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塞の守り人  作者: 里桜
第二章
28/140

八 将門の首塚 その一

※ 地震の表現が入ります(次回も予定しています)。苦手な方は回避願います。


 真夏の日中に、激しい日差しが照りつけたアスファルトは、夜になってもいまだ冷めることはなく、じりじりと焼けるような熱を放ち続けていた。

 歩かずとも、じっとりとした汗がにじみ出てくる、そんな蒸し暑い夜のことだ。

「ったく、雰囲気わりいな」

 良蔵が、不快気に手の甲で汗をぬぐいながら、ぽそりとつぶやく。

 その言葉を耳に拾った日向が、うつむいた。

 側を歩く土岐と掃守の二人は、良蔵の声が聞こえていたはずだが、反応することはない。無言のままただ歩き続けている。

 掃守の持つ錫杖だけが、シャラリシャラリと音を奏でる。打ち付けられる遊環(ゆかん)の音ばかりが、涼しげな音をかき鳴らしてた。

 日向たち四人は、日の暮れた千代田区大手町付近を歩いている。

 日本屈指のオフィス街は、活気に満ちあふれた昼間の顔からがらりと豹変し、今は人もまばらな、閑散とした場所へと様変わりしていた。

 道を行き交う車の数も少なく、袴姿の日向や僧衣に身を包む掃守のような、変わった服装の人間が道を歩いていても何ら咎められるようなことはない。

 むろん、すれ違う人間から怪訝な視線を向けられはしたが、しかしそれ以上の詮索がされることはなかった。

 良蔵は、辟易とした様子で首をすくめ、ポケットに手を突っ込み背中を丸めて歩く。

 先ほど良蔵が放った言葉は、彼自身を含めた四人を包む空気を指していた。

 四人は、互いに視線を合わせることもなくただ口を閉じ、人気の少ない高層ビル街を、無言のまま歩き続けている。

 人の機微にさとい良蔵は、その雰囲気に対して不満をあらわに歩いているのだった。

 不意に掃守が足を止める。前を向いたまま、視線を合わせることなく口を開いた。

「俺はこのまま一人でこの辺りの塞の巡回をする。お前たちは、神田を中心に動いてくれねえか」

 良蔵も足を止め、両腕を組んだ。

「掃守さん、悪いがあんたを一人にするつもりはねえよ。あんた何か隠してる。それを教えてくれるまで、俺はあんたについて回るからな」

「子供たちまで連れてか」

「そうですよ」

 良蔵が、半ば投げやりに答える。

 掃守がため息をついた。

「勝手にしろ」

 短く言い捨てると、掃守はまた無言のまま歩き出したのだった。



 四人が徒歩で移動していると、近代的なオフィス街の谷間に突如として緑が現れる。

 低い石垣をめぐらされたその場所の入り口には、「将門塚」の石碑が建てられていた。

 俗に「首塚」と呼ばれ、平将門たいらのまさかどの首を祀るといわれる東京の史跡の一つである。

 平将門は、平安中期に下総国猿島郡(しもうさこくさしまぐん)に本拠地を持っていた地方豪族――――武士であった。

 将門は、桓武天皇に連なる血筋ではあったが、しかし藤原政権下での武士の官位は低く、冷遇されていた。

 一説では、将門はこのことに恨みを持っていたとも、また体制に不満を持っていたとも言われているが定かではない。

 その将門は、思いがけずも朝廷に反旗を翻すことになる。

 九三五年から九四〇年にかけて関東で起きた、いわゆる平将門の乱である。

 もともとは一族間の所領争いであった。

 しかし、時が経つにつれその争いは様相を変えていくことになる。

 将門は、源基経によって朝廷に密告され、一度は謀反の嫌疑をかけられるが赦免。しかし、藤原玄明を匿ったことで、形勢が変わってしまう。

 九三九年、将門は玄明の追捕撤回を求めて常陸へと赴き、はからずも国府軍と戦うこととなってしまったのだ。この時、将門は戦いに勝利し印綬を没収することになる。奇しくもこの事件が、朝廷への反旗を翻したかたちとなってしまったのだ。

