝えられているが、その真実は定かでない。
ただ『憑き物』であることは確かで、虺は、人間に憑くことによってその力を増大させる邪霊なのだ。
本来虺は、龍と同じく塞によって地下に封じられている。
塞とは、いわゆる神話に語られる、黄泉の国の入り口を塞いだ千引石と同じ役目を果たすもので、虺たちの通り道を塞ぐ栓の役目を果たしている。
だが、塞が破壊されることによって、虺がその道――――石神では、虺の通り道を隧道と呼んでいる――――を通り現世へと解き放たれてしまう。
そうして解き放たれた虺たちが、負の心を多く持つ人間を見つけ出して憑依するのだ。
虺は自らの力を蓄えるために、宿主の負の心を刺激して増大させる。
手っ取り早いのは殺人である。
宿主に殺人を犯させることで、虺は高まった負の心を吸収し、巨大化してゆく性質を持つのだ。
憑かれた人間は、負の心と一緒に生気をも吸い尽くされやがては死に至る。
宿主が死ぬと、虺は新たな獲物を見つけ出し、再び憑くという行為を繰り返す。そうして虺は、どんどんと育っていくのだ。
それゆえ、発見が遅れれば遅れるほど虺は強大に育ち、祓うことが難しくなる。
今朝方、日向と冴月が祓ったばかりの虺は、少なくとも宿主を四、五人は変わっている大物であった。
つまり生気を吸い取られ、死に至らしめられた人間も同じ数だけ存在するということになる。
日向はその事実を思い出し、目を伏せ唇を固く引き結んだ。
不意に低い声が耳を打ち、日向は我に返った。
「そうか」
冴月の報告を聞き終えた信太栄泉が、短く口を開く。
しかし、それきり黙り込み、何か考え事をはじめた様子だった。
甕弦が、気を利かせて日向たちを見る。
「君たちは、今日が高校の一学期の修了式だったね。学業に一区切りの付く大事な日だ。疲れているだろうが、しっかりと学業に励んできなさい」
年齢にふさわしくない、深い落ち着きを纏った声音で弦が言った。
話はこれで終わりだという合図だ。
日向たち三人は、会釈をすると広間を退室した。
残された広間では、五人の鬼たちが厳しい表情で黙り込んでいた。
最初にその沈黙を破ったのは、志貴浩嗣だった。
「先程の報告の件はひとまず置いておくとして、ここにきて東日本大震災の影響が広がってきておりますな。あの震災で、あまりにも多くの塞が失われすぎた。その復旧に人員を割かれ、おかげで手がいくらあっても足りない」
その言葉に、阿閉桂月が頷いて続ける。
「ですが、今回の件を考えると、鬼たちを東北にばかり送り込むことも考え物です」
弓削保孝はその言葉に頷き、嘆息に近い息を吐き出した。
「武蔵の鬼も、ずいぶんと東北に応援を送っているのですが、おかげで自分たちの足元が危うい。このところ虺が、東京に集中して出没する傾向が顕著に表れている。武蔵の鬼だけでは対応しきるのが難しく、手が回らぬときは、昨晩のように常陸の鬼の手も借りるような現状になっているのだが…。得体の知れぬ輩が暗躍している現状を考慮すると、こんな危うい綱渡りをしているわけにはいかない」
東京、埼玉の鬼を統括する弓削保孝は、頭が痛いとばかりに首を振った。
昨夜、日向と冴月は東京のとある場所で虺と対峙していたのである。二人は、武蔵からの要請で、東京に応援に駆け付けていたのだ。
そこで年若い鬼――――甕弦が、静かに口を開いた。
「懸念材料はそれだけではありません。我々は、今後起こりうる地震についても考慮に入れなければなりません。一九九五年の阪神・淡路大震災を皮切りに、日本の各地で起きている大地震は、かなりの頻度で十の塞に影響を及ぼしています。特に、東側の塞に悪影響を及ぼす地震が多すぎるのです」
甕弦が、秀麗な表情を崩すことなく続ける。
「一九九七年の鹿児島県北西部地震、二〇〇一年の芸予地震、二〇〇四年の新潟県中越地震、二〇〇五年の千葉県北西部地震、二〇〇六年の伊豆半島東方沖地震、二〇〇七年の能登半島地震、二〇〇七年の三重県中部地震、二〇〇七年の新潟県中越沖地震、二〇〇九年の駿河湾地震、二〇一一年の長野県北部地震、二〇一一年の静岡県東部地震、二〇一一年の長野県中部地震、二〇一二年の千葉県東方沖地震、二〇一三年の淡路島地震、二〇一四年の長野県北部地震。いずれの地震も十の塞に影響を及ぼしています。そして、記憶に新しい東日本大震災。あの震災は、直接十の塞に被害を及ぼしませんでしたが、間接的にはこうして重大な影響を与えています」
淡々と告げられた言葉に、四人の守長たちは黙り込む。
「そして、気象庁が予想している南海トラフ地震。これは、西側の塞に、必ず悪影響を及ぼすことになるでしょう。今や東側だけでなく、全ての塞の守護の在り方について見直さなければならない時期に来ているのです」
重い沈黙が訪れた。
やがて信太栄泉は、閉じ続けていた口を開く。
「私は諏訪に赴く。大物忌にご相談申し上げる。方々、塞の守護をお任せいたす」
そう言って、信太栄泉は三人の守長に向けて頭を下げた。