3. Break away ―脱却― シラ子を捕獲せよ
::: 1 ::: break chops...痛めつける
あぁ素晴らしきかな、個人表層意識世界、すなわち自我。着床とはまさによく言ったもんだ。温かく柔らかいベッド。心地よい血流の音。おふくろの子宮はまさにパラダイス、何者にも邪魔されることなくのんびりと休まる至福のひととき。
眠るなよ俺、眠ったら最後だ。いくら気持ちよくても眠ったら、そこは地獄だ。この、うとうとと意識と無意識の境をたゆたうギリギリをキープするんだ――
「こんばんみ、タイジさん。どこで何してたんです? 待ちくたびれたじゃあーりませんか」
気づくとタイジの前には、白金髪にして死語使い、ファイが立っていた。
「くそ、うっかり寝ちまった」
タイジは眠ると自動的に、集合的無意識の世界へ召喚される。なぜなら、不本意ながらその一画にある相談事解決所・ブレイクの日本支店長、お嬢の下僕であるからだ。
「どこで何するも、妊娠三ヶ月胎児の俺がすることって言ったら、おふくろの腹ん中でぐーたらするしかないでしょ」
支店長秘書室とは名ばかりで、そこはジャングルに建つ御殿だ。だだっ広い大理石のフロアの籐椅子で、タイジは大あくびを放つ。
「タイジさん、仕事だよ」
甲高い少年の声に、タイジは眠い目をこすってそちらを見やった。長身のファイの隣にいると、カイはますます子供に見える。半ズボンの丸眼鏡ときっちりスーツの碧眼はそろってにっこりした。新旧の支店長秘書を前にして、嫌な予感がタイジを見舞う。
「謹んでご遠慮申し上げたく」
「下僕に仕事を選ぶ権利はないんだよ、タイジさん」
やっぱりそうくるか、とタイジは眠りに落ちてしまった自分を呪った。睡眠は人間の三大欲のひとつだぞ。逆らえないんだぞ。それを利用するなんて卑怯なやつらめ――にらみつけるタイジをよそに、カイは床掃除と同じような気軽さで申し付けた。
「シラ子を捕まえて」
シラ子十歳、体長三メートル弱のアルビノ・アリゲーター。すなわちワニ。お嬢のペットで、散歩中にカイの手を振り切って脱走。以来二週間行方知れずだという。
「カイ、おまえがドジって逃がしちまったんだろ! 責任持っておまえが捕獲しなさいよ」
「あ、ボク心臓が……」
カイは左胸を押さえてよろめく。そのこめかみに、タイジの両こぶしがグリグリとねじこまれた。
「うわーん、タイジさんのいじわるー!」
「精神世界には肉体がないんだから、心臓発作起こしたって食われたって死にゃあせん! とっとと――うおっ」
ビシ、と鋭い音とともにタイジの右肩に痛みが走る。おののいて身を引くタイジが見たのは、ファイが手にする一.五メートル竹定規。
「竹刀よりもスナップ効いて便利だしょ」
「おいおい、警策ってのは坊さんが座禅会で激励に使うもんだぞ!」
「カイ、ここはいいですからお嬢さんをお願いします。さて」
高価なガラス細工のような冷たい目がタイジを射る。同時にドス、と音を立てて竹定規がタイジの足先に突き込まれた。タイジが叫んで逃げようとしても、定規はしっかりとタイジの足を押さえて放さない。
「星の数ほどお仕置き代行をしてきたわたしのテクを、ご覧になりたいのですね。おっしゃる通り、精神世界には肉体がありません。どんなに骨折が折れても出血が出ても、命の危険が危ないということはありませんので」
ファイは死語でないとタイジの言葉を聞こうとしない。タイジは死語知識を蓄えた前世の自分に感謝した。
「ア……アイムソーリー、ヒゲソーリー……」
「シラ子の好物? くわえたときに引きのいい人間かなっ」
バスに乗り込もうとしていたお嬢はステップに片脚をかけたまま、そう言った。あらわになった内腿を堪能していたタイジは、途端に内腿どころでなくなる。
「そんなこと聞いてどうすんの? 君」
「聞かなかったことにするわ……」
シラ子さんを連れ帰ったらチップは寿命一ヶ月分です、とファイに言われて最初は少々やる気になったタイジだった。が、ブレイク社内ジャングルがサファリパーク並の広さを誇ること、および釣り餌にと考えたシラ子の好物を聞いて、タイジの意欲は瞬く間にマイナスへ振り切れた。
「適当に探すフリすりゃいいわ。そのうち勝手に戻ってくるだろ」
購買でチキンサンドとペットボトルを寿命一時間分で買い込む。ここではすべてが寿命で取引されるのだ。
「ジャングルで一人ピクニックとしゃれこもうぜ。……ん? しゃれこむ、ももはや死語か?」
ぶつぶつ言いながらジャングルへ入る。その手にあるサンドを狙う猿たちに、タイジは瞬殺された。