 その後将門は、上野(こうずけ)下野(しもつけ)などの国府にも出兵し、関東の大半を占領。同年、将門は自らを新皇(しんのう)と称し岩井に政庁を置く。

 将門謀反の報が朝廷にもたらされると朝廷は派兵し、翌年の九四〇年、将門は平貞盛と藤原秀郷らによって朝敵として討伐されてしまう。

 そして、その首級は京都へと運ばれ、河原にてさらし首とされたのだった。


 この「将門の首」を巡っては、現代でも様々な逸話が伝えられている。

 晒された首は何ヶ月たっても腐らなかったとか、さらには自ら舞い上がって空を飛び東国へ戻ったとか、にわかには信じがたい言伝えの数々が語り継がれていた。

 空を飛んだという将門の首が落ちたとされる伝承地は、各地に複数か所存在する。

 中でも一番有名な場所が、ここ東京都千代田区大手町にある「将門塚」であった。



 この将門塚や平将門に縁が深い神社が存在する。

 現在、千代田区外神田にある神田明神である。

 聖武天皇の治世である七三〇年、神田明神の前身である神田神社が、武蔵国豊島郡柴崎村――――現在の大手町に創建された。

 この神田神社は、出雲系氏族真神田臣が大己貴命を祀ったとも、安房から移住してきた漁民が安房神社の分霊を祀ったとも伝えられている。

 神社の由来は諸説あるが、将門の首塚は、かつてその神田神社の境内に作られていたのだ。

 神田神社は時代とともに名を変え、そして二度の遷座を余儀なくされている。現在では神田明神と呼ばれ、千代田区外神田に鎮座していた。

 しかし首塚だけは移動されることなく、現在も大手町に残されているのだった。


 この神田神社が、現在の神田明神という名に変わったのは、鎌倉時代の末期一三〇九年のこと。

 十四世紀初頭、柴崎村付近では疫病が蔓延しており、巷では将門のたたりであるとまことしやかにささやかれていた。

 どうやら当時は、神田神社も首塚もかなり荒廃し、廃れていたようなのだ。

 その祟りを鎮めるため、二世真教上人が手厚く供養すると、たちまち疫病も収まったのだという。さらに上人は社殿を再建し、将門の霊を相殿に祀り、神田明神と改称したのだ。

 平将門は、平安の世に討伐された武将にすぎない。

 しかし、菅原道真、崇徳天皇、早良親王などと同様、後の世で祟り神として祀り上げられる異色の存在なのである。

 不遇に身を置き、強い恨みを持ったまま亡くなった怨霊を、神としてあがめて怒りを鎮める。

 将門は、そんな日本独特の文化の顕著な例の一つと言えるのだ。


 その後神田明神は、江戸城を築城した太田道灌や、北条氏綱などをはじめとした、東国武将たちの尊崇を集めることになる。

 関ケ原の戦いに際しては、徳川家康が戦勝祈祷を行うほどに崇拝されていた。

 神田明神は、江戸時代に入ると江戸城の増築に伴い、一六〇三年に神田台へ、さらに一六一六年には外神田へと遷座される。

 この外神田への遷座が、江戸城の鬼門を守護するためであるとされている。

 将門はこの時、江戸の守護神となったのである。

 こうして、江戸総鎮守として尊崇を集めた将門ではあるが、しかし、明治政府の時代にあっては、その扱いが一転する。

 明治政府は、将門が朝敵であることを蒸し返し、明治天皇の行幸にあたり、逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきことであると指摘したのだ。

 そのため将門は、一度政府によって、神田明神の祭神から外されるという憂き目にあう。

 だが、当時の地元の反抗にあい、将門はかろうじて境内摂社として残されることになった。

 首塚も同様に、当時の大蔵省の中庭にひっそりと取り残されることになった。

 余談ではあるが、後世――――現代において将門は、その存在を再評価されることが多くなり、一九八四年本社の祭神に復帰した。

 将門は、時代の変遷によって浮沈させられた、数奇な運命をたどる「神」の内の一つであるのだ。


 話を戻すが、大正時代、大蔵省の中庭の片隅に、「将門の首洗い井戸」と「御手洗池」とともにひっそりと残されていた首塚は、一九二三年九月一日に起きた関東大震災で甚大な被害をこうむることになる。

