第二次世界大戦
第二次世界大戦が勃発したのはサラエボ事件が切っ掛けであった。1914年6月28日オーストリアハンガリー帝國ユーナ皇女がサラエボで、セルビア人民族主義者アーニャに暗殺された。これに怒ったオーストリアハンガリー帝國が7月5日にセルビア政府に10箇条の所謂、『オーストリア最後通牒』を送付。だがこれをセルビア政府は一蹴。この態度にオーストリアハンガリー帝國は更に怒り、7月18日に国交断絶、7月28日にはセルビアに対して宣戦布告を行った。この翌日にドイツ帝國及びロシア帝國・フランス共和国がオーストリアハンガリー帝國との同盟を理由にセルビアへ宣戦布告。更に7月30日にセルビアとの個別同盟を結んでいた大英帝国とイタリア王国・オランダ王国・ポルトガル帝國・オスマン帝國が枢軸国側に宣戦布告。7月31日にはルーマニア・ギリシャ・ブルガリア・モンテネグロ・アルバニアが連合国側に宣戦布告。これにより第二次世界大戦が勃発した。第二次世界大戦勃発時には大日本帝國・中華連邦・満州帝國・シャム王国は参戦しなかった。シャム王国と大日本帝國は1912年に安全保障条約を締結、翌年に中華連邦と満州帝國・欧州各国とも結んだ。欧州で勃発した第二次世界大戦緒戦は、8月15日にセルビアが東西南北全方位から侵攻され、陸軍は壊滅占領された。ここで枢軸国側は軍を引けばそれで終わったものの第一次世界大戦と同様、オランダ王国とイタリア王国へ侵攻したのである。フランス共和国はオランダ王国侵攻の障害となるベルギーへ侵攻、9月1日に占領した。しかしオランダ王国とイタリア王国へ侵攻した枢軸国側は壮絶な反撃にあった。特にオランダ王国にはBEFが駐留しており、手痛い反撃を受けた。イタリア王国へ侵攻した枢軸国側も同様の反撃を受けたのである。全ては第一次世界大戦で受けた侵攻作戦への対策を充分に行った結果であった。侵攻作戦に躓いた枢軸国側はオランダ王国とイタリア王国との各国境沿いに塹壕を掘り巡らせた。機関銃や大砲を配備し一部区間にはトーチカまで構築した塹壕は、連合国側も掘り巡らし長期戦は必至となった。オランダ王国に於ける『北部戦線』とイタリア王国に於ける『南部戦線』が主たる戦場となった。
欧州で長期戦必至となった第二次世界大戦は、亜細亜にもその火の粉を飛ばした。………否。亜細亜に於ける連合国は自ら第二次世界大戦に参戦した。大日本帝國は1914年8月1日に大本営を設置。そして8月3日に帝都東京で中華連邦・満州帝國・シャム王国の首脳を迎えて会議を行い、8月20日にロシア帝國へ侵攻する事を決定した。そして1914年8月20日、日中満シャムそして満州帝國駐留の大英帝国陸軍がロシア帝國シベリア地方へ侵攻。苛無着加県からも2個師団が侵攻を行い迎え撃つロシア帝國陸軍は、圧倒的な連合陸軍の物量に次々と敗走した。大量生産技術を有し、武器弾薬が大量に配備され、機械化され、輸送手段と進撃能力が高い連合陸軍。欧州方面に陸軍を集中していたロシア帝國は先の大戦に比べ、圧倒的な力を手にいれた連合陸軍を完全に嘗めていた。陸軍大国という自信があった為に亜細亜方面の陸軍配備数は少なかった。それでも15個師団を有していたが、連合陸軍は合計20個師団であった。しかもその殆どが機械化されており、ロシア帝國陸軍より遥かに機動力を有していた。更にその機動力を活かした進撃速度にロシア帝國陸軍はシベリア鉄道を[破壊する事無く]撤退した為、連合陸軍はシベリア鉄道を有り難く使用する事にした。逃げ遅れたシベリア鉄道社員も金さえ払えば列車を動かしてくれた。連合陸軍は律儀に料金を払ったのである。これらを受け連合陸軍は更なる進撃を続け10月3日、ヤクーツクでロシア帝國陸軍と激突した。