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1904年~1914年

この10年が重要です。

1904年5月30日。アメリカ合衆国首都ワシントンのワシントンホテルで講和会議が開かれた。初日は両陣営共に人類史上初の世界大戦を戦い抜いた事について、深く話し合う為に立食パーティーが開かれた。政府首脳のみならず軍人も参加し交流が行われた。特に東郷麻美連合艦隊司令長官と乃木美樹第零軍団司令官の2人は、連合国・枢軸国を問わずに質問攻めになった。桂静香内閣総理大臣は両者を軍令部総長・参謀総長に昇格させる事を発表した。この発表によりパーティーは更に盛り上がり、深夜まで続いた。次の日は二日酔いで頭を痛めつつも本格的に講和会議が始まった。会議は意外に早く終わった。これにより両陣営は早々に『ワシントン条約』に調印。世界大戦は大日本帝國を含めた連合国側の勝利により幕を下ろした。

『ワシントン条約

1,ロシア帝國・ドイツ帝國・フランス共和国は満州帝國を承認する。

2,ロシア帝國は樺太[全土]及び[カムチャッカ半島全土]を大日本帝國に、沿海州を満州帝國に譲る。

3,ドイツ帝國は南洋諸島(マリアナ・カロリン・マーシャル各諸島)・ビスマルク諸島を大日本帝國に、西サモア・ナウルを大英帝国に、東アフリカをイタリア王国に、南西アフリカを大英帝国に、カメルーン・トーゴをオランダ王国に譲る。

4,フランス共和国はインドシナを中華連邦に、マダガスカル島をイタリア王国に、北西アフリカに有する植民地は大英帝国・イタリア王国・オランダ王国にそれぞれ北部・中部・南部に分割し割譲する。

5,賠償金としてロシア帝國は5億円を、ドイツ帝國は4億円を、フランス共和国は3億円を、其々大日本帝國・大英帝国・イタリア王国・中華連邦・オランダ王国・満州帝國に支払う。』

以上がワシントン条約の内容となる。

枢軸国側はこの条約により一部領土・植民地全てを失う事となった。更にロシア帝國は総額30億円、ドイツ帝國は総額24億円、フランス共和国は総額18億円という巨額の賠償金を支払う事となった。しかしこの条約締結を邪見の眼差しで見ていた国が1ヶ国だけいた。それはロシア帝國でもドイツ帝國でもフランス共和国でも無い。このワシントン講和会議を仲介し纏めた、アメリカ合衆国その国であった。特にアメリカ合衆国が警戒を強めたのが、大日本帝國である。領土が増大しフィリピンとの間に位置する、南洋諸島まで大日本帝國領となってしまった。そしてこの世界大戦勃発の原因となった、満州帝國についても枢軸国側は承認してしまった。今時大戦を連合国側寄りの中立で乗り越えたアメリカ合衆国は、講和の仲介を頼まれそれを受け入れた。そこでアメリカ合衆国代表団が見たのは大日本帝國の存在感の大きさであった。桂総理の周囲には常に何処かの国の要人がおり、会議も終始大日本帝國が主導権を握った。アメリカ合衆国大統領ヘレンは議長役ということで、会議を中立的立場で仕切った。そこで大日本帝國の提案した事案全てが成立した事に、ヘレン大統領は怒りを抑えていた。全ての日程を終えてワシントン講和会議が閉会した後、ホワイトハウスに戻ったヘレン大統領は言い切った。『大日本帝國は我が国最大の仮想敵国となった。』この言葉は後々のアメリカ合衆国の国防政策に大きな影響を与えた。

