一 虺(き)
遥か古より、歴史の裏側で日本を守り続ける一族が存在する。
その一族は自らを『鬼』と呼んだ。
『鬼』は日本の各地に散らばり、近代化の進んだ現代の物質至上主義の中にあっても確かに自分たちの使命を果たしている。
彼らの使命――――それは日本の地下に封じられていると伝えられる龍を鎮めること。
鬼たちは、気の遠くなる年月をかけて脈々と、龍を封じるための『塞』を守り続けているのだ。
月の光の届かぬ曇天の、いわゆる丑三つ時。
繁華街から一本奥に入った狭い路地には、疾走する小柄な少女の姿が在った。
肌が白く、黒目がちの大きな目が印象的な、小動物を連想させるような可愛らしい少女だ。
少女の服装は実に奇妙なものだった。
白の小袖に下は浅葱色の袴、足元には紐のない白いスニーカーを履いている。
ぎらつくネオン街を通るには、あまりにも似つかわしくないその出で立ち。
しかし少女は、その姿でためらうことなく路地を疾走していた。
辺りにすれ違う人影はない。
後ろで一つに縛った長い髪を揺らしながら、少女は路地裏をひた走っていた。
少女は何かに追われているわけではなかった。
逆に何かを追っていた。
少女の向う遥か前方には、男と思しき人影がある。少女はその人影を追っているのだ。
少女の先を走る男は、さびれた飲み屋の立ち並ぶ道を折れ、飲食店の勝手口に面した不潔な路地裏に飛び込む。
道は人がやっと一人通れるかどうかと言った細い小道だ。
少女も男の後に続き、路地裏へと入りこんだ。
飲食店の勝手口に面したその通路には、空いたビールケース、生ビールの空き樽、焼酎の瓶、使用済みのおしぼりなど、出入り業者の回収を待つ残骸が所せましと置かれている。
ぞんざいに置かれた蓋付きのポリ容器の中には生ごみが入れられ、夏本番をむかえたこの時期、すえた臭いばかりを辺りにまき散らしていた。
昼間の熱気がこもったままのアスファルトが、熱を放ち続ける熱帯夜。
奇妙な服装の少女と追われる男とは、果てしない追いかけっこを繰り広げていた。
しかしその追いかけっこもやがて終わりを迎えることになる。男が、三方を塀と壁とに囲まれた袋小路に逃げ込んだのだ。
男は突き当りで足を止めると、緩慢な動作で背後から迫りくる少女を振り返る。
年のころは二十代半ば。
厚みのある黒縁メガネをかけた細身の男で、おそらく日中に外に出る習慣がないのであろう。男の肌は青白く、頬がこけた不健康な容貌をしていた。
眼鏡の奥にある男の目は、暗い狂気に支配されている。髪を振り乱し、ぎらつくような眼ばかりがらんらんと輝いていた。
男は無言のまま追いついた少女を見据える。
ポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。かちゃりと音をたててナイフの刃を出す。
少女はひるむことなく平然と男を見返し、帯に差し込んであった奇妙なかたちの道具を取り出した。
それは独鈷杵と呼ばれる密教で使われる法具だ。
少女は独鈷杵を目の前にかまえた。
男が獣のような唸り声をあげ大地を蹴った。その手にあるナイフは血に濡れている。
この男は、誰かを傷つけた痕跡の残るナイフを所持したまま、ネオン街を走り続けていたのだ。
ギィィンと金属のぶつかり合う音がする。
少女は避けることなく男のナイフを独鈷杵で受け止めていた。
男は続けてナイフを振り回し、何度も少女に向かって振り下ろす。
しかし少女は、その全ての攻撃を独鈷杵で受け止めた。
少女は隙をついて男に足払いをかける。男が体勢を崩したのと同時に男の手元を蹴りあげ、ナイフを遠くへ飛ばした。
少女は、独鈷杵を帯に差すと両手を使って素早く複雑な印を結びはじめる。
「ノウマク サラバ タタギャテイ ビヤサルバ モッケイ ビヤサルバ タタラタ センダ」
男が素手で殴りかかってくるが、少女は流麗な動きでその攻撃をかわしながら印を結び真言を唱え続けた。
「マカロシャナ ケン ギャキ ギャキ サルバビキナン ウン タラタ カン マン」
唱え終えると、男の心臓めがけて右の手のひらを突き出す。
その刹那、まばゆい光が少女の手のひらではじけた。光とともに爆発が起こり、男は衝撃で吹き飛ばされる。壁に叩きつけられた。
男は唸り声をあげながらくずおれ、前かがみになって地べたに倒れ込む。
すると、蹲るような形で空に向けた男の背中から、禍々しい黒い蛇のようなものが這い出しはじめた。
実体のない黒い煙のようなその蛇は、男の体から出ると地面でとぐろを巻きはじめる。
「ずいぶんと育っているな…」
巨大な黒い蛇を見て、少女がかすかに眉根を寄せた。
その刹那、実体のない黒い蛇が少女に向かって飛び掛かる。
少女は、再び独鈷杵を取り出し手に持った。
長剣を持つようにして縦に構えると、独鈷杵に刃が現れる。
その刃は、半透明の実体のない刃だった。
少女は、透明なその刃を振るって黒い蛇に剣を突き立てる。
しかし致命傷を与えることはできない。それどころかどんどんと押され、やがて少女は壁を背後に追い詰められた。
黒い蛇が鎌首をもたげ、素早いスピードで少女に襲いかかる。
少女は横に跳んでその攻撃をかわした。
蛇は壁に衝突する。
少女は黒い蛇と距離を開け、片手で印を結びながら真言を唱えはじめた。
「タリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ――――」
しかし、黒い蛇が阻止するように少女に飛び掛かる。
