世界大戦(1)
漸く投稿出来ました。
世界大戦が勃発するまでの間にも、東亜細亜では戦いが行われた。まずは生き残ったバルチック艦隊と大英帝国海軍東洋艦隊の間で行われた『シンガポール沖海戦』である。逃走するバルチック艦隊を東洋艦隊が待ち伏せ、全滅させた。駆逐艦だけのバルチック艦隊は装甲巡洋艦主体の東洋艦隊に包囲され、為す術も無く全滅した。その後トンキン湾にて連合艦隊とフランス海軍極東艦隊が激突。『トンキン湾海戦』が勃発。戦艦主体の連合艦隊に巡洋艦主体の極東艦隊は呆気なく全滅。連合艦隊は威風堂々と帰国した。そして連合艦隊が高雄へ寄港したその日に世界大戦が勃発し、その翌日に連合艦隊は開戦を知った。そこへ早速帝居の大本営から作戦命令が下った。連合艦隊は『ウラジオストク攻撃作戦』を命じられたのである。東郷司令長官は直ぐ様出港命令を下し、連合艦隊はウラジオストクへ向けて出港した。連合艦隊移動の間にも世界大戦は文字通り世界規模で進んでいた。戦線は大きく分けて3つである。1つ目はロシア帝國軍が黒竜江を渡河して満州帝國へ侵攻して来た『極東戦線』、2つ目は中華連邦軍と大英帝国植民地派遣軍が仏領インドシナへ侵攻した『インドシナ戦線』、最後がドイツ帝國軍とフランス軍そしてロシア帝國軍がオランダ王国へ侵攻した『西欧戦線』の3つとなる。極東戦線は数の暴力を文明の利器が迎え撃つ構図となった。日中満英の四ヶ国連合陸軍は黒河要塞と同江要塞に立てこもり、ロシア帝國陸軍の[人海戦術]の侵攻を食い止めようと戦った。激しい攻撃は双方で行われ、壮絶な砲撃戦が行われた。しかし連合陸軍には大日本帝國の開発した『三○式速射砲』がある。要塞の内外に設置された三○式速射砲はロシア帝國軍の配備した砲数より僅かに少ないが、その名前通りの速射性能で敵を圧倒した。そしてその砲弾が降り注ぐ中を進んできたロシア兵も、『三○年式歩兵銃』と『三式軽機関銃』の標的となり、次々と薙ぎ倒されていった。それらの対外取引許可生産を行って配備していた三ヶ国陸軍も攻撃を開始。極東戦線はロシア兵の死体を量産する大規模装置として働いた。インドシナ戦線は逆に中華連邦陸軍の人海戦術が猛威をふるった。それに大英帝国植民地派遣軍も参加した為、インドシナのフランス軍は北・南・西の三方向から攻撃を受け、更には東洋艦隊護衛の輸送船団が上陸作戦を開始。陸軍1個連隊が上陸し東西南北全てから、包囲侵攻をフランス軍は受ける事となった。勿論この植民地派遣軍と中華連邦陸軍にも対外取引許可生産された3兵器が配備されており、フランス軍を徐々に圧倒しつつあった。
西欧戦線は大規模な陸上戦闘が行われていた。一気に3ヶ国から攻め込まれる事となった。オランダ王国は壮絶な防衛戦を行う事となった。国内に存在するありとあらゆる砲を配備して侵攻軍を迎撃した。しかし余りにも侵攻軍の数は多く、質で勝るオランダ王国軍も徐々に数の暴力に押されていった。しかしそれでも大英帝国からの海上輸送とイタリア王国の支援攻撃に、オランダ王国は大いに奮戦した。
世界大戦はインドシナ戦線を除いて、膠着状態となった。インドシナ戦線は中華連邦陸軍と大英帝国植民地派遣軍の包囲侵攻作戦に、フランス軍は全滅。フランス領インドシナは中華連邦と植民地派遣軍に占領された。開戦から1ヶ月弱、7月6日の事であった。それに対しての極東戦線は連合陸軍が、ロシア帝國の猛攻を何とか防いでいた。その戦闘は凄まじく、双方に多大なる犠牲者を出した。しかしそれでもロシア帝國陸軍の攻撃は止まる事なく、連合陸軍は止めど無く溢れ出てくるロシア兵をただただ迎え撃っていた。連合陸軍が防衛戦を続けないといけない為、現状打開には大日本帝國海軍連合艦隊による作戦成功が必須であった。しかし佐世保へ帰港した連合艦隊は一転して、そのまま3日間の休養を与えられた。帰港すれば補給後直ぐ様、出撃を命ぜられると思っていたばかりに東郷司令長官は再確認の連絡を取った程である。