10. Break horse ―調教― 荒馬を乗りこなせ
::: 1 ::: break in the weather...天候の急変
タイジはそれまで、ブレイクをひとつの小国だと思っていた。支店長室と秘書室のある大理石の御殿、数百人のブレイカーたちが忙しく出入りする巨大な社屋、それを取り囲む広大なジャングル。
それが今や集合的無意識界という果てしない闇に浮かぶ、消えかけている小島であることを知らされた。ジャングルは支店長室の周囲をわずかに残すのみ。動物たちはお嬢のペットであるワニが三匹とカメレオンが二匹、他に気配はない。社屋はファイが辛うじて固定している簡素な建物に縮小され、ずらり並んでいたバスも見当たらない。代わりにブレイカーが乗っているのはママチャリである。
「白ヘル着用って、どこの田舎もんだファイの野郎」
日本支社の突然の凋落に驚き慌てていたブレイカーたちだが、ファイの冷静な指示のもとに、再び営業に出始めているようだ。救援信号を発する客たちのところへと、チャリを漕ぎ出す姿が見られた。タイジはそれを確認すると、支店長室へと引き返す。
「みんな、どうしてる?」
お嬢も茫然自失の状態から我を取り戻していた。顔色はいつもに増して白かったが、ブラウンの瞳には生気が戻ってきている。タイジが当座の危機を脱したブレイクの現状を説明すると、お嬢は黙ってひとつ、バツが悪そうにうなずいた。
ブレイクはファイがつなぎとめてる。俺はお嬢を助けなきゃ、何か声をかけてやらなきゃ――だがタイジの脳内倉庫において、慰めの言葉は在庫ガラガラだった。
「もうすぐいなくなっちゃうんだね」
必死に在庫を漁っては捨て、拾っては放りを繰り返していたタイジは、先にお嬢にしゃべられてしまう。俺の役立たず。と一瞬にして深く自己嫌悪に陥ろうとして、タイジはお嬢のさびしそうな口調に気づく。
目を上げると困ったような、はかなげな笑顔があった。お嬢がこんなにはっきりと弱々しい表情を見せたことはなく、そのせいかいつもよりずっと小柄に、そして大人びて見えた。
守ってやらなきゃ。その思いがどんどん胸腔を埋めていく。タイジは在庫を探すのも忘れて、ベッドの上をお嬢のそばへにじり寄った。傷一つない滑らかな膝も遠慮がちに寄り返してくる。お嬢は二人のわずかな隙間を、その距離を目測しようとするみたいにじっと見つめていた。
「……いなくなるってわかってたのに、何で好きになっちゃったのかな」
「え」
今、何て。いや、聞こえてたが……え? タイジはまじまじとお嬢を覗き込む。
「ねえ、タイジ。あたし今、ちょっと困っちゃってるの。話、聞いてくれる? ……聞いてくれるだけでいい」
うんうん、と現実感のないままタイジはうなずく。
「ちゃんと報酬も支払うから」
::: 2 ::: break a seal...封印を破る
ほんとのこと言うとね、始めは面白がってただけだった。好みの顔作って、はべらせて遊んじゃおうかなって。やーん、怒んないで。
だってもうあたしだけじゃ使い切れないくらいの寿命、稼いじゃってあるんだもん。だけどブレイク辞めたって、あたしの体はずーっと眠ってるから行き場所がないじゃなーい? それにこれだけの規模の日本支店を維持できそうな人、ほかにいないし。辞める理由もなく続けてて、ちょっと退屈してたの。
カイは素直ないい子だし、ファイは取り澄ましててイジりにくいじゃない? でもタイジに会った時、あーこういうひねくれ者をつついて遊んだら楽しいかもって……怒んないでってばー。
だけど下僕にしてみたら、ぜんっぜん思い通りになんないの! やる気はないしー、口答えするしー、触るしー、平気で心得破ってデカーい顔してるんだもん。困った子拾っちゃったなーって思ってたんだけど、なんか……なんか、だんだんそれが嬉しくなってきちゃったみたい。
あたしが触っちゃダメって言うのはね、言動不一致な人が多すぎるから。可愛いね、小さいのに支店長なんて大変だねって頭をなでてくれる人も、心では何でこんなガキの下で働かなくちゃいけないんだ、自分は現実だけで不幸なのにどうして無意識界でまでみじめなんだ、って思ってたりするの。そんなのばっかりで、イヤになっちゃった。