少女は透明な剣を両手で持ち、黒い蛇の牙を受けとめた。
地面に踏ん張った足が蛇に押され、じりじりと後退させられる。
少女は印を結ぶことができず、黒い蛇の力に押し負けはじめた。
と、その時――――。
「日向! 無事か!?」
塀の上から、見知った声が聞こえてきた。
少女が、首だけで塀の上をふり仰ぐと、そこには美しい青年の姿が在った。
かたちの良い額に意志の強そうな釣り上がり気味の目、通った鼻筋にすっきりと薄い唇。モデルと言われれば素直に頷けるような美丈夫だった。
青年の表情は乏しく、外側から動揺は全く見受けられない。けれども声や態度には明らかな焦燥感が見て取れた。
青年の目が少女を捕えると、明らかに安どの色が浮かぶ。
「冴月様!」
少女が声をかけると、冴月と呼ばれたその青年は塀からひらりと飛び降り、少女――――日向のそばに降り立つ。
冴月は長身で、人を寄せ付けないような不思議な気配を纏う若者だった。
服装は、青い半そでシャツにグレーのズボンといった姿。
どうやら学校の制服のようだ。
手には、墨で文字の書かれた白い紙を持っている。
その紙は、陰陽道で使われる霊符と呼ばれる呪符だった。
冴月は、黒い蛇に向けてその霊符を投げ放ち、人差し指と中指を立てた刀印を結ぶと低く呪文を唱える。
「急急如律令」
すると霊符が形を変え、白い狐に似た生き物へと変じた。
白い獣は、黒い蛇に躍り掛かり首筋に噛みつく。
日向に襲い掛かっていた黒い蛇は、苦悶にのたうちながら大きな口を開いた。
白い獣は、黒い蛇に噛みついたままその体を振り回し、地面にたたきつけ前足で細長い体を踏みつける。
白い獣のおかげで、ようやく黒い蛇との格闘から逃れることができていた日向は、再び独鈷杵を手に持ったまま素早く片手で印を結びはじめた。
「タリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ」
日向の視線の先では黒い蛇が体をくねらせのた打ち回り、喰らいつく白い獣を必死で振り払おうとしている。
「シャヤンメイ タララサンタン ランエビ ソワカ」
日向が真言を唱え終えると、独鈷杵から出ていた透明な剣が一際白く輝いた。
日向はその剣を振りかぶり、黒い蛇に向けて振り下ろした。
路地裏には再び静寂が訪れていた。
その様は、先ほどまで起こっていた不可思議な出来事など、まるで何もなかったかのようだ。
日向と冴月の側では、メガネをかけた若者が倒れている。
冴月は若者に近づき、息があることを確かめると立ち上がった。
「ずいぶんと育った虺だったな」
日向を見下ろして確認する。
「はい」
日向は、眉根を寄せながら倒れた若者を見下ろした。
「あの大きさまで虺が育っているのですから、少なくとも宿主は四、五人存在するのではないでしょうか。こんなに育つまで気づけなかったなんて…」
日向が悔しそうに口を引き結び、両手の拳を強く握りしめる。
冴月は自分の顎をつまんで、考え込むようなしぐさをした。しかし、言葉には何も出さず無言のままだ。
やがて冴月は、一度空を仰ぐと再び日向に視線を戻す。
「日向、時間だ」
日向は弾かれたように懐からスマートフォンを取り出した。急いでディスプレイを点灯する。
時間はすでに午前四時を過ぎ、東の空が明るく白みはじめていた。
「うわ…もうこんな時間だったのですね。どうしよう…」
実のところ、日向には他人に知られてはならない特殊な秘密があった。
冴月が腕を組んだまま日向を見下ろす。
「今日は虺が育っていたせいで時間をとられた。このままここで日の出を迎えるしかないだろう」
「ですよね…」
日向は両肩を落とす。
「幸いと言うべきか、ここは人気もないことですし…ね…」
日向はつぶやくように言って座り込み、一度背中をコンクリートの壁に預けた。
やがて大きく息を吐き出すと膝を抱え込んで縮こまり、うつむいて膝の上に額を乗せる。
その隣で、冴月もまた立ったまま壁に背中を預けた。
二人の頭上では徐々に空が白みはじめる。
日の出はもう間近に迫っていた。
他人には知られてはならない日向の秘密。
それは――――。
日向のいる塀に囲まれた路地裏からは見えない遥か東の彼方――――地平線の向こう側に、さんさんと輝く太陽が顔を出しはじめた。
夜明けが訪れたのだ。
その瞬間、日向が小さく呻き声をあげた。
胸元を自らの手で掴み、痛みに耐えるような苦悶の表情を浮かべる。
日向の体がかすかに輝きはじめ、淡い光を放ちながら少しずつその姿を変えていった。
手足が一回り太く変わり、長さも伸びる。髪が短く変わり、体も一回り大きく変化した。
その隣で、冴月は腕を組んだままただ正面を見つめている。正面にある壁から視線を外すことなく、ひたすらまっすぐ前を見つめていた。
やがて変化が終わり、日向は息を吐き出した。
人心地着くと静かに立ち上がる。
日向の身長は、相変わらず冴月よりも低い。
がしかし、先程よりも確かに高くなった視線で冴月を見上げた。
「お待たせいたしました」
そう呟いたその声は、明らかに少年のものだった。
冴月は頷いてから歩き出す。
その少し後ろを、少年に姿を変えた日向が小走りに追った。
日向の秘密、それは半陰陽――――。
太陽が空にある時間は男性、沈んだ後は女性に変わるという特殊な体質であった。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。