日清戦争
日清戦争だけで長くなってしまいました。
詳しくし過ぎました、すいません。
これからもこんな感じで無駄に長いです。
物語が始まるまで暫しお待ちくださいませ。
1894年
大日本帝國陸軍第2・第4歩兵師団が、鴨緑江を渡河して来た清陸軍に対して攻撃を開始。河を渡り攻撃準備も出来ていない所へ、第2・第4歩兵師団の大砲部隊が砲撃を開始。大砲部隊は新型の二七式速射砲を装備。無駄に多い清陸軍の歩兵を長距離から[殲滅]する為に、開発された大日本帝國陸軍の新兵器である。口径は80ミリと当時の野砲としては大口径であるが、この二七式速射砲は恐るべき威力を見せ清陸軍を大混乱に陥れた。そこへ歩兵部隊が傾れ込み大混戦となったが、大日本帝國陸軍の勝利となった。清は侵攻部隊3個師団を開戦から僅か5時間で失ってしまった。第2・第4歩兵師団は補給を整えると、鴨緑江に展開した。これに加え大本営は第3歩兵師団を追加派遣し、清からの侵攻を完全に阻止する為の措置であった。一方海軍は前衛部隊として、連合艦隊第1艦隊第1遊撃隊を豊島沖に派遣していた。
開戦の翌日9月11日に清海軍の軍艦済遠と広乙を発見。『豊島沖海戦』が勃発した。第1遊撃隊司令官坪井佳美少将は指揮下の吉野・浪速・秋津洲に攻撃を命令。30分の海戦で清海軍は両軍艦を失い、第1遊撃隊は無傷の完全勝利であった。その後清兵の救助を行っていた第1遊撃隊は、清海軍の軍艦操江と高牆号と遭遇。坪井司令官は救助活動を優勢するも、見逃す訳にはいかないと判断。浪速艦長東郷麻美大佐に撃沈・拿捕の判断を一任し追尾を命じた。東郷艦長は臨検を行い、拿捕しようと決めた。この時清海軍の輸送船高牆号は陸軍1個小隊を輸送中であり、しかも大英帝国商船旗を掲揚していた。東郷艦長は操江への砲撃を命令。僅か1発で操江は大破。東郷艦長は操江を合流した吉野と秋津洲に任せ、高牆号へ接近した。高牆号に追い付いた浪速は東郷艦長直々に高牆号へ交渉を開始。しかし数時間に及ぶ交渉は決裂し、東郷艦長は高牆号の拿捕を断念して撃沈を命令。1回の砲撃であったが、高牆号は沈没。その後大英帝国船員7人を救助、清兵90人を捕虜にした。大本営海軍部は『豊島沖海戦』の完全勝利を世界中に発表。しかしこの高牆号撃沈には大英帝国内で、一時反日世論が巻き起こった。しかし大英帝国政府が大日本帝國寄りだった事に加え、タイムズ紙が国際法学者へ取材をおこない国際法に則った処置である事が伝わると、大英帝国内の反日世論は一気に沈静化した。大英帝国が大日本帝國の行動を支持した事は世界に伝わり、大日本帝國への見る目が変わった。大英帝国は大日本帝國の支援を発表し、大量の大日本帝國国債を購入した。更には『日英通商航海条約』の正式調印を発表。慌てた大日本帝國は駐英大使を調印式に参加させ、9月20日に無事ビッグベンで調印された。これにより悲願の対等な立場での条約締結を成し遂げた。
大英帝国は何故このような事をしたのか?