1904年8月6日第10歩兵師団が護衛艦隊に護衛され、カムチャッカ半島に上陸を開始。1ヶ月をかけてカムチャッカ半島の平定が行われた。一部ロシア帝國陸軍の残存部隊に攻撃を受けたが第10歩兵師団の敵では無く直ぐ様無力化され捕虜となった。その捕虜も半島の付け根に出来た国境で解放された。これにより大本営が解散した9月20日に『可無着加県』と『北海道(樺太)』そして『南洋府』が成立した。一気に領土が南北に拡大した大日本帝國は、経済と軍事力の増大に邁進する事となった。日清戦争後に行われた帝国発展財政五ヶ年計画で国力が増大した事で、大規模な欧州遠征も行う事が出来た。その前例により桂総理は計画を発表。何事も前例は偉大である。1904年10月9日戦後経営を話し合う臨時帝國議会で、桂内閣は『第二次帝國発展財政五ヶ年計画』を提出。提出に伴う演説で桂総理はこの計画を分かりやすく『給料と軍事力を倍増させる』と述べた。これにより第二次帝國発展財政五ヶ年計画は通称として『国民所得・軍事力倍増計画』と呼ばれる事となった。そして11月28日第二次帝國発展財政五ヶ年計画は全会一致で可決された。賠償金12億円を使って行われる計画は経済力の増大が優先された。その中で大規模な工業化と工業団地の新設が進められた。単純に帝國各地に工業団地を建設すると言うことである。それは帝國工業帯と呼ばれる事になる。北からパラマ工業地帯・カムチャツキー工業地帯・サハリンスキー工業地帯・ホルムスク工業地帯・十勝工業地帯・弘前工業地帯・仙台工業地帯・鹿島臨海工業地帯・京葉工業地帯・北関東工業地帯・京浜工業地帯・東海工業地帯・中京工業地帯・阪神工業地帯・瀬戸内工業地帯・北九州工業地帯・日南工業地帯・元山工業地帯・大邱工業地帯・台中工業地帯が一気に建設される事となった。更に物資を効率的に輸送する事を目的に自動車の開発を決定。そこで大日本帝國はアメリカ合衆国のフォードモーター社長ヘックスフォードを説得し、フォードを買収する事とした。これにより外務大臣と通商産業大臣がアメリカ合衆国に渡り、フォード社長を説得する事となった。そして3日間に及ぶ説得の末にフォード社長は買収を了承。西海道に新工場を建設する事が条件となった。これを桂総理は承諾し新たに『帝國自動車』という国有企業を設立し、フォード女史を社長として迎えた。フォード社長は1903年にフォード社を設立したが新型車の開発資金が集まらず、会社は危機的な状況にあった。そこへ大日本帝國からの特使が『帝國政府が資本を出す国有企業の社長に』との要請を申し出た。国が出資者なら開発資金に困る事も無い。そこでフォード社長は新工場を建設する事を唯一の条件に、国有企業社長就任を承諾した。ヘレン大統領がその事を知ったのはフォード社長が大日本帝國行きの客船でサンディエゴを出港した後であった。ヘレン大統領はたかが1人の民間人が出国してもま問題は無いと考えた。しかし歴史とは1人の人間の存在が大きく影響する。その為大量生産技術は[大日本帝國発]となった。そして帝國工業帯が完成し国力が増大し始めた1907年3月1日、帝國自動車は世界初の大衆車である『FUJI』の発売を開始。中型自動車で大日本帝國の国土にあったFUJIは爆発的に売れた。年間1万台を超えるFUJIが生産され、大流行となった。この売り上げに帝國自動車はFUJIただ1種類に絞り込んだ大量生産を決定。フォード社長と帝國自動車はこのFUJIを帝國全土に広める事を目的に活動した。これには帝國政府も支援を行い帝國自動車は国有企業という利点を最大限活かし、補修部品と燃料を備蓄する[補給場(所謂ガソリンスタンド)]を帝國全土に建設した。更に帝國政府は道路網の整備を決定し5月3日に帝國議会で『交通建設省新設案』を可決させた。交通建設省(1933年に国土交通省に改名)は帝國全土に道路網と高速道路の整備をすると共に国鉄の拡大を進めた。数々の政策を受け1908年6月15日には計画通り国民所得は倍増、正確には3倍にまで拡大した。