これには大日本帝國陸軍参謀総長乃木美樹大将が直々に連合陸軍20個師団の指揮を執った。ロシア帝國陸軍はこの事態に慌てて増援を派遣、合計32個師団を誇った。しかし乃木参謀総長の的確な指揮により連合陸軍はロシア帝國陸軍32個師団の半数を殲滅、残り半数にも壊滅的な打撃を与えた。連合陸軍の被害は1個師団が壊滅しただけであった。かつてローマとカルタゴが戦った第二次ポエニ戦役に於ける『カンネの会戦』に匹敵する程の戦史上稀に見る大殲滅戦となった。この戦いは『ヤクーツク殲滅戦』と名付けられ、包囲殲滅戦の代名詞となった。ロシア帝國陸軍が連合陸軍に大敗北した理由は4つあった。1つ目は電話と通信要員の不足による連絡の不確実性、2つ目は自動車の不足による機動力の不確保、3つ目は航空機不足による航空偵察及び弾着観測の不確実性、4つ目は武器弾薬の絶対数不足、以上4つの理由により連合陸軍は勝つべくしてヤクーツク殲滅戦に勝利したのである。
シベリア地方で大勝利を収めたとの知らせは、欧州方面へ知らされた。しかし北部戦線と南部戦線の膠着状態は変わらなかった。開戦当初フランス共和国はベルギーに侵攻、ベルギーの誇るフローレンヌ要塞とモンス要塞を攻略し、ベルギーを占領した。そしてフランス共和国陸軍とドイツ帝国陸軍がオランダ王国に侵攻を開始、イタリア王国にもフランス共和国陸軍とオーストリアハンガリー帝国陸軍が侵攻。しかし両侵攻作戦は共に壮絶な反撃を受け、枢軸国側は進撃を阻まれた。後退した枢軸国側は塹壕を掘り、長期戦となった。そして両陣営は互いに相手の無防備な側面を衝いて後方に出ようと、国境沿いに戦線が大きく広がった。それは1914年末まで続いたが両陣営共に侵攻に失敗し、長大な戦線は固定化された。翌1915年に連合軍は随所で突破を図るも失敗。枢軸軍もドイツ帝国がフェンローで本格的に毒ガスを投入して攻撃するが突破出来なかった。1915年は欧州方面で戦況を大きく変える戦果は出なかった。それに比べ亜細亜連合陸軍は着実にロシア帝国を東から占領していった。1915年はウランウデ・イルクーツク・ノリリスク・クラスノヤルスク・バルナウル・ヴォシビルスクで大規模な会戦が行われたが全て連合陸軍が勝利した。ロシア帝国はシベリアの東半分まで占領される、建国以来最大の危機に陥った。日中満シャムはこのままロシア帝国帝都サンクトペテルブルクまで侵攻出来ると確信し、陸軍の大規模派遣を決定。4月までに合計38個師団が新たにシベリア鉄道を使って送り込まれ、合計58個師団がロシア帝国内部に侵攻した。この事態にスタフカは戦略の転換を決定。欧州方面から陸軍を全て引き揚げる事を枢軸国側各国に通知した。第一次世界大戦では連合国反撃のきっかけとなった決断であったが、今回は枢軸国側各国もロシア帝国引き揚げ時の作戦計画想定していた為、前回よりは冷静に受け止められた。欧州方面から陸軍を引き揚げシベリアへ派遣したロシア帝國陸軍であったが、連合陸軍の西進は止められずロシア帝國陸軍は各個撃破された。ヤクーツク殲滅戦の敗因の1つとなった武器弾薬の生産量低下は変わらず、ロシア帝國陸軍の戦闘能力は大きく低下していた。そんなロシア帝國陸軍を知ってか知らずか連合陸軍は豊富な戦略物資を有し、輸送路も確実に維持されていた。対してロシア帝国は危機的であった。国民生活は困窮、軍への大量動員による労働力不足は深刻であり、そんな中で産業の軍事優先は国内経済を大いに悪化させた。加えて開戦以来ロシア帝国は敗退を続け、ヤクーツク殲滅戦から続く大損害が国民士気を大きく低下させていた。この戦意低下と開戦前からの革命運動が結び付き、1人の革命家が亡命先のスイスから帰国した。