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ブレイク  作者: シトラチネ
本編
5/15

5. Break over ―突破―  越えろ心の防御線

::: 1 ::: break a tie...均衡を破る



 俺はお嬢を過大評価していたのではあるまいか。過大どころか妄想。歪曲。JAROに訴えられそうなくらいに――立ちはだかる巨漢にファイティングポーズを取りながら、タイジは自分をこの状況に追い込んだ張本人のことを考えた。

 お嬢が宿命に一人健気に耐えながらアホ面かぶってるなんて、俺の誤解もはなはだしかった。本当のアホでなけりゃ、こんなこと思いつくか。

 やっぱりあいつは脳が梅干、いやいや梅干の天神様程度にしかないガキだ。恐らくその種もカッピカピに乾いてて、そこから毒素が漏れ出している。だからあいつはアーパーなのだ。いつかきっとその毒が全身に回って死んじまうに違いない。

「アミグダリン、青酸配糖体。成人の場合、青梅を一日に三百個などの大量摂取をしなければ致死量には至りません」

 ならば三百個以上に相当する強力な天神様なのだ。お嬢の頭を両手でつかんで揺さぶったら、カラカラとさぞ小気味いい音がするだろう。

「心得その一、お嬢さんに触れてはいけないと言ったでしょう、タイジさん」

「はっ、遅いぜ。こないだ胸をもんでやった……あん?」

 ばちこーん。

 一人の世界から引き戻されたタイジは、その瞬間に直立時体高三メートル、体重六百キロを超えるヒグマの平手を浴びた。



「試合中に選手の集中を乱すなんてアリなの? アンタ審判でしょ、審判。がっぺむかつく」

 ファイに対するタイジの文句や抗議は、死語でないと聞いてももらえない。とっさにも死語がすんなり出てくるようになってきた自己嫌悪に軽く浸りつつ、タイジは吠えた。

「結局南極ぶっちぎりで優勝したのですから、いいではありませんか。お仕置きですよ、集中というよりは不届きなことを考えていたように見受けられましたので」

 ああ、梅干な――お嬢主催イベント『君こそ金太郎』、すなわち対ヒグマ相撲で最長土俵滞在時間を記録、優勝したタイジはふくれ上がった頬に氷を当ててくれたファイをにらんだ。プラチナブロンドにグリーンアイズのファイは容貌の色素同様、涼やかに素知らぬ顔だ。

「こちらが優勝賞金の寿命半年分の小切手と、副賞の金太郎前掛けとなっております。百パーセントシルクですよ、いかがですかこの手触り。んーマンダム」

「ダイヤモンド製だろうと、断固いらん。いらねえ賞品作るなんて寿命の無駄遣いだ、もったいない」

「もったいないと言いながらジャングルに捨てるほうが、よほどもったいないオバケです」

 集合的無意識世界の一画で運営されている悩み事解決所・ブレイクにおいて、通貨は寿命のみなのだ。うな丼一丁寿命一時間分、といった具合である。ダイヤも金塊もアクセサリー以外の意味を持たない。

 しかも前掛けには、○に「金」でなく、「命」と刺繍されていた。命を取り引きするブレイクらしいその賞品はすでに、赤い色に興奮した猿たちにもみくちゃにされている。

「それにしても、寿命がかかるとタイジさんは強いですね。銭ゲバと言いましょうか、カネゴンと言いましょうか」

「ふっ、こちとら毎朝のワニの散歩で反射神経が養われてんだ。動物相手でもケンカ上等、赤テープよ」

 おっとまずい、ファイの顔見てると通常会話でも死語が出てきちまう。これほど習得しても嬉しくない知識ってのも珍しいもんだ――そう考えて眉をひそめたタイジに気づいたのか、ファイは日焼けした顔を傾けて朗らかにほほ笑んだ。

「タイジさんがいらしてからというもの支店長主催イベントが急に増えて、楽しませて頂いてますよ。死語のスパーリングパートナーもできましたし」

「はっきりさせとく、どっちも仕方なくやってんの。心では泣いてんの。お嬢は賞金目当てで死に物狂いのブザマな俺の姿を、指差して笑いたいんだろ……」

 実際笑い転げていた姿が、ヒグマに殴られお岩状態だったタイジの狭い視界にも映っていたのだ。

 だがイベントは好都合だ。ブレイクに就職して一ヶ月。今回の賞金でトータル、寿命一年半の借金を返済できることになる。契約では七ヶ月間で十八年七ヶ月を返済せねばならない。単純計算だと一ヶ月あたり寿命二年以上の返済になるが、出だしとしてはこんなもんよ――寿命半年分の小切手をポケットにねじ込み、タイジは満足してうなずいた。