タイジはさ……そう思ってても、隠さなかった。それに口ではあたしのことおばかにして、邪険にしてたけど。胸掴まれた時は、なぐさめようとしてくれてるのわかった。あたしがひっぱたいた時も、タイジはあたしのこと心配して叱ってくれたの伝わってきてた。
ひっぱたいたのなんて、何年ぶりだったかなー。前はね、人の裏表が見えちゃうたびに、ひっぱたいたり泣いたりしちゃってた。そのうち、それさえもしなくなってたの。だってめんどくさいじゃなーい? 疲れるだけだもん。
タイジひっぱたいた時、あたし怒ってるフリしてたけど、混乱してたのかも。だってどうしていまさら、こんな風に誰かに振り回されてるんだろうって。で、好きなのかなーって思った。
カレンちゃんに発情うつされちゃった時ね、あのね……一瞬、タイジにどうにかされちゃってもいいって思っちゃった。目の前にいたのが、たまたまタイジだったからじゃなくて。タイジだから。ファイでもカイでもダメ。
だけど、タイジはいなくなっちゃう人だもん。あたしは治療法が発見されない限り、ずっと昏睡状態のまま。タイジは記憶まっさらの赤ちゃん。もう絶対会えることのない人だもん。
だから好きってこと、ずっと黙っておこうと思ってた。でもやっぱりタイジいなくなったら、つまんないよ。そんなことでウジウジしてて、ブレイク壊しちゃった。おばかな支店長だね。
::: 3 ::: break an unbroken horse...荒馬を乗りこなす
「また会えるだろ、お嬢。俺の寿命は十八までじゃん。十八になったらまたブレイカーに採用してくれんだろ。俺はお嬢を忘れてると思うけど、殴ってでも思い出させてくれ」
お嬢も俺を好きでいてくれた――タイジはのぼせつつ、早口でまくしたてた。
「居場所教えてくれれば、実際に会いに行くわ。昏睡状態だって、会うには会える」
喜んでくれるかと思ったのに、お嬢はぶんぶんと激しく首を振った。
「やーだ。だって何年も自分の姿見てないもん! ほんとはこんな顔じゃないと思うし、寝たきりだからガリガリだろうし、そもそも十六も年上……ちょっとお、何で考え直すみたいな顔してんのー!」
そうかやっぱり外見は偽ってんのか、と目をすがめたタイジは枕で殴られる。
「それに、タイジを再雇用する気はないもーん」
「うええっ? 花の十八歳で死ねっての?」
話が違う。食い下がるタイジに、ポイと紙片が手渡された。お嬢のサイン済み小切手だ。
「聞いてくれたから、報酬」
そんなのどうでもいい――と思いつつ、寿命貧乏の習性でしっかり額面を確認してしまうタイジ。何度も見て見間違いでないことがわかると、激しくのけぞった。
「寿命……きゅ、九十年っ?」
「長生きしすぎ?」
声が裏返るタイジと逆に、お嬢はケロリとしている。
「長生きとかって問題じゃねーだろ、いらんわ! 寿命稼ぐ必要がなくなったら、ここに戻ってこれなくなるだろうが!」
「戻ってこないで」
氷水を浴びせられても、ここまで硬直できない――タイジはたっぷり時間をかけて固まってから、そう思った。
「……はいっ?」
「タイジ、向いてないもん。下僕もブレイカーも。そんなのと無縁の生活でいいじゃなーい」
拒まれてる。会いに戻ってくる、会いに行くって言ってるのに、拒否されてる。タイジは胸に氷山を抱えている気分になった。
「何でよ。俺は会いたい。お嬢だってほんとは……」
「わざわざ手放してるんじゃないから。タイジには寿命の心配なんてしないで、普通の生活して欲しい。非凡な生活は生まれる前だけで十分だって、タイジも言ってたでしょー」
そんなことも言った。タイジは走り書きされた「九十年」に視線を落とす。
確かに常識で考えればどうかしてる。十八歳のある日突然に夢で呼び出されて、君の寿命は尽きかけていると言われる。記憶に残ってもない十六歳年上の女性に、会う約束をしたと言われる。俺はそれを信じるだろうか。もし信じたとして、もう一度好きになるだろうか。
俺は守る確証のない、すごく残酷な約束をしようとしてるんじゃないか。気を持たせるだけ持たせて、十八年後にそんなの知るかとあっさり破棄するかもしれない約束を。