::: 2 ::: break and run...突然走り出す
「寿命は寿命で受け入れる。十八年七ヶ月は返す――」
「帰らせてもらう、ですね? 耳タコですよ、タイジさん。もう少しおニューな言い回しをよろぴく」
「死語達人のおまえに言われとうないわー!」
「ギャフン」
狡猾な狐が女をたぶらかそうとして化けたような顔をした、タイジ。その狐は猿に殴られ、引っかきまわされ、食べ物はおろかシャツまで奪われたみじめな姿で這い戻った。
「動物は賢いのですよ。タイジさんがやる気ナッシングなのを見抜いて、襲ったのでしょう。ざまぁ味噌漬けですね」
「……おまえ、こうなるの分かってて俺をジャングルに行かせただろ。トサカにきたぞ」
「わたしのお仕置きをご覧になりたかったんでしょう?」
くっと唸って、タイジは相手がうわてなのを認めるしかなかった。ファイはうつむくタイジの乱れきった長髪をきれいに結いなおす。そのまま狐の尻尾、すなわちタイジの髪をつかんで歩き出した。
「いててて」
「調教も楽じゃありませんね。リンダ困っちゃう」
「なーに、そのきったない下僕」
バスから降りてきたお嬢は、裸の上半身に猿の攻撃痕も生々しいタイジを一瞥するなりそう言った。お嬢と一緒にバスに乗務していたカイは知らん顔している。
「下僕が痛めつけられたってのに、嬉しそうなのね……」
「ブレイカー業務おつかれサマンサ、お嬢さん。実はタイジさん、シラ子さんを探してみずからジャングルに分け入ったのです。猿と戦ってきたそうですよ」
みずからじゃない、ファイに言われて――と説明しようとしたタイジの腿に、ファイの腰にさした竹定規がさわさわと触れた。お口にチャック、という脅迫メッセージをひしひしと感じてタイジは黙る。
心底意外そうなお嬢の目に、タイジは眺め回された。
「あっそ。でも無駄かも」
えっ、と驚き戸惑う言いだしっぺ・カイ。
「クロ子やウロ子と違って、シラ子はあたしの造りものじゃないもん。救援信号があって行ってみたら、あの子がいたの。その時はまだ生まれたてで、こーんなちっちゃかったっけ。ちゃんと現実にいるワニなのだ」
淡々とした説明が続く。
「でもほらー、あの子アルビノ・アリゲーターだから。もう、いなくなっちゃったんじゃなーい?」
それだけ言うと、お嬢は三人のあいだを抜けて、すたすたと支店長室へ向かった。
「カイ、お紅茶ちょうだーい。はちみつはアカシアでプリーズ。この前みたいにレンゲ入れたら、頭からはちみつぶっかけちゃうから覚悟しなさーい」
「ぶっかけるだけならまだしも、お嬢様はそれを熊牧場で実行なさるおつもりですよね?」
くるくると豊かな髪を揺らして歩き去るお嬢を、ぱたぱた足音を鳴らしてカイが追う。二人の後姿はすぐに支店長室へ消えた。
「ケビン・スペイシーの『アルビノ・アリゲーター』という映画を、ご覧になったことはありますか?」
ファイは閉められた支店長室のドアを眺めやり、何気ない口調で言い出す。
「数万分の一の確率で生まれる白いワニは、敵対する群れに襲われたときに仲間のいけにえにされます。アルビノ・アリゲーターが食べられているあいだに仲間が逃げたり、反撃したりできますから」
タイジは冷水を浴びせられたように思った。
「シラ子はお嬢と同じ、スケープゴートなんだな。だからペットにして可愛がってたんだな……」
アルビノ・アリゲーターだから通常世界でいけにえにされて、だからこの集合的無意識世界からいなくなったのかもしれない――お嬢がそういうつもりでいなくなったと言ったのを、カイが理解したとは思えない。だがタイジは、それがシラ子を過失で逃がしてしまったカイが罪悪感を抱かぬように気を遣った言葉のように感じた。
生まれたてから十歳になるまで育てたペット、それも自分と似た境遇のペットがいなくなって、心配しないわけがないのだ。無駄だ、いなくなってしまったのだと割り切れるはずがないのだ。
もしかしてシラ子を探さないのはいわゆる代償行動ってやつか、とタイジは思いつく。
本当はスケープゴートでありたくない、けれど立場上そうでいるしかないお嬢が、自分の代償としてせめてシラ子には自由であって欲しくなったのか。それによって慰められているのか。
だがそれならば、カイではなく自分の手で自由にしてやりたかったはずだ。こんな風に、突然失ったまま終わったりして納得するもんか。ましてや、いけにえにされてたまるか。
頼むシラ子、食われてないでくれ。俺が行くまで持ちこたえてくれ――タイジはジャングルに飛び込んだ。
