1895年〜1903年
たかだか8年で1万文字を超えました、すいません。
日清戦争の大勝利は欧米列強の大日本帝國という国家の見方を変えた。江戸幕府が開国の条件として『大使館を設置する』との事案は認められており、不平等条約も[結ばなかった]この世界では特に大きな変化は無かった。しかし東洋の発展途上国と言う見方は変わった。あの大国清に勝利した、これは大きな衝撃を与えた。しかし当の大日本帝國はまだまだこれからだと思っており、賠償金を取ると戦後経営に乗り出した。日清戦争は確かに大日本帝國の勝利であったが、国力は正直な所危機的であった。その為伊藤内閣は国力増大・国家発展を最重要課題として閣議決定。そして伊藤内閣は帝國議会に『帝國発展財政五ヵ年計画』を提出。更にはそれに伴う歳入不足を想定して『愛国増税案』を同時提出。帝國議会は.1895年5月1日に両案を全会一致で可決。大日本帝國は発展期を迎えた。賠償金と連合艦隊が手に入れた財宝は五ヵ年計画に含まれ、発展の大きな起爆剤となった。
『帝國発展財政五ヵ年計画』は経済力と軍事力の根本的な底上げを行う内容となっている。具体的に経済力の発展案から説明すれば、第1に『工業技術力の増大』が最重要課題として挙げられた。日清戦争に於いて陸軍は新型の二七式速射砲を開発したが、その生産が追い付かなかった。そして砲弾の生産が陸軍の求める絶対数の半数しか、戦争を通して生産出来なかった。これを参謀本部は死活問題として陸軍省・内閣に対して生産技術の向上を訴えた。それは連合艦隊も同じで『三景艦』の松島級の主砲弾が海軍の求める絶対数の3分の1しか生産出来なかった。その為軍需工場を含めた大日本帝國中の工場全てを欧米列強並みの工業化をする事を『工業技術力の増大』として決定された。そこで工業機械を大英帝国から輸入する事が決まり、それを国産品の製造に利用する事を決定した。そしてそれは直ぐ様実行され、大量の工業機械が大日本帝國へ流れ込む事となった。そしてその流れで将来に予想される鉄不足に備えて、製鉄所の建設を決定。福岡県の八幡・蝦夷道の十勝・兵庫県の播磨の三ヶ所に大規模製鉄所が建設される事となり、『帝國三大製鉄所』と呼ばれる東洋最大の製鉄所となり大日本帝國の鉄鋼生産を支える大きな役割を果たす事となる。これが第2の『製鉄所建設計画』である。そして第3に『海運業拡大』である。日清戦争で大日本帝國は海運業の重要性を再認識し、五ヵ年計画に於いてそれを大いに発展させる事を決定した。かつて江戸幕府が貿易立国として発展した事の再現であった。そしてそれは法整備から始め、1895年6月3日に各種海運業振興策の法案が可決された。それに伴い民間造船所が多数建設される事となり、結果的に海軍の拡充に役立つ事となった。更に大日本帝國は『金融制度改革』を行った。大日本帝國は開国当初から[金本位制]であった。その為日清戦争の時に多額の外債が発行出来たのである。そして金融制度の目玉として政府系金融機関の所謂『特殊銀行』を設立した。それは重化学産業振興を担う『日本興業銀行』、農工業の発展を担う『日本勧業銀行』、国際金融専門の『帝國正金銀行』が設立されたのである。これらが経済力の発展案であった。次に軍事力の発展案を具体的に見てみる。
