1620年〜1894年
日清戦争開戦までを。
この度は詳しく歴史を描きますので、本編までは長いです。
ご了承ください。
1620年2月
それは突然の悪夢であった。当時の文献では「空が波打つ」「空がひび割れる」との表現が多く見られた。世界を襲った悪夢、それは大規模太陽風の直撃であった。
『太陽風が直撃した場合、影響を与えるのは電離層である。しかしこの太陽風は地球に直撃するとその中心、中心核に大きな影響を与えた。それにより中心核の磁気が狂い、人類に猛威を振るった。これにより世界は大きな変化を迎える事になり、人類誕生以来の大変革を生じさせたのである。その異常事態は日本を発火点として世界各国で、男性の死が相次いだのである。それは江戸幕府の二代将軍徳川秀忠も例外では無く、原因不明の熱病に掛かり帰らぬ人となった。慌てたのは幕府に残された数人の男達である。日本全土で男が次々と死亡する異常事態にはっきりとした手が打てなかった。そこで力を発揮したのが、秀忠の正室である江であった。江は慌てふためく男達を一喝し、女性の登用を行った。これにより再び幕府はその機能を取り戻し、江が三代将軍に就任したのである。』
溝口香苗著
『太陽風に伴う変化』より抜粋
『江将軍は[男性収容令]を発令。これにより日本中の生き残った男達は淡路島へと集められ、子孫を残す為の生殖活動用として[保存]される事となった。これは日本だけに限らず世界各国も同じ事を行い、民族を残す為に力を入れた。しかし太陽風は男を死においやるだけで無く、男児の出生率も変化させた。男児の出生率は千分の一まで低下、世界は完全な女性社会へと転換したのである。』溝口香苗著
『江戸幕府歴代将軍政策』より抜粋
1622年9月
江将軍は日本人の海外流出を規制する為に『海外渡航禁止令』を発令。だが幕府財政を良好にする為に広く海外諸国との貿易を行う事を決定。横浜・下田・長崎・下関・神戸・上越・青森・函館・稚内を『戦略貿易港』に制定し、琉球王国や清・欧州各国との貿易を開始した。史実とは微妙に違う歴史を歩んだ日本は明治維新を経て、近代国家への発展を遂げた。大英帝国の開国交渉の末、日本は海外渡航禁止令を廃止。幕府は海外渡航禁止令を出し日本人の出国と外国人の入国を禁止していた。しかし貿易は大々的に世界各国と行っており、大英帝国も『栄光ある孤立』を保ちつつも日本との関係を深めた。それにより日本に行きたい、日本との関係を更に深めたいと思うのは当然である。これによりある程度の国力を有して日本は開国。『大使』の東京駐在だけを認め開国した。
1894年1月
伊藤由梨江内閣は、軍備増強と国力増大を決定する。そしてそれは衆議院議員総選挙で、伊藤総理率いる『立憲政友会』が『政権公約』として掲げて勝利。見事に与党第一党の座を守った。国家全体の技術力と生産力の向上が、軍事力増強に繋がると伊藤内閣は考えたのである。
1894年4月
甲午農民戦争(東学党の乱)が発生。大韓帝國女帝閔妃は反乱が全国に及ぶのを恐れ、清に対して陸軍の派遣を要請。清の袁世珍はそれを受け入れ、陸軍に出兵を命令。陸軍はそれを受け1個中隊(2000人)を、大韓帝國へ向けて出撃させた。そして清政府は天津条約を遵守し大日本帝國に対して陸軍1個中隊の派遣を通知した。慌てたのは大日本帝國である。
『大日本帝國は朝鮮半島を自国領化を目指しており、この甲午農民戦争に陸軍を派遣するか否か決めかねていた。そこへ清から出兵通知が届いた。伊藤内閣は慌てた。しかし冷静に考えて清に遅れてはならないと、陸軍の派遣を閣議決定した。時間を消耗するだけの帝國議会は後回しにし、直接希女帝陛下の御許可を頂戴すると陸軍1個旅団(8500人)の派遣を決定。朝鮮半島へ送り出した。だが日清両国が大韓帝國への出兵を決定し、両軍が朝鮮半島に進出する頃、東学党の勢いは衰え大韓帝國政府との間で和解が成立。結果的に出兵の意味は無くなり、両軍共に存在意義が無くなった。これにより清は長居は無用と、早々に軍を引き揚げた。清陸軍にとってはただの行軍訓練となった。