11. Break soon ―有明― 陽はまた昇る
::: 1 ::: break out cheering...歓声を上げる
「まったく、何ですか。小さな子供の前でそんな」
「仕方がないだろう母さん。聞かれたんだから」
きかなきゃよかった、と少年は思った。五歳児の何気ない質問で、祖父母の雰囲気が険悪になったからだ。
「この子の名前の由来が神のお告げだ、とは聞いてましたけど。そんないかがわしい神様だったなんて、今までおっしゃらなかったじゃありませんか」
少年の祖父が語ったところによると。脳死状態だった少年の母親が帝王切開で彼を産んだその晩、祖父の夢枕に一人の少女が立ったのだという。年のころ十六、七。グラマーな体に制服のような濃紺の洋服を着て、茶髪にリボンを結んだ美少女だったそうだ。
少女は神様としか思えない尊大な態度で、祖父にこう命令したという。
『その子をタイジと名づけなさーい。そしたら五歳でポックリ死んじゃう前に、拾いに行ってあげてもいいかなー』
「そんな不真面目な神様がいるわけないでしょう!」
「しかし五歳でポックリなんて不吉な予言をされたら、言われた通りに名づけるしかないだろう!」
不真面目な神様に不吉な予言をされ仕方なくその名を選んだことを、本人の前で声高に話すほうが問題ではないか。という点に気づきもせず、夫婦は言い争いを続けている。
「いやきっと神様だ。絶対に神様だ。白い動物を従えていた。白い動物は神の使いだと言うじゃないか」
胸を張る祖父に、祖母が何の動物です、と詰め寄る。とたんに威勢を失い背を丸めながら、祖父は小さく答えた。
「わ……ワニ」
「なんって、信憑性のない」
「だけどな、母さん!」
少年は自分の一言で、両親代わりの祖父母がけんかを始めたことに責任を感じていた。どうしよう、と思うがどう止めに入ればいいのかわからない。
こまったなーめんどくさいなーと思案にくれているうち、ソファの隅で、少年は眠りに落ちた。
どこまでも真っ暗闇だった。まだ暗闇が怖い五歳児としては、おどおどしてあたりを見回す。すると、はるか向こうに光の点が現れた。少年の心細さを察したかのように、光はどんどんこちらにやってくる。近づくにつれ、数も色も増え始める。
あれはなんだろう。おばけじゃないといいけど――少年はまだ輪郭のはっきりしない光源に、じっと目を凝らしてみる。
「クリスマス・ツリー?」
しかし二等辺三角形ではなく、長方形をしている。
「かんばん?」
しかし野太いエンジン音が聞こえている。
「トラック?」
しかしやたらとピンクが多い。
「バ……バス?」
ようやく謎の光の正体が全貌が見えてきた。ピンクとレモンイエローとハートで埋め尽くされた、観光バス。少女趣味というよりグロテスクという形容が当たっている。
少年はえげつない装飾の車を呆然と見上げていて、そして――思った。なんだかみたことがある、と。これにのったことがある。これをまってたような、でもにげだしたいような、ふしぎなきもち。
バスはぽかんとしていた少年の鼻先で急ブレーキをかけた。プシューッと空圧式のドアが開き、そこから誰かが飛び出してくる。紺色の服。茶色い髪。ピンクのリボン。だれだろうと思う間もなく、少年はその人に抱きしめられた。
「タイジ!」
::: 2 ::: break the impasse...こう着状態を打開する
「いきなりひっぱたかなくても。ほらー、タイジさんってばすっかりムクれてますよ、お嬢様」
「だってえ!」
バスの中で、タイジ少年は頬に氷を当てられていた。当てているのは十五歳くらいの線の細い少年で、今時それはないだろうと思われる丸眼鏡をかけている。
お嬢様と呼ばれた女性は顔立ちからすると二十歳前後だが、その幼い表情と仕草で三歳は下に見えた。