「お、カイ」

 支店長秘書室の入口に、いつの間にかカイが立っていた。タイジはにんまりする。お嬢と並んでタイジの死活劇を手を叩いて喜び笑うガキが、ヒグマ対決を見逃して今頃やって来たのだ。

 しかし、タイジの笑顔はすぐに引っ込む。カイは血の気のない顔をして、震えながら立ち尽くしていた。





::: 2 ::: break the link...つながりを断つ



「心臓の提供者が現れて、緊急手術で、さっき麻酔かけられたとこで……」

 肉体を伴った通常の生活において、カイは心臓の持病を抱えている。ドナーを待つあいだに寿命が尽きそうだったカイを、お嬢が付き人に拾ったのだ。そのカイにとうとう心臓移植手術が行われるらしい。

 タイジは心の中で姿勢を正す。その横で心身ともに常に姿勢の正しいファイが、立ちっぱなしだったカイをソファにそっと座らせた。

「そっか、向こうでは手術室なんだな」

 カイの視点はかたくなに手元に落とされ、頬は緊張に白くなっている。タイジはそれをペチペチ叩いた。

「がんばれよ、カイ」

 答えずに、カイは無言でうなずいた。そこへ、支店長室のドアがガチャリと開く。

「おっはよー、エブリバディ。今日も元気に、お客の寿命をぼったくろー。バス回してっ」

 空気読め。というタイジの壮絶なにらみで、ようやくお嬢は秘書たちと下僕の異変に気づいたようだ。

「なぁに、暗ーい顔して。誰かのお葬式?」

 冗談ってのは時に、致命的に残酷だよな――ため息をつきつつ、タイジはカイの手術について説明する。が、お嬢はふぅんと唇を突き出しただけだった。

「あっそ。じゃあカイの代わりにタイジ、バスに乗って。いないよりマシってこと、そろそろ証明して」

「おい待てよ、お嬢! カイに何か……」

 背を向けたお嬢の肩をつかもうとしたタイジの腕に、すかさず竹定規が打たれる。定規でタイジの腕を押さえ込んで、ファイは静かに首を振った。

 お嬢に触らないこと。お嬢に逆らわないこと。お嬢の心を乱さないこと。秘書および下僕の心得を思い出し、タイジは迷う。

「ごめんね、タイジさん。いいんだ。あっちの事情はこっちに持ち込まないのが、ブレイクの暗黙のルールだから。ボクがいけないんだ……」

 命に関わる事情を抱えて寿命を稼ぎに来る、悩み事相談所員・ブレイカーたち。おのおのの事情を気にしだしたら、報酬に客から命を削り取るこのシステムに罪悪感を持つようになり、業務を果たせなくなる。寿命を稼げなくなって自分の首を絞める。