「軍拡は国力の増大と合わせて行わなければいけません。軍事力を高めようにも経済力が弱ければ強くは出来ません。しかし逆に経済力が強いだけで軍事力が弱ければ、植民地になってしまいます。全裸で街中を歩くようなものです。経済力を高めるとそれに見合っただけの軍事力は保有しないといけません。[経済大国だけでは駄目]なのです。経済力と軍事力が強くなってこそ真の大国、列強の仲間入りが出来るのです。」とは『帝國発展財政五ヵ年計画』を審議中の帝國議会で伊藤総理が述べた言葉である。これを受け軍拡は経済力と合わせて行われる事が決定した。
陸軍はこんかいの日清戦争で『砲撃に於ける敵軍制圧』と『市街地に於ける銃火器の役割』の2つの教訓を学んだ。『砲撃に於ける敵軍制圧』は今回の戦争に於いて、大日本帝國勝利へ大いに貢献した。開戦当初の清陸軍侵攻を阻止出来たのも、青島上陸と鴨緑江渡河作戦が成功したのは二七式速射砲の砲撃で敵を制圧出来たからである。そして北京に突入した事によって起こった清陸軍との市街地戦で『市街地戦に於ける銃火器の役割』を大いに学んだ。「一般人を巻き込むな」と言う乃木少将の命令により大日本帝國陸軍は北京戦に於いて、二七式速射砲の使用を自粛した。それにより大規模な銃撃戦となり銃火器の優劣が勝敗を分けた。その時は乃木少将の的確な指揮により敵を背後から攻撃して勝利する事が出来たが、今後の大きな課題として参謀本部と陸軍省に突き付けられた。
そこで陸軍の増強として
一、二七式速射砲の改良
二、新型歩兵[機関銃]及び小銃の開発
以上二点が決まった。
二七式速射砲はその威力を増大させる事が求められた。それに加えて「砲撃する度に砲架を戻してまた照準をやり直さなければならない」と言う現場部隊の声も届いており、陸軍省はこの欠点の改良も求められた。二七式速射砲は砲車復座式を採用。これは発砲の反動で砲車は後退するが、砲車に装着されたバネの力で元の位置に戻すというものである。また砲架を真っ直ぐ後退させる事が前提の為、当然の事ではあるが砲身の可動範囲は俯仰のみで、方向射界を与えるのには僅かの修正であっても砲架ごと向きを変える必要があった。そこで開発されたのが『三○式速射砲』である。これは世界で初めて液気圧式駐退後座機を搭載し、射撃速度が劇的に上昇した。これこそまさに速射砲と呼ぶに相応しい火砲となった。1897年5月に大日本帝國陸軍に制式採用され、次の戦争で大いに活躍する事となる。そして同年7月に『三○年式歩兵銃』と『三式軽機関銃』を制式採用。これら3兵器の開発成功は大日本帝國の技術力の大いなる発展を証明する事となった。特に三○式速射砲は欧米列強を驚かせた。世界は今更ながらこの国の技術力の高さを知ったのである。
そして海軍は『六六艦隊計画』を許可され、大日本帝國中で建造が始まった。「国力の象徴である戦艦を全て国産とする」伊藤総理は断言した。全ては大日本帝國の威信にかけて行われる一大建艦計画であった。計画に於いて海軍は戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を主力とし、駆逐艦・砲艦各30隻、水雷艇35隻、工作艦15隻の建艦が始まった。これだけの艦艇を一度に建造するのは過去に無かった為、建造は五ヵ年計画が進み経済力が上がり始めた1897年3月から開始された。
そしてその翌月からは『愛国増税案』に伴う新税制が開始された。それは法人税や所得税・相続税・愛国税が新設された。愛国税とは臣民が生活する物に付けた税金である。食品と飲料(酒を除く)以外全てに付けられ、書籍・酒・煙草はその値段の一分、家具(1910年に電化製品も追加)が五分、家が一割(車輌と宝石類も1910年に追加)と、細かく税率が定められた。この税は臣民に『消費物に加えた税』として[消費税]と呼ばれる事となった。これらの新税は「帝國発展の為」と臣民に受け取ってもらえ、無事に始まる事が出来た。これにより伊藤内閣の行った『帝國発展財政五ヵ年計画』は成功。財源は賠償金と連合艦隊の手に入れた財宝、そして税収入によって補われた。大日本帝國は欧米列強も驚く早さで発展したのである。