そうしてお嬢を傷つけるくらいなら、九十年の寿命を受け取って、ここで全部終わりにしてやるほうがいいのかもしれない。果たされないであろう約束より、いい思い出にしてやるほうが。それでお嬢が割り切って心の安定を取り戻し、ブレイクを元通りに再建できるなら。お嬢がそこで今まで通りに暮らしていけるなら。
お嬢はそれを望んでいるのか。だとすれば、お嬢に対するブレイカー業務は、小切手を受け取れば完了する。答えを与えるのではなく、踏ん切りをつけさせてやるのがブレイカー業務だからだ。成功報酬として俺はファイからの十二年、お嬢からの九十年でどえらい長生きすることができる。ブレイクで寿命の心配しながら働く日は、二度と来ない。
考えを保留する時間はない。いつ目覚めて、生まれて、すべてを忘れてしまうかわからないのだ。このうまい条件付の妥協案を受け入れるなら今しかない。今しか。
「ブレイカー業務が何だってんだ、くそったれ!」
タイジは盛大に小切手を破った。それでも気分はおさまらず、これでもか、これでもかと細かくちぎる。さらに床に投げ捨て、足先で踏みにじった。
「ちょっとお、タイジ……」
「もう我慢なんかすんな! 似合わねんだよ!」
憤慨して制止しようとしたお嬢に、タイジは腕を回す。驚いている頬にキスを浴びせる。
「失敗してやる。ファイの依頼もお嬢の依頼も踏み倒してやるわ。そうすりゃ俺は五歳までしか生きられない。俺が可愛けりゃ五歳で迎えに来やがれ、このアホ!」
「なぁにそれ、すっごく可愛くないー!」
真っ赤になってじたばたするお嬢。だが本当に嫌ならば、雷を落とすはずだ。タイジはお嬢を組み敷く。
「おばかっ、ふっきれなくなるでしょー!」
「ふっきるなっつってんだ、ボケ!」
「アホとかボケとか、うるさいのー!」
しょうがねえだろ。こんなアホ、好きにならずにいられなくなるこんなアホ、他にいてたまるか。頼んだぞ五歳の俺、こいつをしっかり好きになれよ。タイジは脳の一番奥に言い聞かせる。
「むー……なんか、好きなのかおばかにしてるのか、ひねくれた感じがするんだけどー」
おっと、抱きしめてるんだから伝わってるわな――タイジはにやりとする。
「好きだ、お嬢。アンタもそうなら迎えに来い。相手はたかが五歳だぞ、お嬢ならお手のもんだろ。俺に惚れさせてみやがれってんだ。夢でデートってのもオツじゃん、それまでにラブホでも建てとけ。アンタの好きな、ピンクとハートだらけのとびっきり悪趣味なやつ」
「信じらんなーい! ひどーい、ロマンチックのかけらもないー……」
「俺たちに最初からそんなもんあったか? 轢いたのは誰だ、踏んだのは誰だ、下僕にしたのはどこのアホだ」
お嬢は涙ぐんでいる。こぼれてしまう前に、タイジは目尻にキスをした。
「五歳のいたいけな俺を見殺しにしたりしないよな?」
タイジの切れ長の瞳はいたずらっぽく笑ってみせる。続いてその手は五歳児が、ましてや妊娠七ヶ月、まさに生まれようとしている胎児が行なうはずのない動きを始めた。
「えーっ、やだやだ、ちょっと待って……」
その抗議は唇で強引にふさがれる。
「あいにく、待ってる時間なんかないのよ。俺もう、あらゆる意味で出ちゃいそう」
タイジは周囲のジャングルが急速に元の姿を取り戻していくのを見ていた。青々とした葉の上を水滴が転がり落ち、色鮮やかな蝶が舞い始めるのを見ていた。おそらくブレイクの社屋も再建されているだろう。寿命に見放された者たちの、そしてお嬢のオアシスにまた命が吹き込まれたのだ。
五年だけ留守にする。でもその後はお嬢と二人、ずっとこのオアシスを、不遇な者たちの箱舟を守っていくのだ。肉体の存在しない精神世界だからなんだってんだ、これぞ究極のプラトニック・ラブ――と、タイジは実際プラトニックとは正反対な行為をしながら悦に浸る。
五年間会えなくなるブラウンの瞳を、タイジはじっと見つめた。お嬢もタイジの頬に指を沿わせ、潤んだ瞳で見つめ返してくる。そこに、好き、とはっきり書いてあるのを読み取って、タイジは満足にほほ笑む。お嬢はもう、人懐っこい笑顔を見せるなとは言わなかった。
「……お嬢」
「なぁに?」
「去勢しなくて、良かったろ?」
結局、雷は落とされた。