 そうして自滅することが分かっている者たちは、通常生活の事情を決して話そうとも、聞こうともしないのだ。

「それがどうした。俺の事情なんか、社内中に知れ渡ってるぞ。『君に授乳してあげたい』なんて手紙が届くくらいだ」

「里親の名乗りですか。おめでとうございます」

「めでたかったかもね。五十過ぎのオカマブレイカーじゃなけりゃ」

 苦虫をじゃりじゃりかみしめるタイジに向けて、ファイは心外そうに目を丸くする。

「タイジさん。大切なのは愛ですよ」

「生まれる前だけで十分なの、非凡な人生は」

「おそーい、そこの下僕!」

 遠くからお嬢に呼ばれ、タイジは行くかためらった。が、ファイとカイ、新旧の支店長秘書に強くうなずかれ、渋々お嬢のバスに乗り込んだ。



「カイの手術が成功したら、君を秘書に格上げするから」

 ナビ代わりである救援信号レーダーの画面を見ながら、お嬢はさらりと言った。

「早く人間になりたいでしょー?」

「いや人間だから、すでに。じゃなくて、どういうことだよ。カイは?」

「解雇」

 あまりのあっさり加減に、タイジは唖然とする。

「だって、ここで寿命稼がなくてもよくなるじゃなーい? 喜びたまえ、秘書なら下僕と違って給料も出るんだから」

 棚ボタな話らしい、と頭では理解していた。しかしタイジはすっきりしない。

「あー、そりゃどうも……けど、カイの意向は」

「あのね。十八歳未満でブレイカーとして採用できないのに、寿命を欲しがってる子は星の数ほどいるの。あたしの一存で雇える秘書も下僕も、今で精一杯」

 タイジに十八年七ヶ月を貸し付けたことに対する社内の不満があることは、タイジも知っていた。前財務課長が横領を働いた際、はっきりと不平を口にしていたほどだ。

「だけど可愛がってんだろ……」

 お嬢は両手を腰に当てて振り向いた。呆れきった顔をしている。

「カイは何人目の秘書だと思ってるのー? 二十二番目。数字で言えば二十一の次」

「いや、数の数え方くらい俺も知ってるし、大体それって何の説明にもなってな……」

「おだまり、下僕。ちょっとくらい人間語がわかるからって」

 だから人間だからすでに――タイジのささやかな抗議を、お嬢は冷たい目でさえぎった。

「組織の歯車はいくらでも替えがきく。っていうか、組織はそうじゃなきゃいけないのー。それに寿命を需要のない人間に供給するよりは、需要のある人間に供給する方が社会的に合理性があるんじゃなーい」

 お嬢の言っている理論は分かる。だが……くそっ、梅干脳みそに言い返せないなんて、俺は梅干以下か? カリカリ小梅ちゃんか? お嬢の態度は何か違う気がしてるのに――どろりとした気分の悪さばかりが、タイジを支配した。





::: 3 ::: break into tears...わっと泣き出す



 翌日。お嬢とタイジの乗ったバスが戻ると、カイが駆け寄ってきた。ドアが開くのを待ちきれずに足をばたばたさせている。その興奮した様子、そしてそもそもカイが無事にそこにいるという事実は、報告の前にその内容を語っていた。

「手術、うまくいったって! 今んとこ、経過も順調だって」

「そっか。見かけによらずしぶといからな、おまえ」

 タイジはカイをヘッドロックして締め上げる。痛いよー、と笑いながらはしゃいでいたカイは、ステップを降りてきたお嬢を見ると慌ててタイジの腕をすり抜けた。

「あの、お嬢様。あのっ」

 どもっているカイに、お嬢は花の咲いたような笑顔を向けた。

「おめでとー、カイ。がんばったね」

「……うっ」

 とたんにカイは喉をひくつかせた。丸眼鏡の向こうに涙が盛り上がる。

「こっ、これもお嬢様のおか、おっ、おか、おかげで……くひっ」

「んもー。男の子が泣かないのー」

「お嬢、それジェンダー差別」

 人間語はおろか、社会学まで解する下僕に気味悪そうに眉を寄せてから、お嬢はカイに命令した。

「タイジに仕事を引き継いでおきなさーい。カイには今週いっぱいで辞めてもらっちゃう」



 お嬢の言葉は、絶対零度の強力さでカイの涙を凍らせた。

「でも、ボク……」

「もうここにいる必要ないもんねー」

 ふざけているようなお嬢の口調が、カイの台詞を摘んでしまう。

「タイジさんの調教もまだ……」

「ファイがいるもーん」

「けど、けど」

 食い下がるカイの肩に置かれたのは、いつの間にか背後にいたファイの手。お嬢さんに逆らわないこと――無言の圧力を感じたのか、カイはぼう然としてお嬢を見上げた。その横顔がタイジの胸に亀裂を走らせる。

「おまえは納得してんのか、ファイ」

 珍しくファイは笑っていない。それだけで、ファイの表情は恐ろしく冷たく見えた。

「お嬢さんは、一人でも多くの子供に寿命を手にするチャンスを与えたいだけです。カイだって、それは分かっているはずです」

 カイは黙ってうつむく。

「ブレイクは仲良しクラブでも、お遊びサークルでもありません。まして、ボランティア団体でもありません。個人の感情が介在する余地はないんです」

 感情が消えたような碧眼は、タイジからカイへと転じた。

「それに、これはカイのためでもあります。命を稼ぐ必要のない人間は、ここではねたまれ、疎まれるだけです。カイがここにいる必要はありません」

「でもっ」

 悲愴に叫んで、カイは一歩を踏み出す。はずみで、その肩からファイの手が外れた。タイジは腰巾着ひよわ少年の思わぬ反抗に驚く。

「でも、ここじゃなきゃお嬢様にもファイさんにも会えない。あっちじゃ会えないもん! そんなのやだよう……お給料は全部、寿命基金に寄付しますからー!」

 モシモシ、俺を忘れちゃいませんか。とタイジは目で訴えてみたが、忘れられた下僕は忘れられたままだった。そうか虫ケラ未満でも人間じゃなくても、存在を認めてもらえるだけ幸せなんだな――と、タイジはレベルの低い悟りを開く。