『五ヵ年計画』で国内を発展させるのも重要であるが、外交も国家にとって重要であった。まずは最大の支援を行ってくれた大英帝国への対応であった。大英帝国が新生中華連邦への対応を協議している最中、氾国家主席は「清時代までの条約は全て破棄する」と宣言した。この事態に欧米列強は大騒ぎとなった。大英帝国は駐日大使に状況説明を大日本帝國に求めるよう命じた。命令を受けた大使は早速首相官邸を訪ねた。大使が口を開くよりも先に、伊藤総理は説明を行った。「中華連邦は我が国と同じように中英安全保障条約を結ぶ用意があると言っています。更に香港はそのまま大英帝国領で良いと言ってます。そして満州地方に於ける新国家満州帝國の建設に三割の出資を認めるみたいです。」
駐日大使は説明を聞くと喜んだ。何せ安保条約を結ぶ事で大手を振って貿易ができ、良港の香港もそのまま、資源豊富な満州帝國へ出資出来るのである。しかし伊藤総理は言葉を続けた。「その代わりポルトガル王国とフランス共和国がそれぞれ支配するマカオと広州を取り戻せる様に、貴国政府から圧力を加えてほしいとの事です。」
これを聞いた大使は「それくらいならお安いことです。」と答えると喜んで帰っていった。その後アメリカ合衆国大使も訪ねてきた。伊藤総理はアメリカ大使にこう言った。
「貴国の先の戦争に於ける支援は大きな助けとなりました。中華連邦政府も貴国との関係は良好にしたいと言っており、協議した結果満州帝國建国に一割の出資を認めるとの事です。」
満州帝國建国に出資出来ると分かると大使は喜んだ。伊藤総理はそれだけ言うと、大使を帰らせた。満州帝國への出資比率は大日本帝國・中華連邦・大英帝国がそれぞれ三割、アメリカ合衆国が一割となる。仁川条約にも明記されていた満州地方への新国家建国だが、何故建国するのかと言う疑問が出てくる。それは至って単純であった。ロシア帝國との間に緩衝地帯を設ける為である。長年ロシア帝國の脅威に中華連邦はさらされていた。そこで大日本帝國は満州帝國に人造国家を建国して、その国に中立を宣言させる事を提案。これを中華連邦は受け入れ、共同で国家建国へ動き出したのである。しかし英米への対価として何かしら必要と考え、両国の出資を認めるに至ったのである。
1896年
9月8日に中華連邦と大英帝国は『中英安全保障条約』を締結。大日本帝國はそれを見届けると大英帝国と今後の世界戦略について大使を通じて会談を何度も行い、そして1897年6月5日に大英帝国帝都ロンドンにて史上初の日英首脳会談が実現した。この首脳会談で両国はロシア帝國の南下政策及び海洋進出を共通の脅威と宣言した。これにより両国は『日英安全保障条約』締結を決定。そして両国議会が条約締結を承認した事により、同年12月5日に大日本帝國帝都東京で行われた第2回日英首脳会談で『日英安全保障条約』が調印され、日英同盟が成立。これにより両国は自由貿易を行う事となり大日本帝國は、中華連邦に次いで大英帝国へ三○式速射砲の対外取引許可生産を認めた。日中英がそれぞれ同等の条件で条約を結んだ事で三国間の連携は深まり、三国間での貿易量は増大した。更に大英帝国がスエズ運河通行料を大日本帝國と中華連邦のみ三割引きにすると発表。スエズ運河は1985年に大英帝国が大規模な買収工作を行い、スエズ運河は大英帝国の物となった。この決定により貿易量は更に上昇する事となった。
