6. Broken heart ―失恋― 勘違いの純情
::: 1 ::: break his heart...失恋させる
ワニ ラララ 沼の王者ワニ 凶悪ワニも一目置いてる ワニの女王シラ子さま ヒューヒュー
白く輝くその鱗 カモーン さあひざまずけ さあたてまつれ ウォウウォウ
「好物をさしあげろ、イエスそれは引きのいい人間! ……こらシラ子、ほんとに食うな。よせってば、あはははは……おい、何メンチ切ってんだ、おまえら」
謎の即興を熱唱していたタイジは、アルビノ・アリゲーター、シラ子の牙の間からカイとファイを見上げた。
「……ワニに食べられて喜んでる」
「大切なのは愛ですよ、カイ」
「愛よ、愛」
普段はファイの言葉に懐疑的なタイジだが、今回は悟りきった目で同意を示した。
「俺が生まれる時にここでの記憶を失くしてもシラ子、おまえのことだけは覚えておくからな。ミシシッピまで探しに行ってやるからな」
「うわあ、ワニに頬ずりしてる……」
「ぞっこんラブですね。こうなりますとお嬢さんでなくて、シラ子さんの下僕と申しましょうか」
笑ってシラ子を沼へと送り出してから、タイジは真面目な顔で二人へ向き直った。
「俺はシラ子に恩義がある。あの広大なジャングルでさまよっていた俺を、シラ子はここへ連れてきてくれたんだぞ」
「似たような話を知っておりますが、そちらの恩義は三日も経たずにお忘れになったようですね。さて」
ファイは腕時計を確認する。
「約束がありますので、わたしはこれでドロンします」
颯爽と歩き去るファイの後姿へ、カイが首をかしげる。
「ファイさんって最近、よくいなくなるんだ。どこ行ってんだろ」
「社内恋愛でもしてんじゃねえの?」
興味なさそうにその話題を一蹴したタイジだが、いきなり形相が変わった。沼のほとりで、シラ子が別のアリゲーターとたわむれていたのだ。
「シラ子に近づくな、おんどれぁ! やめてよして触らないで、垢がつくだろ!」
激昂して走り出そうとするタイジを、カイが後ろから慌てて止める。
「タイジさん、シラ子だって仲間とレスリングくらいするって。それに死語使わなくてもいいんだよ、ファイさん相手じゃないんだから」
「そっ……そうか。レスリングか」
怒りの余波でまだヒクついている頬で、タイジは無理に保護者の笑みを作る。
「そうだな、たまにはシラ子も仲間とのスキンシップが必要だな。よし、俺はセコンドにつく。カイ、おまえはレフェリーだ」
「ボク、お嬢様にオレンジしぼってあげなきゃ……ぐええ」
オレンジのかわりに、帰ろうとするカイの首がタイジの腕にしぼられた。
「おっしゃシラ子、バックマウントだ。ガードされんなよ。ふっ、鉄拳じゃよくアリゲーターをくれてやったものよ。知ってるか、右ひざの連続技だ」
「実技で教えないでー!」
セコンドがレフェリーに技をかけてもいいものか。そんな疑問にもカイの悲愴な哀願にも気づかず、タイジはセコンド業務に熱中している。
「いいぞシラ子、チョークスリーパーに持ち込め。よぉし、そのままフィニッシュだあぁ!」
「やめてよタイジさん、苦しい、苦し……?」
カイは、急にゆるんだタイジの腕から這い出す。固まっているタイジに不思議そうな顔が向けられた。
「タイジさん……?」
「カイ……あれがレスリングじゃなくて交尾に見えるのは、俺だけなの……?」
細い首を伸ばして、カイは沼のほとりを見やった。
「あっ、ほんとだ! ワニの交尾見るの初めてだよ、ボク」
無邪気に観察しているカイに、タイジがよろよろとすがりつく。
「それに……それによ。○ン○ンがついてんのが対戦相手じゃなくてシラ子なのは、俺の目の錯覚よね……? 頼む錯覚と言って!」
カイは丸眼鏡の位置をしきりに微調整し、しげしげ確認している。
「錯覚じゃないよ。へー、ああやるんだー。すごいな、あそこだけ別の生き物みたい」
「そこなのか少年。驚くのはそこなのか?」
「あれっ、タイジさんが灰になってる……」
::: 2 ::: break the ice...氷のように冷たい雰囲気をほぐす
「シラ子がオスでもメスでも、どっちでもいいじゃーん」
もう何度目か分からぬ台詞を、カイは呆れきって繰り返した。とたんに、親の仇だってこうはにらまれないであろう形相でタイジが詰め寄る。
「よかぁないわ! シラ子のやつ、別の意味でフィニッシュしやがって。ううっ。お気に入りのキャバ嬢がいて通ってたら、実はオカマパブだったみてえなもんだぞ! おまえに分かるか、俺のこの傷心が」