「お嬢さんを困らせるものじゃありませんよ、カイ」

「うわーん」

 号泣を始めたカイの肩にもう一度手を置いて、ファイが優しく諭している。

「ここはわたしが引き受けます。お嬢さんはお部屋へ」

 ひらんと手を振って、お嬢は黙って支店長室へ歩き出す。待てよ、と言おうとしたタイジの視界の隅にファイが竹定規を握るのが映った。

 お嬢に逆らわないこと――知るか、くそったれ。ガキを泣かしておいて、偉そうに命の取り引きだと? お嬢は頭のネジがゆるいんじゃなかったのか。脳みそ梅干女のくせに社会的合理性だの需要と供給だの、そんなごもっともな理屈を並べ立てるなんぞ似合わないにも程があるわっ――タイジは、お嬢の前に立ちはだかった。





::: 4 ::: breakover...防御線突破



「ボランティアじゃないんなら、どうして俺の借金に自分の取り分を加えなかった?」

 タイジの寿命の借金十八年七ヶ月は、お嬢が貸し出した元本のみにすぎない。利子としてお嬢が得るものは、反抗的な下僕以外何もない。秘書に寿命ハンターと評されたお嬢らしからぬ契約なのだ。

「事情を聞かないのがルール、そのためにお嬢が他人との接触をシャットアウトしてんなら、どうしてカイを雇った? どうして俺を雇った? 思いっきり事情に肩入れしてるからだろう。矛盾してんだよ、アンタ」

 暴言に対して繰り出されたファイの竹定規を、タイジは研ぎ澄まされた反射神経でかいくぐった。何度もよけられて、ファイは驚きを隠せずにいる。

 タイジは、唇を引き結んでいるお嬢の鼻先に指を突きつけた。お嬢はそれをにらみ返してくる。

「タイジ、今度触ったら去勢して宦官にするって――」

「宮刑上等、宦官上等。けどな、権力目当てに志願してチョッキンしちゃうやつもいたのよ。皇帝や後宮をアゴで使いたくてな」

 下ネタは苦手だ、と言いたげにファイが肩をすくめて一歩下がる。

「この世界の皇帝であるアンタが俺の話を聞くようになるんなら、喜んで去勢されようじゃないの。どうせ肉体の実在しない精神世界なんだからさ。いいか、そのつもりで聞けよ。アンタは卑怯だ」

 お嬢の返事を待たず、タイジはたたみかける。

「シラ子の時と同じなんだろ。解雇したことにする方が、あきらめつくからだろ。それを合理性とか寿命に困ったやつがとか話をすりかえやがって、こざかしいわ。寒気するわ。チキンスキンスタンダップよ」

「タイジさんってばファイさんに汚染されて、お嬢様にまで死語を使ってる……」

「がびーん。汚染とは何ですか、せめて影響とか触発と表現して下さい」

 タイジの興奮ぶりに涙も止まったらしいカイと、すでに見物モードのファイがのんびりしゃべっている。

「確かに、カイにはここにいる必要がない。でも動機も覚悟もあんだろ。拒否されて泣かされて、それでもアンタを慕ってるカイを切るのか。秘書が変わるたびそんなこと繰り返すのは真性のバカだけだぞ、ドアホウ」

「説明しておきますとね、カイ。タイジさんの中では、バカとアホは違うんですよ」

「なんか、聞いてるボクたちの方が照れてきますよね」

 ブラウンの瞳のふちに殺気と涙がたまるのを、タイジは横柄極まりない態度で見下ろした。

「カイを解雇するなら、後任には別の誰かを雇え。俺はカイの代わりになる気はない。俺は頭ユルユルなお嬢の下僕として雇われたんであって、高慢ちきなロボット支店長の下僕になったわけじゃ――」

 ばちこーん。

 一人鼻息荒く語っていたタイジの頬に、思いっきり平手が打ち込まれた。



 ひっぱたいてから、平手の主・お嬢はびっくりした顔をして自分の頬を押さえる。

 平手の瞬間に痛覚を共有したからか。いや、みずから他人に触れたことに自分で驚いているのか――ヒグマよりよっぽど強烈な一発に腰を抜かしながら、タイジも驚愕してお嬢を見上げた。