1900年
5月1日、三ヶ国の共同出資による計画が実を結び満州帝國の建国記念式典が帝都長春(1925年に新京と改名)で、三ヶ国首脳が出席して行われた。アメリカ合衆国も出資を認められていたが、僅か一割だけであった為貿易を行える事を条件として、出資を辞退した。これにより日中英三ヶ国の出資となった。満州帝國初代女帝には愛親覚羅心安が就いた。心安女帝は西太后女帝の姪で氾師団長の武装蜂起にいち早く賛同した、清朝の裏切り者である。しかし中華連邦や大日本帝國・大英帝国にとっては要人である。人造国家建国に選ばれた国家体制は『立憲君主制国家』であった。中華連邦は氾国家主席が終身制にするか任期制にするかを示していない為、何とも言えないが大日本帝國と大英帝国が立憲君主制国家の為このようになった。そこで君主として親中・親日、大英帝国にも特に敵対心を抱いておらず尚且つ清朝の裏切り者である、愛親覚羅心安が選ばれたのである。心安女帝は三ヶ国の思惑で対ロシア帝國の緩衝国家として建国される状況を静かに受け入れ、女帝に即位する事を選んだ。建国記念式典終了後にそのまま『日満・中満・英満安全保障条約』が締結された。三ヶ国議会は既に条約締結を承認しており、満州帝國も翌日の初議会で事後承諾と言う形で条約締結を承認した。これにより強力な日英中満四ヶ国同盟が成立。後に連合国の中核を担う重要な国家群となる。この満州帝國を一部を除く欧米列強は承認し、大使館を設置し国交を樹立した。満州帝國を承認しなかったのはロシア帝國とフランス共和国、そしてドイツ帝國であった。日清戦争後[干渉する理由が無く]ただ事態を静観していた三ヶ国は、満州帝國成立後遂に声を張り上げた。
「曰く、満州地方は元来ロシア帝國領であった。曰く、それを清は強奪し新しく成立した中華連邦はそれを引き継ぎ有ろう事か日中英の三ヶ国で人造国家を成立させた。曰く、満州地方はロシア帝國領である為、彼の地はロシア帝國に返還されて当然である。曰く、これは世界が認める当然の行為であり、歴史的にも正当な権利である。曰く、その為日中英満が満州地方の各種資源を[不当に搾取]するのは断じて許されない行為である。」
これが大日本帝國が[三国干渉]と断言した、露仏独による『三ヶ国共同声明』である。これが5月3日に世界中へと伝えられた。しかしこの声明を各国は全く相手にしなかった。当然であろう。満州地方がロシア帝國領であった事実は無いのである。更にその2日後に満州帝國は中立宣言を行った。これによりロシア帝國は自分から手が出せなくなった。満州帝國が中立を宣言した為、向こうから手を出してくる可能性は無く、かと言ってこちらから手を出せば世界で孤立するのは目に見えている。ロシア帝國は八方塞がりとなった。しかしロシア帝國とてただ黙って見ているだけでは無かった。[昨年10月に全線開通した]シベリア鉄道を使って陸軍師団の増強を行い始めた。更にはウラジオストク軍港の要塞化を始めた。艦艇の派遣はさすがに行われなかったが大規模な増強を行った。シベリア鉄道を使って増強された陸軍は満州帝國との国境線沿いに配備され、着々と準備が行われた。これに日中満は対露仏独戦に備えて準備を開始した。黒竜江(アムール川)を挟んで黒河市・同江市を要塞地帯としてロシア帝國軍を迎え撃つ準備が成された。