その名は[シャルル]レーニン。レーニン女史率いるロシア共産党は1915年11月にモスクワで『冬革命』を起こし、ロマノフ王朝とその一派を打倒しソビエト政権を打ち立てる事に成功した。そしてソビエト政権は講話を望み連合国取り分け、亜細亜4ヶ国に停戦と講話を申し入れた。連合陸軍はこの時ウラル山脈東部まで侵攻し、それを越えて進撃を再開しようとした時であった。そこへソビエト政権側からの軍使がやって来たのである。乃木参謀総長はその場で全軍に停戦を命じ、軍使から休戦と講話の要請を受けた。軍使はその後シベリア鉄道を使い亜細亜へ渡り、大日本帝國以下4ヶ国に講話の意向を伝えた。それを4ヶ国は受け入れ1915年12月29日に、大日本帝國帝都東京帝国ホテルで講話会議が開かれた。国土の3文の2を占領される事態にソビエト政権代表レーニン最高人民会議議長は、「あらゆる要求を受け入れる」と表明していた。この表明により亜細亜4ヶ国は単純明快な3つを要求した。レーニン議長がその3つを受け入れた為、5ヶ国は『東京条約』に調印。これにより世界最大の領土を誇った国家は、[東西に分断]する事となった。
『東京条約
1・ソビエト連邦はその領土を東経85度線を中心に西部までとし、東部を[神聖ロシア帝国]とする。
2・ソビエト連邦は5億円を早期に大日本帝國、中華連邦、満州帝國、シャム王国に支払い残る連合国には第二次世界大戦終結後に支払う。
3・ソビエト連邦は今時大戦を中立国として過ごす。』
以上が東京条約の内容である。大日本帝國以下中華連邦・満州帝國・シャム王国はソビエト連邦を承認し、東部に資本主義国家を建設させた。レーニン議長以下ソビエト連邦代表団はこの条約を調印後、帰国すると共にロマノフ王朝要人を釈放。ニコロス女帝は革命時に処刑されていたが、皇女達は監禁されていただけであった。ソビエト連邦としても処刑の乱発は良くないと考え、終身刑だけにしようと考えていたのである。それを国情捜(国防情報捜査庁)の諜報員が入手し、長官が西園寺総理に伝えた。そして西園寺総理は神聖ロシア帝国建国をレーニン議長に迫ったのである。レーニン議長は終身刑より死刑にしていた方が良かったと嘆いたが、大日本帝國側もロマノフ王朝全員が処刑されていても良かった。そうなれば[ロシア連邦]とでも名付けて建国させる予定であった。つまりソビエト連邦がどう足掻こうとも占領地に、[反社会主義国家]、亜細亜への[防波堤国家]を建国させる戦略であった。これにより1916年1月11日にロマノフ王朝の生き残りが神聖ロシア帝国帝都ヤクーツクに到着。西園寺総理以下中華連邦・満州帝國・シャム王国・ソビエト連邦の首脳が集結し、アレクサンドリア皇女が初代女帝になった。その後ヤクーツクにあるホテルを臨時帝國議事堂とし、そこで『神聖ロシア帝国承認証書』が調印された。
『神聖ロシア帝国承認証書
1・神聖ロシア帝国はソビエト連邦を承認し、ソビエト連邦は神聖ロシア帝国を承認する。
2・神聖ロシア帝国は旧ロシア帝国が調印したワシントン条約を引き継ぎ、樺太全土及び茄無着加半島全土が大日本帝國領、沿海州が満州帝國領である事を承認する。
3・神聖ロシア帝国とソビエト連邦は不可侵条約を締結する。
4・神聖ロシア帝国は先に大日本帝國、中華連邦、満州帝國、シャム王国と安全保障条約を締結する。残る連合国各国とは第二次世界大戦後に締結する。』