清に対して大日本帝國は軍を引き揚げようとしなかった。派遣された第4歩兵旅団も帰国準備は行わず、東学党鎮圧と言う任務とは全く違う事をしようとしていた。第4歩兵旅団旅団長の乃木美樹少将は伊藤総理直々に、「朝鮮半島の大日本帝國領化の土台を作るように」との命令を受けていた。そこで乃木少将は大韓帝國女帝閔妃の母親である、大正妃を担ぎ上げる事にした。閔妃と大正妃の関係は親子であるにも関わらず最悪で、大正妃は権力の座から落とされ隠居させられていた。しかし大正妃は権力の座に返り咲きたいと言う強い野望があった。それは例え国が[国家として]の体を成していなくても、[1地方]でも良いから朝鮮半島を手中にしたいと言う、大正妃の切実な思いがあった。乃木少将は伊藤総理からの命令を成し遂げる為、旅団を大正妃の邸宅から離れた所に待機させると、単身で大正妃の説得を行った。』
大久間多美江著
『日清戦争〜発端〜』より抜粋
『「大日本帝國は貴国の併合、自国領化を目指しております。決して欧米諸国のような植民地にするのではありません。大日本帝國領として朝鮮半島を併合するのです。例をあげるとすれば帝國の[蝦夷道]と沖縄を見て頂ければ分かって頂けると思います。蝦夷道は多民族の支配地域で沖縄に至っては、紛れもない外国でした。しかし今はどうでしょう。両地域は今では完全に帝國領であり、一部の臣民は昔から両地域が日本であったと誤解しています。両地域の住民は紛れもない大日本帝國臣民であり、大日本帝國憲法を含め各種法律を適用され、女帝陛下の下に完全な平等を保障される臣民であります。決して差別はされておりません。そして大日本帝國は新たに朝鮮半島を帝國領として迎える用意があります。聞けば貴国は清の事実上の属国となっており、臣民の生活は困窮しているとの事。教育も上流階級しか受けられず庶民は、毎日を生き延びる為に必死になっていると聞いています。帝國は決してそのような事は致しません。[学校教育法]を制定し義務教育として[12年]、小中高と教育を行います。この義務教育は[子供に教育を受けさせる義務]と言い、[大日本帝國臣民の3大義務]の1つです。残りの2つは[勤労の義務]と[納税の義務]となります。帝國は世界で初めて教育を受ける事を臣民の義務としたのです。このような事は欧米列強も行っていません。当然ながら欧米の植民地では教育を行っていません。しかし帝國は[未来の発展には子供への投資が重要]と結論付け、教育に力を入れております。勿論貴国が帝國領となればこれは直ちに実行されます。確かに帝國は欧米列強に比べれば貧しく軍事力も弱いです。しかし国家の基盤である臣民を蔑ろにする事は断じてありません。教育は国防と同じくらい大切であります。先程も申した通り教育を始め朝鮮半島が帝國領となれば、内地と同様の社会基盤を整備する事を御約束します。社会基盤の重要性はあのローマ帝國が証明しています。帝國は蝦夷道と沖縄に対してしっかりと社会基盤を整備して来ました。如何でしょう。大日本帝國[西海道]の道知事として再び、権力の座に返り咲きませんでしょうか?勿論帝國の大まかな方針に逆らわない限り、自由に西海道を発展させて頂いて良いです。是非とも良い御返事を願います。」乃木少将の話は余りにも魅力的過ぎた。大正妃は細かい質問を乃木少将にすると、益々笑顔になった。そして乃木少将の提案を受け入れると答えたのである。それから数日が過ぎ、時に1894年7月7日。乃木少将の指揮する第4歩兵旅団が閔妃女帝の住む漢城王宮を攻撃。1国の最重要防衛地点を僅か1個旅団で攻め込んだのである。通常なら返り討ちにあい全滅するが、大日本帝國陸軍と大韓帝國陸軍では装備の性能が違った。大日本帝國陸軍の兵器は[全て国産]の最新式であり、一部改良実証試験も兼ねていた。それに対して大韓帝國陸軍は清の中古品ばかりであり、全く勝負にならなかった。乃木旅団は王宮の2個近衛師団を壊滅させた。これは兵器の差だけで無く、乃木少将の指揮能力が高かったのも1つの要因である。守備部隊を壊滅させた乃木少将は自らの軍刀で閔妃女帝を殺害。クーデターは数時間で成功。大正妃は再び女帝の座へと返り咲いた。そしてそのまま大正妃はある宣言を行った。「大日本帝國に対して、我が国の併合による大日本帝國領化を要請します。清に対しては今後一切の朝鮮半島に対する事案は、大日本帝國と協議する事を要請します。」