大日本帝國・中華連邦・満州帝國は陸軍の配備を始め、大英帝国は軍の編成を戦時体制への移行を開始した。それだけに留まらず大英帝国はロシア帝國と敵対する、イタリア王国とオランダ王国との安全保障条約締結へ向けて動きだした。これは所謂『対露大同盟』と言われる国際同盟として1901年9月18日に英伊・英蘭安全保障条約締結、同年11月3日に大日本帝國・中華連邦・満州帝國もそれぞれイタリア王国とオランダ王国と安全保障条約を結んだ。この事態にロシア帝國は包囲網が形成されつつあるとの判断を下し、露仏独三国同盟締結へ向けて動きだした。フランス共和国とドイツ帝國はロシア帝國と共通の危機感に賛同し、三国同盟締結を受け入れる事を表面。1902年12月9日に露仏独三国同盟が締結された。これを受け大日本帝國内閣総理大臣桂静香はロシア帝國帝都サンクトペテルブルク・フランス共和国首都パリ・ドイツ帝國帝都ベルリンが大まかに一直線上にある事から、悪の枢軸・枢軸国側と呼んで批判した。そして大日本帝國以下中満英伊蘭の同盟国を連合国側と呼び、自らの陣営の立場を帝國議会で力説した。この桂総理の演説が各陣営の区分となった。しかしこの演説は連合国側の結束を強めたが、同時に枢軸国側の反感と結束を強める結果を出した。それはロシア帝國のウラジオストク艦隊増強を表明した事により、連合国側はロシア帝國が本気だと知った。そして1903年2月1日にバルチック艦隊がウラジオストクへ向けて出港。2月13日にバルチック艦隊はドーバー海峡に差し掛かったが、大英帝国海軍とフランス海軍の睨み合いにより通行が出来なくなった。連合国側と枢軸国側は確かに対立していたが、未だ国交は結んでおり明確な敵国では無かった。ロシア帝國はフランス共和国にはドーバー海峡通過を知らせたが、大英帝国には知らせなかった。これを知った大英帝国は本国艦隊をドーバー海峡に派遣。これに対してフランス共和国も艦隊を派遣した為、両艦隊はドーバー海峡で睨み合う事となった。そこをバルチック艦隊が通過しようとしたが、無理に通過しようとすれば大英帝国を刺激しかねないと、バルチック艦隊は北回りでグレートブリテン島を回り込む航路を選んだ。バルチック艦隊(史実と同じくバルト海艦隊から戦艦等を引き抜いて編制した艦隊である。正式名は第二太平洋艦隊)の出港は英伊蘭各国を震撼させ、その知らせはシベリア鉄道を使ってアジアへ伝えられた。シベリア鉄道側も対立国とは言え国交も結ばれている為、乗車を断る事は出来なかった。それに加えシベリア鉄道は民営鉄道の為、金さえ出せば1輌丸々貸し切りにしてくれた。代表して大英帝国が派遣した密使はバルチック艦隊出港の情報をアジア三国へもたらした。更にその密使はドーバー海峡を封鎖し、マラッカ海峡に至っては客船を数隻沈めて、通過出来ないようにすると伝えた。マラッカ海峡を客船で封鎖出来るか分からないが、それを理由にニコバル諸島で足留めすると詳しく教えられた。三ヶ国それぞれに同じ内容を伝えると密使はシベリア鉄道を使って帰国した。この情報を受けて大日本帝國は三ヶ国での協議を呼び掛け3月3日に西海道平壌にて首脳会談が行われた。そこで桂総理はバルチック艦隊を[奇襲撃滅]する事を宣言した。これに中華連邦と満州帝國は無条件で賛同した。何せ中華連邦海軍は日清戦争で全滅し再建中であり、満州帝國に至っては海軍すら整備されておらず大日本帝國に艦艇建造の依頼を出した所である。そこで唯一の外洋海軍である大日本帝國海軍連合艦隊の出番となった。