それは大英帝国の大日本帝國に対する好意と恐れがあったからである。日本人は非常に勤勉であり、まじめであり、素直である。江戸時代から今迄の貿易で数の間違えや、遅れは全く無かった。そして感性が豊かで文化水準が高く、臣民1人1人が毎日を楽しく過ごしていた。これが大日本帝國への好意である。そして恐れも大いにあった。かつて大日本帝國が『海外渡航禁止令』を廃止し開国して間もない頃、大英帝国商人が日本へ訪れた時に驚くべき光景を目の当たりにした。一般庶民が庶民が商人相手に算盤を使い値段交渉を行っていたのである。しかも大英帝国陸軍軍人もその商人と共にその光景を目撃した。そしてその軍人は呟いた。
「この国は絶対に植民地に出来ない。必ず発展して我が国を追い越す日が来るはず。今は何とも言えないけど何時の日かこの国と同盟を結べる日が来るはず。」後に大英帝国総理となるスカーレットチャーチル少尉が残した名言である。更にはこのような名言もある。「彼女達は貧しい、しかし高貴だ。」
2つの名言が大日本帝國に対する恐れと偉大さを表した言葉であった。植民地に対して教育を行わないのが、植民地運営の鉄則である。それにも関わらず文化交流をしない事実上の鎖国を行っていた国が、文明国を自負する欧米列強よりも識字率が高かったのである。その時の識字率はロンドンが3割、ワシントンが2割弱なのに対し江戸は8割を超えていた。子供にも等しく教育を行っていた事に欧米列強は驚いた。教育は金持ちだけの特権と欧米人は考えていたのである。これ1つ取っても全く考え方が違った。大英帝国は確かに清の分配案には参加したが、大日本帝國と朝鮮半島の分配案には参加していなかった。朝鮮半島併合も自国と全く違うやり方であった為に興味を示した程である。そして植民地では無く大日本帝國領化と分かると称賛した。しかも大英帝国はこの日清戦争を大日本帝國が勝利、しかも北京占領による大勝利だと考えていた。清の実体は脆く『眠れる獅子』と大英帝国は呼んだ。清が最強と豪語する『北洋艦隊』も訓練は僅かばかりしか行っていない為、大日本帝國海軍連合艦隊に負けると結論付けた。連合艦隊は日夜猛訓練に励んでおり、北洋艦隊との練度差は古参兵と新兵程にまで差が開いていた。陸軍も大日本帝國は国産の新型速射砲を開発したとの情報もあり(これは鴨緑江会戦で実戦投入されたと大英帝国は後に知った)清陸軍を上回っていると見られた。確かに総兵力は清の方が桁が1つ多いが質は完全に、大日本帝國が上と見て陸軍も清が負けると見ていた。
数多くの情報と研究者との会議で大英帝国は、大日本帝國の大勝利と結論付けた。そして勝利してもらう為に大日本帝國への支援を発表し、国債を大量に購入したのである。更に国債購入の前に大英帝国はある宣言を行った。
「今回の清による朝鮮半島侵攻は許されざる暴挙である。大日本帝國は大韓帝国に正式な外交を行い同国を併合、つまりは大日本帝國領としたのである。これは我が国の植民地政策とは全く違うもので、対等な自国領の1部として朝鮮半島を迎え入れたのである。大日本帝國と大韓帝国が併合についての協議を行っている時、清は何も行動をおこさなかった。大韓帝国の大正妃女帝陛下が行った『併合宣言』は我が国にも届いている。世界初の国家併合を世界は静かに了承したのである。にも関わらず清は『大韓帝国併合条約』調印が終わった後から騒ぎ始めた。自分勝手にも程がある。そして清は朝鮮半島に対して突如として侵攻したのである。これは明らかな清による『侵略戦争』であり、大日本帝國は被害者である。我が大英帝国はこの『日清戦争』を清による『侵略戦争』と結論付け、大日本帝國を支援する事を宣言する。まずは大日本帝國の戦時国債を無条件で購入し続ける事を約束する。そして清に対して支援を行おうとする国が分かれば『あらゆる手を使って』それを阻止する。侵略者に協力する国も侵略者である。我が国と大日本帝國は同じ島国。西洋の島国は東洋の島国への支援を惜しまない。」