軍事力増大は1906年1月20日に可決された『帝國国防方針』『国防所要兵力』『用兵綱領』によって決定された。これら3つに共通していたのが『海軍力増大』と『アメリカ合衆国の海洋進出に対する対処』であった。更に帝國国防方針には『アメリカ合衆国を将来に想定するべき敵国とする』と明記されていた。これらの決定に則り軍拡が行われる事となった。そして海軍が新型戦艦の計画を行っていた10月、大英帝国海軍がドレッドノートを竣工させた。この事態に世界各国の戦艦は旧式艦に叩き落とされた。これに軍令部と連合艦隊司令部は慌てた。計画中の新型戦艦が一気に旧式艦となったのである。しかし各国と違って大日本帝國海軍は[計画中の設計図で]旧式艦にさせられた。帝國工業帯新設を優先させた結果であったが、結果的に大日本帝國海軍は救われた。そこで海軍は計画を変更。新型の弩級戦艦の建造を行う事となった。そして1907年12月20日大日本帝國海軍初の弩級戦艦薩摩が竣工。ドレッドノートを意識した設計で主砲は30センチ砲連装6基12門とドレッドノートを上回る武装を誇った。そして翌年3月3日には2番艦安芸が竣工。更に5隻の弩級戦艦を建造し、巡洋戦艦7隻と特大型装甲巡洋艦3隻を含めた巡洋艦25隻、駆逐艦45隻、水雷艇70隻、砲艦30隻、工作艦30隻、補給艦50隻を建造する『七七艦隊計画』が始動した。まさに海軍の一大増強であった。更には満州帝國海軍と中華連邦海軍からの建造要請を受け入れた為、全国各地の造船所は24時間体制の建造を行う事となった。陸軍も増強され大戦中に編成された5個師団を常設し更に3個師団を増設。合計20個師団となることとなった。その20個師団の内、仙台の第4歩兵師団・姫路の第8歩兵師団・福岡の第13歩兵師団を『海外緊急遠征師団』とし、戦争への即応性を高めた。これらの軍拡に加え帝國国防方針に則り、軍の編成改正を行った。その中で最大の編成改正は海軍省と陸軍省の[統合]である。新たに[国防総省]が市ヶ谷に新設される事となった。海軍省と陸軍省は海軍庁と陸軍庁に改称し、国防総省の一部に格下げとなったがそれぞれの軍政部門として残った。軍令部と参謀本部も名称はそのままで各庁に組み込まれた。更に国防総省傘下に技術開発専門の『国防高等技術研究本部』を新設。国防高等技術研究本部(通称・国技本)は後に数多くの発明をするに至るのである。更に諜報専門として『国防中央情報捜査庁』を新設。国防中央情報捜査庁は陸軍中央特殊情報部を発展改称して設立した。更に改正は続き海軍は鎮守府の増設を決定。カムチャツキー・コルサコフ・高雄・トラックに鎮守府が新設され、釜山警備府を鎮守府に昇格させる事を決定。帝國国防方針は護衛艦隊を常置する事も決められた。七七艦隊計画で新型艦艇が大量に竣工された事で、それまで連合艦隊に配備されていた艦艇が護衛艦隊に配備される事となった。世界大戦で船団護衛と輸送路の確保を学んだ大日本帝國は世界に先駆けて、輸送船団護衛専門の部隊を常置する事を決めたのである。以上の事案を成し遂げた大日本帝國は1909年7月20日に五ヶ年計画を達成し、経済的・軍事的に大きく飛躍した。内政に於いて計画を進める中でも外交に於いても進んだ政策を行った。