賛同を得られた桂総理はシベリア鉄道を使って密使を派遣。バルチック艦隊奇襲撃滅によって[対枢軸国側開戦]の情報が欧州連合国側へ伝えられた。英伊蘭へ情報が伝えられた事で、大英帝国の呼び掛けによりロンドンで首脳会談が開かれた。そこで三ヶ国は開戦を承認。バルチック艦隊撃滅の情報が伝えられると枢軸国側へ宣戦布告する事を決定した。これにより更にマラッカ海峡に於ける作戦が重要になり、シンガポールの海軍東洋艦隊ふ激励文が飛ばされた。三ヶ国は一種の掛けを行った事になる。この時期大日本帝國海軍連合艦隊がバルチック艦隊に勝利出来るか分からない。しかし同盟国を信用するのが義理と三ヶ国は考え開戦を承認した。これが3月20日の事である。そして再び大英帝国は密使をシベリア鉄道を使って派遣。シベリア鉄道には毎月貸し切り車輌が走る事となった。アジアへ辿り着いた密使は開戦賛同を伝え、幸運を祈ると言った。桂総理は開戦の目処が付いたとして、希女帝陛下に御前会議の召集を進言。希女帝陛下はそれを受け入れ4月1日に、御前会議が帝居で行われた。その御前会議に於いてバルチック艦隊のウラジオストク回航は、帝國の安全保障を揺るがす一大事であると結論付け、先制攻撃によるバルチック艦隊奇襲撃滅が決定された。これに加え大本営の設置も桂総理は提案したが、希女帝陛下の反対により見送られた。しかしこの御前会議で開戦は決定事項と正式な結論に至り、希女帝陛下の言葉で御前会議は終わった。これにより大日本帝國は戦時体制へ移行した。他の連合国各国には開戦の一番槍は連合艦隊が放つと伝えられており、各国の承認は取れていた。各国首脳に「連合艦隊がバルチック艦隊に勝てるのか」と言う不安はあったが、黄海海戦の時と同じように大勝利してくれると連合艦隊の強運に賭ける事にした。
5月10日
大英帝国海軍東洋艦隊からの密使が、大日本帝國帝都東京へとやってきた。「予定通りマラッカ海峡は封鎖され、バルチック艦隊はニコバル基地に停泊させた。」と言う内容であった。桂総理はこれを受けて御前会議で決定された通り、連合艦隊に対して出撃命令を下した。これは大元帥である希女帝陛下の承認の下で行われる、[上級元帥]としての連合艦隊に対する命令であった。上級元帥は内閣総理大臣のみがなれる帝軍の[高等司令官]であり、女帝陛下がなれる大元帥は帝軍の最高司令官である。上級元帥である桂総理の命令により連合艦隊司令長官東郷麻美大将は出撃命令を下し、自身も旗艦三笠に乗り込み大英帝国領香港へ向けて出撃した。前回の御前会議後連合艦隊司令部は軍令部と共に、バルチック艦隊奇襲撃滅作戦について話し合った。北洋艦隊とは全く格が違うバルチック艦隊が相手となり、軍令部で行われた作戦会議は大いに紛糾した。しかし目標がはっきりとしている為、作戦は何とか決まった。連合艦隊の主力を佐世保に集結させ大英帝国東洋艦隊からの知らせを受けて出撃、沖縄・高雄を経て大英帝国領香港に寄港。バルチック艦隊がマラッカ海峡を通過するのと同じ時期に香港を出港、南支那海でバルチック艦隊を奇襲撃滅する。このように決まった。この作戦で問題は仏領インドシナに駐留するフランス共和国海軍極東艦隊とウラジオストク艦隊である。極東艦隊については軽巡洋艦主体の小規模艦隊であり、出撃してきても素早く撃滅出来るとし更には東洋艦隊と中華連邦陸軍がインドシナへの牽制をしている為、問題なしとなった。ウラジオストク艦隊については後で説明をし、桂総理からの命令により連合艦隊は出撃。主力総出撃となった連合艦隊は順調に沖縄・高雄を経て、5月19日に無事香港へ寄港。