「ぜーんぜん分かんないし、分かんなくっていい」
すでにシラ子オス発覚事件に飽きているらしく、カイはつまらなそうに足をぶらぶらさせている。
「ひどいっ。この世に正義はないのかっ」
タイジは長髪を振り乱して嘆く。
「正義が問われる場面じゃないと思うんだけど」
「当たり前だ。俺が問いたいのは性別だ」
「ボク、錯乱してる人見るのも初めてだなー」
そこへ革靴の足音も軽やかに規則正しく、ファイが秘書室へ戻ってきた。
「お客様ですよ、カイ、タイジさん。こちら監査室のエリトさん」
髪をきっちり撫でつけ、嫌味なほど隙なくスーツを着込んだエリートサラリーマン風男性が二人を見下ろす。ファイなら『舶来物の三つ揃えをお召しのヤンエグ』などと形容しそうだ。が、タイジの視界には、ろくろくその姿は映っていなかった。
「君がお嬢様の下僕とかいう男か」
エリトはかき乱しすぎてぼさぼさの頭のまま呆けているタイジに、汚いものでも見るかの目を向けている。
「全くお嬢様にも困ったものだ、我々への相談も報告もなく勝手に採用したりして」
「あぁシラ子、気温があと少し高ければ。ワニは卵が孵化する時の気温で性別が決まるのに。三十一度より寒いとオスばかり、高いとメスばかりになるんだぞ。暑ければおまえはメスで生まれたのに……」
一瞬の沈黙。
「何なんだね、この男は」
「下僕です」
カイは生真面目に答えたが、それがエリト氏の神経を逆なでしたようだ。こめかみがピクッと波打つ。
「意識が冥王星にワープしてしまっているようですね。大目に見てやって下さい。お嬢さんでなくシラ子さんの、いえいえ恋の奴隷ですので」
「……ふざけているのか、君たちは」
はっきりと不快そうなエリト氏に、いいえ、とファイは一流コンシェルジェのように優雅な業務用スマイルで答える。実際ファイは事実を述べただけなのだが、その余裕がエリトにはしゃくに障るようだ。こめかみの波が荒立ってきた。
「何かお飲みになりますか? ヒーコー、レーコー、レスカと純喫茶並みに揃っておりますが」
「わたしをバカにするのもいい加減にしたまえ」
とんでもハップン、とまたしても端正な笑顔を崩さぬファイ。カイは確信犯を見る目つきで先代を見やった。
「お嬢様にお会いしたいのだが」
仮眠してらっしゃいます、というカイのおずおずとした返答に、エリトは大仰に首を振ってみせた。
「いいご身分だ。お嬢様に伝えておいてくれたまえ、お遊びが過ぎて本社に降格させられぬよう、自省されるようにとね」
ファイは先ほどから変わらぬ穏やかさで返した。
「出直して、ご自分でお伝えになった方がモアベターです。次期日本支店長を虎視眈々と狙っていらっしゃるエリト様なら、それくらいの苦言を呈する勇気をお持ちでしょう」
さすがにぼうっとしていたタイジも、氷河期並みの冷気で我に返る。笑顔のファイと渋面のエリトの間にクレバスより深い溝が生まれているのは、会話をろくろく聞いていなかったタイジにもよくわかった。
「……わたしが知らないとでも思っているのか、ファイ君。君がさっきまで会っていたのが、本社の人事担当取締役だということを。君こそ何か企んでいるんじゃないのか」
「わたしはわたしの道を、ただ歩いているだけです」
「その道で、わたしの道を邪魔しようと思っているのだろう」
「何をいう早見優。おポンチなあなたの道は、わたしなどには関係アチャコです」
ファイは疑惑をかけられたことに嘆くような素振りをしたが、そのくせ、おまえなど敵ではないと宣言しているのだ。カイが怯えたようにタイジにすり寄ってくる。タイジも思わずその手を取った。
「ふ……ふん、それならいいが」
しかし当のエリト氏はファイの猛毒をわかっていないようだった。
バカめ。うーむ、ひょっとしてファイが死語を使うのは、死語を理解しない相手に面と向かって嫌味を言うためだったのか? 外国語でも方言でもないのに通じてないってすげえ。実は死語って便利なんだな……と感動さえ覚えてかけて、タイジは慌てて首を振る。
これはファイの策略だ。俺と死語の発掘・普及作業をしたいから活用してみせてるんだ。惑わされるな俺。負けるな俺。この死語の生き字引に取り込まれたらアウツだ――あぁすでに毒されている……タイジはアリジゴクの巣のふちで流砂につかまったアリの気分になった。
歩き去るエリトの後姿をアリジゴク・ファイはやんわりと見送っている。氷河期が終わりを告げ、カイがほっとしたように息をついた。