この宣言により欧米列強は態度を一変させた。大英帝国に続いて何とアメリカ合衆国が、清を非難する大統領演説を行ったのである。アメリカ合衆国はロシア帝國と共に清の勝利を望む筆頭であった。望厚条約で大英帝国と同等の条件で条約を締結したが、所詮大英帝国の二番煎じでしか無かった。そこで此迄の方針を180度転換し清を非難して、大日本帝國を支援する事を決定。大英帝国と同じ様に現在の清に於ける権益を失うが清が負ければ、新たな権益を手に入れる事が出来ると『鴨緑江会戦』と『豊島沖海戦』で確信した。大英帝国の様に清が『新たな国に生まれ変わる』とは思っていないが、それに匹敵する変化があると思っていた。アメリカ合衆国の方針転換により欧米列強は、次々と清に対して侵略を非難した。しかしフランスとロシア帝國は清の勝利による共倒れを信じていた。両国は分割するパイが増えたとして、分割案の協議を深めた。
露仏を除く欧米列強の方針転換に清の考えていた『長期戦による欧米列強の介入』という目論見は脆くも崩れ去った。そして大日本帝國の考えていた『清による侵略戦争との印象を欧米列強にもってもらい、この戦争の大義名分を証明してもらう。』と言う目論見は見事に的中した。この事態に清は長期戦から短期決戦へと方針を変え、北洋艦隊に対して『大日本帝國海軍連合艦隊を殲滅せよ』との命令を下した。そして陸軍に対しても『朝鮮半島仁川に強襲上陸せよ』との無謀とも言える命令を下した。この命令に陸軍は上陸部隊として第25歩兵師団を編成。北洋艦隊の母港威海衛で輸送船40隻に乗り込んだ。そして1894年9月25日に北洋艦隊は仁川へ向けて出撃した。大英帝国の宣言から1週間後の事であった。これに対して連合艦隊は黄海に待機していた。威海衛で出撃準備を始めた事は大日本帝國陸軍中央特殊情報部(中特情)の諜報員から情報を得ていた。総兵力で清に劣る大日本帝國は情報収集を総力を挙げて行っていた。大本営でも情報収集は最優先事項として決定されており、中特情は開戦前から情報収集を行っていた。その諜報員の1人が『北洋艦隊出撃準備開始』との情報をもたらした。これは直ぐ様大本営へと届けられ希女帝陛下は、「海軍の総力を挙げて北洋艦隊を撃滅せよ。」との命令を下した。これを受け海軍は連合艦隊に黄海への出撃を命令。対馬に待機していた連合艦隊は黄海へ向けて出撃。これが9月20日の事である。清の北洋艦隊を撃滅するしかも絶対に出会うと確信している連合艦隊と、仁川まで陸軍を護衛するのが目的で連合艦隊とはまだ決戦をしないと思っている北洋艦隊。両者の気合いは雲泥の差であった。そして両艦隊は運命の1894年9月27日を迎えた。
最初に敵影を発見したのは北洋艦隊であった。排煙を発見したのである。旗艦定遠の艦長は「連合艦隊の可能性もあります。」と進言するも、司令長官丁汝美中将は「輸送船」と断言した。しかしなおも連合艦隊だと食らい付く艦長を丁司令長官は射殺。「艦長を兼任する」と静かに言った。しかし30分後、艦長が正しかった事が判明する。北洋艦隊は突如として砲撃を受けた。連合艦隊は司令長官伊藤貴子中将率いる本隊が単縦陣で突撃。その前衛は『豊島沖海戦』で功績をあげた第1遊撃隊が突撃。ここに日清戦争に於ける最初で最後の大艦隊決戦『黄海海戦』が勃発した。海戦は連合艦隊旗艦松島の砲撃から始まった。主砲である32センチ砲は北洋艦隊の定遠・鎮遠のものよりも巨乳……巨砲であった。連合艦隊に所属する彼女達松島級の所謂『三景艦』は『連装砲2基』の32センチ砲を搭載していた。その彼女達の巨砲は高い命中率を誇り、北洋艦隊に大きな被害を与えていった。北洋艦隊も初期の混乱が収まり、冷静になって反撃を開始。連合艦隊に対して多数の命中弾を出し始めた。しかし連合艦隊の船足は止まらなかった。確かに被害は大きかったがそれに増して、北洋艦隊は大量の命中弾を受けた。旗艦定遠は大破。艦橋に橋立の砲弾が命中し、丁司令長官以下艦隊司令部は全滅。水兵達は艦を見捨てて海へ飛び込んだ為に、定遠は無人漂流艦となった。その後も海戦は続いたが北洋艦隊は定遠を残して全滅、定遠は浪速によって拿捕された。連合艦隊の被害は魚雷艇5隻が撃沈されたが、三景艦を含めた主力艦は大破若しくは中破で済んだ。当初の欧米列強(大英帝国を除く)の予想とは全く異なる結果となった。大英帝国は連合艦隊の完全勝利と予想していた。他の欧米列強は確かに連合艦隊が勝利するとは思っていた。しかしここまで完全な勝利とは思っていなかった。更には旗艦定遠を拿捕したのも予想外であった。この戦果を大本営海軍部は国内のみならず、海外へ向けても大々的に発表した。『豊島沖海戦』の勝利と今回の『黄海海戦』の大勝利は欧米列強の態度を決定的にし連合艦隊の名を世界に轟かせた。