以上が取り決められた。この神聖ロシア帝国承認証書と東京条約により、世界最大の領土を誇った国家が東西に分断された。しかもソビエト連邦は枢軸国側であるにも関わらず中立を宣言してしまった。神聖ロシア帝国は連合国側となったが軍の再編を行う為、今時大戦は中立を宣言した。なお満州帝國は第二次世界大戦終結後に満露友好の証として、沿海州を返還している。ここで大日本帝國は神聖ロシア帝国にシベリア鉄道使用の要請、ソビエト連邦にシベリア鉄道使用の恫喝を行い、両国はそれを認めた。これにより連合陸軍合計50個師団の欧州戦線への派遣を亜細亜4ヶ国は決定。主力は大日本帝國陸軍の機械化歩兵師団10個である。それに中華連邦の20個師団、満州帝國・シャム王国の各10個師団の合計50個師団である。この連合陸軍の派遣は、欧州の連合国将兵の士気を大きく高めた。ロシア帝国陸軍の引き揚げた北部・南部の両戦線は連合軍の大規模攻勢を受けていた。ロシア帝國陸軍が引き揚げた隙を狙って行われた『ルーンドルフ会戦』は両軍に甚大な被害を出しただけで終わった。この攻勢失敗を受けて1915年は欧州で大きく戦況が変わる事は無かった。そこへロシア帝国での革命、ソビエト連邦成立、東京条約調印、神聖ロシア帝国建国、神聖ロシア帝国承認証書調印と一気に決まった。これによりソビエト連邦が中立国となり、神聖ロシア帝国との安全保障条約調印要請が欧州の連合国にも届いた。そして1916年1月20日ハバロフスク駅から遂に連合陸軍50個師団が欧州へ向けて出撃。その翌日2個機械化歩兵師団を分乗させた輸送船団を従え、連合艦隊が出撃した。先の大戦に続き2度目となり、更に連合艦隊だけで無く護衛艦隊も大英帝国の要請により派遣された。今回の派遣は海軍陸軍共に全てを出したと言っても過言では無かった。海軍は連合艦隊6個艦隊から5個艦隊を派遣、護衛艦隊は3個護衛隊群から2個護衛隊群を派遣、陸軍は18個機械化歩兵師団から既に10個師団を連合陸軍に派遣しており、そこから更に2個機械化歩兵師団を派遣する事を決定した。海軍陸軍共にもはや祖国防衛が出来る事が不可能な戦力しか残さなかった。だが亜細亜に大日本帝國の敵は存在せず唯一の脅威となるアメリカ合衆国も、連合国寄りの中立を宣言し戦略物資の輸出を行っていた。第二次世界大戦に参戦しつつも兵器・戦略物資の大量生産を行いしっかりと稼いでいた亜細亜4ヶ国は好景気に沸いていた。このような余裕があるからこそ、大規模な派兵を行えたのである。そしてアメリカ合衆国が軍事行動を起こさない事を確信しての派兵であった。アメリカ合衆国は官民共同で戦略物資輸出を行っており、大日本帝國への戦争など頭に無かった。この亜細亜4ヶ国の欧州参戦により、第二次世界大戦は山場を迎えた。1916年2月独仏陸軍がオランダ王国ローセンダール要塞へ総攻撃を開始した。この『ローセンダール要塞攻防戦』は第二次世界大戦屈指の激戦地となった。この戦闘はドイツ帝國参謀本部(OHL)がオランダ王国を消耗戦で追い込む事を決めたからである。連合国は軍事力が強大であった。先の大戦に勝利した連合国は枢軸国から等しく賠償金を取り立てた為、戦後に大きな余裕があった。その為OHLは真正面から戦うのは無謀と結論付け、先に述べた通り消耗戦で追い込む事を決定したのである。オランダ王国は国土も小さく人口も少ない為、消耗戦で老い込めるとOHLは判断した。しかもオランダ王国にはBEFが駐留しており大陸から大英帝国を叩き出す絶好の機会であった。そしてローセンダール要塞への攻撃が立案され、『オランダ王国陸軍の血を搾り取れ』とOHLからの至上命令が下された。このローセンダール要塞攻防戦は両軍に10万人もの[消耗]を出した。更に戦いは半年間も続きしかも戦いが終結した理由もヘンゲロに於いて、オランダ王国陸軍・BEFが大規模攻勢を開始した為ドイツ帝國陸軍が兵を引き揚げた為であった。