日英同盟の観点から連合艦隊は最優先で補給を受けれた。連合艦隊初の長期海外駐留である為、主力不在の帝國本土にウラジオストク艦隊が攻撃してくる事が危惧された。そこで航続距離の理由から出撃出来なかった装甲巡洋艦・駆逐艦及び水雷艇で[護衛艦隊]が臨時編成された。これは本土と西海道間の輸送路を護衛するのが主任務となる。この護衛艦隊は[今回の世界大戦]後に解散したが1906年の『帝國国防方針』により、連合艦隊の妹分として常置される事となった連合艦隊はバルチック艦隊撃滅の為に猛訓練を開始した。その訓練は凄まじく見学していた大英帝国海軍少尉を、驚かせるのに十分であった。少尉は密使として情報をもたらし連合艦隊出撃に、香港まで同乗させて来たのである。少尉は「この猛訓練こそが大日本帝國海軍連合艦隊の底力だ」と本国に帰還した時に報告した。そのような猛訓練と休養が続くなか、6月3日にバルチック艦隊出港の報がもたされた。正確には3日前にニコバル基地を出港したとの情報の為、東郷司令長官は直ちに出撃命令を下した。そして2日後の6月5日大日本帝國海軍連合艦隊旗艦三笠の砲撃により、『南支那海海戦』が勃発した。突然の砲撃にバルチック艦隊は大混乱となった。艦影を見付けてはいたが仏極東艦隊だと、バルチック艦隊は思い込んでいた。そこへ突然の砲撃である。バルチック艦隊はそれでも極東艦隊が血迷ったと受け取った。それに加えバルチック艦隊はバルト海からの長期航海と、ニコバル基地での[接待]により士気が著しく低下していた。マラッカ海峡通過が不可能との知らせを東洋艦隊から受けたバルチック艦隊は、ニコバル基地への寄港を奨められた。
「マラッカ海峡で一番狭い[クイーン海峡]で発生した客船と輸送船の[多重衝突事故]により、海峡を安全に通せる保障がありません。船は出来る限り早く撤去するのでそれまでニコバル基地でお待ち下さい。」と、東洋艦隊からの連絡官はバルチック艦隊に伝えた。これを受けてバルチック艦隊司令長官ユーリ・ポワン大将はニコバル基地へと進路を変えた。そこでバルチック艦隊が受けたのは酒に料理に男と言う極上の接待であった。この接待は乗組員全員に平等に行われ、バルチック艦隊を操って来た女達は、これでもかと言う接待を受けた事により完全に骨抜きにされた。この接待はバルチック艦隊がニコバル基地に滞在する間、延々と続けられたポワン司令長官も男と久し振りに楽しんだ為に目的を忘れかけた。この間バルチック艦隊は接待を楽しんだ為、[訓練を行っていなかった]。その楽しんでいる所へ東洋艦隊から「船の撤去が終わった」との連絡が伝えられた。これを受けポワン司令長官は思いを断ち切るかのように全艦に出撃命令を下した。その出撃命令に乗組員は大いに不満を漏らした。誰もがニコバル基地から離れたく無かった。艦隊司令部もその例外では無く、大いに不満を爆発させたが最終的には渋々と出港準備を始めた。そんな状況ではバルチック艦隊の練度は最低であり、とても海戦を行える程は無かった。連合艦隊からの砲撃もバルチック艦隊の乗組員達は何も警戒せずに「誤射したのだろう」と思い訓練通りの対応をしなかった。そこにバルチック艦隊の弱みが出た。長期航海は士気を著しく低下させる為寄港の回数は多くするが、滞在期間は短くする事をロシア帝國海軍総司令部は決めていた。しかしマラッカ海峡での事故によりバルチック艦隊は、遂に超長期寄港を行ってしまった。これにより海軍総司令部が恐れていた通りバルチック艦隊の士気は著しく低下し、艦隊全体が所謂無気力感に包まれていた。