大英帝国は国債を買うだけで無く、直接の物資支援を始めた。それは大日本帝國の必要とする物資を大英帝国は世界に点在する植民地から最優先で輸出し始めた。しかも低価格で更には日本人の真面目さを信用して後払いによる輸出を始めた。アメリカ合衆国も大日本帝國への正式支援を表明。物資の無償提供を行うと宣言した。清は益々追い込まれた。虎の子の北洋艦隊を送り出したが、連合艦隊により全滅。清海軍は消滅し海上からの侵攻を食い止める手段が無くなった。清は確かにもう1つ艦隊(南洋艦隊・清海軍は北洋と南洋の2個艦隊から成る)を保有していたが、北洋艦隊に吸収させた為に海軍を一気に失ってしまった。上陸部隊を確実に届ける為に統合したのが裏目に出てしまった。
海戦から2日後の9月29日。輸送船40隻がひっそりと威海衛へ入港した。連合艦隊は無傷で逃走する輸送船団を完全包囲。全船を拿捕しようと考えていたのである。そして伊藤司令長官は輸送船団の最先任船長と陸軍第25歩兵師団師団長と直接交渉を行った。船長と師団長は拿捕を拒否し、代わりに財宝を提供すると言った。伊藤司令長官は不思議に思い、何故そんな物があるのか尋ねた。すると師団長は朝鮮半島で物資を購入する為だと答えた。驚いた事に第25歩兵師団は捨駒として送り込まれようとしていたのである。持っていく物資が無くなればそれを使って購入するように、陸軍司令部から命令を受けていたと師団長は言った。上陸に驚いた大日本帝國陸軍は鴨緑江から後退して上陸部隊攻撃を行う、と清陸軍司令部は考えていた。そこへ再び鴨緑江を越えて侵攻する計画だったと師団長は作戦計画を全て話した。そしてその作戦を行う為に出撃したが北洋艦隊は全滅、逃走している所を完全包囲されたと最先任船長は答えた。そこで捨駒にしようとした国に復讐しようと、これを機会に大日本帝國に協力すると師団長は言った。その為財宝を差し出すんだと、最先任船長は言った。伊藤司令長官はそれを受け入れ、財宝を連合艦隊各艦へ搭載した。そして伊藤司令長官は師団長に「健闘を祈ります」と言い、艦隊司令部要員が敬礼をして連合艦隊は帰国した。そして師団長は約束通り9月30日に武装蜂起。第25歩兵師団は仁川上陸の為に新編成された部隊であった為、清陸軍最新鋭の兵器が配備されていた。清陸軍最強師団が国内で反乱を起した為清は大騒ぎとなった。師団長の氾永樹少将は清全土へ向けて演説を行った。
「私達はこの腐り切った祖国をもう一度、真面目な国家にするべく立ち上がった。世界が認めた朝鮮半島併合を自国の思い通りにいかないと駄々を捏ね、無理やり朝鮮半島へ陸軍を侵攻させ祖国を戦争へ巻き込んだのは、西太后女帝である。全てはこの悪女が原因である。しかも欧米列強から侵略戦争と非難された。にも関わらず西太后は軍を引き揚げる命令を出すところか、私達を朝鮮半島の仁川へ上陸させようとした。危うく私達は兵力の整った大日本帝國陸軍の駐留している朝鮮半島へ捨てられそうになったが、連合艦隊が北洋艦隊を『全滅してくれたお陰で』私達は助かったのです。大日本帝國軍人は非常に淑女で、私達への対応も丁寧でありました。そこで死なずに済んだ私達は、祖国を変えようとしたのです。清国民の皆さん!!今こそ立ち上がる時です!!私達と一緒に新しい国をつくりましょう!!」
後にこれは『武装蜂起宣言』と呼ばれる事になる。この演説は僅か1週間で清全土に広まり各地の陸軍が賛同し、清国内は清朝側と氾少将側に二分された。これを好機と見た大本営は大日本帝國軍の総力を挙げた『青島上陸作戦』と『鴨緑江渡河作戦』を計画。