::: 3 ::: break away from passive mode...受身状態から脱する
「どこだシラ子ぉぉ! 引きのいい人間がここにいるぞ! 死ぬ気で引いてやるから出てこいオラぁ!」
あれから三日。タイジはジャングルの湿地帯をじゃぶじゃぶかき分けながら歩いていた。ヒルに吸われピラニアにかじられ、それでもシラ子を探して歩き続けていた。
シラ子を呼びつつさまようタイジに、メガネカイマンの一群がゆっくりと近づく。タイジはゆらりとそっちへ踏み出した。
「なにがメガネカイマンだ。メガネはカイだけで充分なのよ。カイはカイでもカイマンまでいらねえのよ。シラ子を出せ、シラ子をぉ!」
タイジの狂気じみた叫びに、カイマンたちは動きを止める。
「ふふふ、見たかファイ。今の俺には猿どころかカイマンも近寄れないわっ。ふはははは――」
ばく、というにぶい音とともにタイジは濁った水へと引きずり込まれた。タイジの胴体は牙を持った巨大な口に挟みこまれ、水の中でぐるぐると回転させられた。
こ、これはツイスト。ワニが獲物を気絶させ、その肉を引きちぎる時の習性――タイジはごぼごぼと空気を吐き、上か下かもすでに分からぬ渦に翻弄されながら思う。
カイマンに気を取られているあいだに、背後からワニに食われたらしい。ひょっとしてカイマンが動きを止めたのは俺の気合じゃなくて、このワニの存在だったのか。くそ、いくら精神世界では死なないとはいえ、こんなところで食われてたまるか。シラ子を見つけ出し、連れ戻すまでは――もがきながらも、タイジの意識は遠くなっていく。
あぁやっぱ俺は肉体労働に向かないのかもね。下僕は無理なのかもね。どんなに暴れても逃れられない凶暴な牙にあきらめかけたとき、タイジのかすむ目に自分をくわえたワニの姿が映った。
茶色く濁った水の中にも鮮やかな白、いけにえどころか神の使いのように美しいアルビノ・アリゲーター、シラ子の姿が。
「タイジってば、よっぽど引きが悪かったんでしょー。シラ子がわざわざ抗議するみたいに持ち帰ってくるなんて、なさけなーい」
目が覚めると、タイジは秘書室の床に寝かされていた。お嬢、ファイ、カイと打ちそろって覗き込んでいる。ぼんやりしたまま見回すと、少し離れたところにシラ子がいた。すでに鎖が結ばれている。
「シラ子……俺を食わなかったのか。連れ帰ってくれたのか……」
「タイジのマズさにウンザリして、捨てにきたんじゃなーい?」
豊かな胸の上で腕組みして、お嬢は呆れ切ったように首を振る。タイジはゆるゆるとそっちへ顔を向けた。
「お嬢」
「なぁに、ワニの餌にもならないヘタレ役立たず下僕」
「ワニ社会では、アルビノ・アリゲーターはただのいけにえかもしれないが……」
げほげほ、と咳き込んで泥水を吐いてから、タイジはかすれる声で言った。
「……俺は、シラ子が好きだ」
怪訝な顔がタイジを見下ろしている。
「なら、鍛えて引きのいいカラダになればー? そしたら、愛しのシラ子ちゃんにおいしく食べてもらえるしぃ」
「そうするわ……」
やけに従順なタイジを気味悪がるように首をかしげてから、お嬢は立ち上がった。
「さ、お仕事お仕事。こんなことしてるあいだに、寿命離れのいい客逃してたらどーしよ。カモーン、カイ」
そう言い捨てるとお嬢はカイを従え、相変わらずハートのピンクでゴテゴテのバスへさっさと乗り込んでいった。
「ド根性でしたね、タイジさん」
ファイが涼やかにほほ笑んで、タイジの頭をなでなでする。
「これはお嬢さんからのごほうび代行と思って下さい」
「ひとっつも嬉しそうな顔してなかったじゃねえか……」
明らかにやられ損だ、せっかくシラ子が帰ってきたのに何だ、あのあっけらかんとした対応は。俺がしたことは見当違いの余計なお世話だったのか――タイジはがっかりしながら肩を落とした。
「そんなはずはアルマーニ。お嬢さん、瀕死のタイジさんそっちのけで、いの一番にシラ子さんへ駆け寄っていたのですから」
下僕が瀕死でも、帰ってきたペットの方が大事か。やっぱり下僕はペット以下か。タイジは報われたんだか報われないんだか分からず、長いため息をついた。
「タイジさん、ミッションコンプリートで寿命一ヶ月ゲットです。おっつー」
「マジ疲れたわ……ってかおまえ、こうなるの分かっててやったのね」
「では、心得その五……」
「ちったぁ休ませろ、鬼畜米英!」
タイジ、現在三ヶ月。借金、十八年七ヶ月-シラ子発見による一ヶ月。彼はノルマを達成して、生まれてくることが出来るのか――。