そこへ何度も言うように突然の砲撃である。慌てふためく司令部要員をポワン司令長官は一喝し、艦長へ戦闘命令を下した。これにより旗艦クニャージスワロフは漸く砲撃を開始し、バルチック艦隊全艦も旗艦に続いて砲撃を開始した。連合艦隊三笠の砲撃から3分後の事であった。しかし反撃を開始したバルチック艦隊であったがその砲撃精度は余りにも御粗末であり、その大多数の砲弾は海面を叩きつけただけであった。それをポワン司令長官は苦虫を噛み潰した表情で見つめていた。余りにも砲弾精度が連合艦隊と全く違う。連合艦隊の砲撃は面白いように命中していたが、バルチック艦隊の砲撃は先に述べた通りであった。ここに至りポワン司令長官は自艦隊が受けた接待が、大英帝国の謀略であった事に気付いた。あのニコバル基地で受けた盛大な接待は骨抜きにするものだと。そしてマラッカ海峡に於ける事故も東洋艦隊の自作自演だったのでは無いか、とポワン司令長官は考えた。そしてその連絡は連合艦隊へ伝えられ[台湾か香港]で訓練を行いながら待機しており、ニコバル基地を出港した事を知らされ南支那海で待ち伏せしたのでは無いか……
悪い考えが次々と浮かんでくる。そんな中でも連合艦隊の砲撃は次々と命中し、クニャージスワロフの後方を航行していたインペラトールアレクサンドリア三世が轟沈。[火災]が発生し戦闘能力の低下していた所へ砲弾が集中し、遂に彼女は力尽きた。連合艦隊は会敵した時は遠距離から砲撃を加え、バルチック艦隊に接近。同航戦に於いて殲滅する作戦であった。当初連合艦隊司令部は[丁字戦法]を採用しようとしたがこの戦法は、敵の戦意が低く逃走を図ればそれを防ぐ事が出来ない。超長期航海と極上接待を受けた後のバルチック艦隊は戦意が低いと判断して同航戦を採用したのである。一方的な砲撃にバルチック艦隊は為す術もなく、次々と撃沈されていく事となった。そして海戦勃発から2時間後、南支那海に君臨するのは連合艦隊のみとなった。バルチック艦隊は主力戦艦は旗艦クニャージスワロフを含めた2隻が拿捕され、残りの主力戦艦は全て撃沈された。巡洋艦も大多数が撃沈され、大破した4隻は2隻が拿捕され残る2隻は火災と浸水が激しく処分された。駆逐艦は撃沈されるかその速力を活かしての無傷であった為、生き残った艦艇は輸送船と工作艦を[見捨てて]マラッカ海峡方面へ逃走した。連合艦隊は東郷司令長官の命令によりバルチック艦隊乗組員救助と輸送船・工作艦の拿捕を優先した為見逃した。この一方的な大勝利は大日本帝國海軍連合艦隊の名を世界に轟かせた。主力艦の全てが撃沈か拿捕であり、自艦隊の被害は駆逐艦3隻の撃沈のみで主力艦の被害は無かった。この海戦史上稀にみる完全勝利は、直ぐ様世界各国へ驚きと共に伝えられた。世界はバルチック艦隊への奇襲にも驚いたが、連合艦隊がバルチック艦隊を壊滅させた事にも大いに驚いた。世界最強と言われたバルチック艦隊を外洋海軍として生まれ変わったばかりの連合艦隊が壊滅させたのである。この知らせにロシア帝國ニコロス女帝は衝撃を受け、開戦命令・宣戦布告を下すと自室に引きこもってしまった。これによりロシア帝國は大日本帝國に宣戦布告。これを受けて大日本帝國以下連合国側は一斉に、枢軸国側に対して宣戦布告。ドイツ帝國とフランス共和国は慌てて連合国側に対して宣戦布告を行った。これにより1903年6月10日に人類史上初の世界規模での戦争『世界大戦』が勃発したのである。
お分りの通り日露戦争を所謂第一次世界大戦にしました。