先の大戦に勝利した連合国は結束を更に強めた。桂総理は1904年11月の臨時帝國議会で第二次帝國発展財政五ヶ年計画を提出する傍ら、連合国各国に『連合国首脳会議』の開催を呼び掛けた。これは毎年連合国の中で議長国を決めその国の帝都(王都・首都)で、首脳が集まって会議を行うというものであった。これを連合国各国全てが受け入れ1905年11月1日に、大英帝国帝都ロンドンウエストミンスター宮殿にて第1回連合国首脳会議が開かれた。日英中満伊蘭首脳が一同に会する嘗て無い大規模なものとなった。亜細亜3ヶ国の首脳はシベリア鉄道を使ってヨーロッパへ訪れた。会議の冒頭大英帝国首相パールは『紹介したい人がいる』と言い、秘書官に呼ぶように命じた。それを受け秘書官が扉を開けるとそこから入って来たのは、ポルトガル帝國とオスマン帝國の首脳であった。驚く各国首脳にパール首相は両国が連合国入りをしたい事を伝えた。それに桂総理は拍手をしながら承認する事を宣言した。その後連合国首脳会議初の議決でポルトガル帝國とオスマン帝國の連合国加盟が全会一致で認められた。更に帰国後に議会の承認を得られる事を確信して、両国と安全保障条約が締結された。新たな連合国の仲間が増えた事に喜ぶ各国首脳に、桂総理は更なる提案を行った。2年に1回を目安とした『連合国合同軍事演習』を提案した。これは先の大戦に於いて地中海に派遣された連合艦隊と英伊地中海艦隊の共同作戦を行った事が提案理由であった。2年に1回合同演習を行い今後の作戦運用を円滑にする為であった。これを各国は受け入れ全会一致で採択した。演習場所も決められ海軍はアラビア海、陸軍はイタリア王国領マダガスカル島で行われる事となった。両地点は亜細亜と欧州の中間地点ということで決められ、更に来年6月から行われる事となった。最後に来年の第2回連合国首脳会議の開催地を大日本帝國帝都東京で行う事を決定し、第1回連合国首脳会議は2週間の日程を終え閉会した。この会議によって連合国の結束は強まり、世界各国へその親密さを示した。枢軸国側は敗戦国の立場上何も反応せず、アメリカ合衆国は自国が呼ばれなかった事を不服とし何も反応しなかった。何も反応しない世界に連合国側は相手にせず、1906年6月1日からアラビア海とマダガスカル島に於いて、第1回連合国合同軍事演習を開始した。大日本帝國海軍連合艦隊主力、大英帝国海軍本国艦隊主力、そして連合国海軍の全主力が集結。マダガスカル島にも大日本帝國陸軍2個海外緊急遠征師団を始め、連合国陸軍主力が集結した。2週間に及ぶ合同軍事演習は非常に有意義なものとなった。14日に及ぶ演習に於いて共同作戦に於ける連携を確かめた。特にその内の2日間は大日本帝國軍御得意の[夜戦]に於ける訓練を行った。各国軍は大日本帝國軍を講師として夜戦演習を行ったのである。合同軍事演習の締め括りは海軍陸軍共同の上陸作戦訓練であった。ウラジオストク攻略作戦で大日本帝國軍が行った上陸作戦は、これまでの固定概念や先入観を根本的にひっくり返した。海軍の艦砲射撃・対地制圧射撃を経ての陸軍部隊の上陸は、上陸部隊の安全と敵部隊の安全と敵部隊の士気低下に大いに役立つ事が分かった。8ヶ国の海軍主力艦による艦砲射撃は凄まじいものとなった。日英伊は戦艦それ以外は装甲巡洋艦であったが、あの北海海戦を凌ぐ数の火力投射数は想像を絶する威力となった。その支援砲撃を受けての上陸作戦は、合同軍事演習の結果を出す一番の見せ場となった。そして第1回連合国軍事演習は全ての日程を終え解散した。連合国の軍人が母国へ帰った後、連合国の首脳が大日本帝國に集結、1906年9月1日帝都東京にて第2回連合国首脳会議が開かれた。1回目はウエストミンスター宮殿で行われた首脳会議だが、2回目は帝国ホテルで行われた。この流れにより9月1日にホテルで行われる事となった。第2回連合国首脳会議の第1の議題は、連合国首脳会議の略称決めとなった。これにより略称として連合国の合からGを取り、連合国が8ヶ国と言うことにより[G8]とする事が決まった。更に会議終了後に共同声明を発表し、記念撮影を行う事まで決定。儀礼的な内容を決定した後は、漸く本題に入った。アメリカ合衆国の海洋進出について深く話し合われた。先の大戦に参戦しなかった唯一の海洋国家であり、大西洋・太平洋に於いての海洋進出は大きな脅威となっていた。特に大英帝国がこの議題に大きな関心を見せ、積極的に意見交換をした。イタリア王国やオスマン帝国も外洋海軍を本格的に目指す為、この議題を真剣に話し合った。アメリカ合衆国の海洋進出への対処はまさに死活問題となった。1898年にはアメリカ合衆国はスペイン王国に戦争を仕掛けた。この戦争にアメリカ合衆国は勝利するとフィリピンとグアム島を手に入れ、更にハワイ諸島にも武力侵攻し併合した。その海洋進出を牽制するかのように連合国合同軍事演習が行われ、それに対抗する為に1906年7月20日からアメリカ合衆国海軍は大西洋艦隊による大回航訓練航海を開始した。大西洋艦隊のほぼ全力を挙げた大艦隊であり、全艦艇の外装は白く塗られていた。アメリカ合衆国はこの艦隊を『グレートホワイトフリート(大白色艦隊)』と呼んだ。[白人の艦隊]である事を連合国、特に大日本帝國や中華連邦・満州帝国に示す意味もあった。この艦隊はサンフランシスコを目指す長期航海であった。これを受け大日本帝國と大英帝国は大いなる脅威としてアメリカ合衆国の名を出したのである。これにより1週間に及ぶ議論の末に第2回連合国首脳会議は『海軍力の増強でアメリカ合衆国に対抗する』との共同声明を発表し閉会した。これを受け連合国各国は海軍力の充実を図る事となった。そしてこの会議の翌月に大英帝国海軍はドレッドノートを竣工させ、世界各国で戦艦建造競争が始まった。更にこの戦艦建造競争はアメリカ合衆国ヘレン大統領の『世界一周航海宣言』により白熱する事となった。これは12月5日にサンフランシスコに寄港した大白色艦隊に来年2月1日から、世界一周航海を行わせるとの内容であった。所謂砲艦外交でありアメリカ合衆国の威信を、世界各国に見せつける為に計画された。連邦議会はヘレン大統領の宣言を採決し、世界一周航海は予定通り行われる事となった。そして1907年2月1日グレートホワイトフリートは世界一周航海に出航。これに連合国側は無関心を装いながらも微妙な妨害を行った。グレートホワイトフリートは2年に及ぶ大航海を終え東海岸のノーフォークに寄港した。途中マラッカ海峡とスエズ運河で連合国側の妨害(マラッカ海峡で日中満の商船、スエズ運河で英伊蘭の商船による[多重衝突事故]と連合国側は発表)を受けたがそれ以外は無かった。グレートホワイトフリートの世界一周航海により世界各国は更に一段と戦艦建造競争に力を入れる事となった。