 その視線と視線がぶつかると、お嬢は怒る場面だったことを思い出したようだ。かげろうが立ちそうなくらい、肩からお怒りオーラを沸かしだす。

「下僕の分際で、平気で言いたいこと言って……信じらんない。これじゃ何のために触るなって言ってるのかわかんない」

 お嬢は眉間をふるふるさせて、低く唸る。

「タイジなんて大っ嫌い。カイには残ってもらいます。タイジなんて絶対ぜーったい、秘書なんかにしてやんない。そんなに下僕でいたいなら下僕でいさせてあげる。すりきれるまで、ううん、すりきれてもこきつかってあげる」

「いや、下僕でいたいってわけじゃ……」

「それにね、報酬を上乗せするのは忘れてただけ。ヒグマ相撲の賞金、ぜーんぶもらうから」

「うえええっ?」

 半年分が。ヒグマ相手にもぎとった寿命半年分が――タイジは返済済み寿命の数字が一年半から一年へ減る、チャリーンという軽薄な音が聞こえた気がした。

「それでも足んない。来週の全社員総出の討伐演習逃亡犯役として、三日三晩狩られちゃって。それから再来週……」

 延々と無体な命令を並べ立ててから、お嬢は足音高く支店長室に戻って行った。ばったーん、と激しくドアの閉まる音がビリビリ空気を震わせた。

「忘れてたなら、そのまま見逃しといて欲しかったわ……」

 タイジはうなだれて、ふと、お嬢にはたかれた頬を触ってみる。

 渾身の一発は痛かった。けど……悪くなかった。タイジは痛みが引いていくのがもったいないように感じながら、そう思った。

 お嬢がバカでなくアホを選択した一瞬、支店長でなくお嬢を選んだ一瞬、さわんないでと叫んだはずのお嬢が我を忘れて殴りつけた一瞬。それが見られたのなら、タイジは半年分の寿命も惜しくなかった気がしてくる。

「殻を割って味わう天神様は、毒までまるごと美味だったようですね、タイジさん」

 いやにおっとりした声で呼ばれて、タイジはファイの仁王立ちに気づいた。優しい微笑を浮かべているにもかかわらず、その手にはしっかりと竹定規が握られている。

「それにしましても下僕ふぜいが、あまりに態度Lだったのではありませんか?」

 タイジは尻餅のままあとじさる。

「ヤーキーズ=ドッドソンの法則をご存知ですか? 問題解決への強すぎる、あるいは弱すぎる欲求は成績を低下させます。下僕の正しい業務遂行を喚起するには、そのミジンコな意欲を上昇させる必要があるようですね――体罰で」

「ま、待て。死語で話せば分かる。待ってくれ、今とっさには出てこないだけで……」

「そうはイカの塩辛です。さ、踊って頂きましょうか」

 誰か、俺を叩き起こしてくれ。個人表層意識へ引っぱり上げて、このくだらない悪夢から助けだしてくれ――タイジの背中は大理石の冷たい壁に阻まれる。

「タイジさーん、ありがとー」

 喜びいっぱいのカイの声を聞く余裕もなく、タイジは脱兎のごとく走り出す。

 くそっ、これもお嬢のせいだ。あいつがバカだから、ついプッツンきちまったんだ。あぁ今なら死語も出てくるのに、どうも昨日から戦闘中に梅干を嘆いてばかりだ。そう悪態をつきつつ爆走していたタイジの足が、ふとゆるむ。

 おかしくないか? 俺はファイに梅干の話をしたか? 無意識に口に出しちまってたのか? それともあいつ、もしかして――振り返ったタイジの視界に、プラチナブロンドをなびかせた爽やかな男。ひゅん、と竹定規が空を切る音がした。

「砂にして差し上げます……!」

 ばちこーん……。

 下僕たるもの我が命我が物と思わず、御下命如何にても果たすべし、死して屍拾う者なし――頬への通算三打目の衝撃波とともに、タイジはそう教え込まれたのであった。



 タイジ、現在四ヶ月。借金、十八年七ヶ月。返済、もろもろ一年+ヒグマ相撲優勝による半年-利息半年。彼はノルマを達成して、生まれてくることが出来るのか――。


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