1916年10月31日ドイツ帝國海軍大洋艦隊と大英帝国海軍本国艦隊、そして大日本帝國海軍連合艦隊が参加しての『ユトランド沖海戦』が勃発した。連合艦隊は地中海へ辿り着いた9月3日にギリシャ首都アテネに近い、ピレウスへの攻撃を開始。艦砲射撃を行った後に2個機械化歩兵師団が上陸を開始。それを合図にオスマン帝國がブルガリアへ侵攻。9月10日に大日本帝國陸軍がアテネを占領し、ギリシャは連合国側に無条件降伏を申し出た。これによりギリシャは僅か2個師団に国家を占領される事態となった。連合艦隊は9月5日陸軍を上陸させると大英帝国へ向けて出撃。枢軸国側最大の海軍ドイツ帝國海軍大洋艦隊を撃滅するのが目的であった。先の大戦に於ける北海海戦で大洋艦隊は壊滅したが、見事に復活していた。その新生大洋艦隊と本国艦隊・連合艦隊がユトランド沖に激突した。しかし正確には連合艦隊はユトランド沖海戦に2時間遅刻した。これは大英帝国の補給が遅れた事による不手際であったが、結果的にこの遅刻は本国艦隊を救う事となった。ユトランド沖海戦は本国艦隊と大洋艦隊の、巡洋戦艦同士の砲撃戦から始まった。同航戦での砲撃戦であったが、大洋艦隊に有利なものとなった。それと言うのも風向きが西風で本国艦隊は自分達の排気煙と砲煙に射線を妨げられ非常に不利であった。これに対して大洋艦隊は夕陽を背にくっきりと浮かび上がる本国艦隊を、正確に捉えてメッタ撃ちにした。防御力の劣る本国艦隊は酷い目に遭うこととなった。大洋艦隊の砲撃は次々と本国艦隊に命中し撃沈していった。その全滅の危機を救ったのは、本国艦隊主力戦艦戦隊であった。巡洋戦艦の戦いに純粋な弩級・超弩級戦艦の砲撃は、大洋艦隊巡洋戦艦部隊を追い詰めた。しかし大洋艦隊も戦艦戦隊を投入。主力戦艦同士の砲撃戦は激しいものとなり、両艦隊の打撃戦となった。長い砲撃戦により両艦隊が戦艦を多数失った所へ、連合艦隊が参戦した。弩級戦艦・巡洋弩級戦艦・超弩級戦艦を有する連合艦隊の砲撃に大洋艦隊は大混乱に、本国艦隊は歓喜の渦に包まれた。連合艦隊旗艦超弩級戦艦扶桑以下連合艦隊の砲撃は凄まじく命中率は、大洋艦隊や本国艦隊のそれを大きく上回った。大洋艦隊は連合艦隊の砲撃に次々と主力戦艦を沈められた。その被害は大きく遂には大洋艦隊旗艦が、扶桑の砲撃により轟沈。これにより大洋艦隊は組織的な行動が出来なくなり、ユトランド沖海戦勃発から6時間後、大洋艦隊は全滅した。この海戦で大洋艦隊が全滅した事で、ドイツ帝國海軍は作戦の方針転換を決定。11月5日に『無制限潜水艦作戦』の実行を宣言した。この事態に護衛艦隊は更なる護衛活動を開始。連合国商船のみならず[アメリカ商船]の護衛をする事となった。この護衛艦隊の活躍によりドイツ帝國海軍Uボート部隊は目立った成果を出せなかった。[護衛艦]は非常に勇敢で商船が魚雷を避けられないと判断すると、自らの身を使って魚雷の命中を防いだ。これにより終戦までの間に護衛艦隊の護衛する商船の沈没は最小限に抑えられた。その変わり護衛艦の沈没は38隻を数えた。もちろん護衛艦隊は被害以上にUボートを、104隻撃沈した。護衛艦隊の護衛艦は『連結部品工法』と呼ばれる鈴木商店が編み出した新技術によって量産されていた。連結部品工法は大きく4つの部品に分けて造った物を最終的には溶接して1つの護衛艦にする方法であった。これを利用して輸送船や連合艦隊の駆逐艦も増産された。更に護衛艦は新型の対潜兵器である『針鼠』を装備していた。これは24連装の多連装対潜迫撃砲で、面制圧での対潜攻撃が可能となり、針鼠は連合国各国に輸出され対潜兵器の切り札となった。護衛艦隊と針鼠の活躍によりUボートはその息の根を止められ、1918年7月にドイツ帝國海軍は消滅した。