しかし休養を取れとの命令に変わりは無く、しかも大本営海軍部直々の命令であった為に東郷司令長官は全艦に休養を命令した。3日の休養を終えた連合艦隊は補給を整えると、ウラジオストクへ向けて佐世保を出港した。出港から2日後の6月24日にウラジオストクから南へ300キロの地点で輸送船団と合流した。その輸送船団には乃木美樹中将が指揮する大日本帝國陸軍最強の[第零軍団]が分乗していた。近衛師団・第1歩兵師団・第2歩兵師団の3個師団を指揮下に入れた第零軍団はまさに陸軍最強であり、ウラジオストクへの[強襲上陸]には最適の部隊であった。合流を果たした事で海軍・陸軍の英雄が対面する事とり、それぞれの部下達は胸に熱いものが込み上げるのを感じた。旗艦三笠に移乗して来た乃木司令官を東郷司令長官自ら出迎えた。そして2人は固い握手を交わすと、笑みを浮かべた。ウラジオストク[攻撃]作戦は[攻略]作戦に変わっていたのである。乃木司令官は「3日間の休養が出たのは私達に原因があります。」と東郷司令長官に言った。ここで漸く突然の休養命令の謎が解けた。2人はその後も笑いながら話を続け、艦内へと入って行った。乃木司令官以下第零軍団の司令部が三笠に移乗したのは、侵攻作戦についての会議を行う為である。作戦会議は夕食と合わせて行われる事となった。乃木司令官達は海軍の食事の豪華さに驚き、東郷司令長官達は陸軍の食べる早さに驚いた。海軍の食事が豪華なのは長期航海に備えて物資が豊富であり、戦闘が陸軍と違って[時間単位]で終わるのも理由の1つである。それに比べて陸軍は物資を大量に持ち運ぶのが困難で戦闘となれば数週間・数ヶ月と[日数単位]で行われる為に、のんびり豪華な食事を食べている時間が無い。組織としての根本的な違いがあった。しかしそれも仕方が無いと両者は受け取り、別段問題にしなかった。逆に東郷司令長官は片腕だけになっても、かつての早さより衰えていない乃木司令官を讃えた。
乃木司令官は照れ笑いを浮かべながら「最初は茶碗を持てない自分に腹が立ちましたが、今では何も感じていません。食べられると言う事に喜びを感じています。」と、刺身を口に運んだ。海軍・陸軍共に食事は和食中心である。明治維新後急速に欧米文化を取り入れたが、日本としての誇りを忘れない為に残った物も多い。その中で最大の物が『食文化』である。健康的で種類も豊富な和食は、大日本帝國の外交にも役立っている。夕食会と合わせて行われた作戦会議は、両軍の共同によってウラジオストクを占領するこの作戦を、深く掘り下げるのに大いに役立った。中でも重要なのはウラジオストクの太平洋艦隊の動向である。開戦後連合艦隊が帰国する前に輸送船団に攻撃を仕掛けてきたが、護衛艦隊の奮戦により装甲巡洋艦と駆逐艦を2隻ずつ失い多数の被害を受けた。これにより太平洋艦隊はウラジオストクに引きこもってしまった。この艦隊を撃滅して日本海の制海権を確固たる物にしなければならない。そこでウラジオストクの手前5キロで輸送船団を残して連合艦隊は先行、要塞砲へ砲撃を行いつつ前進し[湾内]で太平洋艦隊を全滅させる事となった。それら全てが決定し乃木司令官以下軍団司令部は、再び輸送船へ戻った。そして6月30日、作戦は開始された。
『天誅作戦』と名付けられたこの作戦は手筈通りに、輸送船団を残して連合艦隊は先行。そして旗艦三笠が要塞砲への砲撃を開始。これを皮切りに主力戦艦全てが砲撃を始めた。今作戦に於ける最大の特徴は[闇討ち]であると言う事だ。暗闇から突然の砲撃に要塞砲は反撃する事が出来ずに全滅。慌てた太平洋艦隊も出港を始めたが、船は車とは違う。悠々と湾内へ侵入した連合艦隊に捕まり、太平洋艦隊は1発の主砲弾を撃つ事なく全滅。そこへ後続の輸送船団が湾内へ侵入、連合艦隊の艦砲射撃による[対地制圧砲撃]を受けつつ第零軍団は上陸を開始した。この対地制圧砲撃は敵の要塞を撃滅する為に行われたが、予想外の被害を与える事に加え敵の士気を低下させる事が分かった。これまで沿岸砲台・要塞と撃ち合うのは、絶対に沈まない沿岸砲台・要塞が有利とされ戦術上禁じてとされていた。