大日本帝國は軍事力の増大のみならず経済力の増大にも力を入れている事は先に記した。それは帝国自動車が[流動式生産方式]を確立した事で実を結ぶ事となる。フォード社長が『大量生産体制の確立』として、帝国政府へ陳情に訪れたのが1909年3月の事であった。FUJIの爆発的売り上げで記録的な純利益を決算発表した後、そのまま首相官邸を訪ねて資金援助を申し入れた。これを西園寺景子総理大臣は受け入れた。そして大量生産体制の確立に必要な資金の9割を出資すると確約した。これにフォード社長は感謝の意を述べた。翌日の帝国議会では即日資金援助が認められ、公的資金が帝国自動車へ支払われる事となった。この公的資金援助により帝国自動車の開発は進み、遂に1911年に流動式生産方式(ベルトコンベアー式)が誕生。流動式生産方式は成立後も改良を続けられ、1912年4月にはFUJI生産に1台90分までに短縮された。この流動式生産方式は大日本帝國中の工場で採用され、生産量の増大と工業技術の発展に大いに役立つ事になった。1912年6月1日には『帝国工業規格統一法』が帝国議会で成立。ネジ1本に至るまで統一される事となった。これらを受け各工業地帯に於ける生産量は1913年5月には導入前に比べ5倍となった。これにより漸く帝国三大製鉄所が全力稼働する事となった。帝国各地に造船所や工業地帯が新設され徐々に生産量を増やしていたが、それでも全力稼働までは至らなかった。元々超大型の製鉄所であった為にこの[第二次産業革命]とも言える流動式生産方式の確立で漸く全力稼働する事が出来た。更に西園寺内閣は新たに山形県の米沢と西海道の坂門店に製鉄所を新設する事を決定した。この製鉄所新設も帝国議会に認められ、大日本帝國は重工業国家と世界に誇れるまでになった。この流動式生産方式は中華連邦と満州帝国に広められ両国は、1913年に『大いなる発展』と呼ばれる年を迎え経済力は8倍となった。亜細亜に於いての第二次産業革命は欧州に於ける亜細亜への見方を変えた。大いなる工業化を迎え西園寺内閣は1912年に『軍用自動車補助法』を帝国議会に提出し、満場一致で可決された。これは陸軍の機械化と兵站線の確保を目指す法案であった。[自動車大国]となった大日本帝國はその狭い国土を逆に活かし、確実に武器・弾薬を送り届ける体制を確立しようという考え方であった。更に物資の輸送を軍馬から貨物自動車(トラック)に変更する事も決定。手間の掛かる軍馬から貨物自動車に変更する事で効率的な輸送体制の確立が目指された。この貨物自動車開発を帝国自動車を筆頭に各企業が行ったが、総合商社鈴木商店傘下の鈴木自動車が『中型四輪貨物自動車』を開発。国防総省陸軍庁に売り込んだ。陸軍庁はそれを正式採用、大量生産を要請した。更に三○式速射砲を改良した二式90ミリ加農砲を1913年3月に採用。これは二式[無限軌道車]が牽引する世界初の牽引砲であった。流動式生産方式は欧州の連合国側にも伝わり、生産力を大いに高める事となった。そして長期戦への備えが出来るのを待っていたかのように、1914年第二次世界大戦が勃発した。

この小説は私の書く小説で一番設定が詳しい小説です。まだまだ本編は始まりませわんが、気長にお待ち頂けると幸いです。


次回は第二次世界大戦(所謂第一次世界大戦)です。

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