「タイジってば『なにしてるんだろうこのオバサン』って、そんな感じだったんだから! あ、あたしが、このあたしが感極まって抱きついてあげたっていうのにいー! おばかー!」
レースのふりふりしたハンカチで怒涛の涙を拭いながら、女性が叫んでいる。タイジはムッと頬をふくらまし、小さな指をきっぱりと女性に向けた。
「このオバサンぶった。ぶったんだよ! パパにもぶたれたことないのに! ぶったらブタによくにてるー!」
「お父上はタイジさんが生まれる前に亡くなってますから、ぶたれるのはそもそも不可能ですけれどね。お嬢さんは覚えてなくても、死語は覚えてるんですね。わたしはマンモスうれピーですよ、タイジさん」
タイジは声の主を見上げた。バスの天井につっかえるであろう長身を屈めた、金髪のガイジンである。ガイジン慣れしていないタイジはびくっとしたが、どういうわけか、そのガイジンは流暢な日本語を操っているようだ。
「結局南極、帝王切開だったそうですね。自然分娩より苦しい時間が減ったおかげで、わずかに前世の知識が残っているのかもしれませんね」
「なんであたしより死語を優先的に覚えてるのー? タイジのおばかっ! おばかーっ!」
「狐顔じゃないけど、小憎らしさが全面に出てるって点は変わらないよねー」
まじまじ観察してくる丸眼鏡を、タイジはじーっとにらみ返す。どうやら彼らが自分を知っているらしい、ということには気づいていた。しかしタイジには覚えがないのだ。
女性がハンカチの向こう側から、人形みたいなブラウンの瞳でタイジを覗き込んできた。
「殴ってでも思い出させてくれ、って言ったのはタイジなんだからねっ」
「そんなの、しらないもん」
「ふっきるな、俺が可愛けりゃ迎えに来いって言ったんだからねっ。可愛くないけど。相変わらず、ぜんっぜん可愛くないけどー!」
「なんだよーオバサン!」
「お嬢様、すっかり落ち込んで支店長室でふて寝しちゃってます」
すったもんだの末、タイジはバスで妙なところに連れて来られていた。広い広い石の床に高い天井、ゆったり配置されたソファ。向こうの方にはアマゾンみたいな林が見えている。
カイと名乗った丸眼鏡にもらったジュースとお菓子で、タイジはすっかり機嫌を直していた。入り込んできていた猿たちにクッキーを投げ与えて喜んでいる。
「タイジさん。お嬢さんはまだ二十一ですよ。あなたの亡くなったお母さんよりヤングです。せめてお姉さん、と認識してあげて下さい。できれば、お嬢と呼んで差し上げましょうね」
ファイと名乗ったガイジンがにっこり笑って、タイジに話しかけてきた。その肩に立てかけられた竹定規を発見して、タイジの顔が一瞬のうちに引きつる。ファイはその様子を見逃さなかった。
「ああ、恐怖の記憶というのは意識の奥底に刷り込まれているものなんでしょうね」
のんびり言いながら、ひゅんと竹定規を唸らせる。タイジは青くなってソファの上を後ずさった。
「さあタイジさん。お嬢、と呼んでみそ」
「や……やだ」
ひたり。と、竹定規の先がタイジの喉元に押し付けられる。小さな喉がごくっと鳴った。
「三度は言いませんよ、困ったちゃん?」
「お……おじょう」
泣き出しそうになりながら、タイジは小さな声でそうしぼり出した。
「ファイさんって、笑顔でサディストですよね……」
カイがあきらめたように首を振る。その隙にもぞもぞと竹定規から逃げ出したタイジはふと、部屋の隅にいる動物に目を留めた。
「かみのおつかい」
怪訝そうにタイジの視線を追ったカイが、あー、と顔をほころばせる。
「シラ子だよ、覚えてない? タイジさん、可愛がってたんだよ……オスだとわかるまでは」
かふーっとあくびをするアルビノ・アリゲーターを、幼い瞳がじーっと見つめた。
「おじーちゃんがいってた。しろいどうぶつは、かみさまのおつかいなんだって」
「あれはアルビノって言って、色素が……もご」