「ムカつく人ですね。ボク嫌いだ」
「そうですか? ああいうギラギラしたのも、時には必要ですよ。ガツガツしているボンビーなら、常時いらっしゃいますが……」
「俺を見るな」
::: 3 ::: break his illusion...幻想を破る
カイが思い出したようにファイを見上げた。
「そういえばファイさん、どうして本社の取締役なんかに会ってたんですか?」
「お嬢さんの代理ぞな」
カイはその答えを何の疑問もなく受け入れたようだったが、タイジは引っかかるものを感じていた。ファイは支店長の前秘書で秘書室長的な役割を担っているとはいえ、支店長代理ならば副支店長が務めるのが道理のように思えたからだ。
こいつは実は食えないやつなのかもしれない――タイジはファイに注意フラグを立てた。
「気のせいかもしれないが、ファイおまえ、俺が考えてることにやたらと鋭すぎる時がないか?」
「ボクだって分かるよー。タイジさん、思ってることそのまま行動に出てるもん。シラ子がオスでショックだった、とかさ」
「言うな。言わないでくだせえ、お代官様」
タイジは頭を抱えてカウチでのたうつ。
「タイジさん、大切なのは愛でしたよね」
ゲイじゃなかろうか、ファイの野郎。オカマブレイカーにもそう言って理解を示しやがって――胸の中でタイジは毒づく。
「どうしてそんなにシラ子の性別にこだわるのー? メスじゃなきゃいけない理由ある?」
バカにしたようなため息をつくカイに、タイジは食ってかかった。
「当たり前だボケ! 俺はホモじゃねえんだ。もっぺんアリゲーターを食らいたいか?」
慌てて背後に逃げ込んできたカイを、ファイはまあまあとおっとりなだめる。
「あまり聞かないでやって下さい。タイジさんがシラ子にメロメロなのは、無自覚な代償行動なんですから」
代償行動――ある欲求の達成が何らかの障害によって難しい時、すなわち欲求不満状態の時に、その代替となる目標を達成することによって、当初の欲求の部分的充足を図ろうとする行動。
「つまりタイジさんのモノホンの恋路には障害があるので、代わりにシラ子さんとよろしくやっているということです」
タイジの口がぽっかりと開かれる。
「行き倒れているのを拾われたのは同じですからね。勘違いもします」
「だからメスじゃないといけなかったんだー。タイジさんって面白いな」
「面白いって、おい……俺には話が見えないんだが」
「だから無自覚と言ったでしょう。さてタイジさん、そろそろ全社員参加の逃亡犯狩り演習が始まりますよ。犯人役として三日三晩逃げ切ったら寿命半年分差し上げますので、それで利息の足しにして下さい」
タイジはうめいて、ずるずるとカウチに沈んだ。
「ただし捕獲されたら、賞金は捕まえた人のものです。毎日クロ子さんたちの散歩でジャングルを探検しているタイジさんですから、逃げ切るのは余裕のよっちゃんだと思いますが」
くそう、借金だけでも首まわんねえのに高利子つけやがって。ざる豆腐の角に頭ぶつけちまえ、あの脳みそクサレ梅――
「アガッ」
口に突っ込まれた竹定規に、タイジの呪詛は最後まで達せずに終わった。
「何も言ってねーだろ、この毛唐!」
「タイジさんの思考など、聞こうとしなくとも丸聞こえです。おや、噂をすればシラ子さんがいらっしゃいましたよ」
シラ子、の一言にタイジはたちまち遠い目をする。
あぁ俺のシラ子、おまえはどうしてオスなんだ。このしいたげられた下僕生活唯一の慰め、それがおまえだというのに。こんな無慈悲なことあっていいのか――憂い満面で振り返ったタイジの目の前にいたのは、きょとんとしたお嬢。
「なんだ、お嬢か」
とたんに我に返り、ケッと息を吐くタイジ。お嬢はすっと目を細め、おもむろに社内放送マイクを握った。
『演習を始めるです。敵は秘書室にあり。泣かぬなら殺してしまえ、可愛げのない無礼な恩知らず下僕』
「めちゃくちゃ字余りだぞ……っと、うわあああ」
とたんに黒マントに大鎌を装備した大集団が地響きたてて押し寄せ、タイジは転がるように逃げ出した。
四日後。ニシキヘビを解体してその胃から救出されたタイジは、一応姿をくらましていたということで、寿命半年分のお情けをもらったのであった。
タイジ、現在四ヶ月。借金、十八年七ヶ月。返済、一年+ジャングル逃亡劇による半年-利息半年。彼はノルマを達成して、生まれてくることが出来るのか――。