しかしそれは今回の作戦によってその考えを根本的に引っ繰り返した。闇討ちである事もあるが要塞を破壊し、敵陸上部隊にも大きな被害を与えた。艦砲射撃は昔からあったが近代軍艦の新たな可能性を示した。此れにより世界各国に対地制圧砲撃の有効性がより良い実戦戦果と共に広がり、上陸作戦前の対地制圧砲撃は常識となった。無事に上陸を見届けた連合艦隊は一先ずの役目を終え、東郷司令長官の命令により本土への帰路に着いた。少数の拿捕艦も含まれており、先の南支那海海戦と合わせた拿捕艦は5隻となった。上陸した第零軍団は直ぐ様ウラジオストク全域を制圧すると、大本営にウラジオストク占領を報告した。大本営は先の太平洋艦隊全滅も含めて、『ウラジオストク占領』を大々的に発表。この発表がロシア帝國の猛攻を招く切っ掛けとなり、連合陸軍は更なる戦いを強いられる事となった。上陸した第零軍団は乃木司令官の命令により北上を開始。沿海州を占領して黒竜江を渡河して進撃してくるロシア帝國陸軍を側面から攻撃する為であった。漸く反攻の切っ掛けが沿海州の占領が前提であるが見えてきた極東戦線であるが、西欧戦線ではオランダ王国が窮地に陥っていた。
3ヶ国の侵攻を必死になって抑えていたオランダ王国陸軍であるが、敵の激しい攻撃に一進一退を続けていた。自国領から敵を叩き出したと思えば、その倍の数で再び侵攻を受け後退する。これの繰り返しであった。それを打開する為にドイツ帝國は海軍大洋艦隊をオランダ王国沿岸へ派遣する事を決定。大英帝国からの輸送路を封鎖する事が至上命令として下された。これにより7月3日に大洋艦隊はキールを出港。3日後の7月3日には大洋艦隊は通商破壊戦を実行。初日の海戦で大洋艦隊は8隻の輸送船を撃沈。それ以後オランダ王国沿岸に居座り輸送船への攻撃を続け、7月8日には輸送船団を全滅させ50隻余りを撃沈させた。大洋艦隊司令長官アルノ・エクステリア大将は輸送船だけを集中して撃沈する命令を下していた。この事態に大英帝国海軍総司令部は、本国艦隊に大洋艦隊撃滅命令を下した。これを受け本国艦隊司令長官アントワ・エレノワ大将は全艦に出撃を命令。本国艦隊は母港スカパフローを出港、一路大洋艦隊撃滅に向かった。7月13日の事である。そして両艦隊は7月15日にオランダ王国沿岸150キロ地点で激突。世に言う『北海海戦』が勃発した。南支那海海戦を凌ぐ参加総数は史上最大の海戦となった。両艦隊は壮絶な砲撃戦を行った。それは鋼鉄の美女による殺し合いであった。4時間に及ぶ砲撃戦は彼女達に甚大な被害を与えた。本国艦隊は大洋艦隊を全滅させる事に成功したが、本国艦隊は4分の3が撃沈又は大破し艦隊としての機能を失っていた。更にエレノワ司令長官が戦死し、大量の死傷者を出した。唯一の救いは大洋艦隊司令長官エクステリア大将以下の高級幹部を捕虜にした事であった。捕虜達は本土の収容所に収容される事となった。エレノワ司令長官を失い艦隊の4分の1しか、全力を出せない状態に陥ったが、目的は達成された。再びオランダ王国と大英帝国の輸送路が確保された。更に生き残った4分の1の本国艦隊は、大日本帝國海軍護衛艦隊を真似て、[集団護送方式]を行う事となった。大英帝国海軍総司令部はこの北海海戦を「戦略的には勝利したが、戦術的には敗北した」と評価した。この海戦によりフランス共和国は海軍の運用を巡って国論は二分した。一方は本国艦隊が事実上壊滅したのを機会に本土へ攻撃を加えるべきだと言い、もう一方は戦力が4分の1になったとは言え未だ無傷の地中海艦隊と東洋艦隊が残っている為にそれを引き戻すと戦力は上回る。この二分した国論は当初、強硬意見が多数を占めた。しかし日数を過ぎると共に、艦隊温存意見が多数を占める様になった。海軍力は未だフランス共和国は弱く、日英米露独の五大海軍国に比べれば戦力は低かった。これにより共同で行動する大洋艦隊が全滅した事で、フランス共和国は艦隊温存を決定したのである。