 周囲の土地に亀裂が入り、塚も破壊された。

 この破損に際し、当時、首塚の発掘調査が行われることになった。

 調査を進めると、塚の下からは石室と思しきものが見つかった。

 つまり首塚は、古墳の上に作られていたのである。

 塚は、およそ五世紀ごろに造られた小型の円墳、もしくは前方後円墳だったのではないかと推定されている。

 しかし、内部はすでに盗掘されたあとであったため、墓の主ははっきりとしなかった。

 調査後、石室は破壊され、盛土を削り、側にあった池も埋め立てられ、その上に大蔵省の仮庁舎がたてられた。

 しかしこの時巷では、鎌倉末期より約六百年の時を経て、「将門の祟り」が再燃していた。

 当時の工事関係者や大蔵省職員に死人が相次ぎ、のみならず、一九二六年には、当時の大蔵大臣の早見整爾までもが命を落としてしまったのだ。

 そのため将門の祟りが、まことしやかに囁かれることになったのだ。

 当時の省内の動揺を抑えるため、この仮庁舎は取り壊され、首塚は元に戻されることになったが、大蔵省の災難はまだ続く。

 一九四〇年、今度は落雷によって大蔵省本庁舎が炎上したのだ。

 この火災によって官庁街は全焼、省内では再び将門の慰霊祭をおろそかにした罰ではないかとの声が上がり、すぐに庁舎を移転した。

 そして当時の大蔵省は、急遽将門の没後千年――――奇しくもこの年、将門の没後千年の節目だったのである――――の慰霊祭を執り行い河田烈大蔵大臣が筆をとって、古跡保存碑を建立したのだった。

 さらに一九四五年、第二次世界大戦後、マッカーサー率いる連合軍総司令部――――GHQが首塚周辺の区画整備を行おうとする。

 この工事に着工すると、ブルドーザーが横転し、またもや死亡者を出すことになった。

 古くからの言伝えを知る地元の人間が、あの塚は日本の昔の大酋長の墓である。潰さずに残してほしいと何度もGHQに陳情し、これが受け入れられこの工事は取りやめとなった。

 その後一九五九年、計画跡地となっていた首塚の東側の土地が、日本長期信用銀行と三井生命保険相互に払い下げられ、ビルが作られた。

 この時、長銀のビルが建った場所は、首塚の旧参道の上であった。

 そして一九六三年ごろのことである。

 首塚に面した各階の行員たちが、次々と病にかかってしまうという怪異が起きた。

 再び将門の祟りが噂されるようになり、長銀は半信半疑ながらも、将門の祟りを鎮めるために神田明神の神官を呼び、お祓いを執り行った。

 その後長銀の塚に面した部屋で仕事をする行員の机は、塚への配慮から横向きか、もしくは窓に向かうように配置されたと言われているが、その真偽は定かではない。また、蛇足ではあるが、この長銀は一九九八年に破たんしているのだった。

 こじつけと言われればそれまでではあるのだが、この首塚には、実に多種多様なエピソードが伝わっている。

 それだけ人々の畏怖と畏敬とを集めた結果と言えよう。

 その証拠に、平将門の首塚は、今なお東京の一等地に鎮座するのである。



 掃守は、将門塚の石碑の立つ脇の階段を昇り奥に進んだ。

 良蔵、日向、土岐の三人も黙ってその後に続く。

 階段を昇った正面には古跡保存碑が見え、その右手に平将門の首塚は存在した。

 真夏の夜に、セミがジージーと騒々しく鳴き喚く。

 掃守は、無言でその塚を見つめていた。

「ここの塞は無事のようですね。何か気になることでもあるんですか?」

 良蔵が、両腕を組んで掃守を見やる。

 掃守は息を吐き出し、力を込めていた肩の力を抜いた。

「いいや…」

 答えて首を横に振る。

「俺の思い過ごしか…」

 掃守は、聞き取れぬほどの小さな声でつぶやいた。

 その声を聞きとった良蔵が、弾かれたように顔をあげ、口を開きかける。

 しかし、言葉を出す前に、はからずも口を閉じることとなった。

 突如として、地震が起こったのである。

 四人はハッと息をのんで周囲を見渡す。

 辺りを囲む巨大なビル群は、グラグラとうねるように揺れだしていた。


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