そして1894年11月3日に連合艦隊に護衛されて乃木少将指揮の第8歩兵師団が上陸、同時に鴨緑江に展開していた第4・第3・第2歩兵師団が渡河を開始。二七式速射砲の支援により渡河は成功、侵攻を開始した。青島に於いて無事に上陸を果たした第8歩兵師団は、そのまま青島一帯を占領。2日後には増援部隊として第6・第7歩兵師団が送り込まれた。合計6個歩兵師団が侵攻したとの報告を受けた氾少将は、大日本帝國の勝利を確信した。そして清朝打倒の為に戦いを続ける事を誓った。11月20日に乃木少将と氾少将が合流し固い握手を交わした。清朝軍は各地で大日本帝國陸軍と氾少将軍に次々と敗北していた。
そして運命の12月8日、北京陥落。乃木少将指揮の第8歩兵師団が先陣を切って北京に突入。清朝軍も此処が正念場と壮絶な反撃を行い、乃木少将は左腕を失う大怪我を負いながらも最後まで指揮を採り続けた。そしてその気迫に負けるかの様に清朝軍は降伏。西太后女帝のいる帝居に乃木少将は突入すると、再び自らの軍刀で西太后女帝を斬殺。清の事実上の支配者が死んだ。北京陥落の知らせは清全土、大日本帝國に留まらず世界中に広まった。そして氾少将が政府関係者全員を殺害。自らを『中華連邦・国家主席』と名乗り、大日本帝國に対して停戦・講和を呼び掛けた。現場部隊は乃木少将の命令により即時停戦、その翌日に大本営が全軍に対して停戦命令を出した。余りにも鮮やかな敵国首都占領に、欧米列強は驚いた。開国を行い西洋技術を取り入れてから僅か数十年で敵国を占領したのである。しかも当初は誰もが負けると思っていた大日本帝國が、である。世界は驚き、そして恐れた。一番驚いたのは大日本帝國臣民彼女達自身であろう。あの大国清に勝利したのである。大日本帝國中が毎日お祭り騒ぎとなった。そして12月20日に大日本帝國西海道仁川市にて講和会議が開かれた。大日本帝國側は伊藤総理以下外務・大蔵両大臣が参加、中華連邦側からは氾永樹国家主席と外務大臣が参加。現中華連邦内閣は各局(省庁)の局長を大臣にして対応している。大日本帝國は大本営の停戦命令発令後に、中華連邦を国家として承認。欧米列強も驚きながらも中華連邦を承認した。特に大英帝国は予想が当たった事に喜び、早々と承認した。そして諸々の事項を決定すると『仁川条約』に両国は調印。日清戦争は大日本帝國の勝利に終わった。
『仁川条約
一、中華連邦は朝鮮半島を大日本帝國領と承認する。二、台湾・澎湖島を大日本帝國に割譲する。
三、中華連邦は大日本帝國に賠償金として5億円を支払う。
四、日中同盟を締結する。五、満州地方に新国家を建設する。』
以上が『仁川条約』の内容である。
世界はこの条約が勝者ばかりが特をする訳では無い、と言う事に気付いた。それは第4条の日中同盟を締結すると言う内容にあった。実はこの『仁川条約』調印の後直ぐに『日中安全保障条約』を調印した。これは世界初の相互防衛を明記した条約であった。何処かの誰か(仮想敵国)が大日本帝國若しくは中華連邦に侵攻した場合、もう一方の国が支援に駆け付けると言う内容であった。つまり勝者が敗者を助けにいく時があるのである。そして更に経済で両国は経済で連携する事も安保条約に明記されていた。中華連邦はただ負け損では無いのである。賠償金5億円は西太后女帝の隠し財宝が見付かったのである。その額が10億円であった為、両国は仲良く山分けし賠償金5億円となったのである。調印後大日本帝國は、台湾平定を開始した。台湾へは左腕を失った乃木少将指揮の第8歩兵師団の派遣を決定。1894年12月31日に台湾北部へ上陸、第8歩兵師団を快く出迎えた。朝鮮半島併合は台湾にも届いており、彼女達は喜んで大日本帝國領になる事を受け入れた。第8歩兵師団は一応台湾全土を回ったが抵抗は無かった為、1895年1月29日に大本営へ「台湾完全平定」と報告。これにより2月11日の建国記念日に台湾は大日本帝國台湾『府』として併合された。澎湖島も台湾府に含まれる。この台湾併合を見届け、3月1日大本営は解散した。