これは後に[併合宣言]と呼ばれ、朝鮮半島情勢は一変した。これに大日本帝國は素早く反応し帝國議会と希女帝陛下の許可を得ると、伊藤総理は外務大臣を引きつれて朝鮮半島へ向かった。そして1894年8月25日に漢城にて大韓帝國併合条約が調印され、朝鮮半島は正式に大日本帝國領となったのである。』
宮里菖蒲著
『大日本帝國西海道』より抜粋
『朝鮮半島は併合後西海道と改名され陸軍が西海道各地に配備され、乃木少将指揮の第4歩兵旅団は凱旋帰国した。陸軍参謀本部は乃木少将の昇進を発表。これは的確な指揮で2個師団を壊滅させた功績である。これにより乃木少将は中将となり、第8歩兵師団師団長となった。海軍も釜山に警備府を設置。この釜山警備府は1906年に裁可された[帝國国防方針]により、鎮守府に昇格した。この一連の流れに驚いたのは清である。閔妃が女帝である限り、大日本帝國の思い通りに行くとは考えていなかった。その為に東学党の乱終結後に、早々と軍を引き揚げた。確かにその後大日本帝國陸軍はそのまま残り、何かを企んでいるとの情報を手に入れた。しかし清は全く対応していなかった。清は大日本帝國を完全に嘗め切っていた。小さな島国に何が出来ると思っていたのである。更に陸軍兵力は帝國陸軍を一桁上回り、海軍兵力は個艦兵力が劣るもののこれまた保有数は一桁上回っていた。北洋艦隊を東洋最強と公言しており、「連合艦隊恐るるに足らず」とも名言していた。それらの自信が全ての行動を遅らせた。清が気付いた時には第4歩兵旅団により王宮が攻撃され、クーデター成功により大正妃が権力の座に返り咲いた時であった。
「時既に遅し」
清の女帝西太后が言った言葉である。そして清がその後の対応に大騒ぎとなっている時に[併合宣言]が行われ、何か手を打たねばならないと考えていると8月25日を迎える事となり、清はただ指をくわえて[大韓帝國併合条約]調印を見ているしか無かった。そして隣に突如として大日本帝國領が出来たのである。この事態に西太后女帝は激怒、この現実を受け入れられずに怒り狂った。頭に血が上った西太后女帝は、朝鮮半島占領を命令。袁世珍は陸軍に対して朝鮮半島侵攻を命じた。そして時に1894年9月10日、清陸軍が朝鮮半島へ侵攻し[日清戦争]が勃発した。この侵攻は大日本帝國の自業自得とアメリカ合衆国とロシア帝國は受けとめた。米ロは大日本帝國の拡大政策に危機感を抱いており、清と戦争になる事を望んでいた。米ロの考えでは清が大日本帝國に勝利するが、清も国力を使い果たし事実上の共倒れになると予想した。そこへ悠々と進出し植民地の分配を行えば良いとし、大日本帝國・朝鮮半島・清の分配案が米ロで話し合われ、それに賛同した国々も[パイの分け前]を手に入れようと自益を求めた。』
桃沢絵里著
『日清戦争』より抜粋
『1894年4月5日に史上初めて、帝居内に大本営を設置。「大本営は国家間の戦争に設置するもの」希女帝陛下がそう仰られた為、先の第4歩兵旅団派遣時は設置されなかった。しかし今回は清の侵攻準備が、清の大日本帝國大使館から届き大本営が設置された。大日本帝國は情報の重要性に着目しており、清の動向を細かく調べていた。そして9月6日に御前会議が行われ、清に戦争の口火を切ってもらう事を決定。しかし反撃は迅速に行うべきとし、朝鮮半島の第4歩兵師団と第2歩兵師団に鴨緑江への進撃、連合艦隊(1640年に常置)に佐世保への集計を命じた。大日本帝國初の対外戦争は準備万端整って迎えられた。そして1894年9月10日に清陸軍が侵攻を開始したとの連絡が大本営にもたらされた。これにより希女帝陛下が清に対して宣戦布告。軍に対して攻撃命令を下した。』
国防総省戦史記録編集局監修
『国防記録〜日清戦争編〜』より抜粋