「よくご存知ですね、タイジさん。そうなんです、白い動物は神の使いと言われているのです」
ファイの大きな手が、なぜかカイの口を覆っている。じたばたするカイをタイジの視界から遠ざけて、ファイはぺらぺらしゃべりだした。
「シラ子様はお嬢さんのペット。すなわちお嬢さんは、神の使いと言われているシラ子様のご主人様。ということは、お嬢さんは?」
「……かみさま?」
「ファイさんってば、また誤解を植えつけるような誘導を……もごもご」
タイジはぽかーんとしてシラ子を見下ろしている。そこへ、ファイが厳かに言い渡す。
「神様に逆らってはいけません。神様の心を乱してはいけません。わたしたちは神の下僕、心得は守らなくては。わかりますね?」
さわさわさわさわ、と竹定規がタイジ少年の首筋を這う。下僕だの心得だの五歳児には理解できない単語が出てきたものの、タイジは本能に近い脅威を感じて、がくがくと頷いた。
「では、神様のご機嫌を麗しくして差し上げてください」
::: 3 ::: break soon...まもなく、夜明け
タイジはバナナの幹の裏から、こっそりとベッドの上のお嬢を窺った。
さっきはぶたれて怒っていたが、泣かせたらしいことには一応、わるいなーと感じていた。毛布をひっかぶって未だにくすんくすん言っているのを聞いてしまうと、罪悪感もひとしおである。しかも相手はどうやら神様である。ご機嫌を損ねると長生きできませんよ、と何だかやけにリアルに言い聞かされたのもあって、タイジは支店長室へやってきたのだった。
ごそごそと広いベッドの上に這い上がり、タイジはぽんぽん、と毛布を叩いた。
「おじょう、ごめんね」
泣き声がやむ。ややあって毛布のふちから、泣きはらした目が覗いた。
「ファイが、タイジってなまえくれたの、おじょうだって。ほんと?」
濡れた大きなブラウンの瞳はきょとんとした。そして、もぞもぞと毛布から出てくる。お嬢はタイジの前に、子供みたいにぺたんと座った。泣き顔のまま、へにゃっと笑う。
「うん、ほんと」
「じゃ、やっぱりかみさまなんだー」
「神様?」
お嬢はひょい、とタイジの耳をつまんだ。迷わなかった。しばらくして、ぷっと吹き出す。
「ファイってば……」
「なまえくれたから、おれいに、げぼくになってもいいよ」
「……下僕の意味、わかんないで言ってるでしょー」
タイジはこくんと首を縦に振った。
「そういえっていわれたんだもん」
竹定規効果は絶大であった。指先越しに記憶を探って全てを知ったお嬢だが、そうする必要もないタイジの素直な答えにくすくすと笑い出す。
「オッケー。十八歳になったら正式にブレイカーにしてあげる。それまで、君はあたしの下僕」
「うん、いいよ」
お嬢が機嫌を直したことを察知して、タイジ少年もにこにこし始める。自分がどんな恐ろしい契約をしてしまったか、どんな扱いを受けることになるか、知らぬが仏である。
「あたしとの契約は絶対、あたしが法律だからね」
「うん、いいよ」
「そのうち、恋の奴隷にしちゃうからね」
「うん、いいよ」
全く意味もわからないままホイホイと安請け合いしてから、タイジはアッと声を上げた。
「わかった!」
「なぁに、何か思い出したー?」
いそいそと乗り出すお嬢に、うんうん、と少年は興奮して詰め寄り返し、元気に叫んだ。
「うめぼしのうみそ!」
「ファイ、カイ! それ、みっちり調教しといて!」
支店長室から黒こげで蹴りだされた少年を、ファイとカイは唇に安心したような笑みを含ませながら見下ろした。
「それ、だって。やっぱりモノ扱いが似合いますよね、タイジさんは」
「3K下僕の星のもとに生まれついてますからね。これでいーのだ」
寿命に見放された者たちのオアシス、命の箱舟、悩み事相談所・ブレイク。ジャングルと少々癖のある人間に囲まれたその支店長室は、今日も賑やかなようである。
::: the end :::