ここで再び陸上の戦いに目を戻してみる。ローセンダール要塞攻防戦を終わらす切っ掛けとなった『ヘンゲロ会戦』は両軍に100万の犠牲を出す程の激しい戦いとなった。しかしこの戦いは連合軍の反撃を開始する大きな切っ掛けとなった。更にこのヘンゲロ会戦は戦史に新たなる一文を記す戦いでもあった。それは世界で初めて戦車(当時は陸上戦艦と呼ばれていた)が投入された戦いであったからである。大日本帝國が発明した二式無限軌道車を元に大英帝国陸軍とロールスロイスが共同で開発した。陸上戦艦は塹壕を突破する新兵器として期待され、ヘンゲロ会戦に於いて見事な成果を上げた。陸上戦艦は総数90輌が投入され、ドイツ帝國陸軍の塹壕を突破した。ドイツ帝國領への侵入に成功したオランダ王国陸軍・BEFは猛攻を開始。連合陸軍もドイツ帝國・オーストリアハンガリー帝國・ルーマニアへ侵攻した。イタリア王国陸軍もポルトガル陸軍と共同でフランス共和国へ侵攻した。ハンガリーへ侵攻していたオスマン帝國は1917年1月29日に首都ソフィアを占領。ハンガリーも連合国側へ無条件降伏を申し出た。これによりオスマン帝國は侵攻部隊の半分をルーマニア侵攻と、アルバニア侵攻へ派遣。アルバニア侵攻にはギリシャの大日本帝國陸軍も共同で行った。この1917年を後の歴史家は『連合軍反撃の年』と呼んだ。枢軸国側の攻撃は塹壕により防がれていたが、連合国側の攻撃は陸上戦艦によって着実に進められた。1917年11月20日に大日本帝國陸軍がシュチェチンを強襲した。『シュチェチン強襲戦』の開幕であった。この強襲戦に大日本帝國は量産した最新鋭『六式陸上戦艦』が198輌も投入された。六式陸上戦艦は大英帝国陸軍の菱型陸上戦艦MKⅣの改良強化型であった。更に六式陸上戦艦は世界で初めて大量生産された全周旋回式の回転砲搭を搭載する実用的な陸上戦艦であった。その構造は前部に操縦席、中央部に回転砲搭の載った戦闘室、後部に機関室という戦車という兵器の基本構造を確立した画期的な車輌であった。帝国自動車が開発したこの六式陸上戦艦はドイツ帝國陸軍の度肝を抜き、大日本帝國陸軍は大規模な攻勢を行った。陸上戦艦の侵攻を支援したのは二式90センチ加農砲であった。支援砲撃を受けた陸上戦艦と歩兵が攻めてくる光景はドイツ帝國陸軍にとっては悪夢でしか無かった。そして僅か3日でシュチェチンは大日本帝國陸軍に占領された。この大勝利は連合国各国の士気を更に高め、枢軸国側への侵攻を強めた。1918年2月5日にはルーマニアとアルバニアが連合国側へ無条件降伏を申し入れ、翌月にはモンテネグロも無条件降伏を申し入れた。更に3月19日に中華連邦陸軍が大日本帝國から購入した六式陸上戦艦を使用してオーストリアハンガリー帝國陸軍3個師団をクラクフで全滅させる『クラクフ会戦』が勃発。4月1日にはイタリア王国・ポルトガル陸軍がフランス陸軍7個師団を全滅させる『リヨン会戦』が勃発。各戦線に於いて枢軸国側は不利な状況へ追い込まれていった。第二次世界大戦勃発から4年が経過しており、枢軸国側は経済的に危険な状態であった。今時大戦は長期間の総力戦であり、経済力の弱い枢軸国側には限界であった。連合国側は体力的に余裕がある大日本帝國以下亜細亜4ヶ国が後方支援を行っており、アメリカ合衆国も参戦していない(船が撃沈されていれば開戦したかもしれないが護衛艦隊の活躍により沈んでいない)為、軍需物資の輸出を行っていた。この状況に枢軸国側各国で反戦活動が続発。各戦線でも現状維持が精一杯であり、侵攻を行う余裕は無かった。これによりドイツ帝國とフランス共和国が連合国側へ停戦を呼び掛け、そして永世中立国スイスへ講話の仲介を要請した。連合国側が停戦に合意した事により、人類2度目の世界大戦は終わりを迎えた。